二ツ井戸町
二ツ井戸町 | |
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北緯34度40分6秒 東経135度30分35秒 / 北緯34.66833度 東経135.50972度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 大阪府 |
市町村 | 大阪市 |
区 | 中央区 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
二ツ井戸町(ふたついどちょう[1])は、かつて存在した大阪府大阪市南区(現在の中央区)の町名。現在の行政地名は、瓦屋町三丁目、高津二丁目および道頓堀一丁目の各一部である。町名の由来は、二ツ井戸(ふたついど)である。
概要
[編集]町名は、当地にあった二ツ井戸と呼ばれた井戸に由来する[2]。摂津名所図会では、堀留町(堀止)と記載された場所である。
明治初頭までは、大坂三郷南組(明治2年6月2日以降は南大組)高津五右衛門町の一部であったが、明治5年に二ツ井戸町となった。
1982年(昭和57年)と 1983年(昭和58年)の2度の住居表示の実施により消滅した[3]。
1994年(平成6年)3月に大阪市中央区役所により「旧町名継承碑」が設置された(大阪市中央区道頓堀一丁目東5-8付近 北緯34度40分7.4秒 東経135度30分29.5秒)。
沿革
[編集]- 1872年(明治5年)3月17日 - 高津五右衛門町の一部が二ツ井戸町となる。
- 1879年(明治12年)2月10日 - 郡区町村編制法施行により、南区二ツ井戸町となる。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 大阪市制施行により、南区二ツ井戸町となる。
- 1982年(昭和57年)2月1日 - 住居表示の実施により、一部が瓦屋町三丁目の一部になる。
- 1983年(昭和58年)2月1日 - 住居表示の実施により、残りの部分が高津二丁目および道頓堀一丁目の各一部になり、消滅。
二ツ井戸
[編集]二ツ井戸は、1634年頃から設置されていた、長方形の石の井桁の真中を石で仕切った2つ並びの井戸である。
当初は道頓堀の東、堀止めにあった。二ツ井戸の水は、現在も釣鐘町に残る「仁政の鐘」の鋳造や天王寺村銭座(高津新地銭座)で用いられたと伝えられている。大坂の名所とされ、摂津名所図会では「ニッ井(ふたつい) 道頓堀の東、堀留町にあり。清泉にしてこの辺民家の用水とす。」と記載され[4]、古地図の浪華名所獨案内では「二ツ井戸」として記載されている[5]。
1889年(明治22年)に道路の整備のため埋め立てられ、西側(現在の道頓堀一丁目東3-23)にあった粟おこし屋の津の清(つのせ)が井戸枠の払い下げを受けて店頭に移設した。移設時に井戸が掘削されたが、1923年(大正12年)に南側の日本橋三丁目に松坂屋大阪店(現在は髙島屋東別館が所在)が建設されて以来、水は枯れたという。1945年(昭和20年)の大阪大空襲により、御影石の井戸枠は修復不能となった。
津の清(つのせ)は江戸時代に店があった西側の高津入堀川清津橋東詰に移転し、1952年(昭和27年)にその店頭に二ツ井戸の井戸枠を復元し[6]、「二ツ井戸旧蹟碑」とともに2000年(平成12年)まで存在した(現在の道頓堀一丁目東6-21)。
2012年(平成24年)4月に高津地区まちづくり推進協議会により、つのせ店頭にあった銘板・標柱(炭山南木の揮毫)と、約85%の大きさに模造された井戸枠が、千日前通の国立文楽劇場前に設置されている(大阪市中央区日本橋一丁目12-10付近 北緯34度40分1.5秒 東経135度30分30.7秒)。
その他
[編集]- 織田作之助の代表作「夫婦善哉」にも度々登場する場所である。また、夫婦善哉にも度々登場する天牛書店の創業の地である。
- 大阪市天王寺区逢阪二丁目に位置する、1897年(明治30年)設置の道標には、「右 二ツ井戸 八軒家 天神(社)」と書かれている[7]。