和智元経
表示
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 元和2年12月28日(1617年2月4日)[1] |
改名 | 口羽虎法師[注釈 1](幼名)→和智虎法師→和智元常→和智元経 |
別名 |
通称:少輔四郎[2]→宗左衛門尉[1](惣左衛門尉[2]) 入道号:上原宗讃[2] |
主君 | 毛利隆元→輝元→秀就 |
藩 | 長州藩 |
氏族 |
大江姓毛利氏庶流口羽氏[3] →藤原北家秀郷流波多野氏庶流和智氏 |
父母 |
父:口羽春良[3]、母:馬木乗綱の娘[2] 養父:和智元俊 |
兄弟 |
口羽元良[2]、女(福原広俊室)[2]、元経、口羽元智[2]、口羽元武[2]、女(山内広通室)[2]、 女(桂元時室)[2]、行円[4]、女(三村親成室)[4]、女(祖式元信室)[4]、女(石州伊達某室)[4] |
子 |
女(粟屋元宣室) 養子:粟屋元宣(粟屋元通の三男) |
和智 元経(わち もとつね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。安芸国の戦国大名・毛利氏重臣である口羽春良の次男で、毛利氏重臣の和智元俊の養子となる。
生涯
[編集]安芸国の戦国大名・毛利氏の重臣である口羽春良の次男として生まれ[注釈 2][3]、永禄3年(1560年)以前に毛利氏重臣の和智元俊の養子となる[5]。
まだ幼名の「虎法師」を名乗っていた永禄3年(1560年)7月22日、毛利隆元から周防国都濃郡末武の内の20石の地を給地として与えられる[5]。
天正10年(1582年)3月8日、毛利輝元の命を受けて粟屋元相と共に穂井田元清への見舞いの使者となり、同年2月の八浜合戦において手を負傷しつつ宇喜多基家を討ち取った元清の戦功を賞すると共に、太刀一腰と刀一腰を贈った[6][7][8]。
慶長4年(1599年)12月19日、粟屋元通の三男で元経の婿養子となった粟屋元宣に1319石余の給地を相続させることを輝元から認められる[9][10]。なお、元経の存命中は婿養子の元宣が相続した1319石余の給地の内319石余を元経が知行して、その分の課役も元宣が負担することとし、もし元経の娘と元宣が離縁した場合は元宣は相続した給地を返還することと定められた[9][10]。また、同日に元経は輝元から「宗左衛門尉」の官途名を与えられる[11]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d 『閥閲録』巻55「粟屋彌九郎」家譜。
- ^ a b c d e f g h i j k 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 253.
- ^ a b c 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 252.
- ^ a b c d 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 254.
- ^ a b 『閥閲録』巻55「粟屋彌九郎」第1号、永禄3年(1560年)7月22日付け、和智虎法師(元経)殿宛て、(毛利)隆元宛行状。
- ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 207.
- ^ 小田郡誌 上巻 1972, p. 208.
- ^ 『長府毛利家文書』、天正10年(1582年)比定3月8日付け、(穂田)元清宛て、(毛利)輝元書状。
- ^ a b 『閥閲録』巻55「粟屋彌九郎」第3号、慶長4年(1599年)12月19日付け、和智彌九郎(元宣)との宛て、毛利輝元書状。
- ^ a b 『閥閲録』巻55「粟屋彌九郎」第4号、慶長4年(1599年)12月19日付け、和智少輔四郎(元経)との宛て、毛利輝元書状。
- ^ 『閥閲録』巻55「粟屋彌九郎」第5号、慶長4年(1599年)12月19日付け、和智少輔四郎(元経)との宛て、毛利輝元官途状。
参考文献
[編集]- 防長新聞社山口支社 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。国立国会図書館デジタルコレクション
- 小田郡教育会 編『増訂追補 小田郡誌 上巻』名著出版、1972年5月。国立国会図書館デジタルコレクション
- 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利輝元卿伝』マツノ書店、1982年1月。全国書誌番号:82051060。国立国会図書館デジタルコレクション
- 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻32「口羽衛士」、巻55「粟屋彌九郎」