コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

鷹司和子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
孝宮和子から転送)
鷹司 和子
(和子内親王)
鷹司家
1950年(昭和25年)
続柄 昭和天皇第3皇女子

全名 鷹司 和子(たかつかさ かずこ)
称号 孝宮(たかのみや)
身位 内親王 →(降嫁
敬称 殿下 →(降嫁)
出生 1929年9月30日
日本の旗 日本東京府東京市 宮城
死去 (1989-05-26) 1989年5月26日(59歳没)
日本の旗 日本東京都
埋葬 日本の旗 日本京都府京都市右京区 二尊院
配偶者 鷹司平通1950年 - 1966年
子女 鷹司尚武(養子)
父親 昭和天皇
母親 香淳皇后
栄典 勲一等宝冠章
役職 伊勢神宮祭主1974年 - 1988年
テンプレートを表示

鷹司 和子(たかつかさ かずこ、1929年昭和4年〉9月30日 - 1989年平成元年〉5月26日)は、日本の元皇族鷹司平通勲等勲一等皇籍離脱前の身位内親王で、皇室典範における敬称殿下。旧名、和子内親王(かずこないしんのう)。和子御称号孝宮お印白菊[1]であった。伊勢神宮祭主1974年 - 1988年)。昭和天皇香淳皇后の第3皇女子。第125代天皇・明仁上皇)と常陸宮正仁親王は弟、第126代天皇・徳仁今上天皇)と秋篠宮文仁親王は甥にあたる。

生涯

[編集]

生い立ち

[編集]
1937年(昭和12年)、呉竹寮の姉妹:左から和子内親王、成子内親王厚子内親王

1929年昭和4年)9月30日午前6時16分、宮中において昭和天皇香淳皇后の第3皇女子として誕生[2]。御七夜の10月6日午前9時に浴場の儀、午前11時に命名の儀が執り行われ[3]「孝宮和子」と命名された[4]

誕生時には当初「親王誕生」と誤報されたため、皇太子誕生を待ち望む人々はかえって落胆したという事件が起きた[5]。前年1928年(昭和3年)3月に第2皇女久宮祐子内親王が夭折したばかりであり、祐子内親王と同じ9月生まれで容貌も似た和子内親王の誕生を、母皇后や姉宮成子内親王は非常に喜んだという[6]

学齢期以降は、姉宮妹宮とともに呉竹寮で生活する。

1946年(昭和21年)1月1日、昭和天皇の人間宣言と同時に、天皇と和子内親王の写った写真が公表され、当時最年長の皇女であった和子内親王は、天皇の人間的・家庭的イメージ創出に不可欠な存在であった[7]

1946年(昭和21年)から来日し、弟継宮明仁親王(第125代天皇、現上皇)の家庭教師となった米国人作家E・G・ヴァイニング夫人に、香淳皇后の希望で、英語のお稽古として夫人宅を訪問し、英会話を習い米国文化を体験した[8]

1948年(昭和23年)に学習院女子高等科を卒業後、孝宮は元侍従長百武三郎邸で花嫁修業をし、学習院女子研究科[注釈 1]へ通学した[9]。すでに華族制度が廃止されており、花嫁修業は庶民としての生活修行であることを意味したため、和子内親王は母后の教えを守って都電を利用する等、何事も自分でするよう心がけていた[10]

女子高等科卒業後から、戦前と世相が大きく変わる中で和子内親王がどのように降嫁するか、大いに関心を集めるようになる[7]。宮内庁も百武邸での和子内親王の庶民的な生活ぶりを取材させ、マスメディアも百武家の状況[注釈 2]には触れず、庶民的な逸話を好んで取材しては報じた[11]

結婚を巡って

[編集]
1950年5月20日、結婚。左から孝宮和子内親王・鷹司平通昭和天皇香淳皇后皇太后

1949年(昭和24年)9月、京都の地方紙都新聞は和子内親王と従兄にあたる大谷光紹との縁談を報じ[12]、さらに11月23日読売新聞は婚約が決まり、大谷家も前向きな意向を表明していると報じた[13]。秋の間、婦人雑誌は和子内親王と従兄の婚約の話題で賑わっていた[14]。しかし、ヴァイニング夫人は、見合い結婚ながら孝宮に『拒否権』があった、としている[14]。また、近親婚を避けたい天皇の意向もあって、読売新聞後の報道以後、縁談は立ち消える[12]

同時期に明治神宮宮司鷹司信輔(元公爵、理学博士)の長男・平通との縁談が持ち上がる[12]。しかし、平通の写真を見せられた、内気な性格の和子内親王は当惑した[15]。香淳皇后は娘の気持ちを汲み取って、お見合いや交際を勧めた[15]。鷹司信輔と皇太后がいとこ同士であったことから、平通は皇太后の居所である大宮御所に参上することとなり、そこで和子内親王と面会を重ねるうちに打ち解けた話もできるようになり、互いに好意を抱いたとされる[16]

1950年(昭和25年)1月2日に鷹司平通との縁談について昭和天皇の了承を得ると、1月20日に鷹司家は田島道治宮内庁長官に受諾の返答をし、1月26日に宮内庁長官官邸にて和子内親王と平通の正式な見合いを経て、同日、婚約内定が発表された[12]。ただし、正式な裁可は2月1日である(当時は非公表)[17]。戦後初の内親王の降嫁であり、また相手が元公爵家の嫡男ではあるが現在は平民のサラリーマンであることでも話題になる。これは、米国でも『天皇の皇女、月給20ドルのサラリーマンと結婚』との見出しで報じられた[18]。しかし、ヴァイニング夫人によれば、それでもなお平通と和子内親王、そして天皇・皇后とはほとんど面識が無い状態だった[19]

同年3月3日午前10時に、納采の儀が行われ[20]、正式に婚約した。婚約中も平通が孝宮が姉妹と暮らす呉竹寮を頻繁に訪れる[21]等、姉・東久邇成子よりも遥かに自由な交際であることも大きく報じられた。婚約者とは言え、未婚の皇族女子が男性とのツーショット写真を報じられることも画期的であり、二人の仲睦まじい逸話が広く流布された[22]。こうして、従来通りの「見合い」であるにもかかわらず「恋愛」面のイメージが強調されていった。

マスコミ報道を避けるため、和子内親王は定期的にヴァイニング夫人宅に英語の稽古で通っている機会に、平通も同じタイミングで夫人宅を訪問して、二人の時間を楽しんだ[23]。ヴァイニング夫人は、二人がロマンチックな気持ちで恋に落ち、似合いのカップルであったとしている[24]

和子内親王は、皇族妃であった姉東久邇成子と異なり、嫁入り道具の食器も遥かに質素で少なく、その分の金額を平通と二人で楽しむレコードやラジオに使いたい意向であり、父天皇も娘の堅実さを喜んだ[25]。婚約中は、和子内親王が主催して大小様々なパーティーが開かれた[26]。ヴァイニング夫人や、その秘書高橋たねのために開いた内輪のパーティーでは、平通が作曲した歌曲を和子内親王や妹宮達が歌い、また明仁親王も姉宮を英語で祝福して上座を譲った[27]

恋愛要素のある結婚は、当時の人々の憧れであり、敗戦から立ち直った豊かな生活のイメージを和子内親王に重ねた[28]。和子内親王は、若い(=結婚適齢期の)女性の象徴として扱われた[11]

しかし、宮内庁や鷹司夫妻がアピールしたいのは質素さであった。例えば、和子内親王の嫁入り道具一式の目立つ位置に箒と塵取りが置かれていた[29]。また夫妻が豪奢な洋館に住むと報じられたことについて、平通自身が新聞の投書欄を通じて月収と見合わないことを理由に否定した[29]。和子内親王の一時金は487万円であり、これが戦死者遺族1万人分の手当てであることにも批判があった[30]とともに、皇女の庶民ぶりに対する違和感にも批判があった[31]。宮内庁側は皇室の尊厳を守るため、自分たちで統制できる範囲での「庶民」「平民」アピールに留める意図があり、婚約内定発表直後にニュース映画用の撮影の機会があったが、和子内親王の肉声は録音させなかった[32]。実際に、性的含意のある記者の質問や報道が存在した[33]

5月20日に結婚し、皇籍を離れた[34]。当日は皇居前広場に2000人が集い、そこから港区高輪の光輪閣(旧高松宮邸)まで、人並みが途切れることなく延々と続いていた[11]

花嫁衣装は姉東久邇成子の婚礼の際に、貞明皇后が作らせたものだった[35]。光輪閣で行われた婚儀には、祖母皇太后、父天皇、母皇后も参列したが、翌日に明治記念館鷹司家側が開いた披露宴には欠席した[36]。なお、皇室典範制定以降、天皇の皇女、ならびに内親王の身位にある者が皇族以外に嫁ぐのは初めてのことであった。和子内親王の降嫁は、読売新聞が選ぶ年間のニュースのうち、第10位に選ばれた[12]

降嫁後

[編集]

和子は、新婚当初、マスコミに将来の希望を問われ「質素で堅実な家庭を作りたい」と語った[37]。その後も、しばらく鷹司夫妻の動静が報じられ、また夫妻も取材に応じていた。和子は1955年(昭和30年)に一度妊娠したが、死産となった[38]

1964年(昭和39年)4月29日、生存者叙勲の再開により、内親王身位を遡って勲一等宝冠章を授与された。同年5月1日に、末妹の島津貴子夫妻がワシントンへ向かう際には、盛大な見送りに鷹司夫妻も参加した[39]

1966年(昭和41年)1月28日、平通が行き付けのバーである銀座「いさり火」のママ・前田美智子(当時39歳)宅で一酸化炭素中毒により事故死。マスコミは「情死」「心中」などとスキャンダラスに報じ、和子は夫の死後、各種インタビューなど“公の場への露出”を避けるようになった。さらに1968年(昭和43年)8月22日の深夜、自宅の台所に包丁を持った男が侵入。和子は口を塞がれるも素手で払いのけて玄関へ逃げたが、左右中指に全治1週間の怪我を負う[40]

昭和天皇はこうした和子の不遇を案じ、晩年は赤坂御用地内に居を移すよう取り計らった(この居宅はもと宮内省乳人官舎で、和子の没後は、成婚まもない秋篠宮家の御仮寓所となった(1997年まで))。また、弟の皇太子明仁親王も、静養に和子を招き、皇太子一家ともに海水浴を楽しむ写真が残っている。

1974年(昭和49年)、北白川房子に続き、2人目の女性神宮祭主に就任。1985年(昭和60年)より第61回神宮式年遷宮に向けた祭祀が執り行われ始める中、1988年(昭和63年)に体調が芳しく無く退任し、後任には妹・池田厚子が就いた。1989年(平成元年)5月26日、父・昭和天皇の後を追うように心不全のため逝去、満59歳であった。墓所は、鷹司家菩提寺である京都市右京区二尊院にある。

夫・平通との間に子は無く甥の尚武[注釈 3]を養子に迎えた。

栄典

[編集]

家族

[編集]

系譜

[編集]
鷹司和子 父:
昭和天皇
祖父:
大正天皇
曾祖父:
明治天皇
曾祖母:
柳原愛子
祖母:
貞明皇后
曾祖父:
九条道孝
曾祖母:
野間幾子
母:
香淳皇后
祖父:
邦彦王(久邇宮)
曾祖父:
朝彦親王久邇宮
曾祖母:
泉萬喜子
祖母:
俔子
曾祖父:
島津忠義
曾祖母:
山崎寿満子
 
 
 
 
 
 
 
 
歴代天皇
 
歴代皇后
 
親王
 
内親王女王
 
臣籍降下
 
 
 
 
大正天皇(明治天皇の子)
 
貞明皇后(大正天皇の妻)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭和天皇(大正天皇の子)
 
香淳皇后(昭和天皇の妻)
 
秩父宮雍仁親王(大正天皇の子)
 
雍仁親王妃
勢津子
(秩父宮雍仁親王の妻)
 
高松宮宣仁親王(大正天皇の子)
 
宣仁親王妃
喜久子
(高松宮宣仁親王の妻)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三笠宮崇仁親王(大正天皇の子)
 
崇仁親王妃
百合子
(三笠宮崇仁親王の妻)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東久邇成子
(照宮)
(昭和天皇の子、臣籍降下)
 
久宮祐子内親王(昭和天皇の子)
 
鷹司和子
(孝宮)
(昭和天皇の子、臣籍降下)
 
池田厚子
(順宮)
(昭和天皇の子、臣籍降下)
 
上皇
明仁
(昭和天皇の子)
 
上皇后
美智子
(上皇明仁の妻)
 
常陸宮正仁親王(昭和天皇の子)
 
正仁親王妃
華子
(常陸宮正仁親王の妻)
 
島津貴子
(清宮)
(昭和天皇の子、臣籍降下)
 
近衞甯子(三笠宮崇仁親王の子、臣籍降下)
 
寬仁親王(三笠宮崇仁親王の子)
 
寬仁親王妃
信子
(寬仁親王の妻)
 
桂宮
宜仁親王
(三笠宮崇仁親王の子)
 
千容子(三笠宮崇仁親王の子、臣籍降下)
 
高円宮憲仁親王(三笠宮崇仁親王の子)
 
憲仁親王妃
久子
(高円宮憲仁親王の妻)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天皇
徳仁
(明仁の子)
 
皇后
雅子
 
皇嗣秋篠宮文仁親王(明仁の子)
 
皇嗣妃文仁親王妃紀子(秋篠宮文仁親王の妻)
 
黒田清子
(紀宮)
(明仁の子、臣籍降下)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彬子女王(寬仁親王の子)
 
瑶子女王(寬仁親王の子)
 
 
 
 
 
承子女王(高円宮憲仁親王の子)
 
千家典子(高円宮憲仁親王の子、臣籍降下)
 
守谷絢子(高円宮憲仁親王の子、臣籍降下)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
敬宮愛子内親王(徳仁の子)
 
 
 
小室眞子(秋篠宮文仁親王の子)
 
佳子内親王(秋篠宮文仁親王の子)
 
悠仁親王(秋篠宮文仁親王の子)

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 短期大学に改組されるのは1950年(昭和25年)のことである(当該項目を参照)。
  2. ^ 百武邸は宮内府の旧奏任官官舎であり、和子内親王の花嫁修業のため、百武一家は一時的に都内に転居していた[11]
  3. ^ 鷹司尚武は日本電気通信システム社長等を務め、2007年より2017年7月まで伊勢神宮大宮司であった。

出典

[編集]
  1. ^ 『華ひらく皇室文化』 2018 p.6-7
  2. ^ 昭和4年宮内省告示第36号(『官報』号外、昭和4年9月30日)(NDLJP:2957293/16
  3. ^ 『官報』号外「宮廷録事」、昭和4年10月6日(NDLJP:2957298
  4. ^ 昭和4年宮内省告示第38号(『官報』号外、昭和4年10月6日)(NDLJP:2957298
  5. ^ 昭和の母皇太后さま 2000 p.133
  6. ^ 昭和の母皇太后さま 2000 p.134
  7. ^ a b 森 2014 p.48
  8. ^ ヴァイニング 2015 p.116-118
  9. ^ 昭和の母皇太后さま 2000 p.184
  10. ^ 昭和の母皇太后さま 2000 p.184-185
  11. ^ a b c d 森 2014 p.47
  12. ^ a b c d e 森 2014 p.45
  13. ^ 1949年11月23日 読売新聞「孝宮さまの御婚約御内約順調に進む 選ばれた東本願寺の大谷光紹氏」
  14. ^ a b ヴァイニング 2015 p.408
  15. ^ a b 昭和の母皇太后さま 2000 p.185
  16. ^ 森 2014 p.45-44
  17. ^ 森 2014 p.27
  18. ^ ヴァイニング 2015 p.409
  19. ^ ヴァイニング 2015 p.410
  20. ^ 『官報』第6943号「皇室事項」、昭和25年3月6日(NDLJP:2963487/3
  21. ^ 1950年3月4日読売新聞 「[希望探訪]ダンスもお稽古 平通氏とは3日に1度お逢い/孝宮さまの婚約時代」
  22. ^ 森 2014 p.44
  23. ^ ヴァイニング 2015 p.411-412
  24. ^ ヴァイニング 2015 p.411
  25. ^ ヴァイニング 2015 p.412
  26. ^ ヴァイニング 2015 p.413-414
  27. ^ ヴァイニング 2015 p.414
  28. ^ 森 2014 p.37-36
  29. ^ a b 森 2014 p.34
  30. ^ 森 2014 p.33
  31. ^ 森 2014 p.32
  32. ^ 森 2014 p.31-30
  33. ^ 森 2014 p.31
  34. ^ 昭和25年宮内庁告示第4号(『官報』第7004号、昭和25年5月20日)(NDLJP:2963550/6
  35. ^ ヴァイニング 2015 p.412-413
  36. ^ ヴァイニング 2015 p.415
  37. ^ ヴァイニング 2015 p.418
  38. ^ 1955年12月18日 読売新聞「鷹司和子さん死産」ほか
  39. ^ 1964年5月1日読売新聞夕刊「島津さん一家渡米 義宮さまもお見送り」
  40. ^ 1968年8月22日 読売新聞「鷹司和子さん指にケガ 強盗からナイフ奪って」
  41. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」昭和16年10月23日

参考文献

[編集]
  • 女性自身編集部 編『昭和の母皇太后さま : 昭和天皇と歩まれた愛と激動の生涯 : 保存版』光文社、2000年7月。ISBN 4334900925 
  • 森暢平「昭和20年代における内親王の結婚:「平民」性と「恋愛」の強調」『成城文藝』、成城大学、2014年12月、50-24頁、NAID 110009879052 
  • E・G・ヴァイニング皇太子の窓』小泉一郎訳、文藝春秋文春学藝ライブラリー〉、2015年4月20日。ISBN 978-4168130441  ※原著初版は1951年
  • 小松大秀監修『明治150年記念 華ひらく皇室文化 −明治宮廷を彩る技と美−』青幻社、2018年4月。ISBN 978-4861526442 

関連項目

[編集]