山崎匡輔
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山崎 匡輔(やまざき きょうすけ、1888年(明治21年)2月9日 - 1963年(昭和38年)8月8日)は、日本の官僚、土木工学者、教育行政家。鉄道院技師、東京帝国大学教授、日本学術振興会理事長、国立国語研究所評議委員会副会長、鉄道建設審議会委員、文部次官、東京都教育委員長、日本放送協会常務理事、東海大学第2代学長、成城大学学長。全国家庭科教育協会会長。工学博士。土木学会名誉員。第12回(昭和35年度)NHK放送文化賞受賞。
来歴
[編集]群馬県桐生市出身。文部次官、東京都教育委員長、日本学術振興会理事長、国立国語研究所評議委員会副会長、日本放送協会常務理事などを歴任。内村鑑三に師事し、鉄道軌道、トンネル工学、都市交通などの研究で業績をあげ、鉄道工学、土木学界の発展に貢献する[1]。
略歴
[編集]- 1906年(明治39年)- 旧制群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒業[2]。
- 1915年(大正5年)- 東京帝国大学工科大学土木工学科卒業[3]。鉄道院に技師として入職[3]。
- 1920年(大正9年)- 東京帝国大学助教授に就任[3]。
- 1939年(昭和14年)工学博士の学位取得、東京帝国大学教授[3]に就任。
- 1945年(昭和20年)9月 - 文部省科学教育局長に就任。
- 1946年(昭和21年)1月 - 文部次官に就任。
- 1947年(昭和22年)2月 - 文部次官を退任。
- 1947年(昭和22年)12月 - 東海大学学長職に就任。
- 1948年(昭和23年)11月 - 東海大学学長職に退任。
- 1948年(昭和23年)- 東京都教育委員長に就任
- 1949年(昭和24年)- 日本放送協会常務理事に就任。
- 1950年(昭和25年)- 全国家庭科教育協会会長に就任。
- 1951年(昭和26年)4月 - 東京慈恵会医科大学の顧問に就任。
- 1952年(昭和27年)10月 - 成城学園長[3]職兼成城大学学長職に就任。
- 1954年(昭和29年)4月 - 全国家庭科教育協会会長を退任。
- 1955年(昭和30年)12月 - 成城学園長職兼成城大学学長職を退任。
- 1956年(昭和32年)5月 - 成城大学学長職に再就任。
- 1957年(昭和33年)3月 - 成城大学学長職を退任。
- 1960年(昭和36年)3月 - 第12回(昭和35年度)NHK放送文化賞受賞[4]。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 土木学会誌 第四十八巻 第十号 昭和38年10月発行(1963年)資料 故名誉員 山崎匡輔氏をしのぶ
- ^ “母校人物群像Ⅰ(明治・大正期)” (PDF). maetaka-ob.jp. 群馬県立前橋高等学校同窓会. 2024年1月2日閲覧。
- ^ a b c d e 『近代日本土木人物事典』157-158頁。
- ^ 日本放送協会 放送文化賞 受賞年度順 第11回~第15回
参考文献
[編集]- 高橋裕、藤井肇男共著『近代日本土木人物事典: 国土を築いた人々』鹿島出版会、2013年。
関連項目
[編集]公職 | ||
---|---|---|
先代 白石成一 |
東京都教育委員会委員長 1950年 - 1952年 |
次代 八木沢善次 |
先代 大村清一 |
文部次官 教員検定委員会会長 日本文化大観編修会会長 1946年 - 1947年 |
次代 有光次郎 |
学職 | ||
先代 (新設) |
成城大学短期大学部学長 1954年 - 1958年 |
次代 坂本浩 |
先代 (新設) |
成城大学文芸学部長事務取扱 1954年 - 1956年 |
次代 宮本和吉 学部長 |
先代 伊藤正一 |
成城大学経済学部長事務取扱 1953年 - 1954年 |
次代 伊藤正一 学部長 |
その他の役職 | ||
先代 石田壮吉 |
放送教育研究会全国連盟理事長 1952年 - 1961年 |
次代 森戸辰男 |
先代 (新設) |
全国家庭科教育協会会長 1950年 - 1954年 |
次代 石山脩平 |
先代 関屋貞三郎 |
日本学術振興会理事長 1950年 - 1952年 |
次代 高垣寅次郎 |