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井上柳梧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
井上柳悟から転送)
井上柳梧
生年月日 1880年9月21日
出生地 日本の旗東京府(現東京都)
没年月日 (1962-03-06) 1962年3月6日(81歳没)
出身校 東京帝国大学(現東京大学)卒業
前職 上田蚕糸専門学校(現信州大学繊維学部)校長
長野県蚕業試験場(現長野県南信農業試験場)長
現職 長野県短期大学(現長野県立大学)学長

当選回数 1回
在任期間 1947年4月6日 - 1951年4月5日
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井上 柳梧(いのうえ りゅうご、1880年明治13年)9月21日[1][注釈 1] - 1962年昭和37年)3月6日[1])は、日本蚕糸学者、政治家。上田蚕糸専門学校第2代校長上田市長。農学博士[1]

経歴

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東京府本郷区駒込千駄木町(現東京都文京区)で[1]、官僚・井上廉の息子として生まれた[1]1893年(明治26年)高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業[要出典]1898年(明治31年)高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業[要出典]。官界を志していたが科学分野への興味がまさり[1] 東京帝国大学農科大学に進み農芸化学を専攻[1][2]。1908年(明治41年)7月に卒業[3]して大学院に進み[1][2]、1911年(明治44年)蚕糸研究のためフランスドイツ帝国に留学[1][2]

1913年大正2年)に帰国し[1]、同年6月、上田蚕糸専門学校の教授となる[1][2][3]文部省視学委員東京帝国大学農学部講師、長野県蚕業試験場長、農林省蚕糸試験場嘱託、九州帝国大学農学部嘱託などを兼任[1][3]1938年昭和13年)3月、上田蚕糸専門学校長に就任し[1][3]、1944年(昭和19年)に停年退職[1]

地方政治家の多くが公職追放となっていたため有志の推薦で[1] 1947年(昭和22年)上田市長に当選し[1][2][3]、同年4月から1951年(昭和26年)4月まで1期務めた[1][3]。この間、学制改革による新制中学の設置、日本専売公社上田タバコ工場の誘致、上水道の拡張、上田警察署庁舎の新築、上田城の櫓復旧などに務め、戦後の復興に尽力した[2][3]

市長退任直後、長野県短期大学学長となり1955年(昭和30年)まで在任[1][2][3]。その後、上田市に戻り、趣味の絵画や学生青年との山岳散策などを楽しんだ[1]。1962年3月6日死去。81歳。

学問業績

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1917年(大正6年)7月16日、「桑葉のアミノ酸についての研究」で農学博士[2][4]。繭の解飾の研究、繭セリシン定着法の研究などを進め、蚕糸化学の発展につくした[1]

著作

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  • 『絹糸学』興文社、1933年。
  • 『日本蚕糸概論〈総論編〉』羽田書店、1947年。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本の歴代市長 第2巻』256頁では9月20日。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『信州人物誌』51頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『長野県歴史人物大事典』78頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『日本の歴代市長 第2巻』256頁。
  4. ^ 『官報』第1545号、大正6年9月25日。

参考文献

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  • 田島清編『信州人物誌』信州人物誌刊行会、1969年。
  • 『日本の歴代市長 第2巻』歴代知事編纂会、1984年。
  • 『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。

関連項目

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外部リンク

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