志道元信
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 天文21年9月8日(1552年9月26日) |
別名 | 通称:次郎四郎[1] |
主君 | 毛利元就→隆元 |
氏族 | 大江姓毛利氏庶流坂氏流志道氏[2] |
父母 | 父:志道広良[3] |
兄弟 |
大蔵少輔[3]、女(赤屋豊将の母)[3]、 女(秋山某室)[3]、守熊(実相寺住職)[1]、 女(桂元澄室)[1]、口羽通良[1]、就良[1]、 坂元貞[1]、女(田緒某室)[1]、女(福原某室)[1]、元信、元親[1] |
志道 元信(しじ もとのぶ)は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。毛利元就・隆元父子を支えた重臣である志道広良の六男[3]。兄に志道大蔵少輔、守熊(実相寺の住職)、口羽通良、志道就良、坂元貞がおり、弟に志道元親がいる。
生涯
[編集]毛利氏の執政を務めて毛利元就・隆元父子を支えた重臣である志道広良の六男として生まれる[1]。
天文19年(1550年)7月12日から7月13日にかけて毛利元就によって安芸井上氏が粛清された直後の7月20日に毛利氏家臣団238名が連署して毛利氏への忠誠を誓った起請文において、28番目に「志道次郎四郎元信」と署名している[注釈 1][4]。
天文21年(1552年)、備後国の尼子方勢力を駆逐するための毛利元就の備後攻め[5]に元信も従軍[6]。同年7月23日に宮光寄が拠る志川滝山城を攻略し、宮氏は備中方面に逃れた[5]が、この時の戦いで元信家臣の小河内又四郎が槍傷を負っている[7]。
志川滝山城を攻略した元就は吉川元春と共に備中国へと進軍し、尼子方に寝返った庄為資の猿掛城を攻撃したが、同年9月8日に猿掛城から出陣した庄為資の攻撃によって毛利軍は敗北し、元信は桂新五左衛門や臼井藤次郎らと共に戦死した[8]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-2 毛利家文書之二』東京帝国大学、1922年2月。国立国会図書館デジタルコレクション
- 防長新聞社山口支社 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。国立国会図書館デジタルコレクション
- 山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』吉川弘文館、2007年7月。全国書誌番号:21255499。
- 畑和良「猿掛城合戦と毛利氏の備中国経略」倉敷市総務局総務部市史編さん室編『倉敷の歴史 第20号』2010年3月、17-34頁。