在チェコ日本国大使館
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(在チェコスロバキア日本帝国公使館から転送)
在チェコ日本国大使館 Velvyslanectví Japonska v Česku | |
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所在地 | チェコ |
住所 | Maltézské náměstí 6, 118 01, Praha 1 |
座標 | 北緯50度5分9.6秒 東経14度24分18秒 / 北緯50.086000度 東経14.40500度座標: 北緯50度5分9.6秒 東経14度24分18秒 / 北緯50.086000度 東経14.40500度 |
開設 | 1957年(大使館) |
大使 | 鈴木秀生 |
管轄 | チェコ |
ウェブサイト | www |
在チェコ日本国大使館[1](チェコ語: Velvyslanectví Japonska v Česku、英語: Embassy of Japan in Czechia)は、チェコの首都プラハにある日本の大使館。
プラハに日本の大使館が置かれたのは第二次世界大戦が終結してからで、20世紀前半には大使館ではなく公使館や総領事館が置かれていた。
2020年3月20日、現地採用のチェコ人職員1名が新型コロナウイルスに感染し、翌21日に日本国外務省が公表した。外務省本省や日本の在外公館で感染者が確認されたのは初めて[2]。
沿革
[編集]- 大正年間、在チェコスロバキア日本帝国公使館(在チェッコスロバキア日本帝国公使館[3]、在チェッコスロヴァキア日本帝国公使館)が開設される
- 1921年11月18日、初代特命全権公使の長岡春一が着任する[4]
- 1939年3月14日~15日、チェコスロバキア東部のスロバキア地域が独立してスロバキア共和国を形成する一方で、ミュンヘン協定を反故にしたナチス・ドイツがチェコを占領してベーメン・メーレン保護領を形成[5]
- 1939年4月30日、プラハの帝国公使館が閉鎖される[4][6]
- 1939年5月1日、在プラハ日本帝国総領事館(在プラーグ日本帝国総領事館、チェコ語: Generální konzulát Japonska v Praze、英語: Consulate-General of Japan in Prague)が開設される[6]
- 1941年2月28日、当時プラハ総領事代理を務めていた杉原千畝が、前年のソ連邦によるバルト三国併合後に新設が定められたばかりの在ケーニヒスベルク日本帝国総領事館勤務を命じられてプラハを発つ[7][8]
- 1941年12月8日、ロンドンのチェコスロバキア亡命政府が大日本帝国に宣戦布告[9]
- 1942年11月4日、在ケーニヒスベルク総領事館の新設とほぼ入れ替わりで閉鎖された在プラハ総領事館の建物がドイツ政府に譲渡される[7]
- 1945年5月7日、ナチス・ドイツが降伏を宣言して第二次世界大戦の枢軸国陣営から離脱(西部戦線の終戦は翌8日)[10]
- 1945年5月11日、赤軍が主力となってナチス・ドイツの残党を蹴散らしてプラハを占領[11]
- 1945年8月15日、第二次世界大戦の敗戦により大日本帝国が崩壊[12]
- 1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約の発効により日本国が独立したが[13]、チェコスロバキアは同条約の締結国ではない[9]
- 1957年3月6日、日本がチェコスロバキアとの国交を回復させるより先に在チェコスロバキア日本国大使館(在チェッコスロヴァキア日本国大使館[14])の開設が定められる[15]
- 1957年10月9日、国交回復に先立ってプラハの日本国大使館が開設される[4]
- 1959年2月13日、日本国とチェッコスロヴァキア共和国との間の国交回復に関する議定書(日・チ復交議定書)が署名される[9]
- 1959年5月8日、ロンドンで復交議定書の批准書交換が行われ、日本とチェコスロバキアの国交が回復する[9]
- 1989年12月~1990年4月、チェコスロバキアが国名を改称するに当たって、国名をハイフンなしの Československo とするかハイフンありの Česko-Slovensko とするかを巡ってプラハの議会で大論争が繰り広げられる(ハイフン戦争)
- 1991年3月30日、日本の衆議院がハイフンありの表記を支持する法改正を可決して[16]、翌4月1日、プラハの大使館が在チェコ・スロバキア日本国大使館(在チェッコ・スロヴァキア日本国大使館[17])に改称される[4]
- 1993年1月1日、チェコ・スロバキアが解体されて新たにチェコ共和国とスロバキア共和国が独立したが、日本は独立と同時に両共和国を承認[18][19]
- 1993年3月30日、日本の衆議院がチェコ・スロバキア解体などに伴う法改正を可決して[20]、翌4月1日、プラハの大使館が在チェコ日本国大使館(在チェッコ日本国大使館[21])に改称される[4]
住所
[編集]所在地
[編集]Maltézské náměstí 6, 118 01, Praha 1[22]
私書箱
[編集]P.O. Box 91, 118 01 Prague 1[22]
出典・脚注
[編集]- ^ 在チェッコ日本国大使館、あるいは「共和国」を付けて、在チェコ共和国日本国大使館(在チェッコ共和国日本国大使館、チェコ語: Velvyslanectví Japonska v České republice、英語: Embassy of Japan in the Czech Republic)と呼ばれることも少なくない。
- ^ 在チェコ大使館で感染者 在外公館初、現地採用者―新型コロナ:時事ドットコム
- ^ チェコスロバキア Czechoslovakia は、大日本帝国の公文書において「チェッコスロバキア」または単に「チェッコ」と呼ばれていた。「チェッコスロヴァキア」が優勢になったのは戦後になってから。
- ^ a b c d e 歴代駐チェコ日本国大使 | 在チェコ日本国大使館
- ^ 第二次世界大戦: 時系列 | The Holocaust Encyclopedia
- ^ a b 日本外交文書デジタルコレクション昭和期III第2巻「五 欧州政情 > 4 ドイツによるチェコスロバキア解体 > (3)チェコ併合とスロバキアの保護国化」
- ^ a b 田嶋信雄「<論説>ナチ時代のベルリン駐在日本大使館 : 人と政策 (矢崎光圀先生古稀祝賀記念号)」『成城法学』第48巻、成城大学法学会、1995年3月、401-421頁、ISSN 03865711、CRID 1050282812450297216。
- ^ 杉原千畝 関連年表 | 杉原千畝について | 杉原千畝記念館
- ^ a b c d わが外交の近況 昭和32年9月 > 一 我が国と各地域との間の諸問題 > ソ連及び東欧関係 > チェッコスロヴァキアとし国交回復(『わが外交の近況』は、昭和62年以降の『外交青書』に相当する公文書)
- ^ 1945年5月8日戦勝記念日 - La France au Japon
- ^ David T. Zabecki, “World War II in Europe: An Encyclopedia,” p.1444, right ll.17-19
- ^ 山田朗「日本の敗戦と大本営命令」『駿台史学』第94号、明治大学史学地理学会、1995年3月、132-168頁、ISSN 05625955、NAID 120001439091。
- ^ VI 平和条約の批准・発効
- ^ チェコスロバキア Czechoslovakia は、同国の国名が改称されるまで戦後日本の公文書においてもっぱら「チェッコスロヴァキア」と呼ばれていたが、民間では「チェコスロバキア」と呼ばれることも少なくなかった。
- ^ 第26回 衆議院 外務委員会 昭和32年3月6日 第8号|国会会議録検索システム
- ^ 法律第五号(平三・三・三〇) 在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律の一部を改正する法律
- ^ チェコ・スロバキア Czecho-Slovakia は、同国が解体されるまで日本の公文書においてもっぱら「チェッコ・スロヴァキア」と呼ばれていたが、民間では「チェコ・スロバキア」、あるいは引き続きハイフンに相当する中黒の点(・)を付けずに表記されることも少なくなかった。
- ^ チェコ基礎データ | 外務省
- ^ スロバキア基礎データ | 外務省
- ^ 法律第二号(平五・三・三一) 在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律の一部を改正する法律
- ^ 2003年の在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律の改正まで、小さいツの入った「チェッコ」が日本の公文書における正式表記であった。
- ^ a b 大使館案内 | 在チェコ日本国大使館
関連項目
[編集]- 杉原千畝 - 在プラハ総領事館で総領事代理として奉職。プラハ赴任前に、リトアニアの臨時首都カウナスの領事代理在職中にユダヤ人を中心とした避難民にビザ(命のビザ)を発給したことで有名。
- 日本とチェコの関係
- 駐日チェコ大使館
外部リンク
[編集]- 在チェコ日本国大使館、同
- 在チェコ日本国大使館 (velvyslanectviJapan.Czech) - Facebook
- ウィキメディア・コモンズには、在チェコ日本国大使館に関するカテゴリがあります。