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山内広通 (大隅守)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山内広通
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正2年(1574年
死没 寛永8年8月27日1631年9月23日
改名 山内鬼松、千代丸(幼名)→山内広通
別名 通称:少輔四郎→九郎兵衛尉
戒名 月山道海
官位 肥前守大隅守
主君 毛利輝元
長州藩
氏族 山内氏
父母 父:山内隆通、母:熊谷信直の娘
養父:山内元通(広通の兄)
兄弟 元通、女(宮庄春真室)、広通
正室:口羽春良の娘
元資、女(口羽元延室、神村元信室)、女(宍戸就俊室)、女(黒沢就信室)、左内就時、女
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山内 広通(やまのうち ひろみち)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将毛利家家臣で長州藩士。父は山内隆通

生涯

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天正2年(1574年)、備後国恵蘇郡地毘荘本郷[1]甲山城を本拠とした国人山内隆通の次男として生まれる。

天正7年(1579年7月15日、兄の元通が33歳で死去。元通には庶子の千法師(後の佐々部元宗)がいたが、父・隆通は幼少の広通を元通の養子とし、熊谷信直宍戸隆家を通じて吉川元春に働きかけ、広通への家督相続の許可を毛利輝元に求めた。輝元は同年8月17日に宍戸隆家宛ての書状において広通の家督相続の許可を出した。隆通と広通はその御礼として、輝元に太刀一腰と青毛一疋、宍戸隆家に太刀一腰と馬代を贈っている。

天正14年(1586年6月24日、輝元の加冠を受けて元服し、「広」の一字を与えられて「広通」と名乗った。同年10月15日に父・隆通が死去したため、家督を相続する。

天正20年(1592年)4月から始まる文禄の役では、吉川広家の軍に属して武功を挙げ、文禄3年(1594年)に帰国。さらに、慶長2年(1597年)には慶長の役で再び朝鮮へ渡海し、翌慶長3年(1598年)に帰国した。朝鮮における武功は祖式宗安杉岡是閑が証人となり、輝元から感状を与えられた。

慶長5年(1600年8月24日伊勢国安濃津城の戦いでは天野元政の軍に属して武功を挙げた。

慶長17年(1612年10月5日毛利秀就から「肥前守」の受領名を与えられる。また、元和6年(1620年8月1日には「大隅守」の受領名を与えられた。

寛永8年(1631年8月27日に死去。享年58。嫡男の元資が跡を継いだ。

脚注

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  1. ^ 現在の広島県庄原市山内町本郷。

参考文献

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