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藤田亮策

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤田 亮策ふじた りょうさく
人物情報
生誕 (1892-08-25) 1892年8月25日
日本の旗 日本新潟県
死没 1960年12月12日(1960-12-12)(68歳没)
出身校 東京帝国大学
学問
研究分野 考古学歴史学
研究機関 朝鮮総督府古蹟調査課・京城帝国大学東京芸術大学
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藤田 亮策(ふじた りょうさく、1892年明治25年〉8月25日 - 1960年昭和35年〉12月12日)は、日本考古学者

経歴

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出生から学生時代

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1892年、新潟県古志郡上北谷村(現見附市/長岡市)に、父・藤田福十郎、母・タケの次男として生まれた。1915年(大正4年)7月、旧制第一高等学校の第三部医科を卒業し、東京帝国大学医科大学に入学するが、近眼のため医者になる道を断念して、同年10月文科大学に転学し、国史学を専攻した。文科大学では黒板勝美の指導を受け、1918年(大正7年)7月、卒業論文「江戸時代の漕運」を提出して史学科を卒業。この時はまでは関心の対象は交通史であり、考古学に深い関心を寄せてはいなかった。

大学卒業後から朝鮮半島引き上げまで

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大学を卒業後の1918年、文部省の維新史料編纂事務嘱託となった。1922年(大正11年)、恩師黒板の紹介で朝鮮総督府古蹟調査委員となり、京城に赴任。この時の古蹟調査課課長は小田省吾であった。以後、終戦まで考古学を専門的に調査・研究していった。1923年(大正12年)朝鮮博物館協議委員となり、学務局の博物館主任となった。1924年(大正13年)、古蹟調査課廃止のため、朝鮮総督府編修官に転任。藤田曰く、「大正十五年に京城帝国大学ができ助教授に拾われるまで、教科書編修官・朝鮮史修史官を転々居候を続け」たと後述している。1926年(大正15年)、京城帝国大学助教授となり、法文学部づきとなる。1929年(昭和4年)「青丘学会」が創立されると、その評議員・委員となった。1932年(昭和7年)、京城帝大教授となっていた小田省吾が定年退職し、また同大学教授の今西龍が亡くなったため、その後をうけて京城帝大教授に昇進し、朝鮮史学第一講座を担当した。1933年(昭和8年)、朝鮮史編修委員、朝鮮宝物古蹟名勝天然記念物保存委員会委員となった。1941年(昭和16年)、京城帝大法文学部長となった(1943年(昭和18年)まで)。

戦後

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太平洋戦争が終結すると、1945年(昭和20年)10月に日本へ引き揚げ、千葉県に移住した。1947年、教育職員適格審査に通り、再び教壇に立つことが可能となった。1948年日本考古学協会委員長、日本学術会議会員に選出。1949年東京芸術大学教授となり、文庫課長となった。1950年天理大学高橋亨らと朝鮮学会を結成し、その幹事に就任。1955年からは、東京芸術大学評議員、同附属図書館長をつとめた。1959年(昭和34年)、奈良国立文化財研究所所長に就いたが、翌1960年に没した。享年68歳。

研究内容・業績

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著作

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単著

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  • 『朝鮮古代文化』岩波書店〈岩波講座日本歴史〉、1934年9月。 NCID BN0820516X全国書誌番号:46078742 
  • 『朝鮮考古学研究』高桐書院、1948年8月。 NCID BN02714659全国書誌番号:46005076 全国書誌番号:52006802 
  • 『朝鮮の歴史』福村書店〈アジアの歴史文庫〉、1953年。 NCID BN1474921X全国書誌番号:45021866 
  • 『朝鮮学論考』藤田先生記念事業会、1963年3月。 NCID BN05180379全国書誌番号:63011390 
  • 『考古学』国書刊行会、1976年5月。 NCID BN01899810全国書誌番号:73014282 
  • 『藤田亮策集』築地書館〈日本考古学選集 19〉、1981年11月。 NCID BN0204351X全国書誌番号:82044676 

共著

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共編

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共編著

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校訂

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監修

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参考資料

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脚注

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