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アルトゥーロ・メルツァリオ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
メルツァリオから転送)
アルトゥーロ・メルツァリオ
Arturo Merzario
アルトゥーロ・メルツァリオ
(2009年)
基本情報
フルネーム アルトゥーロ・フランチェスコ・メルツァリオ
Arturo Francesco Merzario
国籍 イタリアの旗 イタリア
出身地 イタリア王国の旗 イタリア王国
コモ県チヴェンナ
生年月日 (1943-03-11) 1943年3月11日(81歳)
F1での経歴
活動時期 1972,1973-1975,1976,1977,1978-1979
所属チーム '72,'73 フェラーリ
'74 イソ・マールボロ (ウィリアムズ)
'75,'76 ウィリアムズ
'75 フィッティパルディ
'76,'77 マーチ
'77 シャドウ
'78-'79 メルツァリオ
出走回数 85 (57スタート)
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 11
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1972年イギリスGP
最終戦 1979年アメリカGP
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アルトゥーロ・フランチェスコ・"アート"・メルツァリオArturo Francesco "Art" Merzario 1943年3月11日 - )は、イタリアの元レーシングドライバー。また1978年から1979年にかけて参戦したコンストラクター「メルツァリオ」のチームオーナー。姓は「メルザリオ/メルヅァリオ」と表記されることもある。マールボロテンガロンハットがトレードマーク[1]

プロフィール

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初期の経歴

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コモ県チヴェンナ出身。コクピット内部に潜り込むようなドライビングスタイルが特徴[2]1960年代からイタリア国内やヨーロッパでスポーツカーレースで活躍、1970年よりスクーデリア・フェラーリに加入した。

フォーミュラ1

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フェラーリ・312PBをドライブするメルツァリオ(1973年ニュルブルクリンク1000km)

1972年にスポンサーのマールボロの支援によりスポット参戦ながらフェラーリからF1デビューし6位入賞。この年はスポーツカーレースを優先し、同年のスパ1000kmタルガ・フローリオなどを制した。

1973年はフェラーリからF1にフル参戦。フェラーリからのイタリア人ドライバーのF1フル参戦としては、1967年シーズン中に事故死したロレンツォ・バンディーニ以来のことであったが、この年のフェラーリは設計ミスと安定性のないマシンにより1勝も挙げられないほどの低迷ぶりを見せ、同僚のジャッキー・イクスとともに悪戦苦闘を強いられる。

結局最高位は2度の4位に留まり、チームとしても合計12ポイントしか獲得できないという惨憺たる結果に終わる。このことについて当時のフェラーリ総帥だったエンツォ・フェラーリは、生前「彼にはすまない事をした」と語っている。

1974年からはフェラーリを離脱しフランク・ウィリアムズのチーム(フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ)から参戦。度重なるマシントラブルに泣かされたが、1974年の地元イタリアグランプリでは4位入賞を果たす。また1975年のイタリアグランプリのみ、指の骨折で欠場したウィルソン・フィッティパルディの代役としてフィッティパルディから出走した(11位完走)。

1976年はマーチから参戦するも、シーズン途中でウィリアムズに復帰。その復帰初戦となったドイツグランプリではニキ・ラウダの大事故に遭遇したが、ブレット・ランガーガイ・エドワーズハラルド・アートルらとともにラウダの救出にあたり、このこともありラウダは顔面に大やけどを負ったものの一命を取り留めた。

F1自チームの設立

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メルツァリオ
創設者 アルトゥーロ・メルツァリオ
ドライバー イタリアの旗 アルトゥーロ・メルツァリオ
イタリアの旗 アルベルト・コロンボ
イタリアの旗 ジャンフランコ・ブランカテリ
参戦年度 1977-1979
出走回数 38
コンストラクターズ
タイトル
0
ドライバーズタイトル 0
優勝回数 0
通算獲得ポイント 0
表彰台(3位以内)回数 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
F1デビュー戦 1977年スペインGP
最終戦 1979年アメリカGP
テンプレートを表示

1977年には自らがオーナーとなり、自チーム「チーム・メルツァリオ」を設立。初年度はマーチのシャーシを購入しての参戦だったが、完走は出走した7戦中1戦のみに終わる。また第12戦オーストリアグランプリのみ、自チームからではなくシャドウから出走している(決勝リタイア)。

チーム2年目となった1978年は、マーチのシャーシを改造し独自のマシンである「メルツァリオA1」を制作。コンストラクターとして参戦したものの、16戦中完走ゼロ,予選落ち6回,予備予選落ち2回という散々な成績に終わる。またイタリアグランプリのみではあるが、アルベルト・コロンボを2台目として出走させている(メルツァリオ:決勝リタイア/コロンボ:予備予選落ち)。

1979年は、序盤4戦は前作の改良版「メルツァリオA1B」で参戦するも完走ゼロ(うち2回予選落ち)、その後新車「メルツァリオA2」を投入。またシーズン途中で撤退したカウーゼンからマシンパーツを買い取って「メルツァリオA4」も制作したが、A2を投入した第5戦以降全戦で予選落ちを喫してしまい、メルツァリオはチームとともにこの年をもってF1から退いた。なおこの年のモナコグランプリのみメルツァリオの代役として、カウーゼンのドライバーだったジャンフランコ・ブランカテリが出走した(予備予選落ち)。

フォーミュラ2

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1980年からメルツァリオは独自シャシーでの参戦カテゴリーをヨーロッパF2選手権へと移した。F2参戦用マシン「メルツァリオ・M1-BMW」を制作し、メルツァリオ自らのドライブでフル参戦する。しかし最高位は9位でポイント獲得には届かなかった。1981年はマーチ・812とメルツァリオ・M1の併用で参戦し、自身のドライブによるF2参戦はこの年までとなった。1982年にチーム・メルツァリオはドライバーにヨー・ガルトナーを起用してニューマシン、メルツァリオ・282-BMWを制作。ガルトナーが開幕戦シルバーストンにて6位入賞を果たし、初のポイント獲得に成功。第3戦スラクストンではリチャード・ダーレストも同マシンで6位1ポイントを獲得した。1983年に新シャシー、メルツァリオ・M28-BMWを登場させ、これをダーレストやグイド・ダッコがドライブしたが、最高成績は7位でポイント未獲得に終わった。1984年用のマシンはメルツァリオ・M84-BMWで、アルド・ベルトッツィとステファノ・リヴィオ、マックス・バスリンガーがドライブしたが、最高位は2度の10位だった。同年を最後にヨーロッパF2選手権の終了が決まり、チーム及びコンストラクターとしてのチーム・メルツァリオの活動は終了した。

スポーツカー選手権

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メルツァリオはドライバーとしてその後もイタリアやヨーロッパのスポーツカー選手権に参戦を続け、アルファロメオなどのワークスドライバーとして1990年代まで第一線で活躍した。

現在

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現在もモータースポーツへの情熱は衰えておらず、様々なレースにスポット参戦しているほか、イタリア国内でヒストリックカーレースに参戦しつつレーシングドライビングスクールを経営したり、モータースポーツイベントのために来日したりしている[3]

レース戦績

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ル・マン24時間レース

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チーム コ・ドライバー 車両 クラス 周回数 総合
順位
クラス
順位
1970年 イタリアの旗 SpA・フェラーリ・SEFAC スイスの旗 クレイ・レガツォーニ フェラーリ・512 S S 5.0 38 DNF DNF
1973年 イタリアの旗 SpA・フェラーリ・SEFAC ブラジルの旗 カルロス・パーチェ フェラーリ・312 PB S 3.0 349 2位 2位

ヨーロピアン・フォーミュラ2選手権

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エントラント シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 順位 ポイント
1971年
英語版
レーシング・チーム・アイリス テクノ・TF70 コスワース FVA HOC
Ret
THR NÜR JAR
DNQ
PAL ROU
DNQ
MAN TUL ALB VAL VAL NC 0
1974年 オゼッラ・スクアドラ・コルセ オゼッラ・PA2 BMW BAR HOC PAU SAL HOC MUG KAR PER HOC VAL
Ret
NC 0
1975年 オゼッラ・スクアドラ・コルセ オゼッラ・FA2 BMW EST THR HOC NÜR PAU HOC SAL ROU MUG PER SIL
Ret
ZOL NOG VAL
Ret
NC 0
1976年 ヴィリー・カウーゼン・レーシング・チーム
英語版
マーチ・762 ハート HOC THR VAL SAL PAU HOC ROU MUG PER
DNS
EST NOG NC 0
オゼッラ・スクアドラ・コルセ オゼッラ・FA2 BMW HOC
DNQ
1977年 フレッド・オペルト・レーシング
英語版
シェブロン・B40
英語版
ハート SIL THR HOC NÜR VAL PAU MUG ROU NOG PER MIS
Ret
EST DON NC 0
1978年 ICI・シェブロン・カーズ
英語版
シェブロン・B42
英語版
ハート THR HOC NÜR PAU MUG
6
VAL ROU DON NOG PER MIS
5
HOC 18位 3
1980年 メルツァリオ・チーム・Srl
英語版
メルツァリオ・M1
英語版
BMW THR
Ret
HOC
Ret
NÜR
Ret
VAL PAU
9
SIL
Ret
ZOL MUG
16
ZAN
17
PER
DNS
MIS HOC
Ret
27位 0
1981年 アストラ・チーム・メルツァリオ・Srl SIL
DNQ
HOC THR
DNS
MAN
Ret
NC 0
マーチ・812 NÜR
Ret
VAL MUG PAU PER SPA DON MIS

フォーミュラ1

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エントラント シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
1972年 フェラーリ 312B2 フェラーリ 001/1 3.0 F12 ARG RSA ESP MON BEL FRA GBR
6
GER
12
AUT ITA CAN USA 20位 1
1973年 フェラーリ 312B2 フェラーリ 001/1 3.0 F12 ARG
9
BRA
4
RSA
4
ESP BEL 12位 6
312B3 フェラーリ 001/11 3.0 F12 MON
Ret
SWE FRA
7
GBR NED GER AUT
7
ITA
Ret
CAN
15
USA
16
1974年 ウィリアムズ
(イソ・マールボロ)
FW フォード・コスワース DFV 3.0 V8 ARG
Ret
BRA
Ret
RSA
6
ESP
Ret
BEL
Ret
MON
Ret
SWE
DNS
NED
Ret
FRA
9
GBR
Ret
GER
Ret
AUT
Ret
ITA
4
CAN
Ret
USA
Ret
17位 4
1975年 ウィリアムズ FW03 ARG
NC
BRA
Ret
RSA
Ret
MON
DNQ
BEL
Ret
SWE NED FRA GBR GER AUT NC 0
FW04 ESP
Ret
フィッティパルディ FD03 ITA
11
USA
1976年 マーチ 761 フォード・コスワース DFV 3.0 V8 BRA RSA USW
DNQ
ESP
Ret
BEL
Ret
MON
DNQ
SWE
14
FRA
9
GBR
Ret
NC 0
ウルフ
(ウィリアムズ)
FW05 GER
Ret
AUT
Ret
NED
Ret
ITA
DNS
CAN
Ret
USA
Ret
JPN
Ret
1977年 メルツァリオ(マーチ
英語版
761B フォード・コスワース DFV 3.0 V8 ARG BRA RSA USW ESP
Ret
MON
DNQ
BEL
14
SWE FRA
Ret
GBR
Ret
GER
DNQ
NED
DNQ
ITA USA CAN JPN NC 0
シャドウ DN8 AUT
Ret
1978年 メルツァリオ
英語版
A1 フォード・コスワース DFV 3.0 V8 ARG
Ret
BRA
DNQ
RSA
Ret
USW
Ret
MON
DNQ
BEL
DNQ
ESP
DNQ
SWE
NC
FRA
DNQ
GBR
Ret
GER
DNQ
AUT
DNQ
NED
Ret
ITA
Ret
USA
Ret
CAN
DNQ
NC 0
1979年 A1B ARG
Ret
BRA
DNQ
RSA
DNQ
USW
Ret
NC 0
A2 ESP
DNQ
BEL
DNQ
MON FRA
DNQ
AUT
DNQ
A4 GBR
DNQ
GER
DNQ
NED
DNQ
ITA
DNQ
CAN
DNQ
USA
DNQ

フォーミュラ1(ノン・チャンピオンシップ)

[編集]

脚注

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関連項目

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