日露和親条約
日本国魯西亜国通好条約 | |
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日露和親条約の原文(外務省外交史料館蔵) | |
通称・略称 | 日露和親条約、日露通好条約、下田条約、日魯通好条約[1]、日魯和親条約 |
署名 | 1855年2月7日(安政元年12月21日)[2] |
署名場所 | 伊豆国 下田 |
発効 | 1856年12月7日(安政2年11月10日)[2] |
現況 | 失効 |
失効 | 1895年9月10日(日露通商航海条約発効)[2][3] |
締約国 |
日本 ロシア帝国 |
主な内容 | 下田・箱館・長崎の開港、択捉・得撫両島間を国境とする、樺太は両国人雑居地とし境界を定めない |
関連条約 | 日米和親条約、日英和親条約、日蘭和親条約 |
ウィキソース原文 |
日露和親条約、日魯通好条約(にちろわしんじょうやく、にちろつうこうじょうやく露: Симодский трактат)は、日本とロシア帝国の間で締結された条約。安政元年12月21日(1855年2月7日)[4]、伊豆国下田[5](現・静岡県下田市)長楽寺において締結された。日本(江戸幕府)側全権は大目付格筒井政憲と勘定奉行川路聖謨、ロシア側全権は提督エフィム・プチャーチン。
本条約によって、蝦夷地に国境が引かれた[6]。東は、択捉島と得撫島の間の択捉海峡とされ、北は北蝦夷地(樺太、サハリン島)が国境未画定とされた[6][5](日露国境)。樺太はこれまで通り両国民の混住の地と定められた[5][注釈 1]。
条約の正式名称は、日本国魯西亜国通好条約[注釈 2](にっぽんこくろしあこくつうこうじょうやく)である。日露通好条約、下田条約、日魯通好条約[4][1]とも呼ばれ、また条約締結当時の日本では日魯和親条約と表記していた。
この条約は1895年(明治28年)に締結された日露通商航海条約によって領事裁判権をはじめ全て無効となった。
主な内容
[編集]- 千島列島における、日本とロシアとの国境を択捉島と得撫島の間とする
- 樺太においては国境を画定せず、これまでの慣習のままとする
- ロシア船の補給のため箱館(函館)、下田、長崎の開港(条約港の設定)
- ロシア領事を日本に駐在させる
- 裁判権は双務に規定する
- 片務的最恵国待遇
本条約では最恵国待遇条項は片務的であったため、3年後の安政5年(1858年)に締結された日露修好通商条約で双務的なものに改められた。
樺太国境交渉
[編集]条約交渉開始時点では樺太の国境を画定する予定だったが、両国の主張が対立したため国境を画定できなかった。
長崎での交渉の中でロシア側は、樺太最南部の亜庭湾周辺を日本の領土とし、それ以外をロシア領とすることを提案した。日本側はそれに対して、北緯50度の線で日露の国境とすることを主張した。交渉が下田に移る直前、川路は老中にあてた書簡の中で次のように説明している。
日本の会所ができているのはアニワ湾周辺だけで、それより奥地へは探険家が入った程度である。長崎では北緯50度で分けるとの案を出したが、どこで分けるかの定見は無い。不毛の樺太を棄てても一向に差し障り無い。 — 『開国 日露国境交渉』[7]
下田で交渉が始まると、嘉永7年11月4日(1854年12月23日)の安政東海地震津波により大破したロシア艦「ディアナ」が沈没してしまったため、交渉は一時停止した。交渉が再開し、安政2年12月14日(1855年1月31日)、樺太に国境を設けず、附録で、日本人並に蝦夷アイヌ居住地は日本領とすることで一旦は合意した。このとき、川路は蝦夷アイヌ、なにアイヌと明確に分かれているので混乱の恐れはないと説明した。2月2日の交渉で、ロシア側は附録の部分の蝦夷アイヌを蝦夷島アイヌとすることを提案した。翌日、日本側は、蝦夷島同種のアイヌとすることを提案したが、ロシア側の反対が強く決まらなかった。4日、ロシア側から、附録は無しにして、本文に是迄通りと書けば十分ではないかと提案があり、5日にはロシア側提案通りに決定した[8]。
その後、樺太国境問題は、慶応3年(1867年)の日露間樺太島仮規則を経て、明治維新後の1875年(明治8年)5月7日の樺太・千島交換条約によって一応の決着を見ることになる。
北方領土問題と日露和親条約の関連
[編集]北方領土問題において、「千島列島」の範囲が一つの争点となっており、日本政府は、1951年にサンフランシスコ講和条約で千島列島を放棄したが、歯舞・色丹は含まない(北海道の一部である)としたうえで国後、択捉についても明確にしなかった。これは1946年2月のソビエトによる一方的な併合宣言[9]や、すでに朝鮮半島で始まっていた東西陣営による角逐(朝鮮戦争)の緊張のなかで、北方占領地や台湾・沖縄・小笠原などが焦点となったためである。ソビエトも米国による南西諸島・台湾・小笠原諸島の国連信託統治の形での実効支配を非難し[10]、また日本が放棄した旧領土(南樺太および千島)の帰属を意図的に除外しているサンフランシスコ条約の英米案を非難している[11]。
サンフランシスコ講和会議において、吉田は国後・択捉のソビエトによる収容を一方的と非難し、また歯舞・色丹は北海道(日本の本土)であると説明している[12]。その根拠として、日露和親条約第二条での平和的な国境の画定を指摘している[13]。
和田春樹等によればサンフランシスコ条約で放棄すべきと明記された千島列島(クリル諸島)とは日露和親条約から明記されてきた地理的呼称であり北方四島は当然に含むものであり、日本政府の解釈(と和田のいう、クリルに北方四島は含まないとの主張)は誤りだとする。和田によればこれは日露和親条約を"誤訳"した日本語文を根拠とした主張であり、ロシア語・オランダ語からはこのような主張は成り立たない[14]とする。
1992年5月、日本政府はロシア語のパンフレット『日本の北方領土』を発行し、ロシア国内に配布した。このパンフレットの中で、北方領土はサンフランシスコ条約で放棄したクリル諸島に含まれないとの主張をするため、日露和親条約第二条の日本語条文をロシア語に翻訳し、『実際の条約とは異なる』条文を作成した[15]とする。
正文間での訳文の齟齬
[編集]条約交渉はオランダ語で行われ、オランダ語・ロシア語条文から日本語・中国語条文が翻訳された。このうちロシア語とオランダ語の条文は一致しているが、日本語条文には、第二条のクリル列島の部分に異なる箇所がある。ただし、ロシア語・オランダ語・中国語・日本語共に有効な条約である[注釈 3]。
(オランダ語)Van nu af zal de grens tusschen de eilanden Itoroep(Iedorop) en Oeroep zyn. Het geheel eiland Itoroef behoort aan Japan en het geheel eiland Oerop, met de overige Koerilsche eilanden, ten noorden, behoren tot Russische bezittingen. Wat het eiland Krafto(Saghalien) aangaat, zoo blyft het ongedeeld tusschen Rusland en Japan, zoo als het tot nu toe geweest.[16]
(これから後、境界はイトルプ(イェドロプ)島とウロプ島の間にあるべし。イトルプ全島は日本に属しそしてウロプ全島は残りの、北のほうの、クリル諸島とともに、ロシアの所有に属する。カラフト(サハリン)島について言えば、従来どおりロシアと日本との間に不分割のままにとどまる)[17](日本語)今より後日本国と魯西亜国との境 ヱトロプ島と ウルップ島との間に在るへし ヱトロプ全島は日本に属し ウルップ全島夫より北の方クリル諸島は魯西亜に属す カラフト島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす 是まて仕来の通たるへし
この正文間の文言の相違は、日露和親条約の時点ではなんら問題のないものであり、国境線は択捉島と得撫島との間に確定されていることが双方の正文により明示されているが、サンフランシスコ会議のさい日本が放棄することとした「クリル諸島」の解釈についての文理解釈のさいに取り上げられ論点とされている。
ロシア語・オランダ語では「残りの、北のほうの、クリル諸島」と書かれているが、日本語では「夫より北の方のクリル諸島」と書かれており、日本語では「残りの」が抜けている。このため、日本語の条文を見るかぎりクリル諸島の地理的呼称とは得撫島よりも北であるかのように読めるが、ロシア語・オランダ語ではクリル諸島の地理的呼称は得撫島以北に限定することはできない[14][18]とする。
これについて木村汎は「残りの北のほうクリル諸島」の残りは、択捉島の残りとも得撫島の残りとも解釈できるので、これまでの日本政府の解釈でも間違いとはいえないと説明している。しかし、「クリル列島とは得撫島よりも北である」との解釈以外の解釈が成り立つことは認めている[19]。
この条文の該当部分は「de eiland Oerop(ウルップ島), met de overige Koerilsche eilanden(他・残り のクリル諸島と合わせて), ten noorden(北のほう)」である。
関連行事
[編集]1981年、日本政府は、本条約の締結された2月7日(新暦)を、「北方領土の日」と定めた[1]。
なお、2月7日の北方領土の日には、下田市で「北方領土の日記念史跡めぐりマラソン大会」が開催されていたが、学校カリキュラムに支障を来すとして2023年(令和5年)2月の43回目大会(長楽寺が発着点)をもって終了することとなった[20]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c “平成25年2月の行事概要”. 政府広報オンライン (2013年1月1日). 2013年1月2日閲覧。[リンク切れ]
- ^ a b c 日本学術振興会『条約目録』1936年
- ^ 日本学術振興会『条約目録』1936年
- ^ a b 谷本 2024, p. 102.
- ^ a b c “歴史”. 北方対策本部. 2024年6月8日閲覧。
- ^ a b 谷本 2024, p. 111.
- ^ 和田春樹『開国 日露国境交渉』1991年、P121、P140
- ^ 和田春樹『開国 日露国境交渉』1991年、P156〜P160。外務省政務局『日露交渉史』第二章「下田条約及其他ノ旧幕時代ニ於ケル諸条約及協定ノ取極」国立公文書館アジア歴史資料センター、1944年、レファレンスコード B02130338300。川路聖謨『長崎日記・下田日記』藤井貞文・川田貞夫校注、平凡社〈東洋文庫〉124、1968年、P185〜P192。
- ^ 「南サハリン州の設置に関するソ連最高会議幹部会令」1946年2月2日[1]PDF-P.32(『日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集』)
- ^ 「対日講和条約に関するソビエト政府の対米覚書」[2](旬報社デジタルライブラリ)
- ^ 「ソビエト全権の演説」エー・エー・グロムイコP.426[3] PDF-P.33(旬報社デジタルライブラリ)。同演説では、西側諸国が極東委員会の当初の方針であった日本の非武装・非軍事化を方向転換し、朝鮮半島の兵站基地としていることを指摘し糾弾している。
- ^ 日本全権の演説(吉田茂)1951年9月7日[4]P.434(旬報社デジタルライブラリ)
- ^ 日本全権の演説(吉田茂)1951年9月7日
- ^ a b 和田春樹 『世界』1987年5月、1988年5月、1988年11月、岩波書店。
- ^ 和田春樹『北方領土問題―歴史と未来』朝日選書、1999年、P332〜P335。長谷川毅『北方領土問題と日露関係』2000年、P18。
- ^ 外務省条約局『旧条約彙纂』第一巻第二部、1934年、P521以下
- ^ 村山七郎『クリル諸島の文献学的研究』pp.129-130。
- ^ 村山七郎『クリル諸島の文献学的研究』1987年8月、P123〜P134。長谷川毅『北方領土問題と日露関係』2000年、P17〜P20。
- ^ 木村汎『日露国境交渉史―領土問題にいかに取り組むか』1993年、P54〜P57
- ^ “下田「北方領土マラソン」廃止方針 「中学のカリキュラムに支障」”. 静岡新聞. 2023年10月25日閲覧。
参考文献
[編集]- 多田好問『岩倉公実記』、1906年 - ウィキソース
- 谷本晃久 著「第5章 一九世紀の蝦夷地と北方地域」、荒木裕行・小野将 編『体制危機の到来—近世後期—』吉川弘文館〈日本近世史を見通す3〉、2024年1月20日。ISBN 978-4-642-06886-4。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 『日露和親条約』 - コトバンク
- 『日露通好条約』 - コトバンク
- 北方領土問題とは|歴史 - 北方対策本部(内閣府)
- 北方領土|北方領土問題の経緯(領土問題の発生まで) - 外務省
- 北方領土問題の歴史 - 独立行政法人 北方領土問題対策協会