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勝俣英吉郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
勝俣英吉郎
かつまた えいきちろう
生年月日 1865年4月13日
出生地 日本の旗 日本 信濃国上田城
(現・長野県上田市
没年月日 (1930-04-07) 1930年4月7日(64歳没)
出身校 帝国大学医学大学卒業
前職 医師
所属政党 立憲民政党
子女 長男・勝俣稔

在任期間 1924年7月14日 - 1930年4月7日

在任期間 1923年 - ?

上田市会議員
在任期間 1919年 - ?

在任期間 1909年 - ?
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勝俣 英吉郎(かつまた えいきちろう、1865年4月13日〈慶応元年3月18日[1][2][3]〉 - 1930年昭和5年〉4月7日[1][2][4])は、明治から昭和時代前期の政治家医師長野県上田市長。俳号・かつ丸。

経歴

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信濃国上田城下上田藩医の家に生まれる[1][2][3][5]。1879年(明治12年)東京外国語学校ドイツ語を学び、1883年(明治16年)東京大学医学部別課に入学し、1887年(明治20年)帝国大学医学大学を卒業し、1888年(明治21年)家業の医院を継ぐ[1][2][3][5]

1891年(明治24年)信陽医学会を創立し、同会長を務める[5]日清日露戦争では日本赤十字社救護医として従軍[1][2][3][5]1909年(明治42年)長野県会議員に当選し、立憲民政党支部長に就任した[5]。1919年(大正8年)上田市会議員に選出され、1923年(大正12年)同議長に就任[3]

細川吉次郎市長の死去に伴い1924年(大正13年)7月14日、推挙され上田市長に就任し、1930年(昭和5年)4月7日、在職中に没した[1][2][3][4][5]。この間、上田橋の架け替え、丸子鉄道上田温泉電軌北東線の開通、汚物焼却場設置、市営運動場、児童遊園地の建設などに尽力した[1][5]

ほか、1914年(大正3年)長野県医師会長、1919年(大正8年)より5年間に渡り上田市医師会長を務めた[3][5]。また、かつ丸と号し、俳句も能くした[5]

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g 『日本の歴代市長 第2巻』254頁。
  2. ^ a b c d e f 『信州人物誌』129-130頁。
  3. ^ a b c d e f g 『明日をひらいた上田の人びと』38-39頁。
  4. ^ a b 赤羽ほか 1989, 807頁.
  5. ^ a b c d e f g h i j 赤羽ほか 1989, 188頁.
  6. ^ 上田を支えた人々〜上田人物伝〜、2019年7月20日閲覧。

参考文献

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  • 田島清編『信州人物誌』信州人物誌刊行会、1969年。
  • 『日本の歴代市長 第2巻』歴代知事編纂会、1984年。
  • 赤羽篤ほか 編『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。ISBN 4876631263 
  • 『上田市誌 人物編:明日をひらいた上田の人びと』上田市、2003年。