新橋倶楽部事件
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新橋倶楽部事件(しんばしくらぶじけん)とは、1911年に起きた、東京相撲の騒擾事件である。
経緯
[編集]1911年1月、本場所を前に関脇以下の関取らが回向院に集結、歩方金増額など待遇改善を要求する決議を行い、浪ノ音ら11名が力士代表として横綱大関全員に協会への交渉を願い出た。
力士側の要求に対し、協会側は両国国技館の建設費の借入金の返済が先ということで利益が少ないと説明した。協会側の説明に対し力士側はこれまで九日出場から十日出場に増えたため増額は当然と返答し、平行線となった。横綱大関は本場所の日数を十日から十五日に延長すれば要求に応じられると妥協案を示したが、力士側は拒否した。玉椿を除く十両以上の54名が新橋倶楽部へ立て籠もり、稽古用の土俵を築くなどして、独立興行をやると強気の姿勢を示した。
力士側から緑島や両国ら脱落者が出たり、双方の仲介に立つ者が出たりと、歩み寄りの姿勢が見られ、本場所の収入の10分の1の中から3分の2を慰労金として各関取に支給することや、残りの3分の1を養老金として積み立てることで決着を見た。
1月23日に協会側と力士側の双方が妥結合意し、国技館で手打ち式が行われた。2月4日に1ヶ月遅れで本場所が開幕した。
参考文献
[編集]- 酒井忠正「日本相撲史」中巻、1964年
- NHKグローバルメディアサービス『大相撲中継』2017年11月18日号 p.86.