コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

内藤元種

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
内藤 元種
時代 戦国時代
生誕 享禄4年(1531年
死没 天文23年5月5日1554年6月4日
別名 通称:少輔九郎
戒名 及菴宗智
官位 伊勢
主君 毛利元就
氏族 藤姓内藤氏
父母 父:内藤元康、母:福原広俊の娘
元泰、娘(毛利輝元養女、羽柴秀勝室)
テンプレートを表示

内藤 元種(ないとう もとたね)は、戦国時代武将安芸国戦国大名毛利氏の家臣。父は内藤元康

出自

[編集]

安芸内藤氏は、建保4年(1216年)に厳島神社領であった安芸国高田郡長田郷地頭となって以来、その地を代々領した国人である。元種の祖父である内藤中務丞元泰(次郎太郎)の代までに毛利氏の麾下に入っている。

生涯

[編集]

享禄4年(1531年)、内藤元康の子として生まれる。天文3年(1534年)に父が死去したことで幼少ながら家督を継ぎ、毛利元就に仕えた。

天文17年(1548年)の6月18日20日に行われた、山名理興の拠る神辺城(村尾城)への総攻撃(神辺合戦)における城の柵や塀越しの攻防で武功を挙げ、6月23日毛利隆元から感状を与えられた。この戦いで毛利元就・隆元父子は家臣に多くの感状を出しており、元種もその内の1人だった。

天文19年(1550年7月12日から7月13日にかけて元就によって安芸井上氏が粛清された直後の7月20日に毛利氏家臣団238名が連署して毛利氏への忠誠等を誓った起請文においては、33番目に「内藤少輔九郎元種」と署名している[注釈 1][1]

天文23年(1554年)5月5日、元種は24歳で死去した。事情は不明であるが、元種死去の前年である天文22年(1553年)には既に子の元泰が家領を継いでいる。

家族

[編集]

嫡子は内藤元泰。また、娘がおり、毛利輝元の養女となった後、豊臣秀吉の養子・羽柴秀勝と婚姻をしている[2]とされるが、元種の娘の生年(1554年以前)と秀勝の生年(1569年)を考慮すると有り得ない組み合わせであり、秀勝室は毛利氏血縁で長門内藤氏の内藤元種(内藤興盛の子)の娘である。

脚注

[編集]

注釈

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ 『毛利家文書』第401号、天文19年(1550年)7月20日付、福原貞俊以下家臣連署起請文。
  2. ^ 西尾和美 著「豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」、川岡勉; 古賀信幸 編『西国の権力と戦乱』清文堂出版、2010年。 

参考文献

[編集]