明治天皇聖蹟
明治天皇聖蹟(めいじてんのうせいせき)は、明治天皇が行幸で訪れた場所や建物である。そのうち377件が史蹟名勝天然紀念物保存法にもとづいて史蹟に指定された[1]。戦後占領下「史跡の指定が新憲法(日本国憲法)の精神にそわない」とみなされて[2]、1948年6月29日、指定を一斉に解除された。その後、建物が失われても、聖蹟を顕彰する石碑などが残されている場合が多い[1]。
史蹟指定の経緯
[編集]明治天皇聖蹟の一部は史蹟名勝天然紀念物保存法によって史蹟に指定された。同法の制定は史蹟名勝天然紀念物保存協会が運動母体になった。同協会は民間任意団体であったが[3]、事務所を内務省内に置き、地方改良政策を実施する内務省地方局からバックアップをうけた[4]。かねてから東京帝国大学の黒板勝美が同時代のドイツに学んで史蹟名勝保護を国民教化の手段とすることを唱えていた。国民教化は日露戦争後の地方改良政策とあいまって内務省の史蹟名勝保護に発展した。史蹟名勝天然紀念物保存協会は1911年に発足した[5]。侯爵徳川頼倫を会長とし[6]、高官や華族や学者が参加した[3]。ドイツなどの文化財保護を意識して、史蹟名勝保存により愛国心を高める啓蒙活動を目指した[7]。同年3月に法律制定を求める建議案を貴族院に提出し、世論の喚起をはかった[3]。
明治天皇崩御と御遺蹟調査
[編集]1912年7月に明治天皇が崩御した。聖蹟を保存したいという国民的熱望がただちに起った。御陵が京都伏見桃山に決まり、明治神宮が東京代々木に創建されることになると、各地方に明治神宮の分社をつくって日々参拝したいという熱望が続出した。しかし明治神宮の地方分社は許されなかったので、せめてこれに代えて各地の明治天皇聖蹟を永久に保存し、聖徳を追慕したいという議が起った[8]。明治天皇の史跡を国家事業にするという話もあったが[9]、経費の問題などもあり進捗しなかった[8]。
この間、史蹟名勝天然紀念物保存協会の戸川安宅は明治天皇の史蹟の調査に着手する。明治天皇崩御の3か月後には早くも各道府県へ調査依頼を発出した。同年冬には東京府における明治天皇史蹟調査についてに東京市長から委嘱を受けた[10]。翌1914年、編集発行人として協会の月刊機関誌『史蹟名勝天然紀念物』を発刊し[9]、1巻1号から「先帝御遺蹟しらべ」という記事を連載した。同5号から記事名を「明治天皇御遺蹟」に改題し、1917年まで連載した[10]。
1919年4月10日、史蹟名勝天然紀念物保存法が制定される[3]。従来の古社寺保存法にカバーされない史蹟などに関して、地方中間層らが下から保存運動をおこし、それを掬い上げるかたちでこの法律が制定された[11]。戸川安宅はこの年をもって『史蹟名勝天然紀念物』の編集発行人を辞めた[9]。『史蹟名勝天然紀念物』は翌1920年に休刊し、1921年から1923年5号まで国府種徳が編集発行人を務めたが、やがて廃刊となった。1923年に関東大震災がおこり、多くの史跡が焼けた。翌1924年に初代編集発行人の戸川安宅が死去した[4]。この間、1926年10月20日に広島大本営が国の史蹟に指定された[12]。
聖蹟指定の本格化
[編集]1928年に史蹟名勝天然紀念物保存が内務省から文部省に移管されてから、明治天皇聖蹟の保存が本格化する。のちの精神運動のさきがけとなった[7]。聖蹟指定は、老朽化し忘却されていく施設を保護する以上に、国民教化を目的とする精神運動の面が濃かった[13]。政治的バイアスを伴うものであったが、一方で明治天皇の足跡そのものには明治以後の皇室と地域との関係が集約されている[14]。
機関誌『史蹟名勝天然紀念物』は1926年に再刊されるが、明治天皇史跡指定運動を推進する人脈には断絶がある[9]。1928年史蹟名勝天然紀念物保存が内務省から文部省宗教局保存課へ移管されたのに伴い、史蹟名勝天然紀念物保存協会の事務局も同課へ移転した[15]。明治天皇聖蹟の保存が本格化したのは聖蹟保存が文部省に移管され、国民教化が推し進められたことによる。何の形態も示さないで聖蹟だけを顕彰することが国民教化に一層効果的であった。民間では地方名望家層が聖蹟保存に積極的に動いた[16]。
明治天皇聖蹟保存会が1930年に設立され、明治天皇史跡の調査の中心になった[9]。明治天皇聖蹟保存会の設立の趣旨は、聖蹟を調査し、その保存の途を講じ、あわせて聖徳を顕揚し、もって君国に貢献せんとする、というものであった[17]。全国の聖蹟の中には保存されたものもあるが、なかには荒れはてたものもあり、いま顕彰しなければ湮滅してしまう恐れがあるので保存会を設立したという[15]。保存会の会長は侯爵西郷従徳(西郷隆盛の甥)である[9]。保存会主事の大平己三郎が各地の聖蹟を実地に調査した[18]。西郷会長によると、そもそも明治天皇聖蹟保存会が設立されたのは大平が非常に熱心に奔走した結果であった[8]。また、矢吹活禅も明治天皇聖蹟保存会の主事で[17]、同時に史蹟名勝天然紀念物保存協会の機関誌の編集発行人であった。明治天皇聖蹟保存会が史蹟名勝天然紀念物保存協会の中核になっていた。かつての「明治天皇御遺蹟」は今や「明治天皇聖蹟」と称されるようになった。神性を意識させる聖蹟という名称への移行は、明治天皇聖蹟が史蹟名勝天然紀念物保存法の中でも特別の位置を占めていたことを象徴する[15]。
文部省は1933年度に帝国議会の協賛を得て予算を確保し、その年から聖蹟の指定を始めた[8]。1,375か所にのぼる紀念址・駐輦址・行在所・野立所の中から国が指定する史蹟を選んだ。指定の基準は、顕著な聖徳事蹟であることと、行在所の建物が原位置でよく保存され指定に支障がないことであった。文部省は各府県につき2~3件づつ調査して選定した[19]。1933年11月2日の第1次指定は行在所53、大本営5、行幸所10、小休所6、野立所10、その他2(旧芝離宮阯、旧静岡御用邸)、合計86件であった[20]。これ以前に史蹟に指定された明治天皇聖蹟は、1926年10月20日に指定された広島大本営のみであった[12]。
国による指定と並行して明治天皇聖蹟保存会が『明治天皇行幸年表』を発刊した[15]。同書は聖蹟の所在を明らかにすることを主要目的として[18]、保存会主事の矢吹活禅が編纂した[17]。明治天皇紀の編修を行っていた臨時帝室編修官長三上参次が聖蹟について多年にわたり直接間接に教示した。保存会理事で臨時帝室編修官でもある上野竹次郎が保存会設立以来史料を提供した。同書の一半は上野のおかげであった。保存会理事で法学博士(かつ明治史研究家)の尾佐竹猛が年表編纂を指導した[18]。
明治天皇聖蹟の指定について年別にみると、1933年に86件[20]、1934年に70件[21]、1935年に51件[22]、1936年に55件[23]、1937年に55件[24]が指定された。その後の指定もあり、指定解除直前の1948年1月にも山梨県中初狩小安所が指定された[15]。指定解除された明治天皇聖蹟377件のうち、広島大本営と中初狩御小休所とを除く375件は、1933年から1945年までの間に指定されている[注 1]。県別内訳は、最多の新潟県が48件、次いで長野県22件、福島・栃木・東京・福井・愛知・滋賀の6府県が各15件以上であった[15]。和歌山・鳥取・島根・徳島・愛媛・高知・佐賀・大分・宮崎・沖縄の10県には行幸がなかったため聖蹟が存在しなかった[19]。東日本に遍在し、西日本に少ないのは巡幸のあり方を反映していた[15]。
文部省は指定した聖蹟について『明治天皇聖蹟』各篇を出版し、図面・写真・指定理由を報告した[25]。このほか、新潟、大阪、宮城、岡山、福島、千葉、長崎、東京、群馬などの各府県が編纂した聖蹟誌の記録が残されている[7]。1940年には、東京府観光協会が写真帳『仰ぐ聖駕のみあと』を刊行した。東京府観光協会は東京府庁内に所在する東京府直結の外郭団体であった。同書に東京府内67件の聖蹟を掲載した。うち15件が国に指定されていた[19]。
史跡指定の解除
[編集]明治天皇聖蹟377件は1948年6月29日文部省告示第64号をもって史跡の指定を一斉に解除された[26]。この措置は占領軍GHQ民間情報教育局(CIE)の指示に基づいて行われた[3]。指定解除は神道指令による政治的措置の一環であった。神道指令に直接関与したウッダードは、著書の「明治天皇を記念する場所の格下げ」と題する章で次のように述べている(大意)。「天皇に対する過剰な尊敬に関するもので未だ処分されていないのものがあった。それは明治天皇が使用した場所や明治天皇ゆかりの場所に対する特別の敬意であった。明治天皇への敬意が自発的に表されている分には異議を唱えなかったが、政府が明治天皇への尊敬心を育成するための場所を特別に指定していることに対しては異議を唱えた。こうして文部省に指示して指定を解除させたCIEは、反対意見を受けるどころか多くの人々から感謝された。たとえば旅館主たちは明治天皇の使用した部屋を保存することを義務付けられていたので、指定解除のおかげでその部屋を客間として使用できるようになったと喜んだ。なかには反対したり、金銭的被害を蒙ったりした者もいたかもしれないが、彼らがCIEに苦情を持ち込んだ形跡はなかった」[27]。
指定解除は具体的には次の経緯を辿った。1948年2月6日、聖徳記念絵画館に戦争画が数点展示されていることを知ったGHQは、その不快な (objectionable) 絵画を直ちに撤去するよう文部省に要求した。ついで同月25日、GHQは明治天皇聖蹟の一覧を提出するよう文部省に求めた。GHQの担当は美術顧問シャーマン・リーであった[28]。リーは次の解除理由を示した(大意)。「聖蹟は天皇崇拝の一形態である。明治天皇の崇拝は特に日本超国家主義の台頭と結びついている。重要性を欠いた多数の史跡は文部省から神道勢力への財政援助でもある。健全な理由で指定された史跡は推奨されるが、明治天皇聖蹟の指定は解除されるべきである」[29]。5月20日、文部省の史蹟名勝天然紀念物調査会は「いつになく好ましい雰囲気のなか」明治天皇聖蹟の指定解除を満場一致で可決した[30]。同月26日新聞発表とされた文部大臣談話によると、明治天皇の史跡については「史跡の指定が新憲法の精神にそわないと認められ」たので今回全般的に指定を解除した[2]。占領軍によって天皇制イデオロギーを支えるものとみなされたのである[1]。6月29日文部省告示64号をもって史跡377件を一括して指定解除した[30]。指定解除後、聖蹟そのものは解体された場合が多くても、記念碑は全国各地で廃棄されずに残されている[31]。
都道府県 | 史跡名 | 所在地(解除当時) | |
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1 | 北海道 | 明治天皇札幌御小休所 | 札幌市北7条 |
2 | 北海道 | 明治天皇島松行在所 | 札幌郡広島村 |
3 | 北海道 | 明治天皇蓴菜沼御小休所/附御膳水 | 亀田郡七飯村 |
4 | 北海道 | 明治天皇札幌行在所 | 札幌市大通 |
5 | 北海道 | 明治天皇森行在所阯及御上陸地 | 茅部郡森町 |
6 | 青森県 | 明治天皇八戸行在所及旧阯 | 八戸市堀端 |
7 | 青森県 | 明治天皇五戸行在所 | 三戸郡五戸町 |
8 | 青森県 | 明治天皇三本木行在所 | 上北郡三本木町 |
9 | 青森県 | 明治天皇八幡崎御小休所 | 南津軽郡猿賀村 |
10 | 青森県 | 明治天皇大釈迦御小休所 | 南津軽郡大杉村 |
11 | 青森県 | 明治天皇青森御乗船並御上陸桟橋阯 | 青森市新浜町 |
12 | 岩手県 | 明治天皇渋民行在所 | 岩手郡渋民村 |
13 | 岩手県 | 明治天皇一関行在所 | 西磐井郡一関町 |
14 | 宮城県 | 明治天皇松島御小休所 | 宮城郡松島町 |
15 | 宮城県 | 明治天皇松島行在所 | 宮城郡松島町 |
16 | 宮城県 | 明治天皇古川行在所 | 志田郡古川町 |
17 | 宮城県 | 明治天皇有壁御小休所/附御膳水 | 栗原郡萩野村 |
18 | 宮城県 | 明治天皇斎川御小休所/附御膳水 | 刈田郡斎川村 |
19 | 宮城県 | 明治天皇富山御小休所 | 宮城郡松島町 |
20 | 宮城県 | 明治天皇増田御小休所/附御膳水 | 名取郡増田町 |
21 | 宮城県 | 明治天皇岩沼行在所 | 名取郡岩沼町 |
22 | 宮城県 | 明治天皇築館行在所 | 栗原郡築館町 |
23 | 宮城県 | 明治天皇市川御小休所 | 宮城県多賀城村 |
24 | 秋田県 | 明治天皇鷹巣行在所 | 北秋田郡鷹巣町 |
25 | 秋田県 | 明治天皇行幸所院内御幸坑/附院内鉱山分局阯/御膳水 | 雄勝郡院内町 |
26 | 秋田県 | 明治天皇院内御野立所 | 雄勝郡院内町 |
27 | 秋田県 | 明治天皇神宮寺行在所/附御膳水 | 仙北郡神宮寺町 |
28 | 秋田県 | 明治天皇矢立行在所/附御膳水 | 北秋田郡矢立村 |
29 | 秋田県 | 明治天皇六郷御小休所/附御膳水 | 仙北郡六郷町 |
30 | 秋田県 | 明治天皇金沢御小休所/附御膳水 | 仙北郡金沢町 |
31 | 秋田県 | 明治天皇大久保御小休所/附御膳水 | 南秋田郡大久保町 |
32 | 秋田県 | 明治天皇北野御小休所阯及建物 | 南秋田郡大久保町、金足村 |
33 | 山形県 | 明治天皇鶴岡行在所 | 鶴岡市馬場町 |
34 | 山形県 | 明治天皇清川行在所 | 東田川郡清川町 |
35 | 山形県 | 明治天皇高畠行在所 | 東置賜郡高畠町 |
36 | 山形県 | 明治天皇上山御小休所 | 南村上郡上山町 |
37 | 山形県 | 明治天皇漆山御小休所 | 東村山郡出羽村 |
38 | 山形県 | 明治天皇上台御小休所 | 最上郡金山町 |
39 | 山形県 | 明治天皇横山御小休所 | 東田川郡横山村 |
40 | 山形県 | 明治天皇楯岡東沢行幸所 | 北村山郡楯岡町 |
41 | 山形県 | 明治天皇廻館御小休所 | 東田川郡大和村 |
42 | 山形県 | 明治天皇天童行在所 | 東村山郡天童町 |
43 | 山形県 | 明治天皇亀岡御小休所 | 東置賜郡亀岡村 |
44 | 山形県 | 明治天皇川井御小休所 | 東置賜郡上郷村 |
45 | 福島県 | 明治天皇行幸所須賀川旧産馬会社 | 岩瀬郡須賀川町 |
46 | 福島県 | 明治天皇大蔵壇原御小休所及御野立所 | 安積郡大築町 |
47 | 福島県 | 明治天皇笹川御小休所 | 安積郡永盛町 |
48 | 福島県 | 明治天皇笠石御小休所 | 岩瀬郡鏡石村 |
49 | 福島県 | 明治天皇久来石御小休所 | 岩瀬郡鏡石村 |
50 | 福島県 | 明治天皇白河行在所/附御膳水 | 西白河郡白河町 |
51 | 福島県 | 明治天皇本宮行在所 | 安達郡本宮町 |
52 | 福島県 | 明治天皇桑折御小休所 | 伊達郡桑折町 |
53 | 福島県 | 明治天皇大笹生御小休所 | 信夫郡大笹生村 |
54 | 福島県 | 明治天皇大滝御小休所 | 信夫郡中野村 |
55 | 福島県 | 明治天皇伏拝御野立所 | 信夫郡杉妻村 |
56 | 福島県 | 明治天皇横森御野立所 | 安積郡日和田町 |
57 | 福島県 | 明治天皇白河行幸所 | 西白河郡白河町 |
58 | 福島県 | 明治天皇桑野行在所 | 郡山市桑野 |
59 | 福島県 | 明治天皇行幸所二本松製糸会社阯 | 安達郡二本松町 |
60 | 茨城県 | 明治天皇水戸行在所 | 水戸市北三ノ丸 |
61 | 茨城県 | 明治天皇牛久行在所 | 稲敷郡牛久村 |
62 | 茨城県 | 明治天皇笠間行在所 | 西茨城郡笠間町 |
63 | 茨城県 | 明治天皇結城大本営 | 結城郡結城町 |
64 | 茨城県 | 明治天皇下館行在所 | 真壁郡下館町 |
65 | 茨城県 | 明治天皇岩瀬中泉行在所及御講評所 | 西茨城郡岩瀬町 |
66 | 茨城県 | 明治天皇岩間御野立所 | 西茨城郡岩間町 |
67 | 茨城県 | 明治天皇和尚塚御野立所 | 西茨城郡大原村 |
68 | 茨城県 | 明治天皇女化原御小休所 | 稲敷郡馴柴村 |
69 | 茨城県 | 明治天皇岩瀬星ノ宮御野立所 | 西茨城郡岩瀬町 |
70 | 栃木県 | 明治天皇宇都宮行在所 | 宇都宮市鉄炮町、馬場町 |
71 | 栃木県 | 明治天皇日光行在所 | 上都賀郡日光町 |
72 | 栃木県 | 明治天皇小山行在所 | 下都賀郡小山町 |
73 | 栃木県 | 明治天皇阿久津行在所御野立所及御講評所 | 塩谷郡阿久津村 |
74 | 栃木県 | 明治天皇高久御野立所 | 那須郡那須村 |
75 | 栃木県 | 明治天皇七里御小休所 | 上都賀郡日光町 |
76 | 栃木県 | 明治天皇馬返御小休所 | 上都賀郡日光町 |
77 | 栃木県 | 明治天皇山中御小休所 | 那須郡蘆野町 |
78 | 栃木県 | 明治天皇引田原御小休所阯/附御膳水 | 那須郡上江川村 |
79 | 栃木県 | 明治天皇夫婦石御野立所 | 那須郡蘆野町 |
80 | 栃木県 | 明治天皇鷲巣御野立所 | 下都賀郡岩舟村 |
81 | 栃木県 | 明治天皇壬生行在所 | 下都賀郡壬生町 |
82 | 栃木県 | 明治天皇栃木行在所 | 栃木市入舟町 |
83 | 栃木県 | 明治天皇華厳瀑御観覧御野立所 | 上都賀郡日光町 |
84 | 栃木県 | 明治天皇中茶屋御野立所 | 上都賀郡日光町 |
85 | 栃木県 | 明治天皇大田原御小休所 | 那須郡大田原町 |
86 | 栃木県 | 明治天皇桜野行在所 | 塩谷郡氏家町 |
87 | 栃木県 | 明治天皇友沼御小休所 | 下都賀郡野木村 |
88 | 群馬県 | 明治天皇前橋行在所 | 前橋市柳町 |
89 | 群馬県 | 明治天皇新町行在所 | 多野郡新町 |
90 | 群馬県 | 明治天皇高崎行在所 | 高崎市寄合町 |
91 | 群馬県 | 明治天皇渋川行在所 | 群馬郡渋川町 |
92 | 群馬県 | 明治天皇五料御小休所 | 碓氷郡臼井町 |
93 | 群馬県 | 明治天皇原市御小休所 | 碓氷郡原市町 |
94 | 群馬県 | 明治天皇松井田行在所 | 碓氷郡松井田町 |
95 | 埼玉県 | 明治天皇浦和行在所 | 浦和市 |
96 | 埼玉県 | 明治天皇草加行在所 | 北足立郡草加町 |
97 | 埼玉県 | 明治天皇桶川行在所 | 北足立郡桶川町 |
98 | 埼玉県 | 明治天皇幸手行在所 | 北葛飾郡幸手町 |
99 | 埼玉県 | 明治天皇大沢御小休所 | 南埼玉郡大沢町 |
100 | 埼玉県 | 明治天皇岡部御小休所 | 大里郡岡部村 |
101 | 埼玉県 | 明治天皇権現堂堤御野立所 | 北葛飾郡幸手町 |
102 | 千葉県 | 明治天皇成田行在所 | 印旛郡成田町 |
103 | 千葉県 | 明治天皇習志野行幸所 | 千葉郡二宮町 |
104 | 千葉県 | 明治天皇市川第六天前行在所 | 市川市市川町 |
105 | 千葉県 | 明治天皇市川上出口行在所 | 市川市市川町 |
106 | 千葉県 | 明治天皇丹尾台御野立所 | 印旛郡八街町 |
107 | 千葉県 | 明治天皇中野行在所 | 千葉郡臼井村 |
108 | 千葉県 | 明治天皇川井御小休所 | 千葉郡臼井村 |
109 | 千葉県 | 明治天皇臼井行在所 | 印旛郡臼井町 |
110 | 千葉県 | 明治天皇小金御小休所 | 東葛飾郡小金町 |
111 | 千葉県 | 明治天皇柏御小休所 | 東葛飾郡柏町 |
112 | 千葉県 | 明治天皇松戸行在所 | 松戸市 |
113 | 東京都 | 明治天皇行幸所西郷邸 | 目黒区上目黒八丁目 |
114 | 東京都 | 明治天皇行幸所木戸旧邸 | 豊島区駒込一丁目 |
115 | 東京都 | 明治天皇行幸所水戸徳川邸旧阯 | 墨田区隅田公園地 |
116 | 東京都 | 明治天皇行幸所対鴎荘及旧阯 | 南多摩郡多摩村
台東区浅草橋場三丁目 |
117 | 東京都 | 明治天皇行幸所蒲田梅屋敷 | 大田区蒲田町 |
118 | 東京都 | 明治天皇府中行在所 | 北多摩郡府中町 |
119 | 東京都 | 明治天皇連光寺御小休所 | 南多摩郡多摩村 |
120 | 東京都 | 明治天皇行幸所寺島邸 | 港区芝白金猿町 |
121 | 東京都 | 明治天皇荻窪御小休所 | 杉並区荻窪三丁目 |
122 | 東京都 | 明治天皇日野御小休所阯及建物/附御膳水 | 南多摩郡日野町 |
123 | 東京都 | 明治天皇小仏峠御小休所阯及御野立所 | 南多摩郡浅川町 |
124 | 東京都 | 明治天皇行幸所徳川邸 | 渋谷区千駄ヶ谷 |
125 | 東京都 | 明治天皇御嶽神社御小休所阯 | 渋谷区美竹町 |
126 | 東京都 | 明治天皇日本美術協会行幸阯 | 台東区上野公園 |
127 | 東京都 | 旧芝離宮阯 | 港区浜崎町 |
128 | 神奈川県 | 明治天皇横須賀行在所阯 | 横須賀市汐留町 |
129 | 神奈川県 | 明治天皇鎌倉御野立所 | 鎌倉市 |
130 | 神奈川県 | 明治天皇妻田行在所/附御膳水 | 愛甲郡妻田町 |
131 | 神奈川県 | 明治天皇清浄光寺行在所阯/附御膳水 | 藤沢市西富 |
132 | 新潟県 | 明治天皇新崎御小休所 | 北蒲原郡濁川村 |
133 | 新潟県 | 明治天皇新潟行在所阯及建物 | 新潟市礎町通
北蒲原郡新発田町 |
134 | 新潟県 | 明治天皇流作場御小休所 | 新潟市大字流作場 |
135 | 新潟県 | 明治天皇高田行在所 | 高田市大手町 |
136 | 新潟県 | 明治天皇新井行在所 | 中頸城郡新井町 |
137 | 新潟県 | 明治天皇岩室御小休所 | 西蒲原郡岩室村 |
138 | 新潟県 | 明治天皇三条行在所阯 | 三条市三条 |
139 | 新潟県 | 明治天皇見附行在所 | 南蒲原郡見附町 |
140 | 新潟県 | 明治天皇潟町行在所/附御膳水 | 中頸城郡潟町村 |
141 | 新潟県 | 明治天皇石地行在所 | 刈羽郡石地町 |
142 | 新潟県 | 明治天皇椎谷御小休所/附御膳水 | 刈羽郡高浜町 |
143 | 新潟県 | 明治天皇田上御小休所/附御膳水 | 南蒲原郡田上村 |
144 | 新潟県 | 明治天皇大面御小休所/附御膳水 | 南蒲原郡大面村 |
145 | 新潟県 | 明治天皇分田東町御小休所/附御膳水 | 北蒲原郡分田村 |
146 | 新潟県 | 明治天皇関川行在所阯/附御膳水 | 中頸城郡名香山村 |
147 | 新潟県 | 明治天皇二俣御小休所阯/附御膳水 | 中頸城郡名香山村 |
148 | 新潟県 | 明治天皇二本木御小休所 | 中頸城郡中郷村 |
149 | 新潟県 | 明治天皇石沢御小休所阯 | 中頸城郡和田村 |
150 | 新潟県 | 明治天皇行野浜御小休所/附御膳水 | 中頸城郡潟町村 |
151 | 新潟県 | 明治天皇柿崎行在所阯/附御膳水 | 中頸城郡柿崎町 |
152 | 新潟県 | 明治天皇上輪新田御小休所/附御膳水 | 中頸城郡米山村 |
153 | 新潟県 | 明治天皇青梅川行在所 | 中頸城郡米山村 |
154 | 新潟県 | 明治天皇東ノ輪御野立所 | 刈羽郡鯨波村 |
155 | 新潟県 | 明治天皇出雲崎行在所阯/附御膳水 | 三島郡出雲崎町 |
156 | 新潟県 | 明治天皇寺泊行在所 | 三島郡寺泊町 |
157 | 新潟県 | 明治天皇麓御小休所 | 西蒲原郡弥彦村 |
158 | 新潟県 | 明治天皇竹野町御小休所 | 西蒲原郡峰岡村 |
159 | 新潟県 | 明治天皇赤塚行在所 | 西蒲原郡赤塚村 |
160 | 新潟県 | 明治天皇荒川御小休所/附御膳水 | 北蒲原郡松浦村 |
161 | 新潟県 | 明治天皇山崎御小休所 | 北蒲原郡笹岡村 |
162 | 新潟県 | 明治天皇水原行在所 | 北蒲原郡水原町 |
163 | 新潟県 | 明治天皇新津行在所阯 | 中蒲原郡新津町 |
164 | 新潟県 | 明治天皇宮本行在所阯/附御膳水 | 三島郡宮本村 |
165 | 新潟県 | 明治天皇曽地御小休所 | 刈羽郡中通村 |
166 | 新潟県 | 明治天皇岩戸海岸御野立所 | 中頸城郡春日村 |
167 | 新潟県 | 明治天皇長浜御小休所阯 | 中頸城郡谷浜村 |
168 | 新潟県 | 明治天皇茶屋ヶ原御小休所阯/附御膳水 | 中頸城郡谷浜村 |
169 | 新潟県 | 明治天皇名立行在所阯/附御膳水 | 西頸城郡名立町 |
170 | 新潟県 | 明治天皇藤崎御小休所阯 | 西頸城郡磯部村 |
171 | 新潟県 | 明治天皇鬼伏御小休所/附御膳水 | 西頸城郡浦本村 |
172 | 新潟県 | 明治天皇梶屋敷御小休所阯/附御膳水 | 西頸城郡大和川村 |
173 | 新潟県 | 明治天皇糸魚川行在所阯/附御膳水 | 西頸城郡糸魚川町 |
174 | 新潟県 | 明治天皇水ヶ窪御野立所 | 西頸城郡青梅町 |
175 | 新潟県 | 明治天皇城ヶ上御野立所 | 西頸城郡歌外波村 |
176 | 新潟県 | 明治天皇柏崎行在所 | 刈羽郡柏崎町 |
177 | 新潟県 | 明治天皇加茂行在所阯 | 南蒲原郡加茂町 |
178 | 新潟県 | 明治天皇山田御小休所阯 | 三島郡寺泊町 |
179 | 新潟県 | 明治天皇市振御小休所阯及建物 | 西頸城郡市振村(御小休所阯)
富山県下新川郡横山村(建物) |
180 | 富山県 | 明治天皇石動行在所 | 西砺波郡石動町 |
181 | 富山県 | 明治天皇魚津行在所 | 下新川郡魚津町 |
182 | 富山県 | 明治天皇泊行在所 | 下新川郡泊町 |
183 | 富山県 | 明治天皇立野御小休所 | 西砺波郡立野町 |
184 | 富山県 | 明治天皇中茶屋御小休所 | 婦負郡西呉羽村 |
185 | 富山県 | 明治天皇入善御小休所 | 下新川郡入善町 |
186 | 富山県 | 明治天皇持光寺御小休所/附御膳水 | 下新川郡経田村 |
187 | 富山県 | 明治天皇願海寺御小休所 | 射水郡老田村 |
188 | 富山県 | 明治天皇追分御小休所/附御膳水 | 中新川郡早月加積村 |
189 | 富山県 | 明治天皇五福御小休所 | 富山市五福 |
190 | 富山県 | 明治天皇沓掛御小休所/附御膳水 | 下新川郡桜井町 |
191 | 富山県 | 明治天皇三日市行在所阯 | 下新川郡桜井町 |
192 | 石川県 | 明治天皇金沢行在所 | 金沢市南町 |
193 | 石川県 | 明治天皇小松行在所 | 小松市細工町 |
194 | 石川県 | 明治天皇森本御小休所 | 河北郡森本村 |
195 | 石川県 | 明治天皇月津御小休所 | 江沼郡月津村 |
196 | 石川県 | 明治天皇動橋御小休所 | 江沼郡動橋村 |
197 | 石川県 | 明治天皇串茶屋御小休所/附御膳水 | 小松市串茶屋町 |
198 | 福井県 | 明治天皇丸岡行在所 | 丸岡市 |
199 | 福井県 | 明治天皇敦賀行在所 | 敦賀市 |
200 | 福井県 | 明治天皇今庄行在所 | 南条郡今庄村 |
201 | 福井県 | 明治天皇武生行在所 | 南条郡武生町 |
202 | 福井県 | 明治天皇脇本御小休所 | 南条郡南日野村 |
203 | 福井県 | 明治天皇浅水御小休所 | 足羽郡麻生津村 |
204 | 福井県 | 明治天皇湯尾御小休所 | 南条郡湯尾村 |
205 | 福井県 | 明治天皇湯尾峠御小休所阯及建物 | 南条郡湯尾村 |
206 | 福井県 | 明治天皇鯖波御小休所/附御膳水 | 南条郡杣山村 |
207 | 福井県 | 明治天皇新道御小休所 | 南条郡鹿蒜村 |
208 | 福井県 | 明治天皇木ノ芽峠御小休所/附御膳水 | 南条郡鹿蒜村
敦賀郡東郷村 |
209 | 福井県 | 明治天皇樫曲御小休所 | 敦賀郡東郷村 |
210 | 福井県 | 明治天皇刀根御小休所 | 敦賀郡愛発村 |
211 | 福井県 | 明治天皇葉原御小休所 | 敦賀郡東郷村 |
212 | 福井県 | 明治天皇気比松原御野立所 | 敦賀市 |
213 | 山梨県 | 明治天皇菅原行在所 | 北巨摩郡菅原村 |
214 | 山梨県 | 明治天皇上野原行在所 | 北都留郡上野原町 |
215 | 山梨県 | 明治天皇勝沼行在所 | 東山梨郡勝沼町 |
216 | 山梨県 | 明治天皇花咲御小休所 | 北都留郡大月町 |
217 | 山梨県 | 明治天皇円野御小休所 | 北巨摩郡円野村 |
218 | 山梨県 | 明治天皇諏訪御小休所阯 | 北都留郡上野原町 |
219 | 山梨県 | 明治天皇中初狩御小休所 | 北都留郡初狩村 |
220 | 長野県 | 明治天皇長野行在所 | 長野市元善町 |
221 | 長野県 | 明治天皇奈良井行在所 | 西筑摩郡楢川村 |
222 | 長野県 | 明治天皇塩尻峠御野立所 | 東筑摩郡塩尻町 |
223 | 長野県 | 明治天皇馬瀬口御小休所/附御膳水 | 北佐久郡小沼村 |
224 | 長野県 | 明治天皇行幸所開智学校 | 松本市南深志 |
225 | 長野県 | 明治天皇信楽御小休所 | 松本市出川 |
226 | 長野県 | 明治天皇追分行在所 | 北佐久郡西長倉村 |
227 | 長野県 | 明治天皇岩下御小休所 | 小縣郡神川村 |
228 | 長野県 | 明治天皇鼠宿御小休所/附御膳水 | 埴科郡南条村 |
229 | 長野県 | 明治天皇今井御小休所 | 岡谷市今井 |
230 | 長野県 | 明治天皇田子御小休所/附御膳水 | 上水内郡若槻村 |
231 | 長野県 | 明治天皇茅野御小休所 | 諏訪郡宮川村 |
232 | 長野県 | 明治天皇下諏訪御小休所 | 諏訪郡下諏訪町 |
233 | 長野県 | 明治天皇広丘御小休所 | 東筑摩郡廣丘村 |
234 | 長野県 | 明治天皇郷原御小休所 | 東筑摩郡廣丘村 |
235 | 長野県 | 明治天皇妻籠御小休所 | 西筑摩郡吾妻村 |
236 | 長野県 | 明治天皇桜沢御小休所 | 西筑摩郡楢川村 |
237 | 長野県 | 明治天皇寝覚御小休所 | 西筑摩郡上松町 |
238 | 長野県 | 明治天皇原御小休所 | 更級郡中津村 |
239 | 長野県 | 明治天皇須原行在所 | 西筑摩郡大桑村 |
240 | 長野県 | 明治天皇峠町御小休所 | 北佐久郡軽井沢町 |
241 | 長野県 | 明治天皇宮ノ越御小休所/附御膳水 | 西筑摩郡日義村 |
242 | 岐阜県 | 明治天皇岐阜行在所 | 岐阜市西野町 |
243 | 岐阜県 | 明治天皇大井行在所 | 恵那郡大井町 |
244 | 岐阜県 | 明治天皇垂井御小休所 | 不破郡垂井町 |
245 | 岐阜県 | 明治天皇関ヶ原御小休所/附御膳水 | 不破郡関ヶ原町 |
246 | 岐阜県 | 明治天皇釜戸行在所/附御膳水 | 土岐郡釜戸村 |
247 | 岐阜県 | 明治天皇中津川行在所/附御膳水 | 恵那郡中津町 |
248 | 岐阜県 | 明治天皇茄子川御小休所/附御膳水 | 恵那郡坂本村 |
249 | 岐阜県 | 明治天皇落合御小休所/附御膳水 | 恵那郡落合村 |
250 | 岐阜県 | 明治天皇土岐御小休所 | 土岐郡土岐町 |
251 | 岐阜県 | 明治天皇高山御小休所 | 土岐郡土岐津町 |
252 | 岐阜県 | 明治天皇竹折御小休所 | 恵那郡武並村 |
253 | 岐阜県 | 明治天皇大垣行在所 | 大垣市竹島町 |
254 | 静岡県 | 明治天皇興津行在所 | 庵原郡興津町 |
255 | 静岡県 | 明治天皇掛川行在所 | 小笠郡掛川町 |
256 | 静岡県 | 明治天皇新居行在所及旧阯 | 引佐郡奥山村
浜名郡新居町 |
257 | 静岡県 | 明治天皇島田行在所 | 志太郡島田町 |
258 | 静岡県 | 明治天皇舞阪御小休所 | 浜名郡舞阪町 |
259 | 静岡県 | 明治天皇静岡行在所 | 静岡市追手町 |
260 | 静岡県 | 明治天皇由比御小休所 | 庵原郡由比村 |
261 | 静岡県 | 明治天皇三ツ谷新田御小休所 | 三島市 |
262 | 静岡県 | 明治天皇中野町御小休所阯 | 浜名郡中ノ町 |
263 | 静岡県 | 明治天皇三島行在所阯 | 三島市 |
264 | 静岡県 | 旧静岡御用邸 | 静岡市追手町 |
265 | 愛知県 | 明治天皇名古屋大本営 | 名古屋市中区下茶屋町 |
266 | 愛知県 | 明治天皇八町畷御野立所 | 名古屋市南区熱田東町 |
267 | 愛知県 | 明治天皇半田大本営及旧阯 | 半田市 |
268 | 愛知県 | 明治天皇長尾山御野立所 | 知多郡武豊町 |
269 | 愛知県 | 明治天皇雁宿御野立所 | 半田市 |
270 | 愛知県 | 明治天皇乙川御野立所 | 半田市亀崎町 |
271 | 愛知県 | 明治天皇福田行在所 | 海部郡南陽村 |
272 | 愛知県 | 明治天皇下津御小休所 | 中島郡稲沢町 |
273 | 愛知県 | 明治天皇東阿野御小休所 | 愛知郡豊明村 |
274 | 愛知県 | 明治天皇八事御野立所 | 愛知郡天白村 |
275 | 愛知県 | 明治天皇豊橋行在所 | 豊橋市関屋町 |
276 | 愛知県 | 明治天皇清水御小休所 | 名古屋市東区清水町 |
277 | 愛知県 | 明治天皇武豊御小休所 | 知多郡武豊町 |
278 | 愛知県 | 明治天皇黒田御小休所 | 葉栗郡木曽川町 |
279 | 愛知県 | 明治天皇前ヶ須御小休所 | 海部郡弥富町 |
280 | 愛知県 | 明治天皇西蜆御小休所 | 海部郡十四山村 |
281 | 愛知県 | 明治天皇下原新田御小休所 | 東春日井郡篠木村 |
282 | 愛知県 | 明治天皇佐屋行在所阯及建物 | 海部郡佐屋村
海部郡津島町 |
283 | 三重県 | 明治天皇鳥羽行在所 | 志摩郡鳥羽町 |
284 | 三重県 | 明治天皇一身田行在所 | 河藝郡一身田町 |
285 | 三重県 | 明治天皇関行在所 | 鈴鹿郡関町 |
286 | 三重県 | 明治天皇桑名行在所 | 桑名市今一色寺町 |
287 | 三重県 | 明治天皇神戸行在所 | 河藝郡神戸町 |
288 | 三重県 | 明治天皇椋本御小休所 | 河藝郡椋本村 |
289 | 三重県 | 明治天皇中山御小休所 | 河藝郡栗真村 |
290 | 三重県 | 明治天皇八幡御小休所 | 津市八幡町 |
291 | 三重県 | 明治天皇津行在所 | 津市大字乙部 |
292 | 滋賀県 | 明治天皇土山行在所/附御膳水 | 甲賀郡土山町 |
293 | 滋賀県 | 明治天皇六地蔵御小休所 | 栗太郡葉山村 |
294 | 滋賀県 | 明治天皇別所行幸所 | 大津市別所 |
295 | 滋賀県 | 明治天皇草津行在所 | 栗太郡草津町 |
296 | 滋賀県 | 明治天皇木之本行在所 | 伊香郡木之本町 |
297 | 滋賀県 | 明治天皇柳ヶ瀬行在所 | 伊香郡片岡村 |
298 | 滋賀県 | 明治天皇高宮行在所 | 犬上郡高宮町 |
299 | 滋賀県 | 明治天皇長浜行在所 | 坂田郡長浜町 |
300 | 滋賀県 | 明治天皇武佐行在所 | 蒲生郡武佐村 |
301 | 滋賀県 | 明治天皇鳥居川御小休所 | 大津市石山鳥居川町 |
302 | 滋賀県 | 明治天皇長沢御小休所 | 坂田郡法性寺村 |
303 | 滋賀県 | 明治天皇愛知川御小休所 | 愛知郡愛知川町 |
304 | 滋賀県 | 明治天皇北町屋御小休所 | 神崎郡旭村 |
305 | 滋賀県 | 明治天皇中之郷御小休所 | 伊香郡余呉村 |
306 | 滋賀県 | 明治天皇鳥居本御小休所 | 坂田郡鳥居本村 |
307 | 滋賀県 | 明治天皇磨針峠御小休所 | 坂田郡鳥居本村 |
308 | 滋賀県 | 明治天皇番場御小休所 | 坂田郡息郷村 |
309 | 滋賀県 | 明治天皇大津別院行在所 | 大津市笹屋町 |
310 | 滋賀県 | 明治天皇守山御小休所 | 野洲郡守山町 |
311 | 京都府 | 明治天皇行幸所木戸邸 | 京都市中京区末丸町 |
312 | 京都府 | 明治天皇行幸所本願寺 | 京都市下京区本願寺門前町 |
313 | 京都府 | 明治天皇妙法院行在所 | 京都市東山区妙法院前側町 |
314 | 京都府 | 明治天皇御小休所安楽寿院 | 京都市伏見区竹田内畑町 |
315 | 京都府 | 明治天皇御小休所枳殻邸 | 京都市下京区下珠数屋町 |
316 | 京都府 | 明治天皇御小休所本願寺旧大教校 | 京都市下京区御器屋町 |
317 | 大阪府 | 明治天皇津村別院行在所 | 大阪市東区本町 |
318 | 大阪府 | 明治天皇難波別院行在所 | 大阪市東区北久太郎町 |
319 | 大阪府 | 明治天皇天保山御野立所 | 大阪市港区二条通 |
320 | 大阪府 | 明治天皇堺行在所 | 堺市中之町 |
321 | 大阪府 | 明治天皇守口行在所及内侍所奉安所阯 | 北河内郡守口町、浜之町 |
322 | 大阪府 | 明治天皇岸和田行在所 | 岸和田市岸城町 |
323 | 大阪府 | 明治天皇泉布観行在所 | 大阪市北区新川崎町 |
324 | 兵庫県 | 明治天皇姫路行在所 | 姫路市池内町 |
325 | 兵庫県 | 明治天皇明石行在所 | 明石市鍛治屋町 |
326 | 兵庫県 | 明治天皇行幸所旧岩倉邸建物 | 神戸市葺合区葺合町 |
327 | 兵庫県 | 明治天皇舞子大本営 | 明石郡垂水町 |
328 | 兵庫県 | 明治天皇正條行在所 | 揖保郡神部村 |
329 | 兵庫県 | 明治天皇御着御小休所 | 飾磨郡御国野村 |
330 | 兵庫県 | 明治天皇阿弥陀御小休所 | 印南郡阿弥陀村 |
331 | 兵庫県 | 明治天皇須磨御小休所 | 神戸市須磨区須磨浦通 |
332 | 兵庫県 | 明治天皇山田御小休所 | 揖保郡太田村 |
333 | 兵庫県 | 明治天皇土山御小休所 | 加古郡平岡村 |
334 | 兵庫県 | 明治天皇大久保御小休所阯及建物 | 明石郡大久保町 |
335 | 兵庫県 | 明治天皇御小休所旧神戸税関監視部阯及建物 | 神戸市海岸通二丁目、山本通五丁目 |
336 | 奈良県 | 明治天皇奈良行在所 | 奈良市雑司町 |
337 | 奈良県 | 明治天皇奈良大本営 | 奈良市春日野町 |
338 | 奈良県 | 明治天皇今井行在所 | 高市郡今井町 |
339 | 奈良県 | 明治天皇田原本行在所 | 磯城郡田原本町 |
340 | 岡山県 | 明治天皇御休御野立所 | 上道郡御休村 |
341 | 岡山県 | 明治天皇岡山行在所 | 岡山市古京町 |
342 | 岡山県 | 明治天皇三石行在所 | 和気郡三石町 |
343 | 岡山県 | 明治天皇眞金御小休所及御講評所 | 吉備郡眞金町 |
344 | 岡山県 | 明治天皇香登御小休所 | 和気郡香登町 |
345 | 岡山県 | 明治天皇八木山御小休所阯 | 和気郡三石町 |
346 | 岡山県 | 明治天皇宍甘御野立所 | 上道郡古都村 |
347 | 岡山県 | 明治天皇西岡御野立所/附御膳水 | 都窪郡菅生村 |
348 | 岡山県 | 明治天皇惣爪御野立所 | 都窪郡加茂村 |
349 | 広島県 | 明治二十七八年戦役広島大本営 | 広島市基町 |
350 | 広島県 | 明治天皇広島行在所 | 広島市基町 |
351 | 広島県 | 明治天皇草津御小休所阯 | 広島市草津東町 |
352 | 広島県 | 明治天皇行幸所浅野泉邸 | 広島市上流川町 |
353 | 山口県 | 明治天皇山口行在所/附御膳水 | 山口市上宇野令 |
354 | 山口県 | 明治天皇三田尻行在所 | 防府市 |
355 | 山口県 | 明治天皇多々良行在所 | 防府市 |
356 | 山口県 | 明治天皇大内御小休所 | 吉敷郡大内村 |
357 | 山口県 | 明治天皇行幸所六連島燈台 | 下関市 |
358 | 山口県 | 明治天皇長府行在所 | 下関市 |
359 | 山口県 | 明治天皇鯖山峠御小休所阯 | 佐波郡右田村 |
360 | 山口県 | 明治天皇問屋口御小休所阯 | 防府市新田村 |
361 | 山口県 | 明治天皇小鯖御小休所阯 | 吉敷郡小鯖村 |
362 | 山口県 | 明治天皇萩ノ尾御小休所阯 | 下関市椋野 |
363 | 山口県 | 明治天皇勝坂御小休所 | 佐波郡右田村 |
364 | 香川県 | 明治天皇丸亀行在所阯及び建物 | 丸亀市一番丁 |
365 | 香川県 | 明治天皇丸亀御上陸並御乗艦地 | 丸亀市西平山町 |
366 | 福岡県 | 明治天皇久留米大本営 | 久留米市両替町、京町、条山町 |
367 | 福岡県 | 明治天皇久留米行在所 | 久留米市南薫西町 |
368 | 福岡県 | 明治天皇岡山御野立所 | 八女郡岡山村 |
369 | 福岡県 | 明治天皇藤田御野立所 | 八女郡下広川村 |
370 | 福岡県 | 明治天皇小森野御野立所 | 久留米市東櫛原町 |
371 | 福岡県 | 明治天皇荒木行在所及御講評所 | 三潴郡荒木村 |
372 | 長崎県 | 明治天皇行在所小菅修船場阯 | 長崎市小菅町 |
373 | 熊本県 | 明治天皇小島行在所 | 飽託郡小島町 |
374 | 熊本県 | 明治天皇御幸御野立所 | 飽託郡御幸村 |
375 | 熊本県 | 明治天皇豊福御野立所 | 下益城郡豊福村 |
376 | 鹿児島県 | 明治天皇行在所磯島津別邸集成館及異人館 | 鹿児島市吉野町 |
377 | 鹿児島県 | 明治天皇行在所船形台場 | 鹿児島市鹿児島港新波止場 |
聖蹟と地域との関わりの事例
[編集]明治天皇聖蹟に関する地域史研究としては、高木博志が奈良県の[33]、北原糸子が東京府の[34]、寺嵜弘康が神奈川県の[35]、小田部雄次が静岡県の事例をとりあげている[13]。また打越孝明が各地域の事例を調査研究している[36]。
明治天皇聖蹟保存運動は熱狂を帯びて時代の気分に作用された国民の動きであった[31]。地方名望家層が積極的に動いた[16]。明治天皇の足跡には明治以後の皇室と地域との関係が集約されている[14]。本節ではこのような観点にもとづいて、聖蹟と地域との関わりが分かる事例をいくつか挙げる。網羅するものではない。
聖蹟桜ヶ丘
[編集]東京郊外の京王線聖蹟桜ヶ丘駅の駅名は、明治天皇の行幸があったことに由来する。明治天皇は1881年2月に初めて連光寺村(現・多摩市内、聖蹟桜ヶ丘駅近郊)へ行幸した[37]。これに対応したのが、連光寺村の旧名主であった富澤政恕と、その長男の政賢であった[38]。明治天皇は富澤家住宅で昼食をとり、付近の山々で兎狩りを観覧した[39]。宮内省はこの地を御猟場に指定し、富澤政恕らに運営を命じた。明治天皇は4度にわたってこの地へ行幸し、兎狩や鮎漁を観るなどして楽しんだ[37]。
明治天皇崩御後の1917年に御猟場が廃止された後は、政恕の長男・富澤政賢らが跡地を自然公園とする計画などを進めた。この運動に元宮内大臣の田中光顕が加わることになる[37]。その背景には京王電気軌道(現京王電鉄)の資金援助・協力を得て聖蹟を中心とする観光開発構想があった。多摩御陵への参拝者を視野に入れ多摩一帯を東京郊外の観光地として開発する目論見であった[40]。
1928年4月8日、聖蹟奉頌連光会を設立した。田中光顕を名誉会長とする団体で、会の目的は、多摩村連光寺において「聖蹟を永遠に保存し、その洪大なる余光・余声の跡をあまねく国民に周知せしめ、もって聖徳の奉頌・尊皇心の涵養に資せんことを期す」とされた[41]。翌年5月、対鴎荘という古屋敷を当地の向ノ岡へ移築した。この対鴎荘は、もと太政大臣三条実美別邸で、隅田川の西岸に建っていた。ここで療養していた三条実美を明治天皇が見舞いに来たという由緒があった[42]。
明治天皇の騎馬像を制作し、これを安置する記念館を大松山(現・桜ヶ丘公園)に建設することになった[38]、騎馬像は、明治天皇が初めて当地を訪れた時の姿をモチーフにして、渡辺長男が制作した。多摩聖蹟記念館は1930年6月に竣工した。関根要太郎と蔵田周忠が設計した近代式鉄筋コンクリート造りの円形大殿堂であった[43]。同年11月9日、開館式を挙行した日、聖蹟奉頌連光会を多摩聖蹟記念会へ改称した[44]。多摩聖蹟記念会は財団法人として、対鴎荘をも管理し、これを一般に公開した[45]。
1933年、対鴎荘が「明治天皇行在所対鴎荘及旧阯」の一部として国の史蹟に指定された。同時に富澤家住宅も「明治天皇連光寺御小休所」として国の史蹟に指定された[46]。それぞれ文部省史蹟調査報告書『明治天皇聖蹟』に掲載された[42][47]。1937年、当地付近の関戸駅が聖蹟桜ヶ丘駅へ改称された[40]。
戦後占領下1948年、対鴎荘と富澤家住宅は全国の明治天皇聖蹟とともに国の史跡指定を解除された[48]。対鴎荘は、風雅な料亭になったが、やがて老朽化して閉店した[49]。1988年、土地開発のため取り壊された[50]。跡地の高台の一角に整備された公園は、対鴎荘にちなんで「対鴎台公園」と命名された[50]。もう一つの指定聖蹟であった富澤家住宅は、1990年5月に多摩市へ寄贈され、多摩中央公園に復元・移築された[51]。多摩聖蹟記念館は、1970年代にテレビの特撮番組で悪のアジトなどとして度々登場した[52]。やがて老朽化が進み、取り壊しも検討された[53]。1986年には多摩市が改修・管理・運営することになった[52]。記念館は明治天皇の行幸を記念する場所から「桜ヶ丘公園を訪れた人々の憩いの場」へ生まれ変わった。館名に「旧」の字をつけて「旧多摩聖蹟記念館」の名で生きのびた[53]。
きみまち阪と初雁の御歌
[編集]秋田県能代市二ツ井町にきみまち阪県立自然公園がある。明治天皇は1881年の巡幸で当地を訪れた[54]。公園の山の中腹に「明治天皇御休巖」碑と「明治天皇御賜名 徯后阪」碑が並んでいる[55]。
現地の言い伝えによると、この地で休憩中の天皇に一首の和歌が渡された、それは夏の長旅を行く天皇を気づかう皇后の御歌であった[56]、皇后からの手紙が先に到着して天皇を待っていたのである、天皇はこの地を「徯后阪(きみまちざか)」と命名した、というエピソードがあったと言われる[54]。国土交通省の発表資料も「風光明媚とうたわれている『きみまち坂』の名は、明治十四年の明治天皇東北巡行の折、皇后から届いた和歌をこの地で読まれたことに由来する」と断言している[57]。現地に立つ「昭憲皇太后御歌」碑に「大宮の うちにありても あつき日を いかなる山か 君はこゆらむ」の御歌が刻まれている[56]。皇后からの手紙は巡幸中の天皇へ寄せた恋文そのものであったということで「恋文ポスト」「恋文神社」「きみまちの鐘」などがつくられている。公園一帯が全国有数のパワースポットなのだという[54]。
言い伝えと史実とは異なる。明治天皇紀によると、明治14年(1881年)9月12日、明治天皇はこの地に巡幸し、交通の難所の加護山を越えた。御輿が通った道は加護山を開削して前年9月に完成したばかりの新道だった。巡幸の数日後、秋田県令石田英吉はこの新道に名称を賜りたいと請願した。天皇はこの新道を「徯后坂(きみまちざか)」と命名し、同月21日、宮内大輔杉孫七郎を通じて口達した。徯后の語はおそらく書経太甲に「徯我后后来無罰」とあるのを典拠とすると明治天皇紀は推定している[58]。これは「わが后を待て。后が来たら罰(禍)がなくなる」という意味であり、ここで「后」とは王のことである(皇后のことではない)。具体的には殷王朝初代の湯王を指す[59]。
公園の現地案内板によると「徯后阪」の「后」とは「天子様」(明治天皇本人)のことである。この地に坂道を切り開いた地元民は「我が后を徯つ(わがきみをまつ)」、すなわち「ここに天子様の行幸があれば大変ありがたいのだがなあ」と思った。明治天皇は巡幸中この坂で休んだ。日頃の念願がかなった地元民は喜び、大勢で丁重に天皇を迎えた。天皇は見事な景観と篤実な民情を誉め、この坂道を「徯后阪」と命名した。のち、この地に公園をつくることになり大正11年(1922年)春に起工し、翌年秋に竣工した[60]。頂戴した有り難い名称にちなんで「徯后阪公園」と名づけた。以上のように解説されている[60]。
きみまち阪の歌碑に刻まれた「大宮の うちにありても ~」の御歌は、当地への行幸の3年前、天皇が北陸を巡幸していたころに皇后が詠んだものである(きみまち阪とは関係ない)。皇后の公刊御集にはこの御歌と同じころに詠まれた「はつかりを まつとはなしに この秋は 越路(こしぢ)のそらの ながめられつつ」という御歌が載っている[61]。この御歌は北陸巡幸中の天皇のもとへ届けられたことで知られる[62]。
1878年9月26日午後5時半ごろ天皇が新潟県糸魚川の池原邸へ到着する、その前に皇后の御歌は届いていた。この時期、雁の群れが越冬に備えて北の大陸から日本に飛んで来ていた。東京で雁の飛ぶ姿を見た皇后は、天皇の巡幸する越後路の方角の空が気になった。旅先の天皇を想う皇后の優しい心遣いが偲ばれる、という有名なエピソードである。聖徳記念絵画館壁画「初雁の御歌」は、皇后が巡幸中の天皇を偲びつつ皇居の庭を散策する姿を描いている。初雁の御歌が届いた糸魚川行在所は、近くの水前神社に移築され、今も保存されているとも[62]、改築されたので残っていないともいう[63]。
第1回陸海軍聯合大演習統監地
[編集]愛知県半田市の雁宿公園(雁宿町3丁目)は公園全体が明治天皇ゆかりの地である。園内に「明治天皇雁宿御野立所」碑、「明治天皇半田大本営」碑、「明治天皇駐蹕碑」が建っている[64]。同市内の乙川白山公園(乙川源内林町1丁目)は園内に「駐蹕御趾」碑、「明治天皇御統監四十周年記念碑」、「明治天皇乙川御野立所」碑が建っている。各碑の脇に乙川白山公園聖跡保存会が説明板を建てている[65]。
大演習統監
[編集]1890年3月30日から4日間、第1回陸海軍聯合大演習が愛知県の半田と西三河一帯で行われた。この大演習は日本の軍事力を世界に示すために計画された[64]。陸海軍は西軍(侵入軍)と東軍(日本軍)の両軍に分かれ[66]、両軍艦隊が伊勢湾と衣ヶ浦湾で海戦を行い、侵入軍が武豊に上陸して東進し、これを阻もうとする日本軍との間で阿久比川を挟んで攻防戦を繰り広げるという流れであった[64]。
明治天皇は大演習統監のため愛知県下に行幸し、まず大本営を真宗大谷派名古屋別院に置き、戦機の進展に伴い半田町に大本営を移した[67]。天皇の宿泊所は半田大本営と呼ばれ、大富豪小栗富次郎の邸宅に置かれた。天皇は3月30日ここに宿泊し、翌31日に乙川と雁宿で大演習を統監した[64]。
天皇はこの日午前8時30分、愛馬金華山に乗り、半田大本営を出発した。参謀総長熾仁親王・内閣総理大臣・陸海軍全幕僚らが天皇に陪従した。前夜から大雨が降り、朝からますます激しくなった。天皇は少しも厭わず風雨を冒し、道路の泥濘を気にせずに馬を縦横に馳せらせて演習を観覧した。初め天皇が半田大本営を出発して演習地に向かうと、供奉の文武諸官はいずれも豪雨と泥濘とに阻まれて天皇についていけず、熾仁親王が一人で随従した。天皇は親王とともに乙川村を一旦過ぎ、戻って来て乙川村の白山社境内に到ってここで観戦した[68]。
この間の事情について村民の伝えるところによれば、天皇は、馬を進めていくうちに砲声が次第に遠ざかったので、道端の農夫に命じて観戦に便宜な場所へ案内させた。農夫は天皇を白山社境内の台地に導いた。農夫は相手の貴人が天皇であるとは知らなかった。飲み物を求められたので山下の清光庵に行って茶を携えて戻ると、既に文武諸臣が天皇の左右に集まっていた。農夫は近づくことを許されず、事情を述べて侍従の手を経て茶を差し上げた。それで相手が天皇であることを知り、驚き畏み退いたという[68]。
時に雨勢は盆を覆すようだった。天皇は外套を着ていたが頭巾を用いず、雨水が滴って服を濡らした。侍従が天皇に手拭いを渡すと、天皇は左手で帽子を傾け、右手で顔を拭った。侍従が手拭いを受けて絞ると雨水が瀧のようだった。天皇は馬から降り、雨中に立って統監すること数十分であった。天皇は乙川台より半田町雁宿山の高地に馬を進めた。時に雨が止んだり降ったりした。天皇は顔に注ぐ雨を手ずから払いつつ両軍交戦の状況を統監した[68]。統監を終えて半田大本営に戻り、昼食をとって名古屋に向かった[67]。
当時官報に掲載された記事によると、天皇は前日から軍艦に乗って海戦を統監していたので疲労していたはずだが、午前8時30分から11時30分まで少しも休まず雨中に統監の労を執った。これを拝観した多数の臣民は「三軍の労苦を分かち遊ばせらるる至仁・至聖・允文・允武の盛徳には感泣悦服せざる者あらざりけり」ということだった[69]。豪雨の中、頭巾も被らず演習を統監した明治天皇の勇姿は国定教科書に掲載され、全国に知れ渡った[64]。たとえば1920年文部省発行「尋常小学修身書 児童用 巻四」では「明治二十三年愛知県で大えんしふのあつた時、明治天皇ははげしい雨のふるなかで、へいしと同じやうに御ずきんもめされずに御統監になりました」という記述であった[70]。
半田大本営と野立所
[編集]半田大本営は当時半田町北条にあり、小栗富次郎の所有であったが、1912年10月中野家の手に渡り、1915年4月中野産業合資会社の所有となった。1930年10月、半田大本営の建物は半田町が寄附を受け、半田町雁宿の水道用敷地内に移築・保有した[67]。明治天皇の宿泊部屋を1934年5月に現在地(雁屋公園内)へ移築した[64]。
乙川における野立所は、当時、俗に白山と呼ばれる丘陵上の官有地山林で、元は白山社の境内であった[71]。大演習の翌年、乙川村小学校の林和三郎校長は、白山台上に「駐蹕御趾」と記した標柱を建て11月3日天長節(明治天皇誕生日)に建標式を行った。1896年林校長は国家的大行事がここで行われたことを後世に永久に残そうと建碑を提案し、村民有志から募った寄付金により1902年8月に「駐蹕御趾」碑を建立した。題字は勝海舟の書、碑陰は林校長の撰文である。1930年11月、明治天皇統監40周年を記念して「誓いの御柱」を建立した。塔の部分に五箇条の御誓文が記された。台座の部分は正面に「弥栄」、左回りに「天晴れ」「あな面白」「あな手伸」「あな明けおけ」の文字が記された[65]。琵琶湖多景島の巨大な誓之御柱と同型で、その縮小版であった[72]。
誓いの御柱は、東京帝国大学法学部教授の筧克彦の奇抜な神道思想に基づく柱塔である。誓いの御柱を建立した大日本弥栄会は筧の教え子たちが結成した団体で、会長は皇族落胤二荒伯爵家の二荒芳徳であった。当地域には1927年に知多支部が組織され、明治天皇が大演習を統監した地域のアイデンティティとして明治の精神に立ち返ろうという機運が生じていた。誓いの御柱は、1927年に半田町外成岩運動山で、1928年に知多高等女学校で建立された。続いて1930年に亀崎町(旧乙川村)で建立された[72]。明治天皇統監40周年を記念して乙川白山の野立所に建立されたのである[65]。全国で建立された7柱の誓いの御柱のうち3柱が当地域に集中していた[72]。
雁宿における野立所は、半田町(当時)の西郊の標高40メートルの丘の上にあった[73]。1913年、明治天皇の演習統監を記念して公園として整備された(現雁宿公園北エリア)[74]。半田町有公園地の一角の「明治天皇駐蹕碑」は同年7月付けの股野琢の撰文・書によるもので[73]、同11月に建立された[64]。
史蹟指定と解除とその後
[編集]半田大本営関連では、「明治天皇半田大本営及旧阯」が1933年11月2日に、「明治天皇乙川御野立所」と「明治天皇雁宿御野立所」が1934年11月1日に、それぞれ国の史蹟に指定された[75]。3件とも文部省史蹟調査報告書『明治天皇聖蹟』に掲載された[76]。史蹟指定を記念して1935年3月に「明治天皇乙川御野立所」碑を建立した。題字は内閣総理大臣斎藤実の書であった[65]。同年「明治天皇雁宿御野立所」碑を建立した[64]。
戦後占領下1948年、当地の3件の聖蹟は全国の聖蹟とともに国の史跡指定を解除された[26]。
乙川の野立所周辺は、1969年に乙川白山公園として整備された。乙川白山の頂上附近に八幡社と併設された、自然を多く残す公園になっている[77]。明治天皇の大演習統監を記念した3つの碑には、2014年以降、それぞれ乙川白山公園聖跡保存会が説明板を建てている[65]。
各地に残る聖蹟公園の例
[編集]本節では明治天皇の足跡を顕彰する公園、あるいは少なくとも公園名に「聖蹟」「行在所」「御幸」「御野立」など天皇の足跡を偲ばせる意味を込めた公園を例示する。単に石碑が残されているだけの場所などは割愛する。たとえば、東京都立桜ヶ丘公園は、園内に旧多摩聖蹟記念館が立地するが、館名にあえて「旧」の字を冠しているのは館の運営目的が当初の聖蹟記念から変わったことを示すためであるとされるので[78]、本節では扱わない。
聖蹟公園。東京都品川区北品川2-7-21。東海道品川宿本陣跡である。1868年の明治天皇東幸時に行在所となった。1872年宿駅制度廃止後は警視庁品川病院となっていたが、1938年に公園として整備された。明治天皇行在所にちなみ「聖蹟公園」と名づけられた。園内には東京市長の撰文にかかる「聖蹟公園由来の碑」「聖徳の碑」「御聖蹟の碑」などがある[79]。
聖蹟蒲田梅屋敷公園。東京都大田区蒲田本町2-1-1。もとの梅屋敷は江戸時代に東海道の休み茶屋としてつくられ、梅の名所として賑わった。明治時代には明治天皇がここを気に入って9回訪れたと記録される[80]。1948年に指定解除された史跡377件中に「明治天皇行幸所蒲田梅屋敷」がある[32]。規模縮小し、1953年より太田区立公園となった[80]。
明治天皇記念碑公園。茨城県牛久市女化町101-1。面積1,452平方メートル[81]。「明治天皇駐蹕之地」の石碑が立つ[82]。石碑は1884年12月8日女化原で行われた近衛師団の大演習を明治天皇が観戦した事と場所とを記念して建立された。1997年に地元の女性が寄贈した[83]。
行在所公園。群馬県高崎市新町2825-1。隣接する明治天皇新町行在所は、1878年の北陸・東海道の巡幸のおりに明治天皇の行在所として新築された。国立新町屑糸紡績所への行幸時に宿泊した所であった[84]。
御幸公園。神奈川県川崎市幸区東古市場1。国道1号線と多摩川河川敷に面した公園である。昭和25年4月1日開設。面積30,028平方メートル、明治天皇行幸の記念碑が梅林内に立つ[85]。明治時代、当地の小向村には多くの梅の木が植えられ「小向梅林」と呼ばれていた。1884年、明治天皇は小向梅林を観て楽しんだ。1931年に「明治天皇臨幸御観梅跡碑」を建立した[86]。
塩嶺御野立公園。長野県岡谷市10016-149[87]、塩尻峠。1880年に明治天皇が塩尻峠に立ち寄ったことを記念して1906年に「聖駕駐蹕記」碑を建立した。有栖川宮威仁親王による篇額、股野琢による撰文ならびに書。近くに「明治天皇御野立所」碑も建てられた[88]。1948年に指定解除された史跡377件中に「明治天皇塩尻峠御野立所」がある[32]。記念碑の前で塩嶺御野立記念祭が行われている。明治天皇の訪れた6月24日と、昭和天皇の訪れた10月14日とを記念して、毎年両日、明治天皇が訪れた時間にあわせて午前10時に参列者一同一礼をする祭礼である。(1) 整列、(2) 一同一礼、(3) 解散、と20秒ほどで終わる。日本一短い祭として知られる[88]。
御野立公園。新潟県柏崎市東の輪町、同市鯨波2丁目。明治天皇が北陸巡幸のおり立ち寄った。明治天皇御行幸の記念碑が立つ[89]。
明治天皇御休所公園。石川県能美郡川北町橘。1878年10月5日、明治天皇が北陸を巡幸した際、手取川を渡る前に木呂場(ころば)の茶屋で休憩したところを公園として整備した[90]。
おあがり場公園。広島県廿日市市阿品1-10。1885年、明治天皇が宮島に渡って厳島神社を参拝した帰りに上陸した場所である。地元民は明治天皇上陸地を地域で最も神聖な場所として大切し、この地の清掃と敬礼を欠かさなかったと伝えられる[91]。
関連項目
[編集]- 明治天皇
- 御野立所
- 旧多摩聖蹟記念館、聖蹟桜ヶ丘駅、京王聖蹟桜ヶ丘ショッピングセンター(東京都多摩市)
- 明治天皇御駐輦碑(福井県福井市)
- 明治天皇駐蹕御趾(愛知県半田市)
- 明治天皇駐蹕之処の碑(千葉県船橋市)
- 塩嶺御野立記念祭(長野県の塩尻峠)
- 旧芝離宮恩賜庭園(東京都港区)
- 聖蹟蒲田梅屋敷公園(東京都大田区)
- 小泉本店(広島市西区)
- きみまち阪(秋田県能代市二ツ井町)
石碑ギャラリー
[編集]-
福島県半田銀山史跡公園「明治天皇行幸記念碑」
-
茨城県牛久市「明治天皇駐蹕之碑」
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茨城県牛久市「明治天皇駐蹕之地 記念石碑公園」
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千葉県習志野「明治天皇駐蹕之処」
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千葉県習志野「明治天皇駐蹕之処」
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東京都目黒区立菅刈公園「明治天皇行幸所西郷邸」
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東京都杉並区「明治天皇荻窪小休所跡」
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横浜市保土ケ谷区橘樹神社「明治天皇東幸遺蹟碑」
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小田原市宮ノ前「明治天皇小田原行在所址」
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新潟県長岡市「明治天皇行在所蹟」
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甲府城跡「明治天皇御登臨之址 山梨県」
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富山県高岡市役所構内「明治天皇高岡行在所阯碑」
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東本願寺名古屋別院「明治天皇行在所旧址」
-
愛知県半田市「駐蹕御趾」勝海舟書
-
奈良県称念寺 (橿原市)「明治天皇駐蹕之処」
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 北原 (2005) 309-317頁の表7による。ただし同論文は、「1933年以前に指定された明治天皇聖蹟」として、北海道森行在所(1922年11月2日指定)と広島大本営(1926年10月20日指定)を挙げているが(同論文302頁及び307頁)、森行在所の史蹟指定は、正しくは1922年ではなく1936年である。また、同論文には「森行行在所」とあるが、「森行在所」が正当である。以下の資料を参照。昭和11年11月2日文部省告示第349号(参照:国立国会図書館デジタルコレクション)。文部省編『指定史蹟名勝天然記念物』、1937、p.9(参照:国立国会図書館デジタルコレクション)。
出典
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- 文化庁『文化財保護法五十年史』ぎょうせい、2001年
- 朴晋雨「明治天皇の『聖蹟』保存について」『歴史評論』478、1990年。
- 明治天皇聖蹟保存会『明治天皇行幸年表』大行堂、1933年 。
- 文部省『史蹟調査報告 第8輯 明治天皇聖蹟』文部省、1935年 。
- 文部省『史蹟調査報告 第9輯 明治天皇聖蹟』文部省、1936年 。
- 文部省『史蹟調査報告 第10輯 明治天皇聖蹟』文部省、1937年 。
- 文部省『史蹟調査報告 第11輯 明治天皇聖蹟』文部省、1938年 。
- 文部省編『指定史蹟名勝天然記念物』、1937、p.9(参照:国立国会図書館デジタルコレクション)