コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

坂元貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
坂元貞
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 天正4年(1576年)?
改名 志道広昌→坂広昌→坂元貞
別名 通称:次郎三郎
官位 式部大輔
主君 毛利元就隆元輝元
氏族 大江姓毛利氏庶流志道氏
大江姓毛利氏庶流坂氏
父母 父:志道広良
兄弟 志道大蔵少輔、女(赤屋氏室)[1]
女(秋山氏室)[1]守熊実相寺住職)[2]
女(桂元澄室)[2]口羽通良[2]志道就良[2]
坂元貞、女(田緒氏室)[2]
女(福原氏室)[2]志道元信[2]志道元親[2]
聟法師
養子:坂元時
テンプレートを表示

坂 元貞(さか もとさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将毛利氏の家臣。志道広良の五男。子に坂聟法師。養子に坂元時。坂氏に入嗣する前は、志道広昌と名乗っていた。通称は次郎三郎、式部大輔。

生涯

[編集]

毛利氏の重臣である志道広良の五男として生まれる[2]

大永4年(1524年)に毛利氏の重臣であった坂広秀が、毛利元就の家督相続に不満を抱き、出雲国の大名・尼子経久と共謀し、元就の実弟・相合元綱を擁立して謀反を画策した。しかし、機先を制した元就の攻撃により広秀は殺害され、広秀の嫡男の坂元祐平賀氏の下へ逃亡した。そのため、元就の意向もあり、毛利氏庶家で執権職も務めた坂氏の名跡を存続させるため、元貞が坂氏の名跡を継いだ。

享禄5年(1532年7月13日の毛利氏家臣団32名が互いの利害調整を元就に要請した連署起請文では5番目に「坂次郎三郎広昌」と署名している[注釈 1]

天文3年(1534年3月23日、父・広良より安芸国志道の「みとろ名」の内の飛田3段、坂の助守名、中麻原の下末永名・さたつね名、上竹仁村の西条の内の「さねかね名」・乙丸名、河根村の延安名を与えられ[3]、天文5年(1536年8月20日に元就からも知行を認められる[4]。また、天文11年(1542年3月2日に元就から安芸国津田の定国名・中村名・森兼名を給地として与えられ[5]、天文19年(1550年12月28日には毛利隆元から安芸国の坂300貫の代官職を与えられる[6]

天文19年(1550年7月12日から7月13日にかけて元就によって安芸井上氏が粛清された直後の7月20日に毛利氏家臣団238名が連署して毛利氏への忠誠を誓った起請文においては、3番目に「坂式部太輔広昌」と署名している[注釈 2][7]

元貞の没年は不明であるが、天正4年(1576年7月1日に元貞の子・聟法師家督を相続することを毛利輝元から認められており[8]、この頃に元貞は死去または隠居したと思われる。その後、子孫は萩藩の大組士(禄高330石)として続いた。なお、志道氏の名跡は長兄・大蔵少輔の子の志道元保が継いでいる。

脚注

[編集]

注釈

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ a b 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 149.
  2. ^ a b c d e f g h i 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 150.
  3. ^ 『閥閲録』巻49「坂九郎右衛門」第2号、天文3年3月23日付 二郎三郎宛て志道広良書状。
  4. ^ 『閥閲録』巻49「坂九郎右衛門」第3号、天文5年8月20日付 次郎三郎宛て毛利元就書状。
  5. ^ 『閥閲録』巻49「坂九郎右衛門」第4号、天文11年閏3月2日付 坂式部大輔宛て毛利元就書状。
  6. ^ 『閥閲録』巻49「坂九郎右衛門」第6号、天文19年12月28日付 式部大輔宛て毛利隆元書状。
  7. ^ 『毛利家文書』第401号、天文19年(1550年)7月20日付、福原貞俊以下家臣連署起請文。
  8. ^ 『閥閲録』巻49「坂九郎右衛門」第7号、天正4年7月1日付 坂聟法師宛て毛利輝元書状。

参考文献

[編集]
  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 萩藩閥閲録』巻49「坂九郎右衛門」
  • 『萩藩諸家系譜』