勝俣英吉郎
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勝俣英吉郎 かつまた えいきちろう | |
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生年月日 | 1865年4月13日 |
出生地 |
日本 信濃国上田城下 (現・長野県上田市) |
没年月日 | 1930年4月7日(64歳没) |
出身校 | 帝国大学医学大学卒業 |
前職 | 医師 |
所属政党 | 立憲民政党 |
子女 | 長男・勝俣稔 |
在任期間 | 1924年7月14日 - 1930年4月7日 |
上田市会議長 | |
在任期間 | 1923年 - ? |
在任期間 | 1919年 - ? |
長野県会議員 | |
在任期間 | 1909年 - ? |
勝俣 英吉郎(かつまた えいきちろう、1865年4月13日〈慶応元年3月18日[1][2][3]〉 - 1930年〈昭和5年〉4月7日[1][2][4])は、明治から昭和時代前期の政治家、医師。長野県上田市長。俳号・かつ丸。
経歴
[編集]信濃国上田城下の上田藩医の家に生まれる[1][2][3][5]。1879年(明治12年)東京外国語学校でドイツ語を学び、1883年(明治16年)東京大学医学部別課に入学し、1887年(明治20年)帝国大学医学大学を卒業し、1888年(明治21年)家業の医院を継ぐ[1][2][3][5]。
1891年(明治24年)信陽医学会を創立し、同会長を務める[5]。日清・日露戦争では日本赤十字社救護医として従軍[1][2][3][5]。1909年(明治42年)長野県会議員に当選し、立憲民政党支部長に就任した[5]。1919年(大正8年)上田市会議員に選出され、1923年(大正12年)同議長に就任[3]。
細川吉次郎市長の死去に伴い1924年(大正13年)7月14日、推挙され上田市長に就任し、1930年(昭和5年)4月7日、在職中に没した[1][2][3][4][5]。この間、上田橋の架け替え、丸子鉄道・上田温泉電軌北東線の開通、汚物焼却場設置、市営運動場、児童遊園地の建設などに尽力した[1][5]。
ほか、1914年(大正3年)長野県医師会長、1919年(大正8年)より5年間に渡り上田市医師会長を務めた[3][5]。また、かつ丸と号し、俳句も能くした[5]。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 田島清編『信州人物誌』信州人物誌刊行会、1969年。
- 『日本の歴代市長 第2巻』歴代知事編纂会、1984年。
- 赤羽篤ほか 編『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。ISBN 4876631263。
- 『上田市誌 人物編:明日をひらいた上田の人びと』上田市、2003年。