利用者:Chokorin/第四作業室
本項では、日本のヒスイ文化のなりたちとその変遷について説明する。日本列島におけるヒスイ(翡翠)利用の文化の特徴としては、産地が糸魚川のヒスイ(姫川・青梅川ヒスイ)にほぼ限定されることであり、その発祥が約7000年前の縄文時代前期後葉までさかのぼることである[1][2][3][4]。これは世界的にみても最古の年代に属し、同じくヒスイ硬玉を利用したことで知られるメソアメリカのオルメカ文化(約3000年前)やそれ以降のマヤ文明よりはるかに古い起源をもつ[2][4]。このことについて、新潟大学の茅原一也(地質鉱物学)は、「日本のヒスイ文化は、世界における二大ヒスイ文化の一つである」と述べている(森(2006)pp。13-14)。
なお、宝飾分野では、まったく別の鉱物である硬玉と軟玉をともにヒスイと呼ぶことが多いが、考古学においては、ヒスイといえば硬玉(ジェダイト、ヒスイ輝石)を指し、軟玉(ネフライト、透閃石)はヒスイとは呼ばない[5][6][7](木島勉(2019)pp。121)。本項においても、単に「ヒスイ」という場合は硬玉を指す[7]。
ヒスイ | 別名 | 化学組成 | モース硬度 | 比重 | 分類・結晶系 | |
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硬玉 | ジェダイト(jadeite)、ヒスイ輝石 | NaAlSi2O6 | 6.5~7.0 | 3.3 | ケイ酸塩鉱物、単斜晶系 | |
軟玉 | ネフライト(nephrite)、透閃石 | Ca2(Mg,Fe)5Si8O22(OH)2 (Mg/(Mg+Fe)=1.0-0.9) | 6.0~6.5 | 3.0 | ケイ酸塩鉱物、単斜晶系 |
硬玉・軟玉とも結晶構造が緻密で繊維状に絡み合うことから、きわめて割れにくく、強靭性も高い(木島勉(2019)pp。121)。また、軟玉が割れやすいというのはよくある誤解であり、物理学的には軟玉の方がむしろ割れにくい性質を有している(宮島(2006)pp.38-39)。
世界でヒスイを産出する地域は、日本以外ではミャンマー(ビルマ)、ロシア、カザフスタン、イラン、グアテマラなどである[8]。そのうち、日本、ミャンマー、ロシア、グアテマラに産するヒスイ原石は、良質との定評がある[8]。
ヒスイ利用の歴史
[編集]ヒスイを利用する文化は、日本列島、朝鮮半島、中国、ヨーロッパの各地、そしてメソアメリカでみられる[1][9][10][11]。このうち、ヨーロッパにおいて、ヒスイは主として石斧、すなわち利器として用いられた[9]。その他の地域では、装飾としてのヒスイ文化が発達し、メソアメリカでは約3000年前に始まるオルメカ文化や3世紀に古典期をむかえるマヤ文明など、朝鮮半島ではだいたい4世紀以降からの硬玉ヒスイ利用が認められる。ただし、今日では朝鮮半島で見つかるヒスイ製品は、すべて日本の糸魚川原産のものであることが判明している[4][9]。なお、中国においては硬玉ヒスイの利用は比較的新しく、清代に入ってからのこととされる[1][10][11][8]。ただし中国では、それに先立って約7000年前からネフライト(軟玉)を用いた玉の文化の長い伝統がある[5][12][13]。加工のしやすいネフライトは観世音菩薩像などとして彫刻され、現代でも工芸品・土産物などとして製作されている(森(2006)p。13)。中国でジェダイト(硬玉)が用いられるようになったのは17世紀の終わりから18世紀の初めにかけてで、ビルマ(現、ミャンマー)で発見された玉類の美しさが清朝の王侯貴族の心をとらえたからであった[9][12][14]。とりわけ緑色を呈するジェダイトは「翠玉」と呼ばれて帝室でも好まれ、なかでも西太后はヒスイを愛好したため、彼女のもとには極上のヒスイが次々と献上されたという[12][14]。やがてヒスイは宮廷や上流階級のみならず中国全土で愛好されるようになり、旧来のネフライトの価値は著しく低下した[15]。なお、アジアにおいてネフライトを用いた装飾文化が発展した地としては中国・台湾・ベトナム以外ではフィリピンがあげられる。ここでは、当地が金属器時代に入る紀元前2000年頃から紀元前1500年頃にかけての時期、イヤリング、ブレスレット、ビーズといったアクセサリーにおいて芸術性の高い製品が数多くつくられたことが知られている。
メソアメリカのヒスイ文化は、ジェダイトを用いたものとしては日本とならんで古い起源をもち、オルメカ文化や後続するマヤ文明などで栄えた[9][10][11][16]。ここでは、ヒスイはアステカ神話の農耕神であるケツァルコアトルと深いかかわりをもつ神聖な石として尊崇された[17]。ケツァルコアトル神は、マヤ神話においてはククルカン神と同一視され[18]、その供物には、鳥・蛇・蝶などとともにヒスイがささげられた[17]。メソアメリカ地域における仮面や人物像、祭具(スプーンなど)といった造型の多様性は、日本のヒスイ文化をむしろ大きく上回っている[9][11]。メソアメリカにおけるヒスイ産地は長きにわたって不明であったが、1955年にグアテマラのモタグア渓谷において原石が発見され、産地問題は解消している[8][9][10]。
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メキシコ・マヤ文明(6-9世紀):人物像(ヒスイ硬玉製)
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中国・清代:火桶(ヒスイ硬玉製)
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中国・前漢代:楚王墓副葬品(ネフライト製)
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ベトナム・サーフィン文化(約3000年前):ペンダント(ネフライト製)
日本での利用例は、約7000年前の縄文時代前期後葉までさかのぼり、これは世界最古である[1][2][3][4]。確認されている日本での最古の利用例は、産地に近い新潟県糸魚川市の大角地遺跡で発見されたヒスイ(ジェダイド)製の敲石である[9][19][20]。敲石(たたきいし)とは、ドングリ・クリなどの堅果をはじめとする食材を打ち砕いたり、すりつぶしたりするための円みをおびた石で、いわば日常雑器であるところから、通常は川原石など身近にあるものが使用される。この大角地(おがくち)遺跡は縄文時代前期および古墳時代中期の複合遺跡であり、敲石は2005年(平成17年)の北陸新幹線建設工事に係る遺跡発掘調査で発見された[19][20][21]。発見状態では表面が白く風化していたが、暗所で光を照射して精査したところ、透明度が高く、きわめて上質のヒスイ原石であることが判明した[19][20]。
大角地遺跡の敲石は世界最古のヒスイ利用であると同時に、いわゆる「宝石」に属する石の利用例としても世界最古級であると考えられている[1][19][20]。硬玉ヒスイの代表的な装飾品である「ヒスイ大珠(たいじゅ)」は、山梨県天神遺跡出土のものが最古級の遺物と考えられ、縄文時代前期にさかのぼる。その後、ヒスイを用いた製品は、その美しさと稀少性、また硬度の高さによって、装飾品として、また威信材などとして尊ばれた[4][22][23]。ヒスイ製品の完成品や原石類は、縄文時代、弥生時代から古墳時代にかけて近隣地域ばかりでなく、九州地方や沖縄諸島、あるいは東北地方や北海道地方も含めた日本列島全域、さらには海を越えた朝鮮半島にまで広く流通した[23][24][25]。
しかし、古墳時代後期にはヒスイ文化は退潮期に入り、奈良時代以降は急激に衰退していき、やがて完全に姿を消した[9]。その後は「日本からはヒスイが産出しない」と唱えられるなど、日本のヒスイ文化はまったく忘却されていた[26]。古い考古学雑誌には、日本で稀に出土するヒスイ製品もすべてビルマ産であるという記述がなされていたほどである(森(2006)p.7)。また、明治期のパリ万国博覧会やシカゴ万国博覧会では、日本の代表的な石として展示されていたのはトパーズであった(宮島(2006)p.30)。ヒスイが再び脚光を浴びるのは、1935年(昭和10年)にヒスイ原石が糸魚川で再発見されたことによる。以後の考古学的調査や科学的分析などを集積した結果、縄文時代以降に日本で利用されたヒスイはそのすべてが糸魚川産であることが明らかになった[27][28][29][30]。
2016年(平成28年)、日本鉱物科学会はヒスイを「国石」として選定した(詳細後述)[31][32][33]。
古代日本のヒスイ文化
[編集]石製装身具のはじまり
[編集]日本列島において、石製装身具の出現が旧石器時代にまでさかのぼることは、たとえば北海道の事例だけでも、湯の里4遺跡(知内町)やピリカ遺跡(今金町)において石製のアクセサリーが出土していることからも明らかである(栗島(2019)pp.7-9)。ピリカ遺跡では琥珀、ハンレイ岩、カンラン岩、粘板岩の小玉、湯の里4遺跡では琥珀の垂飾(ペンダント)とカンラン岩の垂飾・小玉が出土しており、その他、オバルベツ遺跡(長万部町)、柏台1遺跡(千歳市)などでも旧石器時代の石製装身具が出土しており、柏台1遺跡の琥珀製平玉については細石刃文化の初期に相当するところから北方からの文化流入である可能性も指摘されている(青野(2019)p.53)。
旧石器時代の斧状石器や縄文時代草創期・早期の磨製石斧には、蛇紋岩やネフライトなど「玉」(磨くと光る石)を用いた製品が現れる(川崎保(2019)p.103)。しかし、にもかかわらず、形のうえでは刃部をもっており、装身具とは考えにくく、緻密で美しいものを特に選んでいる様子もみられない(川崎保(2019)p.103)。上述した縄文前期の大角地遺跡でのヒスイ利用も装飾品としてではなく、高比重で強靭なヒスイの性質に着目して敲石として使ったものであった[19][20]。
ヒスイなど「玉」を用いて装飾を目的とする石製品(これを川崎保は「縄文玉製品」と呼んでいる)が出現するのに先んじて、日本列島にはすでに「玉」利用やそれにともなう研磨技術、穿孔技術があり、その淵源が縄文時代草創期や旧石器時代にまでさかのぼることは注視に値する(川崎保(2019)p.103)。ただ、そうであっても縄文時代早期までの日本列島で、器面全体を美しく磨き上げるような玉質の装身具がほとんどみられないことは、当時の社会がそのようなものを必要としなかったことを示唆している、と川崎は指摘している(川崎保(2019)p.103)。
縄文時代早期末葉(約6500年前)にいたって、玦状耳飾りをはじめとする玉製の装身具(「縄文玉製品」)がようやく登場する。石材としては、ネフライトやそれよりも軟質の蛇紋岩、滑石といった石材、そして、ヒスイが用いられる(川崎保(2006p。102))。玦状耳飾りや管玉は福井県桑野遺跡出土遺物がおそらくはその最古の例である(川崎保(2006p。102))。また、当該期には、糸魚川地方および富山湾沿いの地域で滑石を材料とした耳飾の生産が始まっている[34][35]。「縄文玉製品」の出現は、北陸を中心に九州から東北南部にかけての地域においても早期末までさかのぼる可能性があり、東北地方北部や北海道地域においても、遅くとも縄文前期中葉までには確実にその存在が広範囲で認められる(川崎保(2006)p。103)。
ヒスイ製装飾具の登場
[編集]ヒスイの色あいにはさまざまなヴァリエーションがみられるが、緑色が最も象徴的とされる[12][36][37]。糸魚川で産するヒスイは、緑色の他に白、薄紫、青、黒などの色合いを持つ[12][38]。古代日本で花開いたヒスイ文化は緑色のものが特に尊ばれたとみられる[36][29][39][40]。その意味するところは、緑という色は大地の豊穣と生命、そして魂の再生を可能にすると信じられていたためという説がある[37][36][40]。一方、その色ではなく不朽性にこそヒスイの意味ないし価値を求める見解もある(森pp.15-16)。墓に収められたヒスイは、人間の死骸が腐敗してからも、輝き、硬さ、色彩を失わない(森pp.15-16)。森浩一は、そこで示される永遠性、さらには死後の世界を守ってくれるという観念を縄文人や古代人が持っていたからではないかと述べている(森pp.15-16)。
日本のヒスイ産地としては、鳥取県、岡山県、長崎県、北海道などがある(森p。18)。しかし、蛍光X線分析の結果などにより、縄文時代以来、日本で利用されるヒスイはすべてが糸魚川産のものであることが判明した[4][9][30][41]。既述のとおり、糸魚川産のヒスイは縄文時代前期後葉(約7000年前)にはすでに利用が始まっており、原材料となったヒスイは、原産地である姫川・青梅川の上流、渓谷域ではなく中・下流の河原や海岸で拾ってきたものと考えられている[4][42]。
2009年(平成17年)、富山県富山市呉羽町周辺に所在する小竹貝塚(おだけかいづか)で、ヒスイ製の垂飾(未製品)が発見された[43][44]。この垂飾は鮮やかな緑色を呈した良質のヒスイで作られたもので、穿孔の痕跡は見当たらないが表面の一部は研磨されている[43]。形状については、太さと長さの比率が1対6という細長い形をしている[43]。もとより海岸や河川で見られる自然状態のヒスイ原石には、このような形状のものは見られないため、原石を人為的に割って得た形状であることは明らかである[43]。類似した形状の垂飾(未製品)は、新潟県柏崎市の大宮遺跡でも1994年(平成6年)に発見されている[43]。大宮遺跡での発見例は、小竹貝塚と同時代の世界最古の装飾品としてのヒスイ利用例である[43][44]。
ヒスイは強靭な構造のために穿孔や研磨などの加工が困難であり、多大な時間と手間を要したことが推定される[45][46]。ある実験では、竹ひごを使ってきりもみの要領で穴あけ実験をしたところ、1ミリメートルの穴を穿つのに3時間かかっている[46]。ヒスイ製の大珠や勾玉には、加工方法がいまだ不明なものがかなり存在する[45]。
ヒスイの大珠
[編集]当初は大珠(長さ4センチメートル以上のもの)とそれより小さい垂飾が作られ、勾玉の出現はそれよりも後であった[9][43]。
ヒスイ製の玉の生産は縄文時代早期から前期末にその源があり、最盛期を迎えたのは縄文時代中期になってからである[47][34]。 中期の生産で主流となったのは、長さ5-10センチメートル前後の大珠であった[47][35]。ヒスイ原石の加工場(玉造遺跡)として、前出の大角地遺跡の他に長者ヶ原遺跡、寺地遺跡[注釈 1]、細池遺跡(いずれも新潟県糸魚川市)、境A遺跡(富山県下新川郡朝日町)などが知られる[21][27][28][47][42]。
これらのうち、長者ヶ原遺跡は発掘調査と研究を通して、縄文時代以降のヒスイ製品がすべて日本産であることを立証した点でとりわけ重要な位置を占めている[27][28][49]。これまでの調査で、出土品からヒスイなどの玉類や蛇紋岩の石斧の生産と交易の拠点的存在であることが判明した[34][27][50]。蛇紋岩製の石斧は艶やかな外見に加えて切れ味も鋭く、高級品として流通していたものと推定される[34][50]。加えて石斧の作成技術は、やがてヒスイの装飾品作りにも生かされることになっていった[34]。
玉類とその生産にかかわる出土品では、滑石製耳飾類や垂玉類、ヒスイ製の大珠の制作過程を示す原石や大珠の未成品、工具類が見つかった[27][28]。ヒスイと蛇紋岩はともに姫川の流域で産出される特産のもので、河口や海岸で採取した原石が姫川から約3キロメートル離れたこの遺跡まで運搬されてきた[27]。原石はヒスイ製のハンマーで形を整え、砂岩製の砥石で研磨されてさまざまな製品に姿を変えて日本各地に運ばれていった[47][27][35]。やがて製品だけではなく、ヒスイの原石も運ばれていき、各地で加工されるようになった[51]。
ここで縄文時代のヒスイ出土例として、天神遺跡(山梨県北杜市大泉町西井出)と三内丸山遺跡(青森県青森市大字三内字丸山)を取り上げる[9][52]。天神遺跡は縄文時代前期から中期の遺跡で、八ヶ岳南麓の標高800-850メートルのところに位置する[52]。1982年の発掘調査で、ヒスイ製の大珠が発見された[52]。この大珠は完成品としては日本最古のものとされる[52]。全体の形は海岸に産するヒスイ転石の形状をほぼとどめて表面は研磨され、直径が表8ミリメートル、裏4ミリメートルの穴が貫通している[注釈 2][52]。
三内丸山遺跡のヒスイ製大珠は、つぶれた球形の形状が特徴的なものが出土し、最大の出土例のものでは直径6.5センチメートル、高さ5.5センチメートルに及んでいる[52]。三内丸山遺跡ではヒスイ製の大珠未成品やヒスイ破片の出土がみられ、糸魚川から約600キロメートル離れたこの地でもヒスイ製品の加工が行われていたことが明らかになった[9][52]。
これらのように広範な出土の分布から見て、ヒスイを扱う交易ネットワークの存在が示唆される[23][35]。研究の初期段階においては、ヒスイ製大珠が原産地の糸魚川を中心とした同心円状に広く分布し、出土の量についても原産地から離れるほど少なくなっていくとの仮説があった[23]。しかし1980年代以降に関東地方や中部地方などでのヒスイ製大珠に関する資料の蓄積が進展するにつれて、この仮説には次第に否定的な見解が増えていった[23][53]。木島勉(糸魚川市教育委員会)はヒスイの玉の出土分布を詳細に調べ、同心円状ではなくピンポイント状に広がっていることを指摘した[53]。原産地の糸魚川に比較的近い山形県、秋田県、福島県での出土が比較的少なく、逆に距離の離れた長野県の伊那谷や八ヶ岳山麓、茨城県の那珂川流域、さらには青森県や北海道でも出土例が多く知られている[53]。
栗島義明(明治大学日本先史文化研究所研究員、研究知財戦略機構 特任教授)[54]が指摘する新たな説は、原産地を起点として、同心円状ではなく帯状に連なった「ジェイド・ロード」と形容される分布経路の存在である[23]。栗島は糸魚川周辺を起点として松本平、諏訪を通り、八ヶ岳の南麓を経由して山梨から関東西部に帯状に伸びるルートと、糸魚川から日本海の海岸に沿って上越平野から長岡付近に続き、その後分岐して群馬県に通じるルートと会津盆地経由で福島県の中通りや栃木県の那須方面に至るルートの存在を推定した[23]。ヒスイは威信材として貴重であるがために、原産地から遠く離れるほど価値や評価が増大していった[23]。それを裏付けるように10センチメートルを超える大型の大珠や色合いや透明度に勝る優品のヒスイは、原産地から遠隔地まで運ばれていたことがわかる[23]。遠隔地での大型ヒスイ大珠の出土例として、岩手県和井内(15.2センチメートル)や山形県今宿(14.3センチメートル)、栃木県岡平(14.1センチメートル)が知られる[23]。いずれも糸魚川からは200キロメートル以上も離れた遺跡での出土例で、和井内は500キロメートル以上直線距離でも離れている[23]。
ヒスイ製品は一般的に「交易品」と考えられている[41]。ただし、原産地である糸魚川地方から富山県東部に存在する玉作遺跡からは、交易の見返りとしての他地域からの遺物の出土はみられない[41]。遺物として出土しない食料品が見返りだったと仮定しても、縄文時代の糸魚川地方は気候と環境が安定していて物質的・経済的に豊かだったため、わざわざ食料品と交換したとは考えにくい[41]。木島勉はヒスイ製品について「贈与品」の役割を考え、立川陽仁[55]なども行事における贈答品や部族社会における歓待の役目を果たしたものと推定している[41]。この場合、贈答品としてヒスイ製品を受け取った側がさらに他の地方に贈ることによって、遠方まで分布範囲が広まった可能性が指摘される[41]。
各地で見つかったヒスイ製品のうち、大珠は墓壙からの出土例が多い[41][23][47]。大珠は日常の装身具として使用するには大きくて重いため、呪術的な役割が大きかったものと推定される[47][41]。加えてヒスイ製品は集団統率の象徴としての威信財的な一面を持ち、その美しさと貴重さにおいて重要視された[23][4][41]。
縄文時代前期後葉に始まった日本国内でのヒスイ利用は、後期前葉までは利用の中心が中部地方から東北地方、そして北海道南部や伊豆諸島の八丈島にまで分布していた[3][47][56]。この時期、西日本ではごくわずかな利用例がみられるのみであった[3]。縄文時代後期中葉から晩期には、九州や沖縄にも利用例が広がっているが、近畿地方や中国・四国地方では利用例が非常に少なかった[3][47]。この時期になると、ヒスイの原石と加工技術も遠方の地方にまで伝わり、原産地である糸魚川地方や富山湾周辺以外でもヒスイの玉類を制作するようになった[35][42]。縄文時代晩期には、ヒスイを含めた玉作遺跡は石川県を西端とし、秋田県を東端として広がっていた[42]。
ヒスイ製勾玉の登場
[編集]縄文時代晩期の遺跡には、ヒスイ製の玉製品の出土例が多くみられる[57]。しかし弥生時代の遺跡では、ヒスイの出土する例はそれほど多くない[3][57]。寺村光晴[58]は弥生時代前期遺跡(特に初めのころの遺跡)について、ヒスイ製の遺物が絶無とまではいえないものの、ほとんどみられないことを指摘している[57][29]。
弥生時代前期にヒスイ製品の出土例が少ない理由としては、ヒスイが使用されなかったというわけではなく、伝世品(でんせいひん)[59]として大切にされながら次の世代に受け継がれていった例が多かったためとの推定がある[29][3]。弥生時代のヒスイ利用分布は縄文時代とはかなり異なっていて、北日本での出土例が少なく、中部地方から西日本での出土例に中心が移っている[3][29]。この時代の出土例は、どの地域においても太平洋側では少ない[3]。
ヒスイ製の勾玉は、縄文時代に作られ始めた[60]。初期に制作されたものは獣形勾玉(動物に類似した形状のもの)や緒締形勾玉(幼虫やさなぎに類似した形状を示すもの)であったが、やがてC字型(丁子型)の勾玉が出現した[9][60]。
弥生時代中期のヒスイ製勾玉の出土例として知られるものに、佐賀県唐津市の宇木汲田(うきくんでん)遺跡がある[9][57]。この遺跡では、弥生時代中期を中心とする甕棺墓が約150基以上確認された[60]。これらの甕棺墓からは、銅剣・銅矛とともにヒスイ製や碧玉製の勾玉が発見された[60][57]。発見された勾玉は、縄文期の特徴を示す獣型や緒締形の他に丁子型も出土している[60][57]。これは、ヒスイ製の勾玉が時代を超えて受け継がれてきたことを示すものである[60][57]。
寺村は弥生時代前期にヒスイの玉がなく、中期になると急増することについて「一つの謎といってよい」と記述している[57]。その謎について、寺村は小林行雄と森貞次郎[61]の説を取り上げた[57]。2人の説に共通するのは、弥生時代の前期にはヒスイ製勾玉は伝世されていたが、中期の前半になって東日本または九州地方にあった伝世品のヒスイ製勾玉が収集されて墓に埋納されたということである[57]。
古墳時代においては、大部分のヒスイが勾玉に加工されている[62]。ヒスイの勾玉は他の石で作られた勾玉より遥かに貴重とみなされ、首飾りの中心だったとの推定がある[62]。首飾りについては、弥生時代の風潮を受け継いだものと考えられている[62]。
藤田亮策は『古代』第25・26号(1957年)に発表した論考「硬玉問題の再検討」で、縄文時代はともかくとして古墳時代にみられるヒスイは日本産以外のものではないか、という疑問を抱いた[62]。藤田がその理由として挙げたのは、おおよそ次の4点である[62]。
- 原産地である糸魚川地方には、古墳時代のヒスイ玉作遺跡が未発見である。
- 古墳時代のヒスイ製勾玉は、近畿地方およびそれより西に多くみられ、朝鮮半島南部でも多数発見されている。
- 玉作部(たまつくりべ)[注釈 3]などにヒスイは伝わっておらず、伝承も見つからない。
- 原石だけの移出であれば問題は別になるが、古代の糸魚川地方が文化史的に恵まれていたという証拠が何ら見当たらない。[62]
藤田がこの疑問を抱いた時期は、糸魚川市の長者ヶ原遺跡が縄文時代のヒスイ玉作遺跡であることが明らかになった後だった[62]。しかし、弥生時代から古墳時代のヒスイ玉作遺跡がほとんど知られておらず、完全な工房の発掘例も存在しなかった[62]。考古学界では、この2つの時代(特に古墳時代)のヒスイ玉作遺跡を探求し続けていた[62]。
藤田の疑問と古墳時代の玉作遺跡については、1966年から1967年に解決をみた[62][64][65]。1966年10月、糸魚川地方にほど近い浜山遺跡(富山県下新川郡朝日町)が発見され、調査の結果、勾玉などの玉類39点、ヒスイ、滑石などの完成品や未成品、さらに原石が数多く発掘された[62][64][65]。寺村によると、当時古墳時代のヒスイ玉作遺跡は先に述べた大角地遺跡(新潟県糸魚川市)くらいしか知られていなかった[62]。翌年4月18日から始まった本格的な調査によって、ほぼ完全なヒスイ工房跡が1軒分と、ヒスイ製勾玉と未成品など、玉を磨く砥石やヒスイを割るハンマーとしての敲石、そして一部が欠損しているものの、ヒスイの孔あけ加工に使われたと推定される錐上の出土物(直径4.1ミリメートル、現帖.3センチメートル)、鏨の破片かと思われる鉄器(幅4センチメートル、厚さ5ミリメートルくらい)が見つかっている[64][65]。浜山遺跡は古墳時代中期(5世紀ごろ)のもので、ヒスイ工房の完全な発掘例として日本初のものであった[64][65]。
海を渡ったヒスイ勾玉
[編集]中国の史書『三国志』の中で当時の日本列島にいた倭人の習俗などを記した「魏志倭人伝」には、「青大句珠」のことが記述されている[66][29][67]。同書では、卑弥呼の死後に女王の座に就いた臺與が「白珠五千孔、青大句珠二枚」を魏に献上したことが見える[66][29][67]。献上品の「白珠」は真珠、「青大句珠」はヒスイの勾玉と考えられている[66][29][67]。漢字の意味を厳密に扱う中国においては、「玉」は山に産するもの、「珠」は川や海に産するものを意味している[29]。ヒスイ自体は山から産するものであっても、人々が装身具として手を加えたヒスイ原石は、遺跡からの出土遺物が示すとおり、河原にあった転石や川を下って海岸にたどり着いた漂石を拾ってきたものである[29]。
寺村は、魏の朝廷が献上品のヒスイ勾玉を見て驚き、どこで採れたものかと尋ねた際に倭人が「海や山で採れます」と答えたのであろうと推定した[29]。寺村は「魏志倭人伝」の記述について、ヒスイの加工品が倭の特産品として注目されていたことを示す史料との考えを示した[66][29]。ただし、ヒスイについて記した明らかな文献は遺されていない[66]。
縄文時代に始まったヒスイの装飾品としての利用は、古墳時代までに耳飾、指輪、腕輪、首輪、足飾などに用途が広がり、遠くは朝鮮半島まで分布がみられるようになった[4][24]。古墳時代に、ヒスイ勾玉は各地の古墳に副葬されており、6世紀末期以降になると飛鳥寺など、寺院の塔の心礎に埋納される例が確認されている[68]。そして正倉院の御物にも古墳時代のものと考えられる伝世品の勾玉が収められている[69]。
朝鮮半島のヒスイ利用は三国時代に確認されている[70][71]。百済、伽耶そして新羅の4世紀から6世紀前半までの間、有力者の墳墓と考えられる古墳からヒスイ製の勾玉が数多く発掘されている[72][68]。中でも新羅は王陵や王族のものと考えられる有力古墳から出土した金製の冠にヒスイ勾玉が飾られており、慶州の金冠塚古墳から1921年に出土した、57個のヒスイ勾玉に飾られた金冠などがよく知られている[73][74][68]。ただし、朝鮮半島ではヒスイの産地は発見されていない[42][68]。そして、朝鮮半島から出土するヒスイは糸魚川産である[25]。これは当時の日本と朝鮮半島の間に、ヒスイの交易があったことを示すものでもある[25][68]。
寺村はヒスイ製の勾玉について、対外関係からの考察を試みた[68][75]。ヒスイ製の玉(特に勾玉)は日本国外では朝鮮半島のみに出土が確認されている[68]。日本の古墳時代においては、4世紀頃の前期にはヒスイ製勾玉が多くみられるが、中期(5世紀頃)になると減少していき、古墳時代後期になるとヒスイ製ではない(碧玉、メノウ、水晶など)勾玉が増加している[68][75]。逆に朝鮮では、中期にさしかかるとヒスイ製の勾玉の出土が増えている[68][75]。畿内地方ではヒスイ製勾玉の減少に反比例するように、鉄製品の出土例が激増している[68][75]。これらの状況から、寺村は韓国で出土するヒスイ製勾玉は鉄製品の見返りとしての移出品と考えた[68][75]。寺村の考えには、門田誠一も「ヒスイ勾玉が新羅で制作されたと考えるよりも、完成品の勾玉を一括して入手したであろう」と賛同した[68]。
古代ヒスイ文化の終焉
[編集]隆盛を極めたヒスイ文化は、奈良時代には急速な衰退を迎えた[9][36]。原産地である糸魚川では、古墳時代(6世紀初頭)にヒスイ製の勾玉づくりが終了した[76]。そして、奈良時代におけるヒスイの最後の使用例としては、奈良市にある東大寺法華堂(三月堂)の本尊、不空羂索観音立像(像高362.0センチメートル、脱活乾漆造、国宝)が知られる[9][77][78][79]。天平年間(740年-747年)造立と推定されるこの立像は、頭部に銀製の冠(高さ88センチメートル)を載せている[77][78]。森浩一は、この冠について新羅の影響を指摘している[80]。冠の中心部には高さ23.6センチメートルの化仏が位置し、銀の板と銀製の太い針金、銀金具(唐草模様が透かし彫りにされている)で構成されている[77]。冠の頂上部には火焔つきの宝珠が載り、さまざまな材質(ヒスイ、琥珀、水晶、真珠、ガラスなど)の勾玉などが銀線でつなげられている[9][77][78]。
この冠に使われた宝玉の数は2万数千個に上るといい、その豪華さから「世界三大宝冠」の1つに数えられている[78]。冠の正面上方からは、宝玉の連なりからなる瓔珞12本が垂れていて、その先端から勾玉が垂下している[77]。中央に位置する瓔珞の先端部は破損のため失われているが、残りの11本のうち7本ないし8本には硬玉(ヒスイ)の勾玉が垂下し、残りの3本は茶色の琥珀製勾玉である[注釈 4][77]。
不空羂索観音立像の冠を最後として、日本の歴史からヒスイは姿を消している[9][77][78]。約6000年続いたヒスイ文化が消滅した理由は不明とされるが、仏教の伝来に関係を求める意見がある[9][81]。538年(欽明天皇7年)、百済からもたらされた仏教をめぐって、受入れを可とする蘇我氏が権力闘争に打ち勝ち、伝統的な神々の祭祀を重んじる物部氏や中臣氏を政権から排除した[9]。それは同時にヒスイを威信財としてその霊力や価値を尊んできた人々の失墜であった[9]。ヒスイは仏教の伝来前に長きにわたって尊ばれてきたものだったため、仏教を広めていく立場からは都合の悪い存在でもあった[9]。
飯田孝一[82]は自著『翡翠』(2017年)において、ヒスイが歴史上から消えた理由を考察している[36]。彼の推定は、西日本経由で大陸からヒスイ探索の大集団が侵入してきたことを察知したため、ヒスイそのものを隠匿せざるをえない状態に至ったのではないかという考えである[36]。
朝鮮半島でも6世紀前半までは盛んに古墳に副葬されていたヒスイ勾玉が、6世紀中期以降副葬が見られなくなっていく[83]。やがて7世紀には日本と同様に寺院の塔の心礎に埋納する例が確認されるようになる[83]。そして8世紀から9世紀の統一新羅時代のものと考えられている大邱市の松林寺の塔からヒスイ勾玉が1個出土しているが、この勾玉は三国時代の新羅の古墳から出土した勾玉と類似しており、伝世品ないし出土品を利用した可能性が指摘されている[73][83]。寺村は『日本書紀』にある任那の滅亡(562年)に言及し、「このころを契機として、朝鮮半島との交流が後退することは確かであろう。ここにヒスイはその務めを終えたようである」と記述した[68]。
再発見の歴史と国石選定
[編集]明治・大正期のヒスイブーム
[編集]古代のヒスイ文化が忘れ去られたまま、日本は明治維新を迎えた[26][9][84]。国外への往来が自由になったため、日本国内の袋物商たちは世界各地からダイヤモンドやアメジスト、ガーネット、オパールなどを日本に輸入した[13][84]。中国からは当初ネフライト(軟玉)や古渡りサンゴ(地中海原産のサンゴ)を買い付けていたが、明治時代中期から後期にかけてはヒスイも買い付け品に含まれるようになった[13][84]。当時の中国は清代末期にあたり、内政の混乱や経済の疲弊に加えて阿片戦争や清仏戦争、日清戦争などでの敗北によって生じた多額の賠償金の債務が国家の危機状態を加速させていた[13][84]。さらに義和団事件(1900年)や辛亥革命(1911年)が追い打ちをかけて、王侯貴族の宝物が多数流出していくことになった[13][84]。
その情勢を受けて日本にも清朝からの宝物が移入され、その中には多くのヒスイ製品が含まれていた[13][84]。飯田孝一によれば、「軟玉」「硬玉」の区分はこの時期に生まれたものである[84]。これは、緑色を呈して磨くと光沢を放つ点で互いによく似ているものの、質感等で全然異なる2つの鉱物のうち、やや硬度の低いネフライトを軟玉、硬度の高いジェダイトを硬玉と呼んで区別を図ったものであった[84]。
日本国内でヒスイの加工を請け負ったのは、金属や刀装具の錺職人であった[13][84]。明治維新以後の廃刀令によって仕事を失った彼らは、受け継がれてきた技術を活かしてヒスイをはじめとする玉類で装飾品を作った[13][84]。ヒスイを使った装飾品は貴金属店や百貨店、時計店などで販売された[13][84]。これらのヒスイが日本で広まったのは明治時代の終わりから大正時代にかけてのことで、好景気によって需要が拡大し、特に女性用の装飾品として人気を集めた[84][85]。
当時のヒスイの流行については、作家永井荷風の『見果てぬ夢』(1909年)のなかに「近頃になって著しく目につくあの柔い緑の色のヒスイの珠」という一節のなかでふれられている[13][86][87]。夏目漱石もまた、絶筆となった『明暗』(1916年)のなかで「わざとらしく平打の羽織の紐の真中へ擬物のヒスイを通したのは寧ろ上等の部であった」と記していて、こうした表現が当時の流行事情を反映しているならば、ヒスイは偽物が流通するほどの人気商品であったことがわかる[86][87]。なお、飯田は、日本で流通しているアンティークヒスイ製品のほとんどが、この時期に中国から持ち込まれたことを指摘している[84]。
長い空白期間とヒスイ産地論争
[編集]日本各地の縄文時代から古墳時代にかけての遺跡や古墳からヒスイの大珠や勾玉が見つかることは、すでに江戸時代から知られていた[88][89][29][90]。著名な例として、1665年(寛文5年)に真名井遺跡(島根県出雲市大社町)で発見されたヒスイ製の勾玉があげられる[89][90]。出雲大社の造営の際、命主神社(出雲大社本殿東南東から約300メートル先)の裏手にあった大石の下から銅矛とともに発見され、「出雲大社の勾玉」として名高い[89][90]。ただし、当時は日本国内にヒスイが産することは知られておらず、加工遺跡も発見されていなかった[88][48]。
ヒスイの産地と加工場所については、明治末期から昭和初期にかけて考古学界でさまざまな意見が出されていた[91][26]。そして原産地である糸魚川においてもヒスイが枯渇したわけでもないのに古代日本のヒスイ文化の痕跡さえ忘れ去られていて、良質のヒスイ原石が漬物石や屋根の重石などに使用されていたほどであった[92][93]。
糸魚川は鉱物資源が豊富な地域であり、大正時代には黒姫山の石灰石が石灰窒素の原料として採掘が開始されていた[93][94]。青海川の流れを利用して造られた水力発電を使って石灰の製造が始まったものの、その青海川の河原に存在したヒスイ原石には誰も注意を払わなかった[93]。宮島宏[95]はこの点について「糸魚川を訪れた学者や鉱山関係者も翡翠に気がつくことなく、河や海にある美しい石が長い間、注目されなかったのは大きな謎です」と疑問を呈している[93]。ただし、藤田亮策によれば、地元の人々は大正年間から小滝川のヒスイ原石の存在に気づいていた[96]。1935年頃には鉱区出願の計画も2.3あったというが、この原石がヒスイであることが確実になるには、河野義礼による研究の成果を待たねばならなかった[96]。
ヒスイの産地については、日本国外産出説と日本国内産出説があった[91][26][97]。日本国外説を唱えた学者のうち、高橋健自、濱田耕作、樋口清之、八幡一郎らはミャンマー・中国雲南地方、チベットなどからの渡来を主張した[91][26][97]。他方、後藤守一は産地を中国東北部やシベリアであるとした[26][97]。
原田淑人は日本国外からヒスイが渡来したのであればヒスイとともに渡来したものが存在したはずとし、それがないことから日本国内もしくはその近くに未知のヒスイ産地があると考えた[91][26][97]。日本国外説を唱えた高橋は、勾玉が日本独自のものであり、日本国外産のヒスイ原石を使って日本国内で制作されたものと推定した[91][26][97]。
日本国外説を採る学者にも、後藤のように日本国内の産地調査の必要性を認める者がいた[91][26][97]。また、当初日本国外説を唱えていた八幡は、後に原田の日本国内産出説に同調した[26][97]。八幡が「産出の可能性が高い」と推定したのは岐阜県飛騨の高原川と、長野県から新潟県を流れる姫川流域であった[91][26][97]。
糸魚川ヒスイの再発見
[編集]国石選定
[編集]アメリカ合衆国の鉱物学者、ジョージ・フレデリック・クンツ (1856年-1932年)は、1913年の自著 "The Curious Lore of Precious Stones" で、日本の国石について水晶がふさわしいと述べた[98][33][99][100]。クンツは国石に関する概念を初めて提示したことで知られるが、ヒスイ研究にも貢献している[100]。クンツには来日経験はなかったが、明治年間に山梨県などで加工された「日本式双晶」と呼ばれる水晶の標本類がアメリカ国内に輸入されたことや和田維四郎(東京大学)の著書などを参考に決めたという[98][99][100]。ただし、水晶が日本の国石にふさわしいという認識はほとんど共有されておらず、定着もしていなかった[98][99][33]。
2016年5月10日、地質の日に合わせて日本地質学会が各都道府県の象徴として「県の石」を発表した[33]。これを受けて宮島が国立科学博物館の宮脇律郎に国石選定について話を持ち掛けたところ、宮脇は学会の一般社団法人化事業として行うよう各所に働きかけた[33]。こうして、クンツの記述から約100年を経て、日本鉱物科学会は学会の一般社団法人化事業の一環として国石選定事業を行い、2016年(平成28年)9月24日に「ヒスイ(ヒスイ輝石およびヒスイ輝石岩)を選定した[33][31][32]。
選定の手順は、まずワーキンググループによる国石の条件に関する議論を行い、選定に必須な2つの項目を設定した[31][32][33]。次いで必須ではないが望ましいものとして、3つの項目を決めた[31][32]。こうして設定された必須な2つの項目と望ましい3つの項目は、以下のとおりである[31][32][33]。
- 日本で広く知られている国産の美しい石であること。(必須)
- 鉱物科学や地球科学の分野はもちろん、他の分野でも世界的な重要性を持つこと。(必須)
- 長い時間、広い範囲にわたって日本人の生活に関わり、利用されていること。(望ましい)
- その石の産出が現在まで継続し、野外で観察できること。(望ましい)
- 野外での見学が、法律による保護などによって持続可能であること。(望ましい)[31][32][33]
ワーキンググループは次に選定方法について議論を行い、4段階のプロセスを定めた[31][32][33]。
- ワーキンググループが叩き台として、国石の条件を揃えていると思われる石を10種類程度1次候補として挙げる。
- 1次候補の情報を日本鉱物科学会のウェブサイトに掲載し、学会の中にとどまらず一般からも国石候補の推薦(公募候補)を含むパブリックコメントを募集する。
- 1次候補と公募候補についてワーキンググループが討論し、最終候補として5候補を選抜する。
- 学会の年次総会で、5候補から会員の投票によって国石を決める。[31][32][33]
選定について一般にも門戸を開いたのは、できるだけ多数の人々の関心を集め、国石候補にその意見を取り込む目的があったからである[31]。最終的には会員による投票で決めることとした[31][32]。ワーキンググループは1次候補として、花崗岩、輝安鉱、玄武岩、讃岐石、桜石、黒曜石、自然金、水晶、トパーズ、ヒスイ、無人岩の11種を選んだ[31][32]。次いで一般からの公募候補には、大谷石、赤間石、安山岩、かんらん岩、絹雲母、黒鉱、結晶片岩、琥珀、さざれ石、硯石、石灰岩の11種が選ばれた[31][32]。ワーキンググループはこれら22候補の中から最終候補として、花崗岩、輝安鉱、自然金、水晶、ヒスイを選んだ[31][32]。これらの候補は、国石の条件1から5の各項目について詳細に検討された[31]。
投票は2016年(平成28年)9月24日、日本鉱物科学会の総会で実施された[31][32]。学会員がそれぞれ無記名で投票し、有効投票数の過半数を得たものを国石に選ぶが、1回目で過半数の得票を得た候補が存在しない場合は、上位2候補による決選投票を実施することとした[31]。第1回目の投票では、ヒスイ48票、水晶35票、輝安鉱23票、自然金10票、花崗岩8票という結果であった[31][33]。上位2候補による決選投票では、ヒスイ71票、水晶52票となり、ヒスイ(ヒスイ輝石およびヒスイ輝石岩)が国石に選ばれることになった[31][32][33]。
こうして、世界最古のヒスイ文化を有しながらも、長い忘却の期間を経て、考古学の関心の高まりや研究の進展に加え、地元の人びとの熱心な努力もあって感動的な再発見を遂げ、「国石」に選定されるまでになったのである。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 寺地遺跡は、長者ヶ原遺跡と同様に玉作りと石斧の生産を行っていた[48]。1号住居跡は、日本国内で初めて完掘されたヒスイ工房跡として知られる[48]。
- ^ ヒスイの穿孔では、穴の壁面にみられる擦痕と穿孔途上の未成品にみられる中央の突起から、穿孔の際に中空の錐(ヤダケのような細い竹など)を回転させたことが推定される[45]。ただし、竹のみではヒスイを穿つことができないため、ヒスイより硬度の高い物質や水を竹とヒスイの間に入れる必要がある[45]。
- ^ 「玉造部」とも表記する[63]。弥生時代以来各地に存在した玉作集団を大和朝廷に仕える部として組織したもの[63]。
- ^ 藤田(1992年)によれば、このうち青色の硬玉勾玉1個はガラスの可能性があるという[77]。
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- 飯田孝一 『翡翠』 亥辰舎、2017年。ISBN 978-4-904850-63-3
- 池谷和信編 『ビーズでたどるホモ・サピエンス史 美の起源に迫る』昭和堂、2020年。 ISBN 978-4-8122-1927-0
- 一般社団法人日本鉱物科学会監修 土山明編著 『日本の国石「ひすい」-バラエティーに富んだ鉱物の国-』成山堂書店、2019年。ISBN 978-4-425-95621-0
- 糸魚川ジオパーク協議会 『糸魚川ユネスコ世界ジオパークのことがわかる本 第5版』 2016年。
- 糸魚川市ジオパーク推進室 『糸魚川ジオパークガイドブック9 小滝川ヒスイ峡ジオサイト』 2010年。
- 糸魚川市ジオパーク推進室 『糸魚川ジオパーク巡検案内書15 糸魚川海岸』
- 大塚初重・桜井清彦・鈴木公雄 『日本古代遺跡事典』 吉川弘文館、1995年。ISBN 4-642-07721-9
- 小川猛 「ヒスイ峡の地すべりと景観対策」『地質と調査第63号』社団法人全国地質調査業連合協会、1995年。
- 小野健 『糸魚川の自然を歩く 地元密着型のガイドブック』 ウェイツ、2007年。ISBN 978-4-901391-83-2
- 「朝鮮半島の勾玉 ヒスイ勾玉の出現から消滅」『ヒスイ文化フォーラム2005 神秘の勾玉 弥生・古墳時代の翡翠文化』糸魚川市教育委員会、2007年。
- 金子善八郎 『新潟県人物小伝 相馬御風』 新潟日報事業社、2010年。ISBN 9784861324239
- 河村好光 「ヒスイ勾玉の誕生と変遷」『ヒスイ文化フォーラム2007 ヌナカワとヒスイ』糸魚川市教育委員会、2007年。
- 河村好光 「日本考古学史における自民族意識」『日本考古学第37号』一般社団法人日本考古学会、2014年。
- 河村好光 「ヒスイ勾玉の誕生」『考古学研究』第47巻第3号(通巻187号)考古学研究会、2000年。
- 木島勉「縄文時代における翡翠加工 生産遺跡とその技術」『ヒスイ文化フォーラム2003』ヒスイ文化フォーラム委員会、2003年。
- 木島勉・寺崎裕助・山岸洋一 『日本の遺跡24 長者ヶ原遺跡 縄文時代北陸の玉作集落』 同成社、2007年。ISBN 978-4-88621-404-1
- 北出幸男 『日本ヒスイの本 最高のパワーストーン』 青弓社、2016年。ISBN 9784787273871
- 「階級社会の垂飾、ヒスイ勾玉の誕生と展開 弥生時代から奈良時代まで」『ヒスイ文化フォーラム2005 神秘の勾玉 弥生・古墳時代の翡翠文化』糸魚川市教育委員会、2007年。
- 国立科学博物館『翡翠展 東洋の至宝』図録 毎日新聞社、2004年。
- D・M・ジョーンズ/B・L・モリノー 蔵持不三也 監訳 井関睦美・田里千代 訳 『ヴィジュアル版 世界の神話百科 アメリカ編 ネイティブ・アメリカン マヤ・アステカ インカ』 原書房、2002年。ISBN 4-562-03519-6
- 髙橋浩二編集執筆『古墳時代におけるヒスイ勾玉の生産と流通過程に関する研究』 富山大学人文学部、2012年。
- 竹之内耕「ヒスイはなぜ糸魚川にあるのか ヒスイをもたらした二つの地殻変動」『ヒスイ文化フォーラム2007 講演記録』糸魚川市教育委員会、2007年。
- 田中恵一・桑原正史・阿部洋輔ほか『県史15 新潟県の歴史』 山川出版社、2001年。ISBN 4-634-32150-5
- 茅原一也『新潟大学理学部地質鉱物学教室研究報告第6号 茅原一也教授記念号』新潟大学理学部地質鉱物学教室、1987年。
- 長者ヶ原考古館 『あけぼの 旧石器・縄文時代』
- 長者ヶ原考古館 『玉作りの里 縄文・弥生・古墳時代』
- 寺村光晴 『翡翠 -日本のヒスイとその謎を探る-』養神書院、1968年。
- 寺村光晴 『日本の翡翠 -その謎を探る-』吉川弘文館、1995年。ISBN 4-642-07473-2
- 土田孝雄 『奴奈川姫とヒスイ文化 総集編』 奴奈川姫の郷をつくる会、2003年。ISBN 978-4-9904146-0-3
- 日本地質学会『日本地方地質誌4 中部地方』朝倉書店、2006年。ISBN 4-254-16784-9
- 原山智「北アルプスの成り立ち」『地質と調査』146、全国地質調査業協会連合会、2016年。
- フォッサマグナミュージアム 『よくわかる糸魚川の大地のなりたち』 糸魚川市教育委員会、フォッサマグナミュージアム、2014年。
- 藤田富士夫 『玉とヒスイ 環日本海の交流をめぐって』 同朋舎出版、1992年。 ISBN 978-4-8104-1041-9
- 藤田富士夫 『古代の日本海文化 海人文化の伝統と交流』 中央公論社<中公新書>、1990年。 ISBN 9784121009814
- 文藝春秋編『日本全国 見物できる古代遺跡100』 文藝春秋、2014年。ISBN 4-16-660451-1
- 堀秀道 『楽しい鉱物学 基礎知識から鑑定まで』 草思社、1999年。ISBN 4-7942-0911-8
- 宮島宏「翡翠誕生の秘密」「ヒスイはなぜ糸魚川にあるのか ヒスイをもたらした二つの地殻変動」『ヒスイ文化フォーラム2007 講演記録』糸魚川市教育委員会、2007年。
- 宮島宏 『ヒスイってなんだろう2 世界一やさしいヒスイの本』 フォッサマグナミュージアム(糸魚川市教育委員会文化振興課)、2015年。
- 宮島宏 『とっておきのヒスイの話5』 糸魚川市教育委員会、フォッサマグナミュージアム、2016年。
- 宮島宏 『国石 翡翠』フォッサマグナミュージアム 糸魚川市教育委員会事務局文化振興課、2018年。
- 宮島宏 『翡翠ってなんだろう 2019』 フォッサマグナミュージアム(糸魚川教育委員会文化振興課)、2019年。
- 森浩一編 『古代翡翠文化の謎』 新人物往来社、1988年。ISBN 4-404-01474-0
- 森浩一編 『古代翡翠道の謎』 新人物往来社、1990年。ISBN 4-404-01701-4
- 森浩一編 『古代王権と玉の謎』 新人物往来社、1991年。ISBN 4-404-01838-X
関連項目
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