宮川米次
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宮川 米次(みやかわ[注釈 1] よねじ、1885年(明治18年)2月4日 - 1959年(昭和34年)12月26日)は、日本の医学者、病理学者、細菌学者。東京帝国大学伝染病研究所所長を務め、伝染病・感染症の拡大防止、撲滅などに寄与した。号は「豊山」。
来歴
[編集]愛知県渥美郡豊岡村(現:豊橋市)で、今泉七作の四男として生まれる。愛知県第四中学校卒業後、福江町(現:田原市)の資産家・宮川家の養子となる[1]。
その後、第六高等学校を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学医科大学卒業。1917年(大正6年)2月、医学博士の学位を取得[2]。
1934年(昭和9年)から1940年(昭和15年)には、東京帝国大学伝染病研究所所長を務める。昭和10年(1935年)、鼠径リンパ肉芽腫症の病原微生物(「宮川小体」[3]、英文で「Miyagawa bodies, Miyagawanella」。クラミジア・トラコマチス)を培養確認した。
第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)10月に東京帝大を退職。その後、公職追放となる。後に、東芝東生病院院長や東芝生物物理化学研究所の顧問を歴任[4]。1951年(昭和26年)、東京大学名誉教授。1955年(昭和30年)には、宮川小体の研究により日本学士院賞を受賞している[5]。
1959年(昭和34年)夏に、体調を崩して東京大学医学部附属病院に入院。12月になって容体が急変し、12月26日に胃がんのため[4]死去。満74歳没。
栄典
[編集]エピソード
[編集]著書
[編集]- 食養療法學(1929年)克誠堂書店
- 肺結核(1941年)岡西順二郎共著 南山堂書店
- 蒙古文化地帯(1943年)春陽堂書店
- 新撰熱帯病学(1944年)監修 南山堂書店
- 戦争とマラリア(1944年)日本評論社
- 臨牀人体寄生虫病学〈蠕虫病編〉(1948年)日本医書出版
- ヂフテリヤの予防法(1955年)臨牀医学文庫 日本医書出版
- 治療食餌(1955年)金原出版
- 宮川米次名誉教授論文抄録集(1955年)宮川米次名誉教授古稀祝賀会
関連項目
[編集]- 地方病 (日本住血吸虫症):山梨地方病研究部の専任技師として日本住血吸虫の生活環解明の一端を担い、同疾患の感染経路解明に寄与した。また同疾患の駆虫薬であるスチブナールの開発に携わった。
- 同仁会:1902年結成の戦前の医学団体。中国・韓国、その他アジア諸国などでの医療普及促進のために設立された財団法人。1945年解散[8]。現存する医療法人とは別組織。
注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 郷土豊橋を築いた先覚者たち編集委員会 1986, p. 178.
- ^ 「彙報 学事 学位授与」『官報』1917年3月16日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ “Miyagawa bodies”. Mondofacto Dictionary. Mondofacto. 2017年5月10日閲覧。
- ^ a b 三輪 1988, p. 155.
- ^ “恩賜賞・日本学士院賞・日本学士院エジンバラ公賞受賞者一覧 (50音順)”. 日本学士院. 2017年5月10日閲覧。
- ^ 『官報』第5651号「叙任及辞令」1945年11月12日。
- ^ a b 三輪 1988, p. 154.
- ^ 大里浩秋「同仁会と『同仁』」『人文学研究所報』第39巻、神奈川大学、2006年3月、47-105頁、CRID 1050282677545857024、hdl:10487/3431、ISSN 02877082、2024年4月4日閲覧。
参考文献
[編集]- 三輪卓爾「総合健診史・拾遺」(PDF)『日本医史学雑誌』第34巻第3号、日本医史学会、1988年7月30日、150-158頁、ISSN 05493323、NAID 40002821947、2017年5月10日閲覧。
- 郷土豊橋を築いた先覚者たち編集委員会編 編『郷土豊橋を築いた先覚者たち』豊橋市教育委員会、1986年。 NCID BN0033611X。