ルドヴィコ・スカルフィオッティ
ルドヴィコ・スカルフィオッティ | |
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基本情報 | |
国籍 | イタリア |
出身地 | トリノ |
生年月日 | 1933年10月18日 |
没年月日 | 1968年6月8日(34歳没) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1963 - 1968 |
過去の所属チーム | フェラーリ、クーパー、アングロ・アメリカン・レーサーズ |
出走回数 | 12 (10スタート) |
優勝回数 | 1 |
表彰台(3位以内)回数 | 1 |
通算獲得ポイント | 17 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 1 |
初戦 | 1963年オランダGP |
初勝利 | 1966年イタリアGP |
最終勝利 | 1966年イタリアGP |
最終戦 | 1968年モナコGP |
ルドヴィコ・スカルフィオッテイ(イタリア語: Ludovico Scarfiotti、1933年10月18日 - 1968年6月8日)はイタリア出身のレーシングドライバー。
人物
[編集]イタリア王国・ピエモンテ州トリノで産まれる。祖父はフィアット社創設時に出資した9人の1人であり、父も働きながらミッレ・ミリア(ブレシアとローマ間を往復する1000マイルロードレース)に頻繁に出場し、1932年には総合3位の戦績を残している。そういった家庭環境もありルドヴィコも早くからレースを目指し、1956年のミッレ・ミリアではフィアット・500に乗ってクラス優勝を果たしている。フェラーリに認められ、スポーツカーレースの戦力として重用され、多くのスポーツカー・レースを走るようになる。1962年にはヒルクライムヨーロッパ・チャンピオンとなり、1963年のル・マン24時間レースではロレンツォ・バンディーニと組んで優勝を果たした。
その一方で、F1にも年1,2戦程度参戦をしていた。特筆されるのはモンツァ・サーキットで行われた1966年イタリアグランプリであり、予選2位から安定した走りで見事優勝した。「フェラーリでイタリアGPを制したイタリア人ドライバー」としてはアルベルト・アスカリに続いて2人目となった。
1967年も引き続きフェラーリのドライバーとして参戦したが、モナコGPでのロレンツォ・バンディーニの死亡事故、ベルギーGPでのマイク・パークスの大事故を見たことで戦意を無くしフェラーリチームから離脱してしまう。
1968年にはクーパーチームからF1に参戦し、2度の4位を獲得した。
1968年6月8日、ヨーロッパヒルクライム選手権第2戦のロスフェルト・アルペン山岳賞で事故死した。
レース戦績
[編集]ル・マン24時間レース
[編集]年 | チーム | コ・ドライバー | 使用車両 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
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1960年 | スクーデリア・フェラーリ SpA | ペドロ・ロドリゲス | フェラーリ・250TRI/60 | S 3.0 |
22 | DNF | DNF |
1961年 | スクーデリア・セレニッシマ | ニーノ・ヴァッカレッラ | マセラティ・ティーポ63 | S 3.0 |
53 | DNF | DNF |
1962年 | Spa フェラーリ SEFAC | ジャンカルロ・バゲッティ | フェラーリ・268SP | E 3.0 |
230 | DNF | DNF |
1963年 | ロレンツォ・バンディーニ | フェラーリ・250P | P 3.0 |
339 | 1位 | 1位 | |
1964年 | マイク・パークス | フェラーリ・275P | P 4.0 |
71 | DNF | DNF | |
1965年 | ジョン・サーティース | フェラーリ・330 P2 | P 5.0 |
225 | DNF | DNF | |
1966年 | マイク・パークス | フェラーリ・330P3 | P 5.0 |
123 | DNF | DNF | |
1967年 | マイク・パークス | フェラーリ・330P4 | P 5.0 |
384 | 2位 | 1位 |
タイトル | ||
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先代 オリヴィエ・ジャンドビアン フィル・ヒル |
ル・マン24時間優勝者 1963 with: ロレンツォ・バンディーニ |
次代 ジャン・ギシェ ニーノ・ヴァッカレラ |