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[[File:Kachin Independence Army flag.svg|300px|thumb|right|カチン独立軍の旗.]]


{{Infobox militant organization
'''カチン独立軍'''(カチンどくりつぐん)は、[[ミャンマー]]北部[[カチン州]]で活動する武装組織。[[カチン族]]による独立を目指し、武装闘争を含めた活動を行う。略称KIA。カチン州の町、ライザを拠点とし、構成人員は4,000人程度と小規模だが、山岳住民であるカチン族の特性を活かし、ゲリラ戦術を得意とする<ref>{{Cite news|url=http://wedge.ismedia.jp/articles/-/2784
| name = カチン独立軍
|title=カチン族の反乱 ミャンマー社会の分裂の深さ|work= Wedge infinity|newspaper=株式会社ウェッジ|date=2014-05-09|accessdate=2014-06-20}}</ref>。
| native_name = Wunpawng Mungdan Shanglawt Hpyen Dap
| native_name_lang = kac
| war = [[ミャンマー内戦]]
| image = [[ファイル:Kachin Independence Army flag.svg|200px]]
| caption = カチン独立軍旗
| active= {{Start date|1961|02|05|df=y}} –
| ideology = [[カチン族|カチン族ナショナリズム]]<br />[[連邦主義|フェデラル連邦制]]
| leaders = {{仮リンク|タンガムショーン|en|Htang Gam Shawng}}
| headquarters = {{仮リンク|ライザ (ミャンマー)|en|Laiza|label=ライザ}}
| area = {{MMR}}
| size = 12,000<ref name="MPM">{{Cite web |title=Kachin Independence Army (KIO/KIA) » Myanmar Peace Monitor |url=https://mmpeacemonitor.org/my/1529/ |website=Myanmar Peace Monitor |date=2013-06-06 |access-date=2024-08-21|last=Staff}}</ref>
| partof = {{仮リンク|カチン独立機構|en|Kachin Independence Organisation}}
| allies = '''[[北部同盟 (ミャンマー)|北部同盟]]'''<ref>{{Cite news|last1=Lynn|first1=Kyaw Ye|title=Curfew imposed after clashes near Myanmar-China border|url=http://aa.com.tr/en/asia-pacific/curfew-imposed-after-clashes-near-myanmar-china-border/689281|access-date=21 November 2016|agency=Anadolu Agency|archive-date=24 May 2020|archive-url=https://web.archive.org/web/20200524111335/https://www.aa.com.tr/en/asia-pacific/curfew-imposed-after-clashes-near-myanmar-china-border/689281|url-status=live}}</ref>
* {{Flagicon image|Infobox AA.png}} [[アラカン軍]]
* {{Flagicon image|Flag of the Myanmar National Democratic Alliance Army.svg}} [[ミャンマー民族民主同盟軍]]
* {{Flagicon image|Flag of the Ta'ang National Liberation Army.svg}} [[タアン民族解放軍]]
'''その他'''
*{{Flagicon image|Fighting Peacock Flag.png}} {{仮リンク|全ビルマ学生民主戦線|en|All Burma Students' Democratic Front}}
*{{Flagicon image|Chin National Army Flag.svg}} [[チン民族軍]]
*{{Flagicon image|Communist Party of Burma flag (1970).svg}} [[ビルマ共産党]]
*{{Flagicon image|Flag of the KNLA.svg}} [[カレン民族解放軍]]
*{{Flagicon image|Flag of the Kuki people.svg}} [[クキ民族軍]]
*{{Flagicon image|Myanmar National Liberation Army.svg}} {{仮リンク|国民解放軍|en|National Liberation Army (Myanmar)}}
*{{Flagicon image|Flag of PDF Myanmar.svg}} [[国民防衛隊]]<ref>{{Cite news|title=Dozens of regime soldiers reportedly killed in clashes with PDFs in eastern Sagaing|url=https://www.myanmar-now.org/en/news/dozens-of-regime-soldiers-reportedly-killed-in-clashes-with-pdfs-in-eastern-sagaing|work=Myanmar Now|date=29 June 2021|access-date=7 July 2021|archive-date=10 December 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20211210220742/https://www.myanmar-now.org/en/news/dozens-of-regime-soldiers-reportedly-killed-in-clashes-with-pdfs-in-eastern-sagaing|url-status=live}}</ref>
|opponents = '''国家'''
* {{MMR}}
** {{Armed forces|MYA}}
'''非国家'''
* [[カチン新民主軍]] (1989–2009)
* {{Flagicon image|Flag of the Shanni Nationalities Army.png}} [[シャンニー民族軍]]<ref>{{Cite news |title=Junta forces torch Hpakant Township village after forcing KIA withdrawal, locals say |url=https://myanmar-now.org/en/news/junta-forces-torch-hpakant-township-village-after-forcing-kia-withdrawal-locals-say |author=Nyein Swe |work=Myanmar Now |language=en |date=12 August 2022|archiveurl=https://web.archive.org/web/20240106184800/https://myanmar-now.org/en/news/junta-forces-torch-hpakant-township-village-after-forcing-kia-withdrawal-locals-say/|archive-date= January 6, 2024}}</ref>
}}


'''カチン独立軍'''(カチンどくりつぐん、[[ジンポー語]]: Wunpawng Mungdan Shanglawt Hpyen Dap、{{lang-my|ကချင်လွတ်လပ်ရေးတပ်မတော်}}、{{Lang-en|Kachin Independence Army}}、略称: '''KIA''')は、ミャンマーの[[カチン族]]系反政府組織である。{{仮リンク|カチン独立機構|en|Kachin Independence Organisation}}の軍事部門。
== 活動歴 ==
[[1948年]]、ミャンマー独立時から活動を開始。


== 歴史 ==
[[1976年]][[1月23日]]、カチン州を訪れた[[日本]]の[[遺骨収集事業|遺骨収集団]]をカチン独立軍が銃撃、護衛兵が応戦して戦闘状態となった。カチン独立軍は撤収したが護衛兵7人、日本人2人、通訳1人が負傷した<ref>遺骨収集団をゲリラ銃撃 団員ら10人が負傷『朝日新聞』1976年(昭和51年)4月10日朝刊、13版、23面</ref>。


=== 設立まで (-1961) ===
1994年には、一度はミャンマー政府と和解が成立し、目立った行動はみられなくなったが、2000年代の後半、[[エーヤワディー川]]にミッソンダムの建設話が浮上する頃から{{仮リンク|カチン独立機構|en|Kachin Independence Organisation}}(KIO)の軍事組織として活動が活発化。[[2011年]]6月にはカチン族の独立を掲げ武装闘争を再開した<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM3005I_Q1A930C1FF2000/|title=巨大ダムの建設中断表明 ミャンマー大統領|work=MSN産経ニュース|newspaper=産経新聞
[[ファイル:Kachin State, Myanmar Base Map.png|左|サムネイル|カチン州の地図(2013年)]]
|date=2011-09-30|accessdate=2014-06-20}}</ref>。ミャンマー政府は、国内の[[少数民族]]に対する和解交渉を進めていた時期でもあり、当初は州内で散発的な衝突が繰り返されてきたが、2012年末ころから、カチン側に対して政府軍が空爆を開始するなど規模がエスカレート。2013年、一時は中国も仲介に乗り出すなど和平が模索され始め<ref>{{Cite news|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2013-02-05/2013020507_02_1.html|title=カチン族対話再開 中国が仲介 停戦向け政府側と|work=しんぶん赤旗| publisher =日本共産党|date=2013-02-05|accessdate=2014-06-20}}</ref>、同年6月、政府とカチン族を代表するカチン独立機構(KIO)との間で停戦の署名がなされた<ref>{{Cite news|url=http://www.myanmar-news.asia/news_duUqF0FIV.html|title=60年の内戦に終止符 ミャンマー政府とカチン族が停戦合意|work=ミャンマーニュース|publisher= ミャンマーニュース|date=2013-06-01|accessdate=2014-06-20}}</ref>。しかし、2015年10月の全土停戦協定については署名を拒否した。その後は、同協定への署名を拒否した他の武装組織と共同して、[[シャン州]]の軍や警察の検問所を攻撃するなど、活発な活動を展開している<ref>{{Cite web|和書|author=公安調査庁|authorlink=公安調査庁|url=https://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/ES-asia/KIO.html|title=カチン独立機構(KIO) Kachin Independence Organization|accessdate=2023-02-12}}</ref>。
1949年、独立して間もない[[ビルマ連邦]]において、第一カチンライフル大隊(1st Kachin Rifles)の指揮官をつとめていたノーセン(Naw Seng)は、同じキリスト教徒である{{仮リンク|カレン民族防衛機構|en|Karen National Defence Organisation}}(KNDO)の戦闘員に銃を向けることをよしとせず、[[ミャンマー軍|ビルマ軍]]に反旗を翻した{{Sfn|Lintner|1999|pp=40-41}}{{Sfn|吉田|2011|p=488}}。しかし首長層を中心に、多くのカチン族はこれを支持せず、ノーセンらポンヨン民族防衛軍(Pawngyawng National Defense Force: PNDF)は1950年4月、[[中華人民共和国|中国]]・[[雲南省]]への亡命を余儀なくされた{{Sfn|吉田|2011|p=489}}。彼の指示下にあった一兵士であり、のちにカチン独立軍を組織することとなるゾーセン(Zaw Seng)は、ビルマに残り、KNDOに加入した{{Sfn|Smith|1991|pp=141-142}}{{Sfn|Lintner|1999|p=208|pp=}}。


ノーセンの反乱以降、カチンによる反乱の機運はしばらく途絶えたものの、中央政府の辺境地域軽視を理由として、1950年代後半にはふたたび軋轢が表面化しはじめる{{Sfn|Lintner|1999|p=|pp=298-299}}。1957年にはゾーセンの弟であるゾートゥー(Zaw Tu)をはじめとする{{仮リンク|ヤンゴン大学|en|University of Yangon|label=ラングーン大学}}の学生7人が集まり、サニット・マジャン(ジンポー語: Sanit Majan、「7つの星」)という集団を結成した。彼らはカチンの民族自決のためには政府との武力闘争も辞すべきではないという結論に達し、その準備のためにゾーセンを頼った{{Sfn|吉田|2011|p=490}}。
2016年11月20日には一部の旅団が[[タアン民族解放軍]]、[[ミャンマー民族民主同盟軍]]、[[アラカン軍]]と共に[[北部同盟 (ミャンマー)|北部同盟]]を結成している<ref>{{Cite journal|和書|author=佐々木研 |date=2021-02 |url=https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/2003224 |title=ミャンマーにおける現行和平プロセスの動向 |journal=東洋文化研究所紀要 |ISSN=05638089 |publisher=東京大学東洋文化研究所 |volume=178 |pages=394(43)-366(71) |hdl=2261/0002003224 |doi=10.15083/0002003224 |CRID=1390009683056631936 |accessdate=2024-06-18}}</ref>。


1960年に[[中緬国境]]が確定し、カチン族村落のいくつかが中国領となったこと、同年4月に[[ウー・ヌ]]首相が[[仏教]]の国教化を公約にかかげたことなども、カチンの民衆の怒りに触れた{{Sfn|Lintner|1999|p=|pp=299-300}}。このようにして、1960年10月25日にカチン独立機構(以下KIO)<ref name=":5" />、1961年2月5日にカチン独立軍(以下KIA)が設立された{{Sfn|Lintner|1999|p=|pp=299-300}}。7日にはゾートゥーらが[[ラーショー]]の政府銀行に押し入って現金90,000[[チャット (通貨)|チャット]]を奪い、KIAの武力闘争が始まった{{Sfn|Lintner|1999|p=300|pp=}}。
==出典==
{{Reflist}}


=== ネウィン政権期 (1962-1988) ===
==関連項目==
[[ネウィン]]による{{仮リンク|1962年ビルマクーデター|en|1962 Burmese coup d'état}}は、KIAを含む各地の反政府勢力を著しく活発化させた{{Sfn|Lintner|1999|p=|pp=320-321}}。ネウィン政権は1963年8月29日にKIAとの停戦交渉をおこなったものの、KIAは独立国家カチンの承認を迫ったため、協議は決裂した{{Sfn|ダッセ|1986|p=59}}。1965年、ゾーセンはタイ国境の{{仮リンク|タムゴップ|zh|唐窝}}で[[中国国民党|国民党]]({{仮リンク|泰緬孤軍|en|Kuomintang in Burma}})の{{仮リンク|李文換|zh|李文焕}}と連絡し、[[アヘン]]と[[ヒスイ|翡翠]]による交易および国民党将官によるKIA戦闘員への軍事訓練を実現させた{{Sfn|Lintner|1999|p=|pp=346-347}}。1966年までに、彼らは[[ミッチーナー]]、[[フーコン渓谷]]、{{仮リンク|ナガ丘陵|en|Naga Hills}}、翡翠産出地である{{仮リンク|カマイン|en|Kamaing}}といった地域を抑え、軍部は徹底的な[[焦土作戦]]であるところの「四断戦術(four cuts)」で対抗した{{Sfn|Smith|1991|p=220|pp=}}。
*[[カチン防衛軍]]

*[[カチン新民主軍]]
[[ビルマ共産党]](CPB)による政権獲得を望む中国は{{Sfn|Lintner|1999|p=|pp=357}}、KIAを含む非共産主義の反政府勢力に対しても援助を申し出るようになった{{Sfn|Smith|1991|p=358|pp=}}。{{仮リンク|1967年ビルマ反中暴動|en|1967 anti-Chinese riots in Burma}}により中緬関係が決定的に悪化して以降、これは公然のものとなった{{Sfn|Smith|1991|p=226|pp=}}。11月、KIAは武器・弾薬の供与と引き換えに中国と協力することを了承した{{Sfn|Lintner|1999|p=|pp=372-273}}。しかし、1968年元旦、KIA代表がいまだ在中するなか、ノーセン率いるCPBは中国の援助のもと{{仮リンク|モンコー|en|Mong Ko}}に侵攻した。KIAとCPBは激しい戦闘を繰り返すようになり{{Sfn|Lintner|1999|p=|pp=372-273}}、4月には{{仮リンク|カンバイティ|en|Kanpaikti}}({{仮リンク|チプウィ|en|Chipwi}}-{{仮リンク|ラウッカウン|my|လောခေါင်ရွာ၊ ချီဖွေမြို့နယ်}}とも{{Sfn|Smith|1991|p=253|pp=}})のKIA司令官であるティンイン(Ting Ying)とゼルム(Zelum)がCPB側に寝返った(→[[カチン新民主軍]]){{Sfn|Lintner|1999|p=|pp=372-273}}。同地のKIA戦闘員の多くは{{仮リンク|ラチッ族|en|Lachik|label=ラチッ}}ないし{{仮リンク|ロンウォー族|en|လော်ဝေါ်လူမျိုး|label=ロンウォー|redirect=1}}であり、同じカチンでもKIO幹部の多くが属する[[ジンポー族|ジンポー]]とは別民族であった。また、ビルマ軍も{{仮リンク|プーターオ|en|Putao, Myanmar}}に{{仮リンク|ラワン族|en|Nung Rawang|label=ラワン}}の兵を配備し、カチンの分断を画策した{{Sfn|Smith|1991|p=253}}。1971年3月9日には、ノーセンが{{仮リンク|モンマオ (都市)|en|Mongmao|label=モンマオ}}で怪死した。多くのカチン族は、彼が同族たるKIAとの戦闘を拒否したために殺されたと信じている{{Sfn|Lintner|1999|p=399|pp=}}。KIOは1972年、正式に[[世界反共連盟]]に加盟した{{Sfn|Smith|1991|p=330}}。また、同年6月には国軍と3ヶ月の停戦期間があった<ref>{{Cite web |title=Memoirs of Kachin Peace Efforts (1963-1981) |url=https://www.kachinlandnews.com/?p=25135 |website=Kachinland News |date=2014-10-29 |access-date=2024-08-23 |language=en-US |first=Kachin Research |last=Society}}</ref>。[[ファイル:Maran Brang Seng.jpg|サムネイル|ブランセン(1992年・ニューデリー)]]国軍とCPBを相手とする二正面作戦は、KIAにとって重い負担であった。前線の兵士が疲弊する一方で、ゾーセンらの関心はむしろ国民党相手の交易にあった。1975年8月6日にはゾーセン議長、ゾートゥー副議長、プンシュウィ・ゾーセン(Pungshwi Zaw Seng)書記長の3人が、タムゴップ近郊でセントゥー(Seng Tu)中尉らにより殺害される事件があった。彼らが組織の資金を横領し、[[バンコク]]の銀行口座に預けていたことが理由であった{{Sfn|Lintner|1999|p=418|pp=}}{{Sfn|Smith|1991|p=330|pp=}}。セントゥーはただちに処刑された{{Sfn|Smith|1991|p=330|pp=}}。KIAはこの事実を隠蔽しようとしたものの失敗し、1976年1月15日には{{仮リンク|パジャウ|en|Pajau}}にて新しい執行部を決めるための会議がおこなわれた。1ヶ月ののち、{{仮リンク|ブランセン|en|Maran Brang Seng}}議長を中心とする新執行部が選出され、KIAの活動は継続した{{Sfn|Lintner|1999|p=418|pp=}}。会議中の1月23日、カチン州を訪れた[[日本]]の[[遺骨収集事業|遺骨収集団]]をKIA戦闘員が銃撃し、護衛兵が応戦して戦闘状態となった。これにより護衛兵7人、日本人2人、通訳1人が負傷した<ref name=":3">遺骨収集団をゲリラ銃撃 団員ら10人が負傷『朝日新聞』1976年(昭和51年)4月10日朝刊、13版、23面</ref>。
*[[カチン族]]

*[[北部同盟 (ミャンマー)]]
1976年5月10日、CPBによるビルマの政権奪取を恐れるタイ政府の力添えのもと、[[カレン民族同盟]](KNU)を中心とする10勢力{{Efn|{{仮リンク|アラカン解放党|en|Arakan Liberation Party}}(ALP)、[[アラカン民族解放党]](Arakan National Liberation Party、ANLP)、[[カレンニー民族進歩党]](KNPP)、カレン民族同盟(KNU)、カチン独立機構(KIO)、[[カヤン新領土党]](KNLP)、[[新モン州党]](NMSP)、[[パラウン州解放機構]](Palaung State Liberation Organisation、PSLO)、[[シャン州進歩党]](SSSP)、{{仮リンク|シャン連合軍|en|Shan United Army}}(SUA)、パオ民族機構(Pa-O National Organisation、PNO){{Sfn|Lintner|1999|p=485}}}}が民族民主戦線(NDF)として連帯した{{Sfn|Smith|1991|p=436|pp=}}。しかし、同年の7月6日には、中国の仲介のもと、KIAとCPBは同盟関係となった{{Sfn|Smith|1991|p=331|pp=}}。中国からの兵器供与もあり、KIAは4,000 km<sup>2</sup>に及ぶ領域を支配するようになった{{Sfn|Lintner|1999|p=419|pp=}}。共産党との関係が近くなると、KIAはNDFと縁遠くなり、タムゴップの連絡所も廃止した{{Sfn|Lintner|1999|p=440|pp=}}。1980年8月には再び政権との停戦交渉がおこなわれたものの、KIAの要求であるカチン自治権の承認を、政府が拒んだために決裂した{{Sfn|Lintner|1999|p=479|pp=}}。KIAとCPBは1981年、停戦失敗の原因はネウィン政権の強硬姿勢にあるとする共同声明を発表したほか、ロイレム(Loi Lem)山に合同政治・士官学校を設立した{{Sfn|Smith|1991|p=356|pp=}}。1982年には、KIAはNDFに復帰した。1986年には、CPBとNDFによる合同作戦がおこなわれるようになった{{Sfn|Lintner|1999|p=480|pp=}}。KNUの[[ボー・ミャ]]がこれを非難したことにより、NDFは分裂が進んだ{{Sfn|Lintner|1999|p=481|pp=}}。1987年、ブランセンが{{仮リンク|マナプロウ|en|Manerplaw}}の会合に出席している隙を突いて、軍部はKIO・KIAの当時の本拠地である、パジャウおよび{{仮リンク|ナポー|my|နာဖော့ရွာ၊ ဝိုင်းမော်မြို့နယ် }}を陥落させた{{Sfn|Lintner|1999|p=484|pp=}}。

=== SLORC/SPDC政権期(1988-2011) ===
[[ファイル:Myit Sone.jpg|サムネイル|ミッソンダム建設予定地(2018年)]]
[[8888民主化運動]]の弾圧を経て成立した[[国家法秩序回復評議会]](SLORC)政権は、[[経済制裁]]などにより逼迫した財政を、天然資源の採取権を売却することで改善しようとした{{Sfn|Lintner|1999|p=|pp=519-520}}{{Sfn|吉田|2011|p=491}}。SLORCの方針が一定の成功を見せた一方で、CPBは中国からの援助の減少・改革開放政策にともなう貿易独占権の消失などによって、経済的危機に瀕していた{{Sfn|Lintner|1999|p=521|pp=}}。CPBの経済基盤はアヘンに立脚するものとなり、行政面についても腐敗が進んでいった。1989年、中国政府がCPB高官に対して引退と亡命の勧告をおこなったことが明らかになると、それまでビルマ系の幹部のもと軍務に従事していた[[コーカン族]]・[[ワ族]]といった少数民族の下士官が一斉に蜂起し、CPBは崩壊した{{Sfn|Lintner|1999|p=|pp=521-528}}。

この事件はCPBと関係の深かったKIAにも影響を与えた。1990年にはKIA第4旅団のマトゥノー(Mahtu Naw)が[[カチン防衛軍]](KDA)として離反し、軍部と和平を結んだ。マトゥノーの軍勢は数百人と小規模ではあったものの、自勢力が分裂するという事態にKIAは大きく動揺した{{Sfn|Lintner|1999|p=572|pp=}}。1992年6月5日には、インド経由での補給ルートを確立すべく、{{仮リンク|印緬国境|en|India–Myanmar border }}の{{仮リンク|パンソー|my|ပန်ဆောင်မြို့ }}・{{仮リンク|ナミュン|en|Nanyun}}の奇襲を成功させるも、翌日には空爆がはじまり、両陣地とも軍部に奪還されてしまう。1993年4月にはKIA代表者がミッチーナーでの停戦交渉に応じ、1994年2月24日には停戦協定が結ばれた{{Sfn|Lintner|1999|p=586|pp=}}。

停戦後のKIAと国軍は、表面上は有効な関係を保ち続けており、民主派勢力の[[国民民主連盟]](NLD)が途中で離脱した、[[ミャンマー連邦共和国憲法|2008年憲法]]の制定会議にも最後まで関わり続けた。{{仮リンク|タンミンウー|en|Thant Myint-U }}によれば、KIA議長は[[サイクロン・ナルギス]]襲来の翌日に開催された{{仮リンク|2008年ミャンマー憲法改正国民投票 |en|2008 Myanmar constitutional referendum }}にも率先して足を運び、本拠地の{{仮リンク|ライザ (ミャンマー)|en|Laiza|label=ライザ}}にて1票目の賛成票を投じたという{{Sfn|タンミンウー|2021|p=159}}。憲法改正後、政府は同憲法338条の「連邦のすべての軍隊は国軍の指揮下にある」という規定に基づき、KIAをふくむ国内の反政府勢力に対して、軍傘下の[[国境警備隊 (ミャンマー)|国境警備隊]](BGF)への編入をおこなおうとした<ref name=":0">{{Cite web |url=https://www.spf.org/apbi/news/m_151022.html |title=ミャンマー全土停戦と国内和平の行方~少数民族問題の解決に向けた現状と課題~ |access-date=2024-08-13 |publisher=[[笹川平和財団]] |author=五十嵐誠 |date=2015-10-22}}</ref>。KIOは2010年9月にこれを拒絶し、両者の関係は悪化した。軍部は諸武装勢力に対して、過去に結んだ停戦協定の失効を宣言し、カチン州内に設置していたKIAのための[[連絡事務所]]を閉鎖した<ref name=":0" /><ref>{{Cite news |title=A Chronology of the Kachin Conflict |newspaper=The Irrawaddy |date=2014-11-20 |url=https://www.irrawaddy.com/news/military/chronology-kachin-conflict.html |access-date=2024-08-23}}</ref>。さらに、軍事政権がカチン州内に計画した[[ミッソンダム]]の建設も、両者の関係に亀裂を生じさせた。同計画は、中緬合弁事業として、[[エーヤワディー川]]源流域のミッソン({{仮リンク|マリ川|en|Mali River}}と{{仮リンク|ンマイ川|en|N'Mai River}}の合流点)に大規模なダムを建設するというものであったが、ミッソンの民族にとっての象徴的地位・地元住民との没交渉・中国政府を後ろ盾とする政府のカチン州支配強化などを背景に、KIAはこの事業に反対していた<ref>{{Cite news |title=Lies, Dam Lies |newspaper=The Irrawaddy |date=2012-03-30 |url=https://www.irrawaddy.com/news/burma/lies-dam-lies.html |access-date=2024-08-13 |author=Colin Hinshelwood |author2=Patrick Boehler}}</ref><ref name=":1">{{Cite web |title=The Kachin Conflict: Are Chinese Dams to Blame? • Stimson Center |url=https://www.stimson.org/2011/kachin-conflict-are-chinese-dams-blame/ |website=Stimson Center |date=2011-07-08 |access-date=2024-08-22 |language=en-US |first=Yun |last=Sun}}</ref>。こうした状況を背景として、[[2010年ミャンマー総選挙]]においてはカチン族政党および独立候補の立候補が禁じられた<ref name=":2">{{Cite web |title=Burma: Army Committing Abuses in Kachin State {{!}} Human Rights Watch |url=https://www.hrw.org/news/2011/10/18/burma-army-committing-abuses-kachin-state |date=2011-10-18 |access-date=2024-08-22 |language=en}}</ref>。

=== 民政移管とクーデター以後(2011-) ===
[[ファイル:Kachin_Independence_Army_cadets_in_Laiza_(Paul_Vrieze-VOA).jpg|サムネイル|KIA士官候補生(2016年・ライザ)]]
BGF編入を巡る問題で両者の関係はすでにきわめて険悪なものとなっていたが<ref name=":1" />、両者の衝突の直接的契機となったのはミッソンダム問題であった{{Sfn|Keenan|2012}}。2011年6月9日、ミャンマー軍は{{仮リンク|ダパイン川|en|Dapein River}}流域のダム建設予定地(ミッソンダムとは異なる)に布陣していたKIAを攻撃し、17年間続いた停戦はここに崩壊した<ref name=":2" /><ref>{{Cite web |title=War and business: Kachin’s ‘frontline’ hydropower dam |url=https://www.frontiermyanmar.net/en/war-and-business-kachins-frontline-hydropower-dam/ |website=Frontier Myanmar |date=2019-07-29 |access-date=2024-08-22 |language=en-US |first=Ye |last=Mon}}</ref>。[[テインセイン]]新大統領は9月30日にミッソンダム計画の凍結を発表したものの、カチンにおける両勢力の紛争は続いた{{Sfn|Keenan|2012}}。

テインセイン政権はKIAをふくむ諸勢力と包括的な停戦協定を結ぶべく尽力した。これにあたっての交渉相手となったのが、2012年2月設立であり、KIO/KIAも加盟する、[[統一民族連邦評議会]](UNFC)であった{{Sfn|佐々木|2021|p=388}}。政府は2013年1月にKIAに対し、一方的な停戦宣言をおこなったものの、守られなかった<ref name=":4">{{Cite journal|last=Martin|first=Michael|date=2024-07-17|title=Update on the Armed Resistance in Myanmar’s Kachin State|url=https://www.csis.org/analysis/update-armed-resistance-myanmars-kachin-state|language=en}}</ref>。2013年10月30日から11月2日にかけては、KIAの本拠地であるライザでUNFC参加組織をふくむ16組織が和平に向けての会議をおこなった。政府もこれを歓迎し、参加者のライザまでの道中の安全を確保した{{Sfn|佐々木|2021|p=388}}。2015年10月15日にはKNUなど8勢力によって[[全国停戦合意]](NCA)の署名がおこなわれたものの、KIOがこれに署名することはなく、UNFCの足並みは揃わなかった{{Sfn|佐々木|2021|p=394}}。2016年11月20日には一部の旅団が[[タアン民族解放軍]]、[[ミャンマー民族民主同盟軍]]、[[アラカン軍]]と共に[[北部同盟 (ミャンマー)|北部同盟]]を結成した{{Sfn|佐々木|2021|p=377}}。

KIAは当初[[2021年ミャンマークーデター]]を静観しており、平和的抗議に対する軍の暴力行使に懸念を表明する声明を発表する程度であった。しかし、数ヶ月が経過すると、KIAは民主化勢力ともっとも積極的な連帯をはかる武装組織のひとつとなっており<ref name=":4" /><ref>{{Cite news |title=Ethnic Armed Groups Unite With Anti-Coup Protesters Against Myanmar Junta |newspaper=The Irrawaddy |date=2021-04-30 |url=https://www.irrawaddy.com/news/burma/ethnic-armed-groups-unite-anti-coup-protesters-myanmar-junta.html |access-date=2024-08-23}}</ref>、2019年に13回、2020年に7回であった軍部との衝突回数は、2021年に138回にまで増加した<ref>{{Cite web |title=Kachin Independence Army (KIO/KIA) » Myanmar Peace Monitor |url=https://mmpeacemonitor.org/my/1529/kia/ |website=Myanmar Peace Monitor |date=2013-06-06 |access-date=2024-08-23 |language=my-MM |last=Staff}}</ref>。2022年10月23日には、ミャンマー軍がKIOの創立62周年行事会場を爆撃した[[パカン空爆]]が発生した<ref>{{Cite news|和書 |title=Air strike during Myanmar concert kills at least 50 - media, opposition |newspaper=Reuters |date=2022-10-25 |url=https://www.reuters.com/world/asia-pacific/air-strike-during-myanmar-concert-kills-least-30-media-opposition-2022-10-24/ |access-date=2024‐08-23}}</ref>。

== 組織 ==

=== 議長 ===
議長は以下の通りである<ref name=":5">{{Cite web |title=Maran Brang Seng and KIO's Peace Efforts I |url=https://www.kachinlandnews.com/?p=26217 |website=Kachinland News |date=2015-09-09 |access-date=2024-08-23 |language=en-US |author=Kachin Research Society}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.rfa.org/english/news/myanmar/kachin-militia-appoints-new-leaders-amid-ongoing-hostilities-with-myanmar-forces-01032018163349.html |title=Kachin Militia Appoints New Leaders Amid Ongoing Hostilities With Myanmar Forces |access-date=2024-08-23 |publisher=radio free asia |date=2018-01-03}}</ref><ref>{{Cite news|和書 |title=Kachin Independence Leader Steps Down |newspaper=The Irrawaddy |date=2023-01-04 |url=https://www.irrawaddy.com/news/burma/kachin-independence-leader-steps-down.html |access-date=2024-08-23}}</ref>。

* Lahtaw Zau Seng(1960年10月 - 1975年8月)
* Maran Brang Seng(1975年9月 - 1994年8月)
* Malizup Zau Mai(1994年9月 - 2001年2月)
* Lamung Tu Jai(2001年3月 - 2006年6月)
* Lanyaw Zawng Hra(2006年6月 - 2018年1月)
* N'Ban La(2018年1月 - 2023年1月)
* Htang Gam Shawng(2023年1月 - )
=== KIA本隊 ===
KIAは12個[[旅団]]51個[[歩兵]][[大隊]]からなる<ref name= ":6" >{{cite news|language=my|author=Aye Chan Su|title= မြန်မာပြည်ရှိ လက်နက်ကိုင်တော်လှန်ရေး အင်အားစုများ (အပိုင်း ၄)|date=2023-10-29|work=[[エーヤワディー・ニュース・マガジン|Irrawaddy]]|url= https://burma.irrawaddy.com/article/2023/10/19/375557.html}}</ref>。
==== KIA本部 ====
KIAの軍総司令部と本部直轄の旅団、大隊、中隊は、[[エーヤワディー川]]東岸のライザを拠点とする。
* 軍総司令部 - Dailawn Rung
* 軍事戦略研究部門 - Zai Ninggawn Rung
* 機動旅団 - 第251、252、253、254、255、256大隊
* 中央警備旅団 - 第23、28、40、42大隊
* 砲兵部隊 - 第611、612、613、614大隊
* コマンドー大隊
* [[グルカ兵|グルカ大隊]]
* 射撃中隊
* 訓練大隊

==== 北部軍管区 ====
*第1師団: プーターオ地域およびスンプラブン地域 - 第4、7、10、22大隊
*第7師団: チプウィ地域およびパレー地域 - 第32、33、46大隊

==== 西部軍管区 ====
*第2師団: レド公路の南北 - 第11、14、20、45大隊
*第9師団: パカン地域 - 第6、26、44大隊
*第8師団: モーニン地域およびナンシーオン地域 - 第5、35、41大隊

==== 東部軍管区 ====
*第3師団: バモー地域 -第1、12、15、16、21、27大隊
*第5師団: サドゥン地域 - 第3、18、19、24、25、30大隊

==== 南部軍管区 ====
*第4師団:[[ラーショー]]-[[ムセ]]道路の北側 - 第8、29、34、37大隊
*第6師団:[[クカイ]]-[[ムセ]]道路の北側 - 第9、36、38大隊
*第10師団: センウィー-クンロン道路の南北 - 第2、17、39大隊

=== MHH ===
MHH([[ジンポー語]]: Mungshawa Hpyen Hpung)は行政部門カチン独立評議会(Kachin Independence Council: KIC)の司令下にある、村落防衛を目的とした[[民兵組織]]である<ref name= ":6" />{{Sfn|Buchanan|2016|pp=28-29}}。

=== KPDF ===
カチン国民防衛隊(Kachin People’s Defence Force: KPDF)は[[国民統一政府 (ミャンマー)|国民統一政府]](NUG)の直接管轄下になく、KIAが管轄している[[国民防衛隊]]である。総兵力は1,700である。モーニン、ホーピン、インドージー、モーガウン、ナムティ、プーターオ、ミッチーナー、ソロー、パカンの各地域には13のKPDF部隊が存在しており、ホマリンPDFの2個大隊もKIAの管轄下にある。シャン州北部では、KIAはPDF第509、510、511、512、513、514、515大隊を訓練し、共に活動している<ref name= ":6" />。

KPDFはNUGとKIAを含む複数のアクターからなる中央指揮調整委員会(Central Command and Coordination Committee :C3C)の指揮下に置かれている<ref>{{cite report|title=Understanding the People’s Defense Forces in Myanmar|url=https://www.usip.org/publications/2022/11/understanding-peoples-defense-forces-myanmar|publisher=United States Institute of Peace|date=2022-11-03|author=Ye Myo Hein}}</ref>。

== 分派 ==
=== ビルマ共産党101軍区 ===
{{See|カチン新民主軍}}
1969年5月、ザクン・ティンイン(Zahkung Ting Ying)とラヨッ・ゼルム(Layawk Zelum)は400人の兵士を率いてカチン独立機構(KIO)から離脱し、[[ビルマ共産党]]に加わり、ビルマ共産党101軍区となった{{Sfn|Lintner|1990|p=25}}。1989年、101軍区はビルマ共産党崩壊後、[[カチン新民主軍]]として独立し、ミャンマー軍と停戦条約を結んだ。2009年、[[カチン新民主軍]]はミャンマー軍傘下の[[国境警備隊 (ミャンマー)|国境警備隊]]第1001-1003大隊として再編された<ref>{{cite news|work=Kachin News Group|publisher=Burma News International |title=NDA-K changes to Burma junta's BGF|url= https://www.bnionline.net/en/kachin-news-group/item/7388-nda-k-changes-to-burma-juntas-bgf.html|date=2009-11-10}}</ref>。

=== カチン防衛軍 ===
{{See|カチン防衛軍}}
1990年から1991年にかけてKIA第4旅団司令官のマトゥノーは[[カチン防衛軍]]として分派を形成し、ミャンマー軍と停戦条約を結んだ{{Sfn|Lintner|1999|p=486}}。2009年にカチン防衛軍はミャンマー軍傘下のコンカー民兵(Kawnghka Militia)として再編された<ref>{{cite news|title=Discrimination over transformation to BGF and militia|date=2009-11-24|url=https://www.bnionline.net/en/shan-herald-agency-for-news/item/7460-discrimination-over-transformation-to-bgf-and-militia.html|language=en|work=SHAN|publisher=Burma News International|accessdate=2024-03-07}}</ref>。

=== ラサン・オンワー和平グループ ===
2004年1月4日、KIO諜報局局長のラサン・オンワー(Lasang Awng Wa)大佐は、KIO内部のクーデターを試みたが未遂に終わり、300人の兵士とともに分派を形成した。ラサン・オンワー大佐は数ヶ月間[[カチン新民主軍]]に身を寄せたのち、2005年末に[[ミャンマー陸軍]]北部軍管区司令のオーンミン(Ohn Myint)少将にグィトゥパ(Gwi Htu Pa)の基地を与えられた。2009年10月16日、ラワヤン民兵(Lawa Yang Militia)として再編され、正式にミャンマー軍傘下の民兵となった<ref>{{cite news|title= Split KIO/KIA faction officially transforms to militia group |date=2009-10-19|url= https://www.bnionline.net/en/kachin-news-group/item/7241-split-kiokia-faction-officially-transforms-to-militia-group.html |language=en|work=Kachin News Group|publisher=Burma News International|accessdate=2024-08-23}}</ref>。

== 日本との関係 ==
1976年1月23日、カチン州を訪れた[[日本]]の[[遺骨収集事業|遺骨収集団]]をKIA戦闘員が銃撃し、護衛兵が応戦して戦闘状態となった。これにより護衛兵7人、日本人2人、通訳1人が負傷した<ref name=":3" />。2013年4月2日には、KIO議長のンバンラがUNFCの一員として、[[笹川陽平]]とともに[[安倍晋三]]総理大臣を表敬訪問した<ref>{{Cite web |title=ミャンマー少数民族武装勢力、安倍首相を表敬訪問 |url=https://www.nippon.com/ja/features/c01202/ |website=nippon.com |date=2013-04-16 |access-date=2024-08-23 |language=ja}}</ref>。2022年10月25日には、林芳正外務大臣がミャンマー軍によるパカン空爆(先述)を非難した<ref>{{Cite web |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/kaiken/kaiken24_000145.html |title=林外務大臣会見記録 (令和4年10月25日(火曜日)12時26分 於:本省会見室) |access-date=2024-08-23 |publisher=外務省}}</ref>。2024年5月14日には、高村正大外務大臣政務官が、カチン独立軍の代表の表敬訪問を受けた<ref>{{Cite news|和書 |title=Japanese minister meets Myanmar ethnic representatives |newspaper=Mizzima |date=2024-05-15 |url=https://eng.mizzima.com/2024/05/15/9893 |access-date=2024-08-23}}</ref>。

== 脚注 ==

=== 注釈 ===
{{Notelist}}

=== 出典 ===
{{Reflist|2}}

==参考文献==
* {{Cite journal|和書|author=佐々木研|date=2021-02|url=https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/2003224|title=ミャンマーにおける現行和平プロセスの動向|journal=東洋文化研究所紀要|ISSN=05638089|publisher=東京大学東洋文化研究所|volume=178|pages=394(43)-366(71)|hdl=2261/0002003224|doi=10.15083/0002003224|CRID=1390009683056631936|accessdate=2024-06-18|ref={{SfnRef|佐々木|2021}}}}
* {{Cite book|和書 |title=ゲリラは国境を越える : インドシナ半島の少数民族 |year=1986 |publisher=田畑書店 |author=マルシャル・ダッセ |translator=福田和子 |isbn=978-4803801941 |ref={{SfnRef|ダッセ|1986}}}}
* {{Cite book|和書 |title=ビルマ 危機の本質 |year=2021 |publisher=河出書房新社 |author=タンミンウー |translator=中里京子 |isbn=978-4309228334 |ref={{SfnRef|タンミンウー|2021}}}}
* {{Cite book|和書 |title=ミャンマー概説 |year=2011 |publisher=めこん |editor=[[伊東利勝]] |isbn=9784839602406 |ref={{SfnRef|吉田|2011}} |pages=475-538 |author=[[吉田敏浩]] |chapter=カチン世界}}
*{{cite report|first=John|last=Buchanan|title=Militias in Myanmar|year=2016|location=Yangon|publisher=Asia Foundation|url=https://asiafoundation.org/wp-content/uploads/2016/07/Militias-in-Myanmar.pdf|accessdate=2024-02-22|format=PDF|ref={{SfnRef|Buchanan|2016}}}}
* {{Cite book |title=The rise and fall of the Communist Party of Burma (CPB) |publisher=Southeast Asia Program, Cornell Univ |year=1990 |location=Ithaca, NY |isbn=9780877271239 |first=Bertil |last=Lintner|ref={{SfnRef|Lintner|1990}}}}
* {{cite book |last=Lintner |first=Bertil |title=Burma in Revolt: Opium and Insurgency since 1948 |year=1999 |isbn=9789747100785 |location=Chiang Mai |publisher=Silkworm |ref={{SfnRef|Lintner|1999}}}}
* {{Cite journal|last=Keenan|first=Paul|year=2012|title=THE CONFLICT IN KACHIN STATE - TIME TO REVISE THE COSTS OF WAR?|journal=Burma Centre for Ethnic Studies (Briefing Paper No. 2)|ref={{SfnRef|Keenan|2012}}}}
* {{cite book |first=Martin |last=Smith |year=1991 |title=Burma - Insurgency and the Politics of Ethnicity |publisher=Zed Books |location=London and New Jersey |ref={{SfnRef|Smith|1991}} |isbn=9781856496605}}


{{ミャンマーの少数民族武装勢力}}
{{ミャンマーの少数民族武装勢力}}

2024年8月27日 (火) 13:06時点における最新版

カチン独立軍
Wunpawng Mungdan Shanglawt Hpyen Dap
指導者 タンガムショーン英語版
活動期間 1961年2月5日 (1961-02-05)
本部 ライザ英語版
活動地域 ミャンマーの旗 ミャンマー
主義 カチン族ナショナリズム
フェデラル連邦制
規模 12,000[1]
上部組織 カチン独立機構
関連勢力

北部同盟[2]

その他

敵対勢力

国家

非国家

戦闘と戦争 ミャンマー内戦

カチン独立軍(カチンどくりつぐん、ジンポー語: Wunpawng Mungdan Shanglawt Hpyen Dap、ビルマ語: ကချင်လွတ်လပ်ရေးတပ်မတော်英語: Kachin Independence Army、略称: KIA)は、ミャンマーのカチン族系反政府組織である。カチン独立機構の軍事部門。

歴史

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設立まで (-1961)

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カチン州の地図(2013年)

1949年、独立して間もないビルマ連邦において、第一カチンライフル大隊(1st Kachin Rifles)の指揮官をつとめていたノーセン(Naw Seng)は、同じキリスト教徒であるカレン民族防衛機構英語版(KNDO)の戦闘員に銃を向けることをよしとせず、ビルマ軍に反旗を翻した[5][6]。しかし首長層を中心に、多くのカチン族はこれを支持せず、ノーセンらポンヨン民族防衛軍(Pawngyawng National Defense Force: PNDF)は1950年4月、中国雲南省への亡命を余儀なくされた[7]。彼の指示下にあった一兵士であり、のちにカチン独立軍を組織することとなるゾーセン(Zaw Seng)は、ビルマに残り、KNDOに加入した[8][9]

ノーセンの反乱以降、カチンによる反乱の機運はしばらく途絶えたものの、中央政府の辺境地域軽視を理由として、1950年代後半にはふたたび軋轢が表面化しはじめる[10]。1957年にはゾーセンの弟であるゾートゥー(Zaw Tu)をはじめとするラングーン大学英語版の学生7人が集まり、サニット・マジャン(ジンポー語: Sanit Majan、「7つの星」)という集団を結成した。彼らはカチンの民族自決のためには政府との武力闘争も辞すべきではないという結論に達し、その準備のためにゾーセンを頼った[11]

1960年に中緬国境が確定し、カチン族村落のいくつかが中国領となったこと、同年4月にウー・ヌ首相が仏教の国教化を公約にかかげたことなども、カチンの民衆の怒りに触れた[12]。このようにして、1960年10月25日にカチン独立機構(以下KIO)[13]、1961年2月5日にカチン独立軍(以下KIA)が設立された[12]。7日にはゾートゥーらがラーショーの政府銀行に押し入って現金90,000チャットを奪い、KIAの武力闘争が始まった[14]

ネウィン政権期 (1962-1988)

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ネウィンによる1962年ビルマクーデター英語版は、KIAを含む各地の反政府勢力を著しく活発化させた[15]。ネウィン政権は1963年8月29日にKIAとの停戦交渉をおこなったものの、KIAは独立国家カチンの承認を迫ったため、協議は決裂した[16]。1965年、ゾーセンはタイ国境のタムゴップ中国語版国民党泰緬孤軍英語版)の李文換中国語版と連絡し、アヘン翡翠による交易および国民党将官によるKIA戦闘員への軍事訓練を実現させた[17]。1966年までに、彼らはミッチーナーフーコン渓谷ナガ丘陵英語版、翡翠産出地であるカマイン英語版といった地域を抑え、軍部は徹底的な焦土作戦であるところの「四断戦術(four cuts)」で対抗した[18]

ビルマ共産党(CPB)による政権獲得を望む中国は[19]、KIAを含む非共産主義の反政府勢力に対しても援助を申し出るようになった[20]1967年ビルマ反中暴動英語版により中緬関係が決定的に悪化して以降、これは公然のものとなった[21]。11月、KIAは武器・弾薬の供与と引き換えに中国と協力することを了承した[22]。しかし、1968年元旦、KIA代表がいまだ在中するなか、ノーセン率いるCPBは中国の援助のもとモンコー英語版に侵攻した。KIAとCPBは激しい戦闘を繰り返すようになり[22]、4月にはカンバイティ英語版チプウィ英語版-ラウッカウンビルマ語版とも[23])のKIA司令官であるティンイン(Ting Ying)とゼルム(Zelum)がCPB側に寝返った(→カチン新民主軍[22]。同地のKIA戦闘員の多くはラチッ英語版ないしロンウォー英語版であり、同じカチンでもKIO幹部の多くが属するジンポーとは別民族であった。また、ビルマ軍もプーターオ英語版ラワン英語版の兵を配備し、カチンの分断を画策した[23]。1971年3月9日には、ノーセンがモンマオ英語版で怪死した。多くのカチン族は、彼が同族たるKIAとの戦闘を拒否したために殺されたと信じている[24]。KIOは1972年、正式に世界反共連盟に加盟した[25]。また、同年6月には国軍と3ヶ月の停戦期間があった[26]

ブランセン(1992年・ニューデリー)

国軍とCPBを相手とする二正面作戦は、KIAにとって重い負担であった。前線の兵士が疲弊する一方で、ゾーセンらの関心はむしろ国民党相手の交易にあった。1975年8月6日にはゾーセン議長、ゾートゥー副議長、プンシュウィ・ゾーセン(Pungshwi Zaw Seng)書記長の3人が、タムゴップ近郊でセントゥー(Seng Tu)中尉らにより殺害される事件があった。彼らが組織の資金を横領し、バンコクの銀行口座に預けていたことが理由であった[27][25]。セントゥーはただちに処刑された[25]。KIAはこの事実を隠蔽しようとしたものの失敗し、1976年1月15日にはパジャウ英語版にて新しい執行部を決めるための会議がおこなわれた。1ヶ月ののち、ブランセン英語版議長を中心とする新執行部が選出され、KIAの活動は継続した[27]。会議中の1月23日、カチン州を訪れた日本遺骨収集団をKIA戦闘員が銃撃し、護衛兵が応戦して戦闘状態となった。これにより護衛兵7人、日本人2人、通訳1人が負傷した[28]

1976年5月10日、CPBによるビルマの政権奪取を恐れるタイ政府の力添えのもと、カレン民族同盟(KNU)を中心とする10勢力[注釈 1]が民族民主戦線(NDF)として連帯した[30]。しかし、同年の7月6日には、中国の仲介のもと、KIAとCPBは同盟関係となった[31]。中国からの兵器供与もあり、KIAは4,000 km2に及ぶ領域を支配するようになった[32]。共産党との関係が近くなると、KIAはNDFと縁遠くなり、タムゴップの連絡所も廃止した[33]。1980年8月には再び政権との停戦交渉がおこなわれたものの、KIAの要求であるカチン自治権の承認を、政府が拒んだために決裂した[34]。KIAとCPBは1981年、停戦失敗の原因はネウィン政権の強硬姿勢にあるとする共同声明を発表したほか、ロイレム(Loi Lem)山に合同政治・士官学校を設立した[35]。1982年には、KIAはNDFに復帰した。1986年には、CPBとNDFによる合同作戦がおこなわれるようになった[36]。KNUのボー・ミャがこれを非難したことにより、NDFは分裂が進んだ[37]。1987年、ブランセンがマナプロウ英語版の会合に出席している隙を突いて、軍部はKIO・KIAの当時の本拠地である、パジャウおよびナポービルマ語版を陥落させた[38]

SLORC/SPDC政権期(1988-2011)

[編集]
ミッソンダム建設予定地(2018年)

8888民主化運動の弾圧を経て成立した国家法秩序回復評議会(SLORC)政権は、経済制裁などにより逼迫した財政を、天然資源の採取権を売却することで改善しようとした[39][40]。SLORCの方針が一定の成功を見せた一方で、CPBは中国からの援助の減少・改革開放政策にともなう貿易独占権の消失などによって、経済的危機に瀕していた[41]。CPBの経済基盤はアヘンに立脚するものとなり、行政面についても腐敗が進んでいった。1989年、中国政府がCPB高官に対して引退と亡命の勧告をおこなったことが明らかになると、それまでビルマ系の幹部のもと軍務に従事していたコーカン族ワ族といった少数民族の下士官が一斉に蜂起し、CPBは崩壊した[42]

この事件はCPBと関係の深かったKIAにも影響を与えた。1990年にはKIA第4旅団のマトゥノー(Mahtu Naw)がカチン防衛軍(KDA)として離反し、軍部と和平を結んだ。マトゥノーの軍勢は数百人と小規模ではあったものの、自勢力が分裂するという事態にKIAは大きく動揺した[43]。1992年6月5日には、インド経由での補給ルートを確立すべく、印緬国境英語版パンソービルマ語版ナミュン英語版の奇襲を成功させるも、翌日には空爆がはじまり、両陣地とも軍部に奪還されてしまう。1993年4月にはKIA代表者がミッチーナーでの停戦交渉に応じ、1994年2月24日には停戦協定が結ばれた[44]

停戦後のKIAと国軍は、表面上は有効な関係を保ち続けており、民主派勢力の国民民主連盟(NLD)が途中で離脱した、2008年憲法の制定会議にも最後まで関わり続けた。タンミンウー英語版によれば、KIA議長はサイクロン・ナルギス襲来の翌日に開催された2008年ミャンマー憲法改正国民投票 英語版にも率先して足を運び、本拠地のライザ英語版にて1票目の賛成票を投じたという[45]。憲法改正後、政府は同憲法338条の「連邦のすべての軍隊は国軍の指揮下にある」という規定に基づき、KIAをふくむ国内の反政府勢力に対して、軍傘下の国境警備隊(BGF)への編入をおこなおうとした[46]。KIOは2010年9月にこれを拒絶し、両者の関係は悪化した。軍部は諸武装勢力に対して、過去に結んだ停戦協定の失効を宣言し、カチン州内に設置していたKIAのための連絡事務所を閉鎖した[46][47]。さらに、軍事政権がカチン州内に計画したミッソンダムの建設も、両者の関係に亀裂を生じさせた。同計画は、中緬合弁事業として、エーヤワディー川源流域のミッソン(マリ川英語版ンマイ川英語版の合流点)に大規模なダムを建設するというものであったが、ミッソンの民族にとっての象徴的地位・地元住民との没交渉・中国政府を後ろ盾とする政府のカチン州支配強化などを背景に、KIAはこの事業に反対していた[48][49]。こうした状況を背景として、2010年ミャンマー総選挙においてはカチン族政党および独立候補の立候補が禁じられた[50]

民政移管とクーデター以後(2011-)

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KIA士官候補生(2016年・ライザ)

BGF編入を巡る問題で両者の関係はすでにきわめて険悪なものとなっていたが[49]、両者の衝突の直接的契機となったのはミッソンダム問題であった[51]。2011年6月9日、ミャンマー軍はダパイン川英語版流域のダム建設予定地(ミッソンダムとは異なる)に布陣していたKIAを攻撃し、17年間続いた停戦はここに崩壊した[50][52]テインセイン新大統領は9月30日にミッソンダム計画の凍結を発表したものの、カチンにおける両勢力の紛争は続いた[51]

テインセイン政権はKIAをふくむ諸勢力と包括的な停戦協定を結ぶべく尽力した。これにあたっての交渉相手となったのが、2012年2月設立であり、KIO/KIAも加盟する、統一民族連邦評議会(UNFC)であった[53]。政府は2013年1月にKIAに対し、一方的な停戦宣言をおこなったものの、守られなかった[54]。2013年10月30日から11月2日にかけては、KIAの本拠地であるライザでUNFC参加組織をふくむ16組織が和平に向けての会議をおこなった。政府もこれを歓迎し、参加者のライザまでの道中の安全を確保した[53]。2015年10月15日にはKNUなど8勢力によって全国停戦合意(NCA)の署名がおこなわれたものの、KIOがこれに署名することはなく、UNFCの足並みは揃わなかった[55]。2016年11月20日には一部の旅団がタアン民族解放軍ミャンマー民族民主同盟軍アラカン軍と共に北部同盟を結成した[56]

KIAは当初2021年ミャンマークーデターを静観しており、平和的抗議に対する軍の暴力行使に懸念を表明する声明を発表する程度であった。しかし、数ヶ月が経過すると、KIAは民主化勢力ともっとも積極的な連帯をはかる武装組織のひとつとなっており[54][57]、2019年に13回、2020年に7回であった軍部との衝突回数は、2021年に138回にまで増加した[58]。2022年10月23日には、ミャンマー軍がKIOの創立62周年行事会場を爆撃したパカン空爆が発生した[59]

組織

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議長

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議長は以下の通りである[13][60][61]

  • Lahtaw Zau Seng(1960年10月 - 1975年8月)
  • Maran Brang Seng(1975年9月 - 1994年8月)
  • Malizup Zau Mai(1994年9月 - 2001年2月)
  • Lamung Tu Jai(2001年3月 - 2006年6月)
  • Lanyaw Zawng Hra(2006年6月 - 2018年1月)
  • N'Ban La(2018年1月 - 2023年1月)
  • Htang Gam Shawng(2023年1月 - )

KIA本隊

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KIAは12個旅団51個歩兵大隊からなる[62]

KIA本部

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KIAの軍総司令部と本部直轄の旅団、大隊、中隊は、エーヤワディー川東岸のライザを拠点とする。

  • 軍総司令部 - Dailawn Rung
  • 軍事戦略研究部門 - Zai Ninggawn Rung
  • 機動旅団 - 第251、252、253、254、255、256大隊
  • 中央警備旅団 - 第23、28、40、42大隊
  • 砲兵部隊 - 第611、612、613、614大隊
  • コマンドー大隊
  • グルカ大隊
  • 射撃中隊
  • 訓練大隊

北部軍管区

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  • 第1師団: プーターオ地域およびスンプラブン地域 - 第4、7、10、22大隊
  • 第7師団: チプウィ地域およびパレー地域 - 第32、33、46大隊

西部軍管区

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  • 第2師団: レド公路の南北 - 第11、14、20、45大隊
  • 第9師団: パカン地域 - 第6、26、44大隊
  • 第8師団: モーニン地域およびナンシーオン地域 - 第5、35、41大隊

東部軍管区

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  • 第3師団: バモー地域 -第1、12、15、16、21、27大隊
  • 第5師団: サドゥン地域 - 第3、18、19、24、25、30大隊

南部軍管区

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  • 第4師団:ラーショー-ムセ道路の北側 - 第8、29、34、37大隊
  • 第6師団:クカイ-ムセ道路の北側 - 第9、36、38大隊
  • 第10師団: センウィー-クンロン道路の南北 - 第2、17、39大隊

MHH

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MHH(ジンポー語: Mungshawa Hpyen Hpung)は行政部門カチン独立評議会(Kachin Independence Council: KIC)の司令下にある、村落防衛を目的とした民兵組織である[62][63]

KPDF

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カチン国民防衛隊(Kachin People’s Defence Force: KPDF)は国民統一政府(NUG)の直接管轄下になく、KIAが管轄している国民防衛隊である。総兵力は1,700である。モーニン、ホーピン、インドージー、モーガウン、ナムティ、プーターオ、ミッチーナー、ソロー、パカンの各地域には13のKPDF部隊が存在しており、ホマリンPDFの2個大隊もKIAの管轄下にある。シャン州北部では、KIAはPDF第509、510、511、512、513、514、515大隊を訓練し、共に活動している[62]

KPDFはNUGとKIAを含む複数のアクターからなる中央指揮調整委員会(Central Command and Coordination Committee :C3C)の指揮下に置かれている[64]

分派

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ビルマ共産党101軍区

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1969年5月、ザクン・ティンイン(Zahkung Ting Ying)とラヨッ・ゼルム(Layawk Zelum)は400人の兵士を率いてカチン独立機構(KIO)から離脱し、ビルマ共産党に加わり、ビルマ共産党101軍区となった[65]。1989年、101軍区はビルマ共産党崩壊後、カチン新民主軍として独立し、ミャンマー軍と停戦条約を結んだ。2009年、カチン新民主軍はミャンマー軍傘下の国境警備隊第1001-1003大隊として再編された[66]

カチン防衛軍

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1990年から1991年にかけてKIA第4旅団司令官のマトゥノーはカチン防衛軍として分派を形成し、ミャンマー軍と停戦条約を結んだ[67]。2009年にカチン防衛軍はミャンマー軍傘下のコンカー民兵(Kawnghka Militia)として再編された[68]

ラサン・オンワー和平グループ

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2004年1月4日、KIO諜報局局長のラサン・オンワー(Lasang Awng Wa)大佐は、KIO内部のクーデターを試みたが未遂に終わり、300人の兵士とともに分派を形成した。ラサン・オンワー大佐は数ヶ月間カチン新民主軍に身を寄せたのち、2005年末にミャンマー陸軍北部軍管区司令のオーンミン(Ohn Myint)少将にグィトゥパ(Gwi Htu Pa)の基地を与えられた。2009年10月16日、ラワヤン民兵(Lawa Yang Militia)として再編され、正式にミャンマー軍傘下の民兵となった[69]

日本との関係

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1976年1月23日、カチン州を訪れた日本遺骨収集団をKIA戦闘員が銃撃し、護衛兵が応戦して戦闘状態となった。これにより護衛兵7人、日本人2人、通訳1人が負傷した[28]。2013年4月2日には、KIO議長のンバンラがUNFCの一員として、笹川陽平とともに安倍晋三総理大臣を表敬訪問した[70]。2022年10月25日には、林芳正外務大臣がミャンマー軍によるパカン空爆(先述)を非難した[71]。2024年5月14日には、高村正大外務大臣政務官が、カチン独立軍の代表の表敬訪問を受けた[72]

脚注

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注釈

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  1. ^ アラカン解放党英語版(ALP)、アラカン民族解放党(Arakan National Liberation Party、ANLP)、カレンニー民族進歩党(KNPP)、カレン民族同盟(KNU)、カチン独立機構(KIO)、カヤン新領土党(KNLP)、新モン州党(NMSP)、パラウン州解放機構(Palaung State Liberation Organisation、PSLO)、シャン州進歩党(SSSP)、シャン連合軍英語版(SUA)、パオ民族機構(Pa-O National Organisation、PNO)[29]

出典

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参考文献

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