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第15回ヴェネツィア国際映画祭

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第15回ヴェネツィア国際映画祭は、1950年8月20日から9月10日にかけて開催された[1]

上映作品

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コンペティション部門
日本語題 原題 監督 製作国
Morning Departure ロイ・ウォード・バーカー イギリスの旗 イギリス
Ce siècle a cinquante ans デニース・バチェフ
ローランド・トゥアル
ヴェルナー・マルブラン
フランスの旗 フランス
西ドイツの旗 西ドイツ
Das vierte Gebot エドアルト・フォン・ボルゾディ  オーストリア
裁きは終りぬ Justice est faite アンドレ・カイヤット フランスの旗 フランス
コンクリートの中の男 Give Us This Day エドワード・ドミトリク イギリスの旗 イギリス
わが心は君に The Dancing Years ハロルド・フレンチ イギリスの旗 イギリス
Rosauro Castro ロベルト・ガヴァルドン メキシコの旗 メキシコ
Frauenarzt Dr. Prätorius カート・ゲッツ
カール・ペーター・ギルマン
西ドイツの旗 西ドイツ
Epilog: Das Geheimnis der Orplid ヘルムート・コイトナー 西ドイツの旗 西ドイツ
My Father's House ハーバード・クライン
ジョセフ・レイテス
パレスチナ国の旗 パレスチナ
Mi Klalah L'Brahah ジョセフ・クラムゴールド イスラエルの旗 イスラエル
Domani è troppo tardi レオニード・モギー イタリアの旗 イタリア
輪舞 La ronde マックス・オフュルス フランスの旗 フランス
女狐 Gone to Earth マイケル・パウエル
エメリック・プレスバーガー
イギリスの旗 イギリス
神の道化師、フランチェスコ Francesco, giullare di Dio ロベルト・ロッセリーニ イタリアの旗 イタリア
La vie commence demain ニコル・ヴェドレス フランスの旗 フランス
È più facile che un cammello... ルイジ・ザンパ イタリアの旗 イタリア

ロベール・ブレッソン

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ジャン=リュック・ゴダールは「ドストエフスキーがロシアの小説に、モーツァルトがドイツの音楽に対して占める位置を、ブレッソンはフランスの映画に対して占めている」と評した[2]。また、自身の監督作『ゴダールの映画史』(1998年)や『愛の世紀』(2001年)でブレッソンの著書『シネマトグラフ覚書』を引用している。

作品

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  • 公共問題 Les Affaires publiques (1934年) 短編  
  • 罪の天使たち Les Anges du péché (1943年)
  • ブーローニュの森の貴婦人たち Les Dames du Bois de Boulogne (1945年)
  • 田舎司祭の日記 Journal d'un curé de campagne (1951年)
  • 抵抗 (レジスタンス) - 死刑囚の手記より Un condamné à mort s'est échappé ou le vent souffle où il veut (1956年) DVD題『抵抗 死刑囚は逃げた』
  • スリ Pickpocket (1959年)
  • ジャンヌ・ダルク裁判 Procès de Jeanne d'Arc (1962年)
  • バルタザールどこへ行く Au hasard Balthazar (1966年)
  • 少女ムシェット Mouchette (1967年)
  • やさしい女 Une femme douce (1969年)
  • 白夜 Quatre nuits d'un rêveur (1971年)
  • 湖のランスロ Lancelot du Lac (1974年)
  • たぶん悪魔が Le Diable probablement (1977年) 
  • ラルジャン L'Argent (1983年)

受賞歴

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ウンベルト・ソラス

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ウンベルト・ソラス
Humberto Solás
本名 Humberto Solás Borrego
生年月日 (1941-12-14) 1941年12月14日
没年月日 (2008-09-18) 2008年9月18日(66歳没)
出生地 ハバナ
死没地 ハバナ
国籍  キューバ
職業 映画監督
ジャンル 映画
活動期間 1959年 - 2005年
主な作品
『ルシア』
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ウンベルト・ソラスHumberto Solás, 1941年12月14日 - 2008年9月18日) は、キューバ映画監督

来歴

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1941年12月14日ハバナで生まれる引用エラー: <ref> タグに対応する </ref> タグが不足しています

テオ・アンゲロプロス

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来歴

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1935年4月27日、アテネで生まれる。

1986年の『蜂の旅人』はスウェーデン人ラルス・グスタフソンの小説『養蜂家の死』を元に製作された。主演にはイタリアの俳優マルチェロ・マストロヤンニが起用された。ナディア・ムルジが演じた若い娘役には当初ジュリエット・ビノシュの起用が予定されていた。当初の上映時間は140分だったものの、プロデューサーのマラン・カルミッツの要求を受けて18分間短縮された。同作はヴェネツィア国際映画祭に出品されたが無冠に終わった。同映画祭の記者会見でアンゲロプロスは「人間について語るべきで、象徴について語るべきではない」と語った。また、この年、雑誌『映画報』にて、政治映画から個人を描く映画に移行したことについて、「一つの時代が終わったことは明らかである」と述べている。

1988年の『霧の中の風景』は「二人の子供がドイツにいる父親に会うために家出した」という新聞の三面記事に基づいている。アンゲロプロスは当初、自分の娘に語るためにこの記事から物語を構想していた。脚本の結末はアンゲロプロスが構想していたものから、娘たちの意向が反映されたものに変更された。姉弟を演じた二人の子供はオーディションによって選出された。撮影中、姉ヴーラ役のタニア・パライオログウは青年オレステス役のストラトス・ジョルジョグロウに恋愛感情を抱いていたという。同作はヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した。金獅子賞の筆頭候補であったが、イタリアで映画を巡る経済戦争が勃発しており、そのためにエルマンノ・オルミの『聖なる酔っぱらいの伝説』に大賞が渡ったという見方もある。同作はその他にシカゴ国際映画祭監督賞、ヨーロッパ映画賞作品賞を受賞した。

1990年代に入り、アンゲロプロスは国境を主題とした三部作の製作に着手する。1作目の『こうのとり、たちずさんで』はゲーテの『若きウェルテルの悩み』を下敷きにしたもので、当初は『大いなる移民』と名付けられていた。撮影はギリシャ、トルコ、ブルガリアが接する河辺の国境地帯で行われた。しかし撮影は、同作を「反愛国的で反道徳的」だと見なした同地の司教によって脚本が盗まれるなどの妨害に見舞われた。ヘリコプターと兵士の使用許可も直前になって政府から拒否された。これらに対し、黒澤明や大島渚、ヴィム・ヴェンダース、マーティン・スコセッシ、エットーレ・スコラ、クシシュトフ・ザヌーシ、ジュールズ・ダッシンといった世界中の映画監督たちから連帯を表明する電報がアンゲロプロスの元に送られた。しかし、妨害は収まらず、アンゲロプロスは撮影中に二度の入院を経験した。完成した同作はカンヌ国際映画祭に出品され、ジャック・リヴェットの『美しき諍い女』とともにその年の最重要作品と評されたが、受賞には至らなかった。

イングマール・ベルイマン

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イングマール・ベルイマン
Ingmar Bergman
Ingmar Bergman
野いちご』撮影中のベルイマン (1957年
本名 アーンシュト・イングマール・ベルイマン
Ernst Ingmar Bergman
生年月日 (1918-07-14) 1918年7月14日
没年月日 (2007-07-30) 2007年7月30日(89歳没)
出生地  スウェーデン ウプサラ
死没地  スウェーデン フォール島
職業 映画監督脚本家舞台演出家
活動期間 1944年 - 2004年
配偶者 エルセ・フィッシェル (1943年 - 1945年
エレン・ルンドストレム (1945年 - 1950年
グン・ハーグベルイ (1951年 - 1959年
ケービ・ラレテイ (1959年 - 1969年
イングリッド・フォン・ローゼン (1971年 - 1995年
著名な家族 ダニエル・ベルイマン (息子)
公式サイト IngmarBergman.se (スウェーデン語)
IngmarBergman.com (英語)
The Seduction of Ingmar Bergman (英語)
主な作品
第七の封印
野いちご
処女の泉
鏡の中にある如く
『仮面/ペルソナ』
叫びとささやき
ファニーとアレクサンデル
受賞
アカデミー賞
外国語映画賞
1960年処女の泉
1961年鏡の中にある如く
1983年ファニーとアレクサンデル
カンヌ国際映画祭
審査員特別賞
1957年第七の封印
監督賞
1958年女はそれを待っている
特別賞
1960年 『処女の泉』
ヴェネツィア国際映画祭
審査員特別賞
1959年 『魔術師』
ベルリン国際映画祭
金熊賞
1958年野いちご
ニューヨーク映画批評家協会賞
作品賞
1972年叫びとささやき
監督賞
1972年叫びとささやき
1983年ファニーとアレクサンデル
外国語映画賞
1983年ファニーとアレクサンデル
ゴールデングローブ賞
外国語映画賞
1959年 『野いちご
1960年 『処女の泉
1974年 『ある結婚の風景
1976年 『鏡の中の女
1978年 『秋のソナタ
1983年ファニーとアレクサンデル
その他の賞
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イングマール・ベルイマンIngmar Bergman, 1918年7月14日 - 2007年7月30日) は、スウェーデン映画監督脚本家舞台演出家。スウェーデンを代表する世界的な映画監督として知られる。日本ではイングマール・ベルイマンと表記されるが、スウェーデン語に近い発音はインマル・バリマンである[3]

生涯

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生い立ち

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父エーリック

1918年7月14日ストックホルム近郊の田舎町ウプサラで生まれた[4]。父エーリックは教会の首席牧師であり[5]、教区民から人気のある聖職者だった[5]。しかし、家庭では短気であり、子供たちに対して極めて厳格だった[6]。母カーリンは家事だけでなく、夫の補佐として教会の仕事を手伝っており[6]、その負担から不眠症に苦しんでいた[7]牧師館での生活は常に他人の視線にさらされるものであり[8]、そのために両親は完璧主義者であった[9]。カーリンは日記に離婚への願望を綴っていた[7]

一家の教育は「罪と罰」や「告白と赦し」といった概念から成り立っており[10]、罰は体罰や暗い部屋への監禁、食事や外出、会話の禁止など厳格だった[10]。反抗的な兄ダーグは父と対立し[9]、両親に従った妹マルガレータは母から溺愛された[7][9]。ベルイマン自身は嘘と空想好きの子供になった[9][11]。空想の世界に入り込むと現実を認識できなくなり[12]、時間に遅刻し[12]、学校へ通うのを拒否した[13]。ベルイマンは母を溺愛し[14]、4歳の時に妹が生まれてからは強い嫉妬心を抱いたという[15]。冷淡な態度が嫌いだった母の気を引くため[14]、感情を抑えて無愛想な態度を演じるようにもなった[13]。そのため、次第に現実の自己と仮想の自己を区別することが出来なくなったという[9]

6歳の時、ベルイマンはイタリアダーラナ地方の別荘で暮らした[16]。この別荘は大富豪だった母方の祖母アンナ・オーケルブロムが所有していたもので[11]、アンナは少年時代のベルイマンに多大な影響を与えた[17]。アンナはベルイマンに対して極めて優しく接し[18]、ベルイマンが関心を持っていた世界や人生、死についての話をした[18]。二人は漫画を交互に書き合って、物語を共作したりもした[19]。また、アンナは映画好きでもあり、ベルイマンは彼女に連れられて映画館に通った[18]

別荘での生活中、ベルイマンは子守りとしてやって来た若い娘リネアに恋をした[20]。ベルイマンは彼女の気を引くために、麦わらに刺した野いちごをプレゼントしたりしていた[20]9月のある日、ベルイマンはキッチンで一人泣いているリネアを発見した[21]。驚いたベルイマンは彼女を抱き締めたが、リネアに突き放された[21]。数日後、一家がストックホルムに帰る際、リネアが一緒に着いて来ることはなかった[21]。40年後、ベルイマンはリネアのその後を母カーリンに尋ねた[21]。カーリンによるとリネアは妊娠したが相手の男に認知されず、エーリックは妊娠した娘を牧師の家には置けないと言って彼女を解雇した[21]。数ヶ月、彼女は鉄橋から飛び降りて自殺したという[21]。このエピソードは後の『野いちご』(1957年)で、老医師が回想する青春時代の失恋として描かれた[22]

ベルイマンは初めて映画を観て以来、その虜となっていた[14]。ある年のクリスマス、ベルイマンはアンナから欲しかった映写機を貰った[12][注 1]。それ以来、ベルイマンは映写機に夢中になった[24]。また、人形劇も行い、舞台装置家演出家としての想像力を育んだ[25]。12歳の時には毎晩のように劇場に通い、演劇に夢中になった[26]

1934年、16歳の時に交換留学生としてドイツに1ヶ月半滞在した[4][27]。この期間、ベルイマンはホームステイ先の家族とともにワイマールで開催されたナチスの党大会に出掛け、ヒトラーの姿を目撃した[28]。誕生日にはヒトラーの写真をプレゼントされ[29]、友人からはドイツ人にとってユダヤ人がいかに脅威かを説明された[29]。戦後、ホロコーストについて知ると、絶望感を抱いて自己嫌悪に陥ったという[30]。ベルイマンは「政治のことはもうたくさんだ」と決意したが[30]、後に「私はそれとは正反対の決意をしておくべきだった」と語った[30]

1938年、ストックホルム高校に入学すると[4]、奉仕活動の一環として行われた学生演劇に熱中した[31]。ベルイマンは女優のマリアと交際し、アパートで共同生活を始めた[31]。家に帰らないことを父から責められると、ベルイマンは19歳で家出した[31][32]。その後、兄は自殺未遂を図り[33]、妹は妊娠するも、家族から中絶を強いられた[33]

劇場監督としてのキャリア

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青年期のベルイマン

1939年、ストックホルムのオペラ劇場から児童劇の監督を依頼され[4][33]、ベルイマンは初めてプロの俳優が出演する舞台の演出を手がけた[33]

1940年、高校を中退し、ヨナタン・エスビョルンソン劇団の小道具・証明係として旅公演に同行した[4][33]。しかし、給料はまともに貰えなかった[33]。ベルイマンはオッフェンバックの『地獄のオルフェ』に出演して生活費を稼いだ[34]

1943年、12篇の戯曲と1篇のオペラを執筆し[4][34]、そのうちの『カスパルの死』が上演されることになった[34]。初日は『スウェーデン日報』の劇評に載るなど好評を博し[34]、最終日にはスウェーデン映画社のカール・アンデシュ・ディムリングらが観劇に訪れた[34]。翌日、同社のシナリオ部長スティーナ・ボーグランドから脚本家としてのオファーを受け、ベルイマンはスウェーデン映画社に就職した[34]

1944年ヘルシンボリ市立劇場の監督に25歳で就任し[4][35][36]、ベルイマンはスウェーデン史上最年少の劇場監督となった[37]。その劇場はスウェーデンで最も古く[36]、一晩の観客は30人にも満たなかったが[37]、ベルイマンにとっては「楽園」だった[37]。同年は9本の公演を行い、入場者数は7万人に達した[38]。首都新聞からも注目されるようになり[39]、翌1945年新年に行った特別公演は35日間のロングランとなった[40]。ベルイマンを含め、劇団員は第二次世界大戦には関心がなかった[41]

1946年イェーテボリ市立劇場の監督に就任[42][43]カミュの『カリギュラ』やシェイクスピアの『マクベス』、テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』などを演出した[43]

劇場監督に就任した最初の年、ベルイマンは『マクベス』など5本の戯曲を演出したが[44]、演劇理論は基本的に独学で、スタニスラフスキー演技理論にも興味を示さなかった[44]。ベルイマンは自分自身に「お前には才能がある。天才だ」とささやいていたという[44]。この時期の自身についてベルイマンは「私はプロスペローのようになりたいと思っていたが、大抵はキャリバンのように大声でわめいていた」と後述した[42]

ベルイマンは1943年にエルセ・フィッシェルと最初の結婚をし、娘のレーナを授かっていたが[4]、ヘルシンボリには家族を連れて来なかった[38]。1945年の春、妻と娘がともに結核にかかったことが判明し[38]、ベルイマンは劇場監督と脚本家を両立して家族を養った[38]。エルセはベルイマンの劇場で振付師舞踊家として働く予定だったが[39]、代わりにエルセの友人のエレン・ルンドストレムが加入した[39]。その後、エレンと恋愛関係になり[39]、1945年にベルイマンは養育費の支払いを条件にエルセと離婚し[39]、エレンと再婚した[43]。同年、娘のエーヴァが生まれた[43]。1946年には息子のヤンが生まれた[42]

映画監督としてデビュー

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1943年、スウェーデン映画社に脚本家として就職したベルイマンは、学生時代の出来事を元に初の脚本『もだえ』を執筆[34]。同作がベルイマンの尊敬するアルフ・シェーベルイによって映画化されることになった[34][35]。ベルイマンはシェーベルイの許可を得て[36]、助監督として撮影にも参加した[45]。翌1944年に完成した同作は1946年第1回カンヌ国際映画祭グランプリを受賞した[45][46]

1946年、初の長編『危機』を発表[47]。ベルイマンは26歳で映画監督としてデビューした[47]。同作はカール・アンデシュ・ディムリングから依頼されたデンマークのレック・フィッシェルの小説Moderdyret (母性本能)』を元に執筆した脚本を映画化したもので[35]、ベルイマンはこの小説を酷評していたが、同作がデビュー作に決まった[35]。撮影は1945年6月に開始されたが[47]、主演のダグニー・リンドは素人であり[48]撮影監督のイェスタ・ロースリングとは意見が対立した[49]。その上、ベルイマンと同い年のプロデューサーは陰でベルイマンを笑い者にしていたという[50]。ベルイマン自身の経験不足もあり、撮影初日は撮影助手が負傷するなど散々な結果に終わった[48][50]。現場からは製作の中止や監督の交代を希望する声も上がったが[48]、ラッシュを視聴したディムリングは「良くはないが前途有望」とベルイマンを評し、撮り直しを提案した[48]。その後、ベルイマンに映画製作のアドバイスをしたのはスウェーデンを代表する映画監督ヴィクトル・シェストレムだった[48]

『危機』の撮影中、孤立無援の状態だったベルイマンに唯一協力的だったのは編集技師のオスカル・ロサンデルだった[51]。ロサンデルは編集は撮影と同時に始まっていることをベルイマンに教え、この考え方がベルイマンの映画製作の原則となった[51]

その後、数本の低予算映画の中で自らのスタイルを模索し、1950年の『夏の遊び』の頃からそののスタイルを確立した。1952年の『不良少女モニカ』がフランスヌーヴェル・ヴァーグの作家たちに賞賛された。しかし、多くの作品は興行的な成功を得られなった。

国際的評価

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野いちご』(1957年) 撮影中のベルイマンとヴィクトル・シェストレム

スウェーデン映画社を離れて製作した『女たちの夢』(1955年)の興行的不振を受け、ベルイマンは再び同社の元で製作することを決めた[52]悲劇を製作しないことをカール・アンデシュ・ディムリングと約束したベルイマンは興行的成功のため、コメディを製作することにした[52]

同年、複数の男女の恋愛を描いた喜劇夏の夜は三たび微笑む』を発表[52]。翌1956年第9回カンヌ国際映画祭に出品され、特設された詩的ユーモア賞を受賞した[53]。ベルイマンは映画祭への出品を知らず、受賞は新聞記事で初めて知ったという[52]。同作でベルイマンは初めて国際的な評価を受け、以後は「神」や「死」などを主題とした宗教的かつ実存的な作品の製作が可能となった[54]。一方、同作の撮影中にベルイマンは心身症を患い[55]、ハリエット・アンデルセンとも破局を迎えた[56]

1957年ペストが蔓延する中世を舞台に、死神チェスで対決する騎士を通じて「死」を描いた『第七の封印』を発表した[57]。同作はベルイマンが脚本を提出した際にはスウェーデン映画社に製作を拒否されたが、最終的には低予算と36日以内での撮影という条件の元で製作されることになった[57]。完成した同作は第10回カンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞した[58]エリック・ロメールは「これまでで最も美しい映画の一つ」と評し[57]ウディ・アレンは「最も影響を受けた作品の一つ」に同作を挙げた[59]。ベルイマン自身も「人間の根源的な状況が描かれている」としてお気に入りの作品に挙げた[60]

同年、旅路で人生を回想する老医師の一日を描いた『野いちご』を発表した[22]。ベルイマンは同作の脚本を前述した心身症の治療のために入院していた時期に執筆した[22]。同作ではベルイマン自らの説得によってヴィクトル・シェストレムの出演が実現したが[61]、病弱な上に数々の注文を付けるシェストレムに対し、ベルイマンは様々な配慮をする必要があった[55]。また、シェストレムは共演した女優に花束を贈るなどしており、ベルイマンはシェストレムとビビ・アンデショーンが草原で戯れる姿を二人に気づかれずに撮影した[61]。そのシーンはジャン=リュック・ゴダールに絶賛された[22]。シェストレムが演じたイーサクはベルイマンの父が投影された人物だが、ベルイマンは「イーサクは私自身だ」と語った[22]。同作は第8回ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞し[62]、第17回ゴールデングローブ賞外国語映画賞も受賞した[63]

1958年、出産を通じて三人の女を描いた『女はそれを待っている』を発表[64]第11回カンヌ国際映画祭監督賞を受賞し[65]イングリッド・チューリン、ビビ・アンデショーン、エヴァ・ダールベック、バルブロ・ヒオルト・アフ・オルネスにも同映画祭女優賞をもたらした[65]

同年、19世紀のスウェーデンを舞台に魔術科学二項対立を描いた『魔術師』を発表[66]。翌1959年の第20回ヴェネツィア国際映画祭審査員特別賞を受賞した[66]

1960年、娘を殺された父親の復讐を通じて「信仰」を問いかけた『処女の泉』を発表[67]。若い娘が陵辱されるという内容が物議を醸したが[68]第33回アカデミー賞外国語映画賞を受賞した[69]。同作はベルイマンの念願の企画であり[70]、製作直後には同作を「これまでの私の最高傑作の一つ」と語った[67]。また、同作で撮影監督を務めたスヴェン・ニクヴィストは以後、ベルイマンの作品に欠かせない存在となった[71]。ベルイマンはこれ以降、『第七の封印』や『処女の泉』に見られる「神の沈黙」を主題とした作品の製作に着手した[72]

「神の沈黙」三部作

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鏡の中にある如く』(1961年) 撮影中のベルイマンとスヴェン・ニクヴィスト

1961年、ある島で暮らす精神疾患の娘と彼女の夫、娘の病気を小説の題材にする父親、娘の弟の4人の関係を通じて「神の存在」を問いかけた『鏡の中にある如く』を発表した[72]。同作のタイトルは元々『The Wallpaper (壁紙)』であった[72]。ロケ地にはベルイマンが一目見て気に入ったというフォール島が選ばれ、撮影監督には前作の『処女の泉』に引き続きスヴェン・ニクヴィストが起用された[72]。同作は2作連続となるアカデミー外国語映画賞を受賞した[73]

1963年、信仰心を失った牧師の姿を描いた『冬の光』を発表[74]グンナール・ビョルンストランドが演じた牧師はベルイマンの父親が投影された[74]。内省的な同作は観客と批評家から不評を買い、退屈な映画という意見が支配的であった[74]。中には「目を覚ませ、イングマール」という見出しの批評もあった[74]。ベルイマン自身も同作の興行的不振を予想していた[74]。しかし、現在ではベルイマンの傑作の一つだと見なされており[74]アンドレイ・タルコフスキーは「最も好きな映画の一つ」に同作を挙げた[75]。また、同作はカール・テオドア・ドライヤーの作品やロベール・ブレッソンの『田舎司祭の日記』(1951年)と比較された[74]

同年、異国の土地を旅する対照的な姉妹の確執と苦悩を描いた『沈黙』を発表[76]。姉妹と少年が訪れる街はベルイマン自身が夢の中で何度も見たベルリンの風景がモチーフとなった[77]。ベルイマンはこの夢の中のベルリンをラジオドラマThe City』(1951年)でも描いており[76][77]、その後も『蛇の卵』(1977年)で再現した[76][77]。同作はベルイマンとニクヴィストにとって最も優れた作品の一つとなったが[76]、性的に奔放な妹と一人自慰に耽る姉の対立を扱った同作は衝撃を与え、一部ではポルノ映画として扱われた[76]。しかし、これによって同作は興行的な成功を収めた[74][76]

『鏡の中にある如く』、『冬の光』、『沈黙』は「神の沈黙三部作」と称されている[72][74][76]

1964年、初のカラー作品となった喜劇『この女たちのすべてを語らないために』を発表[78]。しかし、興行的にも批評的にも失敗に終わった[79][80]。同作に関してベルイマンは「ロケットを打ち上げる時にはそれを中止させる決断が必要なこともある。私に欠けていたのはそういう勇気であった」と後述した[80]

1965年エラスムス賞チャールズ・チャップリンとともに受賞した[81]

リヴ・ウルマンとの出会い

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リヴ・ウルマン2001年

1966年前衛的な表現を取り入れながら、看護師と患者の二人の女の関係を描いた『仮面/ペルソナ』を発表[82]。主演にはビビ・アンデショーンとノルウェー出身の舞台女優リヴ・ウルマンが起用された[82]。ベルイマンはウルマンの演技を見たことがなかったが、アンデショーンと容姿が似ていたため、本作への起用を決めた[82]。同作はフランスの『カイエ・デュ・シネマ』誌に「最も美しいベルイマンの映画」と評され[82]1967年の年間ベストテンの第1位に選出された[83]。また、スーザン・ソンタグは同作を「レズビアンに関する映画」と位置づけた[82]。同作はベルイマンのフィルモグラフィーにおける分岐点と見なされることもある[82]

同作の撮影中、ベルイマンはウルマンと恋愛関係になり[84]、二人は同作の舞台となったフォール島に移住した[84]。ウルマンは同作で国際的に評価され、以後、ベルイマンは多くの作品でウルマンを重用した[82]

1968年、孤島に住む芸術家の苦悩を描いた『狼の時刻』を発表[85]マックス・フォン・シドーが演じたユーハンはベルイマン自身との類似性が指摘された[85]

同年、戦争を避けて孤島で暮らす夫婦が戦争に翻弄される姿を描いた『恥』を発表[86]。しかし、ベトナム戦争などの政治的問題に関与しないベルイマンの姿勢はラディカルな批評家に批判された[86]

1969年、5年ぶりにカラー映画を手がけ、孤島で暮らす夫婦の狂気を描いた『情熱』を発表[87][注 2]。翌1970年第23回カンヌ国際映画祭のコンペティション外で上映され、批評家から絶賛された[87]

『狼の時刻』、『恥』、『情熱』はいずれもフォール島を舞台とし、ウルマンとフォン・シドーがそこで暮らす夫婦を演じた[85][86][87]。ベルイマンはこれらの作品を「構想は雄大だが、失敗に終わった」と語った[88]

1970年代

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1972年、イングリッド・チューリン、ハリエット・アンデルセン、リヴ・ウルマンらを起用し、三姉妹と女中の四人の女の関係を描いた室内劇『叫びとささやき』を発表[89]アカデミー賞作品賞監督賞にノミネートされ、スヴェン・ニクヴィストが撮影賞を受賞した。同作では色彩に赤が多用されている[89]

1973年テレビシリーズ『ある結婚の風景』を製作。

1975年、『魔笛 (1975年の映画)|魔笛』を製作。

1976年、リヴ・ウルマン演じる精神科医のトラウマを描いたテレビ映画鏡の中の女』を発表。ベルイマン自身は失敗作としたが、ゴールデングローブ賞外国語映画賞を受賞した。

1977年1920年代のベルリンを舞台に、殺人疑惑をかけられた男の顛末を描いた『蛇の卵』を発表。同作は後述する脱税疑惑の後、ベルイマンがスウェーデンから出国していた時期にディノ・デ・ラウレンティスのプロデュースの元、西ドイツで製作された。舞台のベルリンはベルイマンが見た夢から採用されたが[77]、ベルイマンは「舞台と時代を設定したことは失敗だった」と語った[77]

1978年、リヴ・ウルマンとイングリッド・バーグマンを起用し、7年ぶりに再会した母子の確執と赦しを描いた『秋のソナタ』を発表。自身5度目となるゴールデングローブ賞外国語映画賞を受賞した。脚本執筆時のタイトルは『母と娘と母』であった[90]。同作はノルウェーで製作された。

1980年、再び西ドイツで製作した『夢の中の人生』を発表[91][注 3]。衝動的に殺人を犯した男を描いた[91]。同作は批評的には失敗したが、ベルイマンは自身の最良の映画の一本とした[92]

脱税疑惑

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『鏡の中の女』が完成した直後の1976年1月30日、ベルイマンは舞台『死の舞踏』のリハーサル中に脱税の容疑で逮捕された[93][94]。連行される直前、劇場で仲間の一人から「稽古中じゃないんですか」と聞かれたベルイマンは警察官がいる前で「警察が私をしょっぴいているんですよ」と返したという[95]

ベルイマンは経理を弁護士に一任しており、納税申告書などには目を通さずにサインしていた[96]。そのため、ベルイマンには見に覚えのない罪であった[97]。事情聴取の後、ベルイマンは警察官に「あなたには分からないでしょうが、私にとってこれは生涯のカタストロフィーだ」と答えたという[98]

その後、告訴は棄却されたものの[90]、最終的には18万クローネの税金滞納が確定した[96]マスコミによって大々的に報道されたこの脱税疑惑はベルイマンと家族に多大な苦痛を与えた[96][99]。ベルイマンはおよそ二ヶ月精神科に入院した後[100]、1976年4月21日にスウェーデンを出国[94][101]。以後、ベルイマンは9年間の国外での生活を余儀なくされた[96]

映画監督からの引退

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1982年、自身の幼少期を描いた5時間もの大作『ファニーとアレクサンデル』を発表。アカデミー外国語映画賞、ヴェネツィア国際映画祭国際映画批評家連盟賞、セザール賞外国語映画賞など多数の賞を受賞した。

同作の発表後、ベルイマンは「映画を撮る愉しみを充分に味わい尽くした」として映画監督から引退することを宣言。その後は以前から映画製作と並行して手がけていたスウェーデン王立劇場での舞台演劇に専念、舞台演出家兼脚本家としての活動を続けた。ただし、『愛の風景』(1992年)、『日曜日のピュ』(1994年)、『不実の愛、かくも燃え』(2000年)など、自伝的作品を中心に脚本家として映画製作にも携わった。

晩年

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ベルイマンの墓

2003年に突如として、20年ぶりの監督作品『サラバンド』を発表。この映画はベルイマンにとって最初で最後となるデジタルHD撮影による作品であり、監督としての健在ぶりをアピールした。

2007年、フォーロー島(ゴトランド島の北の島)にて死去。89歳だった。

人物・作風

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作品の特徴

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『第七の封印』や『沈黙』のような、形而上学的とも言われる代表作から難解な作家とも評されるが、一方で時に難解なテーマを伴ってはいても、全体的にはわかりやすい作品も多い。また、女性を主役に据えた作品が多いのも特徴である。ベルイマンは正式な結婚を少なくとも5度行っており、そのような自身の女性遍歴を反映したかのような作品も数多く見られる。

映画製作

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映画のリズムは脚本にあるとした[51]。その上で、映画は「細部まで計算し尽された幻想」であると語り、「夢としての映画」の製作者として最も偉大な映画監督アンドレイ・タルコフスキーを挙げた[51]

影響

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ベルイマンは黒澤明フェデリコ・フェリーニと並んで「20世紀最大の巨匠」と称される[59][102]2002年イギリスの『サイト・アンド・サウンド』誌が行ったアンケート調査の中で、ベルイマンは「映画監督が選ぶ映画監督ランキング」の第8位にランクインした[103]

ジャン=リュック・ゴダールやアンドレイ・タルコフスキー、テオ・アンゲロプロスフランソワ・トリュフォーミケランジェロ・アントニオーニクシシュトフ・キェシロフスキなどのヨーロッパの映画監督だけでなく[104][105]ウディ・アレンスタンリー・キューブリックスティーブン・スピルバーグマーティン・スコセッシアルフレッド・ヒッチコックなどのアメリカの映画監督にも影響を与えた[59][104][106]。アレンは『第七の封印』を[59]、タルコフスキーは『野いちご』、『冬の光』、『仮面/ペルソナ』を[59][75]、アンゲロプロスは『仮面/ペルソナ』をそれぞれ「最も好きな作品の一つ」に挙げている[107]

人物

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幼少期から読書家であり、ドストエフスキートルストイバルザックデフォースウィフトフローベールニーチェなどを好んだ[108]。最も好きな作家ストリンドベリであった[108][109]

舞台演出

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ベルイマンの映画は舞台劇的と評されることが多いが、ベルイマン本人はあるインタビューの中で、自作の映画『ある結婚の風景』を舞台化するときに、構成やセリフのほとんどを書き換えなければならなかった例を挙げて、映画と舞台は別物であると訴えている[注 4]。ちなみに演劇では主にウィリアム・シェイクスピアアウグスト・ストリンドベリを好んで取り上げ、自らの劇団を率いて日本で大胆な解釈に基づく『ハムレット』とストリンドベリの『令嬢ジュリー』、三島由紀夫の『サド侯爵夫人』を上演したこともある。

作品

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脚本のみ

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主な受賞

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関連書籍

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  • 『ベルイマン自伝』(イングマール・ベルイマン著、木原武一訳、新潮社、1989年1月) ISBN 978-4105210014
  • 『ベルイマンは語る』(G・ウィリアム・ジョーンズ編、三木宮彦訳、青土社、1990年4月2日) ISBN 978-4791750713
  • 『ベルイマン』(小松弘著、清水書院、2000年11月) ISBN 978-4389411664

関連項目

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脚注

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注釈

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  1. ^ 正確には、映写機を貰ったのは兄のダーグであり、ベルイマンは100体の兵隊人形と交換して映写機を手に入れた[23]
  2. ^ 別題は『沈黙の島』。
  3. ^ 原題は『操り人形の生涯から』[92]
  4. ^ 「……映画用のシナリオを舞台用の台本にアレンジしたのですが、結局シナリオからはセリフを五つもらっただけだし、舞台化そのものも失敗作に終わりました。」[110]

出典

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  1. ^ Venice Film Festival (1950)”. 18 August 2014閲覧。
  2. ^ 映画の國名作選 III ロベール・ブレッソンの芸術”. 21 August 2014閲覧。
  3. ^ Bergmanの発音”. Forvo. 8 November 2014閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h 『ベルイマン自伝』P.336より。
  5. ^ a b 『ベルイマン自伝』P.147より。
  6. ^ a b 『ベルイマン自伝』P.148より。
  7. ^ a b c 『ベルイマン自伝』P.149より。
  8. ^ 『ベルイマン自伝』P.15より。
  9. ^ a b c d e 『ベルイマン自伝』P.16より。
  10. ^ a b 『ベルイマン自伝』P.14より。
  11. ^ a b 『ベルイマン自伝』P.17
  12. ^ a b c 『ベルイマン自伝』P.20
  13. ^ a b 『ベルイマン自伝』P.10より。
  14. ^ a b c 『ベルイマン自伝』P.9より。
  15. ^ 『ベルイマン自伝』P.8より。
  16. ^ 『ベルイマン自伝』P.25より。
  17. ^ 『ベルイマン自伝』写真掲載ページより。
  18. ^ a b c 『ベルイマン自伝』P.29より。
  19. ^ 『ベルイマン自伝』P.30より。
  20. ^ a b 『ベルイマン自伝』P.61より。
  21. ^ a b c d e f 『ベルイマン自伝』P.62より。
  22. ^ a b c d e Wild Strawberries”. Ingmarbergman.se. 8 November 2014閲覧。 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "Strawberries"が異なる内容で複数回定義されています
  23. ^ 『ベルイマン自伝』P.22
  24. ^ 『ベルイマン自伝』P.24より。
  25. ^ 『ベルイマン自伝』P.27より。
  26. ^ 『ベルイマン自伝』P.40より。
  27. ^ 『ベルイマン自伝』P.132より。
  28. ^ 『ベルイマン自伝』P.134より。
  29. ^ a b 『ベルイマン自伝』P.136より。
  30. ^ a b c 『ベルイマン自伝』P.137より。
  31. ^ a b c 『ベルイマン自伝』P.153より。
  32. ^ 『ベルイマン自伝』P.68より。
  33. ^ a b c d e f 『ベルイマン自伝』P.154より。
  34. ^ a b c d e f g h 『ベルイマン自伝』P.155より。
  35. ^ a b c d 『ベルイマン自伝』P.76より。
  36. ^ a b c 『ベルイマン自伝』P.156より。
  37. ^ a b c 『ベルイマン自伝』P.157より。
  38. ^ a b c d 『ベルイマン自伝』P.159より。
  39. ^ a b c d e 『ベルイマン自伝』P.160より。
  40. ^ 『ベルイマン自伝』P.158より。
  41. ^ 『ベルイマン自伝』P.161より。
  42. ^ a b c 『ベルイマン自伝』P.163より。
  43. ^ a b c d 『ベルイマン自伝』P.337より。
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外部リンク

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