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和智元俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
和智元俊
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 不詳
官位 兵部丞
主君 毛利元就隆元輝元
氏族 藤原北家秀郷流波多野氏庶流和智氏
養子:元経口羽春良の次男)[1]
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和智 元俊(わち もととし)は、戦国時代武将毛利氏の家臣。

生涯

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備後国三谿郡吉舎[注釈 1]南天山城を本拠とした国人である和智氏の出身とされるが、天文19年(1550年)に毛利氏家臣団238名によって作成された連署起請文[2]に元俊が名を連ねていることから、和智誠春をはじめとする他の和智氏の人物と異なり、早くから毛利氏の家臣となっていたと考えられている。

また、年不詳だが、毛利氏家臣40名の具足注文において元俊の具足数は50両と記されており、40名の内で最多である桂元澄の60両に次ぐ数となっている[注釈 2][3]

天文19年(1550年7月12日から7月13日にかけて毛利元就によって安芸井上氏が粛清された直後の7月20日に毛利氏家臣団238名が連署して毛利氏への忠誠を誓った起請文において、6番目に「和智兵部丞元俊」と署名している[注釈 3][2]

天文21年(1552年)、備後国の尼子方勢力を駆逐するための毛利元就の備後攻め[4]に従軍。同年7月23日宮光寄が拠る志川滝山城を攻略し、宮氏は備中方面に逃れた[4]が、この時の戦いで元俊の家臣である友国左京進が戦死している[注釈 4][5]

永禄3年(1560年)以前に毛利氏重臣・口羽春良の次男である口羽虎法師(後の和智元経)を養子とした[6]

没年は不詳。

脚注

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注釈

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  1. ^ 現在の広島県三次市吉舎町
  2. ^ 元俊の50両以降は、坂元貞の25両、井上靏法士(後の井上元満か)の22両、赤川元保の21両、秋山元継の20両が続く[3]
  3. ^ この起請文においても記している36人の重臣は署名順に、福原貞俊志道元保坂広昌(元貞)門田元久秋広就正和智元俊福原就房桂元忠桂就延兼重元宣渡辺長赤川就秀国司元相粟屋元真粟屋元親粟屋元秀赤川元秀飯田元泰粟屋元宗井上元在(元光)赤川元保光永元方長屋千太郎福原元正志道元親桂元親坂保良(元祐)志道元信志道通良(口羽通良)桂元澄敷名元範南方元次内藤元種秋山元継三田元親井原元造
  4. ^ 元俊の家臣である友国左京進はこの時の志川滝山城攻めにおいて戦死した7人のうちの1人。

出典

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  1. ^ 近世防長諸家系図綜覧 1980, p. 253.
  2. ^ a b 『毛利家文書』第401号、天文19年(1550年)7月20日付、福原貞俊以下家臣連署起請文。
  3. ^ a b 『毛利家文書』第624号、年不詳、桂元澄外四十名具足注文。
  4. ^ a b 山本浩樹 2007, p. 74.
  5. ^ 『毛利家文書』第293号、天文21年(1552年)8月28日付け、陶(晴賢)殿宛て毛利備中守隆元・毛利右馬頭元就連署軍忠状。
  6. ^ 『閥閲録』巻55「粟屋彌九郎」第1号、永禄3年(1560年)7月22日付け、和智虎法師(元経)殿宛て、(毛利)隆元宛行状。

参考文献

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  • 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-2 毛利家文書之二』東京帝国大学、1922年2月。 オープンアクセス国立国会図書館デジタルコレクション
  • 防長新聞社山口支社 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』吉川弘文館、2007年7月。全国書誌番号:21255499 
  • 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻55「粟屋彌九郎」