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松平忠正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平忠正
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文13年(1544年
死没 天正5年閏7月20日1577年9月2日
別名 通称:与一郎
神号 甘美毘古伊都都賀須命[注釈 1]
戒名 廣大院眞誉華岳道春大居士
墓所 桜井山菩提寺愛知県安城市桜井町)
主君 徳川家康
氏族 桜井松平家
父母 父:松平家次
兄弟 忠正忠吉、忠広、菅沼定盈継室
多劫姫久松俊勝娘)
家広
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松平 忠正(まつだいら ただまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将桜井松平家4代当主。通称は与一郎[2][3]三河国碧海郡桜井城主(愛知県安城市桜井町)。

略歴

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安城市の菩提寺にある桜井松平家歴代の墓所。忠正の墓は右から2番目。なお、右端の一回り小さな墓は忠正の弟・忠広の墓。

3代当主・松平家次の子として誕生[2][3]。桜井松平家は祖の信定の代から安祥松平家に敵対的であり、忠正も当初は三河一向一揆では松平家康(徳川家康)と戦うも敗れ、以後は家康に仕えた。

永禄11年(1568年)の遠江国掛川城攻略、元亀元年(1570年)の姉川の戦いに従軍した。

元亀4年(1573年)1月からの野田城の戦いでは、野田城主・菅沼定盈と共に籠城するが、水の手を断たれ、定盈とともに武田方の捕虜となった[2](『寛政譜』によれば、定盈・忠正の命と引き換えに兵卒を助命する交渉を行おうとしたが、信玄に捕らえられたという[2])。その後、徳川方に出されていた山家三方衆の人質と交換され[2]、菅沼定盈と共に帰参した[2]。天正3年(1575年)の長篠の合戦では武田の軍兵若干を討ち取り、織田信長の感賞を受けた[2]

天正5年(1577年)閏7月20日に死去した[2]。享年34[2]

子の亀千代(松平家広)が幼少であったため[4]、弟の松平忠吉が家督を継承した。なお、忠吉も天正10年(1582年)に若くして死去しており[4]、家督を継いだ家広を弟の松平忠広が後見した[4]

系譜

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忠正の死後、多劫姫は忠正の弟である松平忠吉に再嫁し、忠吉との間に松平信吉松平忠頼の兄弟を儲けた[4]。忠吉死後は保科正直に再嫁した[4]

脚注

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注釈

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  1. ^ うましひこいつつかすのみこと。桜井神社(兵庫県尼崎市)の祭神として追贈された神号[1]

出典

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  1. ^ 櫻井神社”. 古社寺巡拝記. 2021年11月27日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.26
  3. ^ a b 松平忠正”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2021年11月25日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.27

参考文献

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  • 寛政重修諸家譜』巻第五
    • 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/23
    • 『新訂寛政重修諸家譜 第一』(続群書類従刊行会、1964年)

外部リンク

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