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志道大蔵少輔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
志道大蔵少輔
時代 戦国時代
生誕 不詳[注釈 1]
死没 天文8年9月13日1539年10月24日[2]
別名 通称:太郎三郎[2]
戒名 月心道照[2]
官位 大蔵少輔[2]大蔵丞[3]
主君 毛利興元幸松丸元就
氏族 大江姓毛利氏庶流坂氏志道氏
父母 父:志道広良[2]
兄弟 大蔵少輔、女(赤屋豊将の母)[2]
女(秋山某室)[2]守熊実相寺住職)[4]
女(桂元澄室)[4]口羽通良[4]就良[4]
坂元貞[4]、女(田緒某室)[4]、女(福原某室)[4]元信[4]元親[4]
元保[2]良泰[4]、女(岡某室)[4]、女(瀬野某室)[4]秀雅満願寺七世住職)[4]通信[4]
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志道 大蔵少輔(しじ おおくらのしょう)は、戦国時代武将毛利氏の家臣。毛利元就隆元父子を支えた重臣である志道広良の嫡男[2]。祖父・元良や父・広良と同じく「太郎三郎」の通称と「大蔵少輔」の官途名を名乗ったが、は不明[2][5]

生涯

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毛利氏の執政を務めて毛利元就隆元父子を支えた重臣である志道広良の嫡男として生まれる[注釈 1][2]

大永7年(1527年)に尼子経久が大軍を率いて備後国に出陣すると、大内義興安芸国の各地で安芸武田氏と戦っていた陶興房を備後国に派遣し、備後国方江田において陶軍と尼子軍のにらみ合いとなった[6]

同年8月9日、備後国三谿郡和智郷における細沢山合戦では父・広良が毛利軍を率いて尼子軍と戦ったが[6]、この合戦で大蔵少輔は米原山城守を討ち取る武功を挙げ[7]、毛利元就から感状を与えられる[8]。同年8月13日には陶興房からの注進を受けた大内義興が大蔵少輔の武功を賞しており[9]、陶興房の注進の結果、大内義興の意を受けた鷲頭式部少輔から賞された事が8月22日の陶興房からの書状によって伝えられている[10]

天文3年(1534年)、嫡男の元保が生まれる[4]

天文8年(1539年9月13日、父・広良に先立って死去[2]。大蔵少輔の死を知った大内義隆もその死を惜しみ、同年9月17日には志道広良の愁傷を憐察した旨を弘中隆包に伝えている[3]

大蔵少輔の死去に伴い、幼少の嫡男である元保が後継となった[4]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 大蔵少輔の生年は不明だが、弟の口羽通良永正10年(1513年)に生まれているため、大蔵少輔の生年はそれ以前となる[1]

出典

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  1. ^ 近世防長諸家系図綜覧 1980, p. 252.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 近世防長諸家系図綜覧 1980, p. 149.
  3. ^ a b 『閥閲録』巻16「志道太郎右衛門」第70号、天文8年(1539年)比定9月17日付け、弘中中務丞(隆包)殿宛て、(大内)義隆書状。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 近世防長諸家系図綜覧 1980, p. 150.
  5. ^ 舘鼻誠 1996, p. 268.
  6. ^ a b 山本浩樹 2007, p. 47.
  7. ^ 『閥閲録』巻16「志道太郎右衛門」第4号、大永7年(1527年)8月9日付け、細澤山合戦討捕并太刀打衆注文。
  8. ^ 『閥閲録』巻16「志道太郎右衛門」第6号、大永7年(1527年)8月9日付け、志道大藏少輔殿宛て(毛利)元就感状。
  9. ^ 『閥閲録』巻16「志道太郎右衛門」第64号、大永7年(1527年)8月13日付け、志道大藏少輔殿宛て(大内)義興書状。
  10. ^ 『閥閲録』巻16「志道太郎右衛門」第65号、大永7年(1527年)8月22日付け、志道大藏少輔殿宛て(陶)興房書状。

参考文献

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  • 防長新聞社山口支社 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 舘鼻誠「元就・隆元家臣団事典」 河合正治編『毛利元就のすべて(新装版)』新人物往来社1996年、243-286頁。
  • 山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』吉川弘文館、2007年7月。全国書誌番号:21255499 
  • 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻16「志道太郎右衛門」