敷名元範
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
改名 | 相合元範→敷名元範 |
別名 |
毛利兵部太夫、馬屋原元範 通称:少輔四郎 |
官位 | 兵衛少輔、兵部大輔[1]、左衛門大夫 |
主君 | 毛利元就→隆元→輝元 |
氏族 | 大江姓毛利氏庶流相合氏→敷名氏 |
父母 | 父:相合元綱[1] |
妻 | 吉原親冬の娘 |
子 | 前原元政、馬屋原元詮 |
敷名 元範(しきな もとのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣。父は毛利元就の弟である相合元綱。
生涯
[編集]大永4年(1524年)4月8日、父・相合元綱は謀反を起こして戦死したが、元範は幼少であったため、連座を免れた。
天文2年(1533年)、毛利元就は大笹山城主・敷名民部大輔を討った。元就は攻め取った大笹山城を元範に与え、元範はその在名[注釈 2]から「相合」の苗字を「敷名」へと改めた。
天文19年(1550年)7月12日から7月13日にかけて元就によって安芸井上氏が粛清された直後の7月20日に毛利氏家臣団238名が連署して毛利氏への忠誠を誓った起請文においては、31番目に「敷名少輔四郎元範」と署名している[注釈 3][2]。
天文22年(1553年)には元就に滅ぼされた江田氏の跡を継いで旗返城主となっている。
弘治3年(1557年)12月2日、防長経略が終わった後の毛利氏家臣239名が名を連ねて軍勢狼藉や陣払の禁止を誓約した連署起請文において、88番目に「敷名兵部大夫」と署名する[3]。
没年は不詳であるが、元範は天正9年(1581年)の『村山家旦那帳』にも備後国江田の領主毛利兵部太夫殿として現れ、少なくともこの頃までは生存していたと考えられる。
なお、『閥閲録』巻41「馬屋原彌四郎」に収録された馬屋原家の系譜によると、元範は文禄4年(1595年)10月30日に64歳で死去したと記載されているが、文禄4年10月は小の月であるため29日までであり10月30日が存在していないことや、死去時の年齢から逆算した生年が父・元綱の死の数年後となることから、馬屋原家の系譜の記載には疑問符が付く。
備後国人で九鬼城主・馬屋原信春(九鬼馬屋原氏)が死去し、その嫡子・宮寿丸も夭折したため、元範の子・元詮が養子に入って家督を継いだ。子孫は毛利氏の防長移封に従って萩に移住、長州藩大組として続いた。毛利輝元側近の元貞の頃より名字を前原とし、後に馬屋原に復した。
長州藩士で後に貴族院議員となった馬屋原彰、馬屋原二郎は、その末裔である。
家系
[編集]毛利弘元 ┣━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━┳━━━━┓ 興元 元就 相合元綱 北就勝 見付元氏 ┃ ┣━━━┳━━━━━┳━━━━━┓ ┃ 幸松丸 隆元 吉川元春 小早川隆景 穂井田元清 敷名元範 ┃ ┃ │ ┃ ┣━━━━┓ 輝元 広家 秀秋 秀元 前原元政 馬屋原元詮(前原休閑) ┃ ┃ ┃ ┃ 秀就 広正 光広 元貞 ┃ ┃ ┃ ┣━━┓ 綱広 広嘉 綱元 之貞 就宗
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『閥閲録』巻41「馬屋原彌四郎」に収録された馬屋原家の系譜によると、弘治元年(1555年)時点で26歳、文禄4年(1595年)に64歳で死去と記載されているが、これを逆算すると享禄3年(1530年)または天文2年(1532年)生まれとなり、父・元綱の死の数年後に誕生したこととなるため、信憑性に疑問符が付く。
- ^ 現在の広島県三次市三和町敷名。
- ^ この起請文において諱も記している36人の重臣は署名順に、福原貞俊、志道元保、坂広昌(元貞)、門田元久、秋広就正、和智元俊、福原就房、桂元忠、桂就延、兼重元宣、渡辺長、赤川就秀、国司元相、粟屋元真、粟屋元親、粟屋元秀、赤川元秀、飯田元泰、粟屋元宗、井上元在(元光)、赤川元保、光永元方、長屋千太郎、福原元正、志道元親、桂元親、坂保良(元祐)、志道元信、志道通良(口羽通良)、桂元澄、敷名元範、南方元次、内藤元種、秋山元継、三田元親、井原元造。