森下洋一
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もりした よういち 森下 洋一 | |
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生誕 |
1934年6月23日 兵庫県 |
死没 | 2016年12月18日(82歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 関西学院大学卒業 |
森下 洋一(もりした よういち、1934年〈昭和9年〉6月23日 ‐ 2016年〈平成28年〉12月18日[1])は、日本の実業家。位階は従三位。
関西学院大学バレーボール部員であったため、先輩である大松博文に薦められ松下電器産業株式会社(現・パナソニック株式会社)に運動選手枠で入社する[2]。後に同社の社長、会長、相談役、学校法人関西学院の理事長を務めた。
社長在任時の1995年に「これからはブラウン管の時代」と提唱して液晶開発への投資を縮小[3]したことにより、松下が液晶競争に乗り遅れる原因の一つを作る[4]。退任後、2019年にはパナソニックの液晶事業からの撤退が決定された[5][6][7]。
略歴
[編集]伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
- 1934年(昭和9年) - 兵庫県姫路市に生まれる。
- 1957年(昭和32年) - 関西学院大学商学部卒業。同年、松下電器産業株式会社(現・パナソニック株式会社)入社。
- 1971年(昭和46年) - 同社 電機事業部大阪電機営業所長に就任。
- 1975年(昭和50年) - 同社 近畿電機営業所長に就任。
- 1981年(昭和56年) - 同社 中国特機営業所長に就任。
- 1986年(昭和61年) - 同社 特機営業本部長に就任。
- 1987年(昭和62年) - 同社 取締役に就任。
- 1987年(昭和62年) - 同社 常務取締役に就任。
- 1990年(平成2年) - 同社 専務取締役に就任。
- 1992年(平成4年) - 同社 副社長に就任。
- 1993年(平成5年) - 同社 第5代社長に就任[8][9]。
- 2000年(平成12年) - 同社 会長に就任。
- 2002年(平成14年) - 道路交通情報通信システムセンター理事長に就任[10]
- 2006年(平成18年) - 同社 相談役に就任。
- 2008年(平成20年) - 学校法人関西学院理事長就任[11]。
- 2013年(平成25年) - 同理事長退任。
- 2016年(平成28年) - 死去。82歳没[1]。没後、日本国政府は従三位に叙し、旭日大綬章を追贈することを決定した[12][13]。
現在までに関西経済連合会副会長、JEITA(電子情報技術産業協会)会長[14]、日本電機工業会会長、郵政行政審議会会長など、数々の公共の益に係わる役職を務める。
脚注
[編集]- ^ a b 元松下電器社長の森下洋一さん死去 事業再編成を推進 毎日新聞、2016年12月21日
- ^ 岩瀬達哉『パナソニック人事抗争史』講談社、2015年
- ^ 『日経ビジネス』1997年8月25日
- ^ 立石泰則『パナソニック・ショック』文藝春秋、2013年
- ^ 「パナソニック、液晶パネル生産から撤退へ 中国とも競争激化」パナソニック、液晶パネル生産から撤退へ 中国とも競争激化
- ^ 韓国や中国のメーカーに駆逐された日本メーカーは、大手ではジャパンディスプレイ、シャープ、京セラ、三菱電機のみが液晶事業を継続した
- ^ 日本メーカー、生き残り厳しく 韓国勢台頭で競争激化―パナソニック撤退時事通信 2019年11月22日
- ^ 1993年(平成5年) 森下社長のもとに新たな出発(パナソニック社史)
- ^ 松下電器産業 略史
- ^ 沿革VICS
- ^ 大学・短大トップインタビュー(リクルート進学総研)
- ^ 故森下洋一氏に旭日大綬章 元松下電器社長
- ^ 『官報』6940号、平成29年1月20日
- ^ JEITA新会長に森下洋一松下電器会長が就任
関連項目
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先代 山内一郎 2002年 - 2008年3月31日 |
関西学院理事長 2008年4月1日 - 2013年3月31日 |
次代 宮原明 2013年4月1日 - 2019年3月31日 |