マクシミリアン・ロベスピエール
マクシミリアン・ロベスピエール Maximilien de Robespierre | |
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マクシミリアン・ロベスピエール、1790年頃 | |
生年月日 | 1758年5月6日 |
出生地 | フランス王国・アルトワアラス |
没年月日 | 1794年7月28日(36歳没) |
死没地 | フランス共和国・パリコンコルド広場 |
出身校 |
リセ・ルイ=ル=グラン パリ大学 |
前職 | 弁護士 |
所属政党 | ジャコバン派、山岳派 |
サイン | |
在任期間 | 1793年7月27日 - 1794年7月28日 |
在任期間 |
1793年8月22日 - 1793年9月7日 1794年6月4日 - 1794年6月19日 |
在任期間 | 1792年9月20日 - 1794年7月27日 |
在任期間 | 1789年7月9日 - 1791年9月30日 |
在任期間 | 1789年6月17日 - 1789年7月9日 |
マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(仏: Maximilien François Marie Isidore de Robespierre, 1758年5月6日 - 1794年7月28日)は、フランス革命期で最も有力な政治家であり、代表的な革命家。
ロベスピエールは国民議会や国民公会で代議士として頭角をあらわし、共和主義が勢力を増した8月10日事件から権勢を強め、1793年7月27日に公安委員会に入ってからの約一年間はフランスの事実上の首班として活躍した。9月25日、内憂外患の中でロベスピエールが希望していた国民公会からの完全な信任(独裁権)が、公安委員会の議決を経て認められた。左翼のジャコバン派および山岳派の指導者として民衆と連帯した革命を構想、共和国を守るためと称して国王や政敵などの粛清を相次いで断行した("テルール")。ギロチンによる処刑が進む間も、劇場もパレ・ロワイヤル街の街娼も営業を続けており、パリの市街は富貴なブルジョア婦人たちが美しさを競いあっており、馬車の往来も頻繁で革命前と変わらない日常の喧騒に包まれていた。しかし、労働者の生活レベルはパンやバターにさえ欠乏する困窮状態が続いていた。パリには富と自由を享受する繁栄の世界と貧困と苦痛に喘ぐ苦難の世界が共存する状況にあった[1]。ロベスピエールによるテルール(恐怖政治)は、「クーデターや反乱を画策する王党派」「陰謀をめぐらし政府を転覆しようとする政治家」として、自党派内を含む政敵を大量殺害するものであった。これは後のテロリズムの語源となった。ロベスピエールは普通選挙を擁護し民主主義を標榜したが、その評価には恐怖政治期の独裁者というイメージ[注釈 1]が定着している。
概要
[編集]1758年フランス北部に位置するアルトワ州の地方都市アラスで、弁護士の家庭に生まれる。早くに母を亡くし、その後父が失踪するなど家庭環境の動揺に直面するが、勉学に励んで進学を果たす。1780年、奨学金を得てパリのリセ・ルイ=ル=グラン学院を優秀な成績で卒業し、翌年1781年アラスで弁護士を開業した。
1789年、ロベスピエールはフランス革命直前に三部会が招集されると立候補して選挙に勝利、議員に選出されて再びパリへと旅立つ。まもなく発足した憲法制定国民議会ではジャコバン派に属して演説能力を高め、リベラル政治家として活躍を見せた。1791年には国民議会での派閥抗争を次期立法議会に持ち越さぬために現職議員の立候補を禁止する法案を提出し、同法案を成立させた。1791年憲法が成立、立憲王政下に立法議会が発足したのにともないロベスピエールは一時下野してジャーナリストの世界に転身していく。『有権者への手紙』という誌名で新聞を発行して国民世論の支持を確立、パリでの足固めをしていく。程なくして国王一家が国外逃亡を図って失敗するヴァレンヌ事件が発生した。これを契機にジャコバン派から穏健派が脱退したが、ロベスピエールはフイヤン派やジロンド派を結成した時は立場を保持して、反戦、革命の継続を唱えて少数派の左派に留まった。
議員としてハードワークをこなす一方、秩序と道徳を重んじて質素で堅実な生活を営んだため、市民に人気があり「清廉潔白な人」と称されたが、政敵からは非妥協的で人間的温かみが欠けた人物と評され、周囲から孤立した。
8月10日事件以後はジャコバン派の左派山岳派を指導して政局を掌握し、1792年、国民公会選挙でアラスからパリ市内の選挙区に変えて立候補してトップ当選を果たした。1793年1月15日から1月19日まで、ルイ16世を訴追した国王裁判や処刑を主導するなど活躍を見せた。また、フランス革命戦争での苦戦の責任を厳しく追及し、開戦を決断しながら戦局を打開できないジロンド派の粛清を展開した。
1793年7月27日にロベスピエールが公安委員会に選出されて以降は、革命政権の確立と自己の政治的・社会的理想の実現に邁進した。ルソーの思想に影響を受け、一般意志すなわち自由・平等・友愛といった理念に加えて公共の福祉を重視した。また、政治的には国民の8割を占める小規模な独立自営農や独立小生産者に属したサン・キュロットと呼ばれる一般市民や無産労働者を支持基盤としており、プチブル民主主義の共和国を理想とした。 フランス革命戦争で敗北が相次ぐなか戦争遂行を続けていくことに加え、ヴァンデ戦争といった内乱が生じたために国内の反革命勢力に対抗する必要が高まり、"テルール"と呼ばれた恐怖政治が導入された。ジャコバン派内の反対派に対しても粛清がおこなわれ、ロベスピエールは大衆運動を重視して議会と対立する路線を選択したエベール派、新興資本家階級と提携しようとしたダントン派の指導者たちを革命裁判所を通じて次々と逮捕・処刑した。
1794年6月8日、ロベスピエールは非キリスト教化を主導して最高存在の祭典を挙行するなど、革命政府の中核的存在となった。しかし、容赦のない弾圧への反発が強まり国民公会でのロベスピエールの立場は悪化していく。7月27日(テルミドール9日)、フーシェ、バラス、タリアンら地方派遣議員は反対派を糾合して国民公会でロベスピエール派の逮捕を可決した。ロベスピエールは一旦逮捕されて監獄に送致されたが、監獄を出て市役所に急行し、市民に蜂起を促した。しかし、国民公会が派遣した国民衛兵に包囲されて逮捕され、弟オーギュスタンやルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュストらと共にギロチンで処刑された(テルミドール反動)[3]。
生涯
[編集]前半生
[編集]誕生(1758年)
[編集]マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(以下、マクシミリアン、あるいはロベスピエールと略記)は、1758年5月6日、フランス北部に位置するアルトワ州(現在のパ=ド=カレー県)の地方都市アラスで生まれた。父は結婚当時26歳で法曹家のフランソワ・ド・ロベスピエール。母は22歳でビール製造業者の娘ジャクリーヌ・カロである[4][5]。
母は正式な婚姻の前に既に妊娠中(妊娠五カ月目)であった。敬虔さを重んじるアラスの町での当時の価値観では良家の子女にあるまじき不名誉な結婚であった。結婚をめぐってトラブルが生じたもののフランソワは男子の責任を果たす[6]。間もなくジャクリーヌは出産してマクシミリアンが誕生するが、出生における瑕疵は彼を生涯苦しめ、その後の人生を規定していく。ジャクリーヌは多産で長男マクシミリアンの後、シャルロット(1760年)、アンリエット(1761年)、そしてオーギュスタン(1763年)が間を置かずに生まれた。
幼少期(1760年代)
[編集]父フランソワは優秀な弁護士で、年に30件ほどの訴訟案件を担当、彼の弁護士事務所は成功を収めていた。しかし、オーギュスタンが生まれて一年が経った1764年、家族に悲劇が襲う。当時としては珍しいことではなかったが、母ジャクリーヌは五番目の子供を出産中に死亡したのである[5][7]。母の死によってそれまで幸せだった家族は急激に破綻していく。父フランソワは絶望で打ちひしがれたのか妻の葬儀に出席しなかった[7]。12月、彼はアラス東方15マイルに位置するオワジ=ジ=ヴェルジェにあって荘園を領有する貴族に仕える法務官となった。法務官の任を果たした後に父フランソワはアラスに戻ってきているが、妻を思い出して辛くなるのを恐れてか残された家族と暮らすことはなかった。家族を捨てた父は仕事で神聖ローマ帝国領マンハイムに向かって故郷を離れていき、その後終生子供たちに会うことはなかった[8][9]。
マクシミリアンと彼の弟妹は幼くして母を亡くし、父も家を離れたたため、家族は離散を余儀なくされた。妹二人は父方の叔母に引き取られる一方、マクシミリアンとオーギュスタンはそれぞれ6歳と1歳の時に母方のカロ家の祖父母の家で引き取られ、そこに同居している叔母のアンリエットに養育されることとなった[9]。祖父母の家はロンヴィル通りに面した所にあり、マクシミリアンは手工業を生業とする労働者が行き交う騒がしい街で成長していくこととなった。ちょうどこの時にマクシミリアンは天然痘に罹患して顔に軽度のあばたが残った[10]。
なお、父の不在とネグレクトでマクシミリアンは孤児となって家族の愛情を受けられず不安定な家庭環境の中で成長して、成人後は人間的温かみに欠けた歪んだ人間になったと語られることが多い[注釈 2]が、歴史家ピーター・マクフィーによればこうした見解は事実ではないという[11]。
6歳までは母親からの愛情を受けて成長し、母親の死後は叔母をはじめ温かい親族に支えられながら養育を受けたほか、家から数分の距離に住む姉妹とも頻繁に会える環境で暮らしており、決して孤独でも不幸な境遇に置かれたわけではなかったと指摘されている[12]。ただし、甘え盛りの幼少期にマクシミリアンが母の死と家族離散から受けた打撃は大きく、子供らしい陽気で騒々しく乱暴な少年の人間形成に変化が生じて、成人後に人々から知られた人格を形成しはじめ「生真面目で思慮分別のある勤勉な人間」へと成長していった。アラスの活気ある市街の拡大や大聖堂の修築など建設ラッシュとは対照的に、敬虔なカトリック信者であった叔母たちの影響で規則正しく節制を重んじる平静な暮らしを送っていた。その後の少年期はケンカや騒々しい遊びではなく、読書と模型作りに熱中し、鳩やスズメをペットにして絵を描くことに情熱を注ぐ内向的な子供になっていった。日曜日には兄弟姉妹がロンヴィルの家に集まって兄弟愛に満ちた幸せと喜びに満ちた日々を過ごしていたという[13]。
マクシミリアンは叔母に読書算を教わり、8歳になると地元アラスの中等教育機関コレージュに通い始めた。コレージュでは古典教養としてラテン語や地理歴史が教えられた。また、アラスはフランスの国境地帯に位置し、ピカルディ方言が強かった地域だったため、この地域での教育は首都パリで話されたフランス語の習得が特に重視された。コレージュには四百人の生徒が通っていたが、頭脳明晰なマクシミリアンはすぐに群を抜いた存在となっていく。両親のいない家庭で弟妹を抱えた少年は、勉学していずれは自分が家族を守っていかなければならないという責任感を抱え、必死で勉強していった。11歳の時に弁論大会に参加する一団に選抜され、ラテン語のテキストに注釈を加える能力を披露するなど優秀な成績を残した。やがて、奨学金を得てパリのリセ・ルイ=ル=グランに学ぶこととなった[9][14]。
ルイ大王校時代(1769年-1781年)
[編集]マクシミリアンは12歳になり、少年期に入るときに転機が訪れる。リセ・ルイ=ル=グラン(ルイ大王校)への進学が決まり、パリへと旅立つこととなった。彼はこの学院に所属し、8年間にわたり寮生活を送った。ルイ=ル=グラン校はカルチエ・ラタンに所在しており、パリ大学教養学部の付属校を形成していた[15]。学院は徳育を重視して規律と倫理性を備えた市民を育成することを目標と定めて、その環境は厳格な風紀を順守を求めるものであった。学校の規律はカトリックの秩序を重んじた敬虔な暮らし方を送ることを旨とし、集団寮生活の下で生活時間の規律化に順応することが求められた[16]。
同校には500人が奨学生として所属していた。カリキュラムは、低学年でラテン語文法とフランス語の学習、高学年ではラテン語文献の講読、プルタルコスの『対比列伝』、キケロの『弁論家について』など古典学習のほかローマ史に精通すべく授業が組まれ、ギリシア語文献については特にアリストテレス哲学が履修対象とされ、最高学年になると道徳哲学と論理学が講義され、ボシュエの王権神授説、モンテスキュー『ローマ人衰亡原因論』の教授がおこなわれた[17]。そこでは多数の出会いがあった。学窓のカミーユ・デムーランもその一人であり、後のフランス革命の立役者たちがここで育った[18]。反感を抱くものもいた。学院副院長のリエヴァン・プロワイヤールはロベスピエールに不信と嫉妬感を抱き、否定的な評伝を多数残していく[19]。ここでの教育において特に影響が大きかったのはキケロの思想であった。美徳と悪徳を並べて、美徳が悪徳による陰謀と攻撃の脅威に晒されていることを強調するもので、この二項対立的な思想方法はロベスピエールやデムーランの内面に影響を与えた[20][21]。
しかし、名門校への進学を果たしたマクシミリアンの境遇は直ちに順風とはいかなかった。1777年に父フランソワが異国バイエルンのミュンヘンで亡くなり、親族であったカロ家の祖父母を失い、兄弟姉妹が進学して故郷を離れ、叔母が各々結婚して生活環境が大きく変わる中で、妹アンリエッタを亡くすなど家族を失い、絆のある一族の離散が立て続いた[22]。(マクシミリアンの詩[23])
一方、マクシミリアンは非常に優秀な学生で、教師陣からの評判も良かった。こうした学業の日々で大任が下る。1775年、マクシミリアンの能力を高く評価していたエリヴォ先生からルイ16世の誕生日での賛辞を朗読する大役に指名されたのである[注釈 3][9][24]。マクシミリアンは家業であった弁護士になるべく、法学部への進学を志した。大学進学を果たし、パリのソルボンヌ大学に入学する。早速、活躍している有力な法曹家への接近も試み、学業へのアドバイスを求めるなどして人脈形成に励んでいる。大学での勉強では民法・教会法を学び、法律事務所での研修生としては行政法・刑法の実習に励み、裁判所にも足を運んで法廷での検察・弁護人・裁判官のやり取りを観察、判決や判例の勉強に努めた[25]。
プロワイヤールはこの時期のロベスピエールが「悪書」を講読していたことを伝えている。ルソーの『新エロイーズ』、『社会契約論』、『エミール』や貴族のセックス・スキャンダルに関する報道を熱心に読んでいたという。学生時代は勉学のかたわらモンテスキューやルソーなどの啓蒙思想家の著作を愛読していたが、特にルソー(1778年没)については自ら訪問してその謦咳に接するほどの傾倒を示している[26]。
マクシミリアンは、法学課程の履修に通常二年が必要であったが、18ヶ月で課程を修了した。卒業時に学業優秀者に対する報奨金600リーヴルが授与された。マクシミリアンは、1781年にパリ高等法院から弁護士資格を取得して地方ブルジョワ階級出身者の典型的な青年として出発する[27]。マクシミリアンの卒業後、弟オーギュスタンも兄の奨学金を引き継いでルイ=ル=グラン校への進学を果たした[21][28]。
法曹界へ(1781年-1789年)
[編集]1781年、ロベスピエールは卒業後、アラスに帰郷して弁護士として開業した。すぐに顧客獲得を模索して奔走し、アラスの宗教権力や法曹界における有力支援者の獲得に努めた[29]。アラスは10箇所の裁判所が設置され、そこに所属する31名の裁判官、92人の法廷弁護士、50人の代訴人、25人の公証人から構成されていた。1782年1月、ベテラン法曹家のギヨーム・リボレルが簡単な訴訟案件をロベスピエールに回して最初の仕事を受け持つように便宜を図った。3月には、早くも殺人事件に関する裁判で司教区裁判所の判事に抜擢されるほど能力を発揮した。このときの裁判での判決からロベスピエールは死刑制度に対して疑問を感じている[30]。
ロベスピエールは生真面目な仕事人間であった。日々の半分以上を仕事に捧げていた[注釈 4]。担当裁判の多くで勝訴する優秀な弁護士であったが生活はなお苦しかった[31]。マクシミリアンが若さを謳歌して恋愛に情熱を傾ける時間はなかなか手に入らなかった。ただし、女性との出会いがなかったわけではないようである。デュエという女性からは贈り物としてカナリア数羽を譲られて可愛がっていたが、これを機に文通を開始している。ペットへの愛情から感謝の手紙を送っているものの、恋愛関係の進展はなかったという[32]。
私生活面以上に仕事では貴重な出会いがあった。ロベスピエールが25歳の時、マクシミリアンの親ぐらいの年齢で友であり師となったアントワーヌ・ビュイサールという法曹家と出会う。ビュイサールから斡旋された裁判を契機に次第に知名度を高めていく。このときの裁判はヴィスリ避雷針裁判として知られている。ベンジャミン・フランクリンが発明してヴィスリという住人が家に設置した避雷針に関する裁判を回してもらい紹介と情報提供を受けながら裁判に臨む。科学を擁護してリボレルなど撤去派に勝利したのである。ロベスピエールは科学と進歩を掲げる啓蒙主義の擁護者として知られていくこととなった[33][34]。また、アンシャン修道院横領事件では経理役フランソワ・トドフによる横領事件を弁護した。低い賃金で労働していた点に注目させ裁判で勝利したものの物議を醸し、「法の権威を攻撃し法廷を侮辱した」として叱責された。だが、この裁判はロベスピエールとリボレル等ベテラン法曹家との確執をもたらす一方、彼の博愛精神を世に知らしめるものともなった[35][36]。
1783年、アラスで着々と成功を収めたロベスピエールはアラス・アカデミーの会員となることが認められた[37]。その一年後には書記のポストに立候補して落選しているが、1786年1月にはアカデミー院長に選出された。アラス・アカデミーでは後にナポレオンの下で陸軍大臣となるラザール・カルノーと出会っている[38]。ロベスピエールは学術面でも活躍を見せ、メス技芸王立協会に発表した『刑事事件の加害者の一族もその罪を共有すべきか』という論文は高く評価され、特別賞と400リーヴルが授与されている[39]。また、このころ「非嫡出子の相続権問題」など個別事例を論文で取り上げている。出生時の瑕疵によって人生が規定されるという不合理性を指摘するとともに、血統に起因する特権に批判をおこない、旧体制における社会秩序の根幹を争点化しようとした[40]。
アラス・アカデミーは「アルトワ州の耕作地は分割されるべきか否か」を問題とする論文を公募した。これにバブーフも論文を提出したが期限を過ぎていたため受理されなかった。この論文をロベスピエールが読んだかは不明だが、バブーフがロベスピエールを知る最初のコンタクトとなった。バブーフはロベスピエールを貧民のために働く法曹家として高く評価していた[41]。
ロベスピエールは穏やかな性格の持ち主だったが、進歩的で開明的な考え方を持っており男尊女卑の風潮に批判的な立場を表明することがしばしば見られた。1786年のアカデミー院長就任演説では理性や徳といった穏当な主題ではなく、より具体的で社会的なテーマに踏み込んで自分自身の出生に関する瑕疵に言及しながら非嫡出子の権利が侵害されている点を改めて指摘した。家族内における子の平等を説くロベスピエールの認識は嫡子相続を重視する当時の結婚観や家族観と相いれず、不本意にも婚姻制度の冒涜者として非難された[38]。また、1787年4月にはロベスピエールはアカデミーへの女性の加入を認める方針を明らかにし、さらにアカデミーの名誉会員として承認する決定もしている[注釈 5]。これは社会での公的生活での活動とその業績は男性にのみ許されるという既存の社会通念を打ち破る女性解放、男女同権の立場を表明するものであった[42]。
仕事人間で生真面目なロベスピエールは死後盛んに冷血漢として非難されているが、実際には真面目ではあるが冗談も語り、恋愛や詩の美しさを理解できる情熱的な面を持ち、貴族的ないで立ちではあったが気さくな人付き合いが苦手なわけではなかった[43]。
ビュイサールの娘シャルロットへの恋文では北方のカルヴァンに旅行した時の出来事を報告している。これはロベスピエールには珍しい率直な愛情表現であった。身近な人達への親愛の情は深い人物だったと推測される[43]。地元で評価を高めたロベスピエールは社交クラブのロザティ協会にも入会が認められている。同協会は文学と酒を愛する紳士クラブであった。著名な法曹家となっていたが、物議を醸す見解を提示し争点を社会問題への批判へと展開させる裁判でのやり口が嫌われ、かなり遅く入会の勧誘があった。だが、ロベスピエールは協会への加入が承認されたことを大変喜び、文学への関心を高めて詩作にも興じている。この協会では後に政敵としてロベスピエールを追い落としたジョゼフ・フーシェと出会うこととなった[44]。一方、デュエ嬢との文通は続いていた。彼女とは共通の趣味であったペット愛を熱く語り合っている[45]。
ロベスピエールは華々しい成果と共に経済的成功をおさめたものの、アラスでの多忙であるが平穏な生活は長くは続かなかった。歴史はロベスピエールをアラスの地で埋もれさせはしなかった。1789年の一大変化はロベスピエールをパリに連れ戻し、彼を歴史の表舞台に登壇させることとなる[46]。
フランス革命(1789年前半)
[編集]三部会当選・政界進出
[編集]1787年までにロベスピエールは20代でありながら、地方都市における主要な法曹家として目覚ましい成功を収めていた。しかし、当時のフランス王国は危機に直面していた。1775年から1783年にかけて英領北米植民地で反乱が勃発し、アメリカ独立戦争が始まる。フランスはアメリカの13植民地を支援するため戦争に介入する。フランスは戦争には勝利をおさめ7年戦争での敗北の雪辱を果たすも10億リーヴルもの戦費によって財政が悪化していく[47]。
財政問題は不可避の課題となってフランスに圧し掛かっていた。
国王政府は財政再建のために貴族への免税特権をはく奪して財政再建を図ることを決断したが、これを契機に王権・貴族間の対立が激化していく。国王ルイ16世は貴族の反発に対処するために三部会を招集することとなる[48][49]。しかし、この決断がフランスの歴史を変えていくこととなる。1783年に発生したアイスランドのラキ火山の大規模な噴火により全世界で夏のない年となり、フランスでも冷夏による飢饉が発生した[注釈 6]。1789年に至るまで例年のように火山の冬といえる異常気象が相次ぎフランス各地で食糧難を原因とした社会的緊張が高まっていた。三部会招集を契機に長期にわたり蓄積されてきた第三身分に属した平民層(ブルジョワジーとプロレタリアートを含む一般市民層)の不満が全国で一挙に噴出していった。
国王による全国三部会の招集は最後のもので1615年のことであったため、実に170年ぶりの出来事であった[50]。三部会招集問題は選挙資格をめぐって争点となった。この時、アルトワ州選出議員となる資格者は以下の通りであった。
貴族資格は4代以上続く貴族で、聖職者資格は司教をはじめカトリック教会聖職者の長の者に与えられた。第三身分の資格は都市参事会員ということが規定され、各都市に2、3名の議席の割り当てがあったのだが、第三身分に30票の選挙人数に対して、少数派の貴族に100票、聖職者に40票という過大な代表数が配当されていた。ロベスピエールにとって身分別に区分された選挙資格の設定や選挙人の投票数は不公正なものに思われた。さらに、第三身分の代表者選出が富裕層(ブルジョワジー)に制限された制度を非難するなど、ロベスピエールは三部会議員の選挙資格をめぐって活発に批判を繰り広げていた[51]。
同年、アラスで国王封印状により拘留されていた老人の財産権の回復をめぐる裁判(国王封印状裁判)をロベスピエールが担当した。ロベスピエールは国王は人類の幸福と正義の実現を図るべきだと主張してこの裁判でも勝訴、老人の権利回復を勝ち取っている。ロベスピエールは不当に権利を侵害された人々を司法の力で救済し、法律によって人々の権利を守ることに全力を注いだ。なお、この頃のロベスピエールは選挙資格に不満を感じながらも三部会招集を歓迎し、まだ国王と国王政府による改革に期待を抱いていた[52]。
ロベスピエールは司法活動だけに留まらず、やがて政治活動にも取り組むようになった。盛んに政治パンフを出版するようになり政治のヴィジョンを積極的に宣伝し始めたのである。『アルトワ人に向けて』を刊行、有力者にのみ開かれた代表制度を再度批判したほか、『アラス市民集会で仮面を剥がされた祖国の敵』を著して旧体制のエリート層を激しく糾弾した。そこでは「外国の軍隊よりも恐るべき国内の敵がひそかに祖国の破滅をたくらんでいる」と指摘し、どのような苦難が生じようとも「抑圧的な体制を永続化する…陰謀の秘密を祖国のために明らかにする」と宣明している。ロベスピエールは社会を支える平民が虐げられている現状に義憤を抱きながらジャーナリズムや政治活動によって貴族や高位聖職者らの不正義を正そうと彼らに急進的な政治批判を加えた[53]。
一方、地元アルトワ州では全国三部会選挙を前に国王に向けての陳情書「不満の一覧」[注釈 7]が作成されていた。
国王に期待している改革要望をまとめたものであるが、そこでは飢饉、政情不安、財政再建への対応が求められ、税制、行政、司法、教会を含む包括的な国家改革の必要性が主張された。だが、陳情書作成にあたって利害対立が深刻化していた。国内全域で貴族・農民の地代をめぐる対立、貴族・ブルジョワ間の階級対立が激化しており、職業選択の自由、税負担の公平化、封建制度の廃止が論じられた[50][54][55]。
ロベスピエールも選挙と陳情書の作成を前に選挙区内での視察に励み、困窮に喘いでいた靴職人からなる製靴工組合の会合に出席していた。英仏通商条約[注釈 8]で皮革の値が高騰して生活を圧迫しているという陳情を聞き、条約改正を訴えた[56][57]。三つの身分が別々に会合を開いていたが、身分間の確執が一層表面化し、激しい対立の結果、有力貴族や司教をはじめ主要な候補者に辞退者が続出したが、一方で全国各地で地方で影響力をもつ優秀な名士が選出された。
アラスでの全国三部会選挙は1789年4月24日から28日にかけて実施された。複雑な選挙システムによって当選結果が出るまでに時間がかかったと言われている。ロベスピエールは第三身分の候補者8名の選出で4回目の投票で当選ラインになんとか僅差で到達、当選を果たした[58]。30歳にして三部会のアルトワ州第三身分代表として政治の世界に身を投じる。地元紙『アフィッシュ・ダルトワ』からはロベスピエールは狂人でミラボーとも遣り合える人物などと痛烈な人物評を書かれていた[59]。
全国三部会は聖職者からなる第一身分308名、貴族身分からなる第二身分285名、平民からなる第三身分646名、合計約1200人から構成されていた。第三身分選出議員(646名)の半数は法曹家で、彼らは地方の現状と平民の不満を体現していた。招集されて間もない三部会は深刻な問題に直面した。1789年5月5日から6月20日にかけて議決方法をめぐって対立が激化していった。部会で別個に議論と評決を下すか、合同会議を開いて多数決で評決するかが論点となったが、個別部会制を主張する第一・第二身分に対して合同部会による多数決を求める第三身分が個別部会に激しく反発したのである[60][61][62]。シェイエスは実力行使を訴え、第三身分だけで国民議会を招集すると主張した。
1789年6月20日、両者はやがて決裂するに至る。議場ムニュ公会堂が閉鎖されたため、ジャン=ジョゼフ・ムーニエが議場をテニスコートに移すことを提案し、第三身分だけの憲法制定国民議会(以下「国民議会」と略記。)が発足する。議員は「王国の憲法が制定され、強固な基盤の上に確立されるまでは、決して解散せず、四方の状況に応じていかなる場所でも会議を開く」ことを誓い合った。球戯場の誓いである。ロベスピエールも国民議会を熱烈に支持し、急進派のオノーレ・ミラボーらと共に誓約書に署名した[63]。6月23日、国王が国民議会の解散を命じるが議会は拒否し、事態打開のために27日、国王は今度は三部会に留まった貴族や聖職者に国民議会への合流を勧告する」[64][65][66]。第三身分が勝利を果たし、これにより政局の安定が図られることが期待された。しかし、事態は急変していく。
活躍目覚ましいロベスピエールは1789年段階のパリでは無名の人であった。この時期のロベスピエールは、ロベール・ピエールなど不正確な綴りで報道されていた[63][67]。
バスティーユ襲撃
[編集]食糧が不足したパリで飢餓の恐怖とジャック・ネッケルの財務長官職解任に民衆とブルジョワジーは激怒した。1789年7月12日には国王の軍隊がパリ市民に攻撃を加えるという噂が流れ始め、数千とも数万ともいわれる人々が廃兵院に押しかけた。自衛と秩序保持を名目に武器と弾薬を引き渡すように要求した。群衆が廃兵院で3万丁の小銃を奪い、7月14日、弾薬の調達のためにバスティーユへと向かった。バスティーユ襲撃はサン・キュロットたちの絶対主義体制に対する不満の表れであった。その不満が絶対主義の象徴であったバスティーユに向けられた[68][69][70]。
その頃、市民代表がバスティーユの司令官ベルナール=ルネ・ド・ローネーに武器の引き渡しを求めていた。廃兵院からまわってきた人々が合流し、その数はさらに増加した。人々の興奮状態が高まって群衆が中庭になだれ込み、襲撃が始まった。恐怖にとらわれた守備兵が発砲して、民衆と守備兵が衝突し、混乱のさなかの激しい銃撃戦により100人ほどの死傷者が出た。群衆側が大砲を奪取して激しい銃撃戦が展開され、バスティーユは陥落した[68][71][72]。
ド・ローネーは捕らえられ、パリ市庁舎に連行された。群衆はド・ローネーの首を刎ねて殺害、さらに市長のジャック・ド・フレッセルも、この日の出来事への対応を「裏切り行為」として咎められ、市庁舎から出て来たところを射殺され、首を刎ねられた。彼らの首を槍の先に刺して高く掲げた群衆は、市庁舎前の広場を練り歩いた[68][73][74]。
ロベスピエールは早速この日の状況を郷里の友人アントワーヌ・ビュイサールに報告している。
「親愛なる友よ。今起きている革命は、人類史の中でも最も偉大な出来事を、この数日の間にわれわれに見せてくれたのです」と述べてバスティーユ襲撃が歴史的に重要な事件であったと強調し、事件に対する興奮を伝えている。「あらゆる階層の市民からなる30万人の愛国者たちの軍勢によって、蜂起は全体的なものになったのです」と述べた。加えて、ロネとフレッセルの殺害についても衝撃的な出来事であったとしながらも、「前者は、住民の代表者たちに発砲するよう、バスティーユの砲兵たちに命じたとして有罪宣告されていましたし、後者は、宮廷の最上層の人々と共に人民を攻撃する陰謀に加担したと有罪宣告されたのです」と語り、民衆による武装蜂起の正統性を擁護している[75]。
その後、国王ルイ16世はパリを表敬訪問して市民と和解を図ろうとし、議会側もこれに応じ国王を歓待するため代表団を指名した。ロベスピエールは革命に対しても国王と和解してルイ16世を歓迎するという議会側の対応も民衆感情の発露として高く評価しており、この時国王を迎える一団にも参加している。一方、国民議会や革命に抵抗する貴族、スイス衛兵らを「裏切者」と見なし、妹への手紙でも「パリの騒擾で一体何が起きたというのか。全体的な自由が実現し、血はほとんど流れなかった。いくらか首が落とされたのは確かだが、それらは罪ある者の首だった。……この暴動のおかげで、今や国民は自身の自由を手にしている」と語って、革命と民衆を擁護する立場を鮮明に語った。また、ミラボーが国民衛兵の創設を提案し、ロベスピエールもこれを支持している。ロベスピエールは民衆が自衛のために武器を取り、自由のために戦うのは当然の権利として見ていたのである[73][76]。
議会と国王の対立(1789年夏―1791年10月)
[編集]アンシャン・レジームの崩壊
[編集]革命の地方への影響は計り知れないものであった。パリでの革命の報知が地方に波及していくと、貴族たちがならず者を雇って穀物に火を放つなど根拠のない噂が広まり、農村各地でパニックが発生した。こうした各地のパニックは人から人へと伝染して拡大し、大恐怖と呼ばれる大規模な地方騒乱に発展していく。1790年に入っても沈静化せず、農民は貴族の特権や領主権に反抗して共有地や森林の分割を要求した。要求は部分的に通るが、貢租の徴収など領主権は完全に廃止されなかったため、不満を抱く農民たちは領主の館を襲撃していくようになる。農村各地は無政府状態に陥った[77][78][79][80]。
拡大していく地方騒乱に対応するため、1789年8月4日、国民議会で農民の経済的重圧となっていた封建制度の廃止が決定される[注釈 9]。封建制度の廃止はフランス革命において画期的な成果となる決断であった[81][82][83][84]。これにより、ロベスピエールの出身地アルトワ州ではピレネー条約で認められた塩税の免税特権を放棄するに至る。各々の地方や都市がそれぞれ認められていた諸特権が次々と放棄されて、フランスは社団国家から統一的な法制度をもった近代国家に変貌を遂げようとしていた。ロベスピエールも革命の進行と封建主義の終焉を歓迎し、アルトワ州の特権放棄を擁護した。しだいに、ロベスピエールの立場もアルトワ代表からフランスの国民代表を標榜するものに変化していった[85]。
こうした情勢下で、国民議会はさらに踏み込んだ決断を下した。人権宣言の採択である。8月26日、人間と市民の権利の宣言が発布された。国民議会は、法律の制限内ではあるが国民の自由を承認し、国民相互における権利の平等を宣言した。普遍的な人権原則が示されたことで身分と特権のアンシャン・レジームは完全に崩壊したのである[86][87][88][89]。
憲法制定を目的につくられた国民議会は憲法問題を議論していた。しかし、革命が急進的性格を示すと、議会と国王の対立はしだいに先鋭化していった。最も対立が激しかったのが、議会と国王政府との関係を規定するうえで重要な争点であった国王の拒否権をめぐる問題である。国王の拒否権を支持していた立憲派と拒否権に反対する急進派の間で論争が生じた。ロベスピエールは国王の拒否権に反対して重要な演説をおこなった。しかし、拒否権は議会で成立通過したため、演説を印刷して世論に訴えた。
ヴェルサイユ行進
[編集]拒否権を有する国王は国民議会の諸政令と人権宣言の承認を拒否した。次第に議会と国王との対立から議会の地位をめぐる議論が紛糾していった。行き詰まりを見せていたかに見えた状況下で、国王が革命の諸法令を渋々承認し、ようやく再び情勢が動き出す。しかし、議会と国王の対立が激化するなかで食糧不足への恐怖心がパリで蔓延、再び騒乱が発生する危険が高まっていた[90][91]。
10月15日、パリの女性たち数千人がヴェルサイユに行進、国民衛兵が女性たちの後を追って王宮へと進軍した。ヴェルサイユ行進である[91][92]。女性たちは国王と王妃にバルコニーに出て挨拶するよう要求した。王妃マリー・アントワネットは立憲派であった国民衛兵司令官のラファイエットの挨拶を受けることになったが、群衆に寝所にまで踏み込まれた上に狙撃の危険もある行為を突き付けられて、革命に対する嫌悪感をさらに強めた[93]。
国王夫妻と国民議会は民衆の要求に押されてヴェルサイユからパリに移ることになった。これにより、国民議会はパリ市民の民意を盾に国王に直接圧力を加えることが可能になり、これまでに成立した法律に国王の承認を取り付けることに成功した[94]。しかし、パリ市内の社会不安を抑えることができなかった。パリでは国王の側近たちが黒幕となって革命を妨害しているという陰謀論が拡大していく[95]。
国民議会による改革
[編集]政治的危機を巧みに利用しながら主導権を確保した国民議会は行財政改革に着手していく。譲歩を強いられた国王に代わり、民意の支持を得た議会が司法・行政・税制・教会の頂点となっていく。これまで国王が任命していた官職を国民主権に基づいて民選することが決定され、官職任用制度に公職選挙が導入されるなどあらゆる社会制度が刷新されることになった。この時の行政改革の結果、フランスでは領主や司教領から行政権が取り上げられ、市町村制度が導入されて全国一律のピラミッド型統治構造を構築していく[83][97]。1790年1月15日にはフランスは83県の地方自治体に再編された。また、不足した財源を補うために教会財産の国有化が決定され、没収財産を担保にアッシニアが発行された[注釈 10]。
1789年12月の地方選挙の実施を前に選挙法制定が議論されていた。憲法や法律に明るいシェイエスが審議を主導していく。彼は国民を「能動的市民」と「受動的市民」に区分し、財産を所有する「能動的市民」に選挙権を限定するように提案した。後に招集された立法議会でもこの制限選挙制が採用された[注釈 11][98]。しかし、ロベスピエールはルソーの『社会契約論』に基づく人民主権論を擁護していたため、人民の直接的な代表を実現させる議会政治を理想と考えており、制限選挙制に強く反対していた。
あらゆる市民は、誰でも、あらゆる段階の代表となる権利を持っている。これほど諸君の人権宣言に合致することはないのであり、人権宣言に照らせば、どんな特権も差別も例外も消滅するべきなのだ。憲法は、主権は人民のなかに、人民を構成するすべての個人のなかにあると定めている。したがって、個人はそれぞれ、自らが拘束される法律の制定に参加し、自らの問題である公共の問題の運営に参加する権利を持っているのだ。そうでなければ、あらゆる人間は権利において平等であり、およそ人間たるものは市民であるというのは、正しくないことになる。……。こうして、市民は財産による差別なく、法律の制定に参加する権利を、したがって、選挙人ないしは被選挙資格者になる権利を持っているのである。」[99]
ロベスピエールは婦人参政権の導入を積極的に支持しなかったものの、アンリ・グレゴワールとともに人権宣言の精神を擁護し、差別を受けていた役者やユグノー、ユダヤ人を含む全市民の平等を前提として成人男子選挙権の導入を支持した[99][100]。ロベスピエールは、制限選挙制を政治体制の安定のために普遍的人権を制約する半端な政治路線と見なすなど否定的であった。彼は権利の平等を擁護して制限選挙制を厳しく批判して原理主義的に民主主義の制度を追求して、成人男子選挙権の導入を求めた。一方、急進派の非難に対して沈黙を続けるシェイエスにロベスピエールは深く失望して以降シェイエスを「革命のモグラ」と呼んで軽蔑していく。
この時期のロベスピエールは、ジェローム・ペティヨン、フランソワ・ビュゾー、ピエール・ルイ・プリウールらと共に少数の急進派グループに属していたが、国民議会の実務委員会に属されない無任所議員であった。封建制廃止の急先鋒となったことで地元アラスとの関係は冷え込んでいったが、アラス代表の立場を捨てる代わりに、1790年8月までにはパリの政治グループの拠点ジャコバン・クラブ[注釈 12]に所属してパリ市民を代表して活動するようになる。パリではコルドリエ・クラブ[注釈 13]など政治クラブが続々と設立され、市民や議員が集まって連日連夜活発に議論が展開され、議員たちは精力的に演説した[102]。
1790年5月、国民議会は内政面での革命遂行だけでなく、国家にとって重要な軍事外交政策について議論していた。フランスは七年戦争の敗北以来、北米植民地(ケベック州をはじめカナダ)を喪失するなど北大西洋の覇権を失っており、フランスの国家再興を目指す革命にとって対外政策で成果を出すことが喫緊の課題だった。この時争点となったのは、交戦権を議会に属させるか国王に属させるかであった。最終的に立憲派のミラボーの調停により交戦権は国王に属すことが定められた。国王の決断と議会への提案がなければフランスは周辺国と開戦できないのである。この妥協策は国王拒否権を批判していたロベスピエールの考え方に近い解決策でもあった。ロベスピエールはアヴィニョン(教皇領)といった飛び地の編入といった例外を除き、外国との戦争に否定的で反戦の立場から戦争放棄を説き、領土拡張のための侵略行為や他国民の主権と自由を侵害する軍事介入は永遠に廃止されるべきものと考えていた。君主権に交戦権が残されていれば、革命に警戒感をもつ周辺諸国との対外危機を回避し、無用な戦争を避けることができると期待された。軍に独自の裁量権はなく国王政府の命令に従い、司令官と軍規に基づいて行動することが求められていた。戦争に消極的だった国王に統帥権を付与して軍隊統制の原則を堅持する方針はロベスピエールが提唱していた平和外交思想とともに1791年憲法に取り入れられていく[103]。
ただし、ロベスピエールは自衛権に基づく強力な軍事力の必要性を認めていた。フランス革命で柱となっていた制度、士官を選挙で選出するという組織編制を否定し、軍の組織機構の民主化には反対の立場を取っていた。軍隊内部に選挙制を持ち込むのは作戦指揮能力と責任の重大性から本末転倒であり得ないというのが彼の考え方であったが、ロベスピエールは武器自弁の原則から貧しい市民が国民衛兵の兵士に応募することが認められなかったことに不服を申し立て「神聖な社会契約が棄損されている」と非難するなど、それぞれの軍人の権利と義務については民主的な考え方を持っていた[99]。また、国民議会は、メッスや8月24~31日にナンシーで発生した兵士の反乱に身体破壊を伴う車輪刑や斬首刑、ガレー船送りなどの過酷な厳罰を加えたが、ロベスピエールは非人間的で残酷な刑罰に強く反対した。軍法における刑罰が将校と一般兵士との間に軽重が異なっていることに関して、ロベスピエールは平等に反するとして厳しく糾弾していた。軍隊は階級社会であるべきだが、一人一人の将兵の権利義務は平等であるべきという考え方を持っていたのである[104]。
軍事・外交だけでなく、経済の再生はフランスにとって急務であった。
4月17日、第一回は教会財産を国有財産として没収し、これを担保に債権として発行されたアッシニアに強制流通力を付与された。ブルジョワジーが教会財産の競売にこぞって参加し、国庫は再建されるかに見えた。第二回よりアシニアは紙幣として発行されることとなるが、しだいに乱発され発行過剰により通貨の信用性が低下して下落を始めていく。物不足と通貨下落によるインフレは深刻で、ロベスピエールは儲ける商人と生活難に喘ぐ民衆を目にして、アシニア下落による経済危機を原因を発行過剰というよりも「買占め人」や悪徳投機家による「陰謀」として見ていた。革命は自由を実現させつつある一方、市場では実際に買占め人と悪徳商人が蔓延り、物価高騰、食糧難を伴った革命による社会不安と混乱は人々の生活に明暗をもたらしていた[105]。
政教対立の形成
[編集]1790年半ば以降、民衆を苦しめていた深刻な食糧難は解消しつつあった。1790年7月14日、安定に向かい始める期待感の中で教会、王室、革命の協調と融和を祝福するため市民が参集して、シャン・ド・マルスで革命一周年式典として第一回全国連盟祭が挙行された[106]。しかし、国内情勢の実態に政教間の融和はあり得なかった。国民議会は各地の修道院を廃止したほか司教領の教会財産を没収して競売にかけた。また、プロテスタントであるユグノーやユダヤ人を解放して信仰の自由を採択した[105]。
連盟祭の盛り上がりの一方で革命は聖域破壊へと進んでいく。7月12日、国民議会は聖職者民事基本法を採択してカトリック教会の世俗化に着手したのである。聖職者は国から給与を貰う公務員となって世俗国家に服することが規定され、後に立法議会では国家に所属することを誓約することが義務付けられた。大半の下位聖職者は所得が向上したが、司教をはじめ高位聖職者と教会の叙任権の階梯をはじめカトリック信仰の世界を否定する改革にフランス国内の政教関係は分裂を来した[107]。ロベスピエールは宗教や道徳、信仰といった精神的な拠り所を重視しながらも、聖職者を国家に属す一般の国民と同様の存在と見ていた。彼が信ずる平等という理念のもとに国民統合を図っていくのが大義であった[108]。議会で反対論を主張した議員にロベスピエールはこう発言している。
1791年3月10日、教皇ピウス6世は聖職者民事基本法を批判して改めて人権宣言を攻撃した。革命によって特権を失った上位聖職者は改革に激怒しており、また躊躇していた者、日和見を決めていた司祭たちは教皇の命に従って宣誓を拒否しはじめていた。こうした動きはフランスの北東部と南部に広く分布し、宣誓拒否僧は聖職者身分のおよそ半数近くに及んでいたというが、政治と宗教の対立は市民生活を分断して国内の緊張と対立は一層厳しいものになった。こうした情勢下で反革命勢力は巻き返しを図ろうとしているように見えた。敬虔な国王の態度が急速に変化して頑なな反革命へと態度を硬化させたのである[110][111]。反革命の準備は着々と進められた。王の弟アルトワ伯(後のシャルル10世)は国外に逃亡して神聖ローマ帝国領のコブレンツで宮廷と軍隊を設置していた。アルトワ伯の周囲には亡命した貴族が参集しており、革命を武力で討伐しようとする勢力が集結していたのだ。世論とロベスピエールの目に反革命派による陰謀は漠然とした不安ではなく現実の脅威となっていた[112]。
ロベスピエールと新国家
[編集]聖職者民事基本法を支持し、教会の独立性を批判したことでロベスピエールの立場は悪化した。彼は活躍して名が広まれば広まるほど、かつての知人や縁者から非難され、同僚議員たちからも嫉まれていた。地位を悪用して女性を囲っているとか、人付き合いが悪い、陰険な性格であるなど人格否定を伴う誹謗中傷の格好の対象となって貶められるようになっていた[113]。ジャコバン派の支持者デュボワ・クランセはロベスピエールをこう評している。
「彼はうぬぼれが強く、嫉妬深い。しかし正しく有徳な人物なのだ。彼を攻撃する最も舌鋒鋭い中傷者ですら、わずかでも人の道を外れたことをしたとして、彼を告発できたためしがない。彼は、ルソーの思想の道徳的側面を学んで育ち、自信を持ってルソーを模範として振る舞った。彼は信条や習慣についてはルソーと同じくらい厳格であり、懐柔されない独立精神を持ち、簡素であることを恥じることなく、また気難しさを持っていた。……。仮に議会がロベスピエール一人でできていたなら、今日フランスはただの瓦礫の山と化していただろう。」[114]
批判にロベスピエールは大いに傷ついていた。彼は神経質になって苛立ちを感じると同時に、政務の重圧から次第に体調を悪化させて鬱状態に陥っていた。国民議会は新体制を樹立するためにこれまでにない範囲を対象に改革を急ピッチで進めており、各々の議員たちは持てる知識とエネルギーの全てを法律制定に注ぎ込んでいた。当然ながら、ロベスピエールは他の議員と同様、心身疲労のなかでも激務を続けて精力的に活動していた[115]。
1791年5月、新憲法で擁護される市民権について議論が展開されていた。革命後、言論が活発化する一方で誹謗中傷やデマが飛び交ったため、これに対処するため報道の自由は制限されていた。ロベスピエールは自分自身がジャーナリズムの被害者であったが、言論の副産物である風評被害と名誉棄損は訴訟で解決されるべきであって、悪影響を理由に報道の自由を制限してはならないと主張して政府による言論統制を解除するように訴えた。「報道の自由を演説の自由と切り離すことはできない。この二つの自由は両方とも自然と同じくらい侵すことのできないものだ」、「演劇の自由も決して制約を受けてはならない。世論は公益のための唯一の裁定者なのだ」というのがロベスピエール主張であった[116]。
また、民法では子供の遺産相続の平等を訴えて、家父長制とこれを支える長子限嗣相続を批判、均分相続制度を導入するように活動した。刑法改正に関しては、陪審員制度の導入を支持しながらも選出に資格条件を設定しようとする制限策を不平等であるとして非難した。さらに重要な議論を呼んだ死刑制度存廃問題でロベスピエールはリベラルで寛容な主張を展開した。国民議会で審議を開始した際に死刑制度を専制政治を維持するためのシステムとして非難して、熱心に死刑廃止論を説いた。後のイメージからは想像しにくいが、このときの審議でロベスピエールは死刑廃止法案を提出している。この法案が通過していれば後の恐怖政治はなかったと言われているが、皮肉にも同法案は否決された。ただし、ロベスピエールの見解は議会で尊重され、死刑適用対象となる犯罪行為は削減されて改革前より刑罰が緩和されることとなった。ジョゼフ・ギヨタンの提案により処刑方法も人道性を重視したものとなり、ギロチンによる処刑法が採用されることになった。また、犯罪者親族への刑罰を禁止する法案に関わるなど当時としては先進的な法案に関わっていた[117][118]。
国王が拒否権を使って革命への非協力を示しながら、バルナーヴ、アドリアン・デュポール、ラメットら穏健な立憲主義を標榜する三頭派と依然として国王に忠実だった王党派の首領ラファイエットの不毛な権力闘争に忙殺される政治に多くの議員と国民は失望していた。1791年5月16日、ロベスピエールは三頭派と立憲主義者を次期議会から一掃するため国民議員の立法議会での再選禁止を提案し、圧倒的支持を受けてこの提案を通過させている[115]。しかし、体力消耗が激しくなっていたにも関わらず休養することができない重圧にロベスピエールも到頭音を上げていた。一月後の6月12日にアントワーヌ・ビュイサールに宛てた手紙で心情を吐露している。
「この重要な地位が、私に強いるだろう困難な仕事のことを思うと、私は恐怖しか感じません。これほど長く続いた混乱のあとで、私は休息を必要としていたのです……。しかし、荒れ狂う運命に身を投じねばならないようです。この国のために可能な限り犠牲を払うまで、私はここから逃げません。」[119]
手紙で弱音をこぼしている通り、この二日後の6月14日に成立した労働者団結禁止法ル・シャプリエ法の審議の際には民衆の権利を擁護するために論戦を挑むべきところ、全く発言できずに終わっている。体力的に精神的に擦り切れそうな状態とはいえ信念を全うしようとする姿勢に賛同するものもいた。国民衛兵の中佐だった若き将校サン・ジュストは熱烈にロベスピエールを擁護する手紙を送り、以降文通を通じて友情を深めて革命の同志となっていく。
転換点(1791年)
[編集]国民議会でロベスピエールが激務に励んで革命を前進させようとしている頃、1791年4月2日、革命の立役者で立憲派のオノーレ・ミラボーが死去した。ミラボーの死により宮廷に通じている議会側の連絡役が不在となってしまい、これを機に議会と国王との相互不信が深まっていく。
教会改革を目指していた革命に嫌悪と恐怖心を抱いたルイ16世と王妃マリー・アントワネットはオーストリアに向かうことを決断、6月20日深夜に国王一家はパリを逃亡した。計画とは裏腹に王妃の身支度に手間取ったばかりか豪華絢爛な馬車は目立ったうえ、道中における従者たちの段取りも悪く、翌21日にはヴァレンヌで捕らえられ、25日にパリへ連行されることとなった。ヴァレンヌ事件である[120][121]。国王が国を捨てて逃げたことに国民は激怒し、国王の威信は失墜、国民の国王への信頼感は完全に失われていく。これ以降、穏健な立憲君主制を志向していた革命の流れは急進化していく[122][123]。
7月15日、パリのジャコバン・クラブではルイ16世廃位請願運動を展開することが決議された。それでも国王を守ろうとする立憲派はジャコバン・クラブから脱退し、フイヤン・クラブを設立する。フイヤン派は国民議会で多数派を占めていた。フイヤン派指導者のアントワーヌ・バルナーヴはヴァレンヌ事件の調査を担当し、ルイ16世が「誘拐」されたものとして免責を宣言した。バルナーヴは荒唐無稽な理由を使ってでも国王を守り、新憲法を作り上げていくことが革命の成否を決める問題だと見ていた。だが、「誘拐」という政府の非現実的な説明を民衆が信用するわけもなく、議会多数派を形成したフイヤン派に対する不信感が強まり、民衆(サン・キュロット)と議会の間で溝が生じた[124][125]。
バルナーヴは革命の行方に懸念を持つようになっていた。彼はこう語った。
「われわれは革命を終えようとしているのであろうか?それとも、また革命をやり直そうとしているのであろうか?諸君は、すべての人間を法の前に平等なものとした。諸君は、市民的ならびに政治的自由を確立し、国民の主権から奪われていたすべてのものを国家のために奪い返した。もう一歩進むことは、不吉で罪深い行為となろう。自由の線上をもう一歩進むことは王政の破壊になろうし、平等の線上をもう一歩進むことは私有財産制の破壊になろう。」[125]
革命を終わらせたい者と今後も革命を前進させたい者の対立が一層激化した。こうして、議会では国王を守ろうとするフイヤン派と国王の廃位を求めるジャコバン派が衝突、安定に向かい始めた新体制に亀裂が生じた。ロベスピエールにとっても国王はもはや主権者ではなく、国家を裏切りながらも依然として権力を握っている犯罪者でしかなかった。「国王の不可侵性など作り話であって、国王は退位すべきだ」と主張するようになっていた[120][126]。
7月17日、民衆派のコルドリエ・クラブが主導してシャン・ド・マルスで国王廃位請願デモが行われたが、デモを散会させるように命令を受けていたラファイエット率いる国民衛兵隊が民衆に発砲した。50人ほどのデモ参加者が銃撃を受けて死亡した、このシャン・ド・マルスの虐殺を機に革命は思わぬ方向へと進んでいく[127]。虐殺の責任はバルナーヴやラファイエットなどのフイヤン派に負わされた。ロベスピエールは民衆の抗議行動を擁護した。事件に激怒しながら「これらの人民は、自分たちの代表者たちに請願を提出する権利があると信じていたのです。それに、彼らの血は祖国の祭壇で流されたのですぞ」と語った。彼は民衆を支持する民主主義の擁護者として行動し、世論から熱烈に支持されるようになっていた[128]。
危機的状況にあった9月3日、1791年憲法が制定された。このときの憲法は立憲制のもとで、平民であっても一定以上の税金を納めたものには選挙権を認めた。一方、革命のために命を懸けて闘いながらも財産を持たず税額基準に到達していないという理由で「受動的市民」とされ、有権者資格から排除された民衆(サン・キュロット)は新憲法に幻滅していた。封建的特権の有償廃止に妥協した「能動的市民」を形成したブルジョワジーにも不信感を抱えていた[129]。
1791年体制はようやく発足に漕ぎ着け、10月になると最初の選挙が行われて、一院制の新しい議会「立法議会」が成立した。立法議会では、立憲君主制を守ろうとするフイヤン派と、共和制を主張するジャコバン・クラブの一員で南西部出身の議員グループジロンド派の二派が力を持った[130][131][132]。9月14日には国王が新憲法に宣誓、立憲君主制への移行が始まった。9月25日に刑法が制定され、27日にユダヤ人同権化法令が成立、翌28日には農事基本法が可決され、囲い込みの自由が承認された。役割を終えた憲法制定国民議会は解散されることとなり、ついに来た9月30日の議会解散の日、議会を離れる際にロベスピエールは民衆の歓呼を受けた。民衆はロベスピエール、ペティヨン、アンリ・グレゴワールにリースを贈呈、ロベスピエールは「汚れなき議員たちに万歳!清廉な人万歳!」との喝采を受けることとなった。歓迎団の女性は演説でロベスピエールを讃えた[133][134]。
「退廃のただ中にあってなお、あなたは揺るがずに真実を守り続けてこられた。常に信頼に足る、常に清廉な人。常に自分の良心に従い、人の幸福のための哲学が求めた憲法の純粋さを守るために戦ってこられた。……ここに集ったあなたの名を口にするとき、深い尊敬の念を込めているのです。あなたは人民の守護天使であり、希望であり、慰めなのです。」[133]
このときの「清廉の人」という賛辞が以降ロベスピエールの渾名となっていく。国民議会の議員になった時、無名の人だった地方出身の一青年は今や時の人となっていた。
立憲君主制の下で立法議会が発足することになっていたが、革命の実情は国王や議会の考えや政策より一歩も二歩も先に前進しており、議会と政府がこれに対応するころには、時すでに遅しの状態であった。逃亡事件で王権は失墜しており民心は反革命の国王と妥協的な議会から離反、国王を守るべき貴族たちは身の危険を察知して亡命していき、立憲派のフイヤン派は世論の支持を失っていた。1791年体制は初めから脆弱性を抱えていたのである。自由主義的な進歩派の貴族とブルジョワジーの体制が否定され、ブルジョワジーと民衆の体制への移行が要請された。この時代の波はロベスピエールを主役へと押し上げていく。
国内の危機は対外危機も呼んだ。8月27日、オーストリアのレオポルト2世とプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム2世が亡命貴族の圧力をうけて共同声明、ピルニッツ宣言を発表し、革命を威嚇したのである。フランスの領域を超えて全ヨーロッパ大陸規模で展開された革命派と反革命派の反目の結果、11月9日、立法議会で亡命者処罰法が成立した。エミグレと呼ばれた亡命貴族は1792年1月1日までに帰国しなければ死罪となることが決定した[135][136]。
12月に入る頃には、フランスは臨戦態勢に入っていく。ただし、国境地域のアルトワ州アラスの実情に通じたロベスピエールは現地に駐屯する軍隊の状況を把握しており、臨戦態勢が十分に整っていないことを理由に反戦演説をおこった[137]。一方、反戦を唱えるロベスピエールを支持するジャコバン派から分離した議員たちはジロンド派という党派を形成した。その中には対外戦争を通じて国王の不実を暴露しようとする議員もいた。ジロンド派議員ジャック・ピエール・ブリッソーは「永き奴隷制ののちに自由を獲得した人民にとって戦争は必要になっている。自由を強固にするためにである」と演説し、「新しい自由の十字軍」を主張して革命を輸出しようと訴えて戦争熱を煽った。こうしてジロンド派内閣は革命維持のため対外戦争に踏み切る。1792年4月、革命政府はオーストリアに対して宣戦布告し、フランス革命戦争が勃発した[138][139][140][141]。
しかしフランス軍の士官達は貴族階級であるので革命政府に協力的ではなく、マリー・アントワネットが敵方にフランス軍の作戦を漏らしていたため、フランス軍は各地で戦いに敗れた。対外戦争に勝利するには、まず「国内の敵」を一掃しなければならなかった[142][143]。
祖国は危機に瀕せり(1792-1793)
[編集]フランス革命戦争(1792年―)
[編集]ロベスピエールは、国民議会での再選禁止規定のために議員資格を喪失して野に下り、10月から11月にかけてピカデリー州、アルトワ州を周遊し、アラスへと帰郷することとなった。アラスでの歓待は大変なものであった[144]。
ロベスピエールは、アラスでミサの最中に宣誓拒否僧が「奇跡」をおこすのを目撃した。それまで「信仰の自由」を擁護していたロベスピエールは、容易に扇動される民衆と聖職者の社会的影響力を危険視するようになったと指摘されている[145]。アラス帰郷以降、司祭の影響力を政治から排除して政治の独立性を保つために扇動的な聖職者を処罰しなければならないと考えるようになっていく。教会が反革命派に巻き返しのチャンスを与えるようになってはならないのである[146]。立法議会では宣誓拒否僧の職務停止や国外追放令が決定するなど事態は緊迫の度を強めていた。後に明確になっていくことだが、このときの出来事がきっかけとなって彼の心中に、国家がカトリック教会に替わる祭典や儀礼形式を創始した非キリスト教化政策、民衆に対する市民的徳性の教化が次第に浮上していくこととなる。
ロベスピエールはアラスからパリに戻り、指物工でサン・トレノ街のアパートの大家だったモーリス・デュプレのもとに下宿することとなった[147][148]。この時期のロベスピエールのプライベートは「私生活」の節で詳述する。
この頃、彼はフランスが対外戦争を準備する情勢の中で「国内の敵」に対する警戒感をさらに強めていった。憲法に宣誓して革命に恭順の意を示したルイ16世であったが、それは面従腹背に過ぎなかったためである。立法議会は国王拒否権で妨害されて機能不全に陥っていた。苛立った民衆の間では、次第に王政を倒して共和政を打ち立てようという共和主義が台頭した。
一方、共和派の内部でも、対外戦争によって国王の不実を暴こうというジロンド派と、戦争に反対するジャコバン派(モンターニュ派)との路線対立が先鋭化した。ロベスピエールは、首都パリで大変な人気を保っていた。議席を持たないが故に議会で発言はできなかったが、クラブでの演説、新聞の発行といった言論活動によって開戦派のジロンド派と対峙した。反戦を主張し、「国内の敵どもを征服しよう、そしてその後に、まだ残っているのなら、外国の敵に立ち向かおう」というのが、ロベスピエールの立場であった[151][152]。
12月18日、ロベスピエールはジャコバン・クラブで戦争による革命の破滅を予告する。「軍の指揮にあたるものが国家の運命を決める力を持ち、自身が支持する党派のために局面を一変させてしまう。カエサルやクロムウェルのようにな者であれば、彼らは独裁的な権力を握る」と警鐘を鳴らした[151]。この警告は後に的中、皮肉にもフランスは戦争が激しさを増す中でロベスピエールが公安委員会に参加し、これによって共和国にこれまで以上に強力な革命体制が樹立される。その後、総裁政府、統領政府の過渡期を経ながら戦争で名を挙げた将軍ナポレオンがブリュメールのクーデターで政権を掌握した。その後、ナポレオンは非世襲的方法で帝位につきフランス皇帝となる。ナポレオン帝政へと移行する中で専制支配が復活してフランスは再び保守化していく。こうして革命は終結した。ロベスピエールは戦争を革命を危機に陥れる危険な劇薬と見なしていたのであるが、この懸念は後に現実のものとなってしまう[138][153]。
ブリッソーは、フランス革命はアメリカ独立戦争と同様、武力で外敵を打倒して自由を達成すべきであるとして開戦論を主張し、ロベスピエールの批判に反発を強めた。ロベスピエールは戦うべきかではなくいかに戦うか、勝利への道筋を確実に示していくべきと考えていた。ロベスピエールにとって「国内と国外の戦争を抑え込み」勝利するため必要なことは、国民衛兵を強化し、公教育、公的な祭典、公的な演劇を導入して民衆を啓蒙することであった[152][154]。
2月7日、オーストリアとプロイセンが軍事同盟を締結して、フランス包囲網を形成しようとする。4月20日、立法議会はオーストリアに対して宣戦布告することを決定、国王の承認を獲得する。フランス革命戦争の開戦となった[155]。しかし、1791年段階でこれまで戦争を指揮してきた6千人の貴族将校が亡命しており、作戦指導をできる優秀な将官はいない状態となっていたため、戦線は大混乱を来した。戦地ではよく訓練された職業軍人で構成されるオーストリア=プロイセン同盟軍が進撃を始めると、未訓練の義勇兵を中心として貴族士官と平民との軋轢をかかえたフランス軍は統制を欠いて戦える状態ではなかった。各地で敗北、敗走を重ねていった[138][143]。
ジャーナリストとして
[編集]1792年2月、ロベスピエールはパリ刑事裁判所代訴人に就任していたが、戦況の悪化に苦悩して間もなく職を辞任し、革命家としての活動に専念する[156]。5月になると、ロベスピエールは言論活動によって政治に影響力を及ぼそうと試みて新聞『憲法の擁護者(フランス語: Le Défenseur de la Constitution)』を発行、大部分をロベスピエール自身が執筆していた。内容の大半が戦争報道で、軍内部に所属する各地の通信員からの情報や報告を掲載した。後の同志デムーラン、マラーも『人民の友』を発行するなどジャーナリストとして活動し、ロベスピエール擁護の支援報道をおこなっていた[157]。
ロベスピエールにとって戦争は、自由と人権をめぐる真実と悪との闘争、民衆と暴君との闘いであった。君主制を採用する列強諸国との敗北を許されない戦争である以上、勝利の確たる公算が必要とされた。したがって、戦争が短期決戦で終結するという甘い見通しをするのではなく、強力な軍隊を編成し迅速に物資と火力を集中して機動的に展開させ、長期にわたる戦争を戦い抜かねばならなかった。また、より慎重に勝利を得るための準備や占領地の施政に関する方法を検討し、諸民族解放のために政府が明確な戦争遂行のヴィジョンを示さねべならないと考えていた[158]。
しかし、世論は戦争熱が過熱しており、慎重論を説くロベスピエールはジャコバン・クラブで完全に孤立していた。ブリッソー、コンドルセなどジロンド派議員、内閣を構成する内務大臣ロラン、外務大臣を務めたデュムリエ将軍といった軍の有力者を非難し続けた。ロベスピエールとブリッソーの対立は日に日に激化した。新聞報道を介して人格否定を伴う不毛な中傷が飛び交い、ジャコバン・クラブでの演説でも両陣営は相互に非難しあっていた[159]。孤立するロベスピエールを支援する人もいた。民衆演劇の役者だったコロー・デルボワや有力な法曹家で立法議会の議員だったジョルジュ・クートンが協力者となり、モーリス・デュプレのアパートの一室で共に仕事をするようになっていた[158]。
フランス革命戦争は党派対立を激化させたばかりか、社会不安が蔓延していた。
1792年3月3日、パリ南西部の町エタンプで市長ジャック・ギヨーム・シモノーが殺害される事件が発生した。シモノは革なめし工場の所有者でもあり、ジャコバン・クラブの有力メンバーでもあった。アシニア下落と賃金労働者の食糧難が深刻化するなかで、経済活動の自由を支持して食糧配給など必要な対応策を執らず、戒厳令を発して騒擾を武力で鎮圧しようとした。しかし、民衆の怒りの結果、市庁舎を出るところでシモノーは銃撃を受けて刺殺された。エタンプ市民は事件を歓迎したが、立法議会は優秀で勇敢として知られた政治家シモノの死を讃えようと考えた。
町の近郊に住む司祭ピエール・ドリヴィエは、議会がシモノーを顕彰する決定したことに対して強い反発を示した。「生存のために自然が与えた法」は経済活動の自由に優先されるべきだと訴えて「嘆願書」を作成して立法議会に提出した。ドリヴィエは「富裕な者とその周囲のいる人、あるいは犬や馬までもが遊んでいるのに満たされている。その傍らで、労働によって生活している人間や動物が、労働と飢餓という二重の重荷に押しつぶされるのは、不快極まりない」と語った。
この事件はモラル・エコノミーに基づく食糧暴動の一つとして重要なのだが、立法議会では大した反響は得られなかった。議会の無関心の一方でロベスピエールはこの事件に注目して記事を執筆した。いかなる理由でも殺人行為を正当化することはできないとしながらも、「労働を通して社会がその成員のための生活必需品と食糧を保証する義務という意味での生存権」が政府によって保障されなければならず、必要であれば立法や議会の諸委員会の政令によって経済活動に介入し、民生の安定化を図っていくべきだと論じた。ロベスピエールはシモノーは民衆の生活に注意を向けず騒擾に参加した群衆に発砲を命じた弾圧者であって英雄ではないと非難した。こうした事件に関する報道や論評を通じ、ジャーナリストとして民主派の急先鋒としての名声と支持を確立していった[160][161]。
王政崩壊と共和国樹立
[編集]民心が動揺する中で政局も大きく揺れていた。5月18日、北方軍司令官であったラファイエットは攻撃不能を宣言して国王に和平交渉を勧告した。その後間もなく、ラファイエットは敵国オーストリアに亡命してしまう。戦争は結果的にすべてを悪い方向に導いた。7月11日、立法議会は義勇兵への参加を呼びかけるべく「祖国は危機にあり」との宣言を採択、戦線の立て直しを図ろうとした。一方、ロベスピエールは議会外のジャコバン・クラブでの主導権を掌握し始めていた。彼はジャコバン派内の山岳派に属し、ジロンド派内閣が推進した対外戦争に反対した。
国王と王妃は敵国オーストリアと内通しており、作戦情報を漏洩していた。宮廷には秘密の隠し戸があり、スパイが機密を盗み取り、前線では敗戦が続いていた。6月20日、民衆がテュイルリー宮殿の王の寝室にまで押し寄せて、国王の前で示威行為を強行した。国王の裏切りは民衆の目にも明白なものとなっていったのである。戦争の経過とともにフイヤン派も勢力を失い、苦戦の中でジロンド派もジャコバン派やコルドリエ派に切り崩されていった。革命は戦争を通じて次第に急進化を遂げていく。国内の「裏切り者」を束ねる国王と王党派を一掃していくことが事態打開の唯一の方策であった[142]。
ロベスピエールは、国王を1791年憲法を棄損する政治的過失を犯した犯罪者と見なしながらも、依然として共和制導入に慎重であった[162][163]。建国から日が浅く国土も小さく人口も少ない農業国の東部13州時代のアメリカと、農業国ではあるが人口も多くヨーロッパ大陸で大国として覇を唱えた歴史を誇るフランスとでは、国情が大きく異なるため、アメリカ合衆国が採用した共和制がフランスで機能するか未知数だったためだ。モンテスキューやルソーの政治思想に影響を受けていたため、民主政や共和政は小国寡民に適した制度で大国には大国に相応しい政治制度を選択すべきと考えていた。フランスで採用可能な政治制度は共和政ではなくグレート・ブリテン王国と同様に立憲君主制で君主のもとで時間をかけて市民的徳性を涵養して議会制民主主義を育成することが現実的と考えていた。ロベスピエールが考える理想の共和政は、古代ローマの古典教養の世界にのみあって、近代フランスでは不適当な制度と見ていた。しかし、時流の中でまたしてもロベスピエールは考えを変更していく[164]。
ロベスピエールの慎重な立場を大きく変化させる事件が発生する。7月25日、プロイセン軍司令官ブラウンシュヴァイク公が革命を破滅させ、パリを焦土に変えると声明(ブラウンシュヴァイクの宣言)を発した。この脅迫的声明にパリ市民は戦慄した。人々は祖国の危機を痛感して義勇兵への志願に応じ、外敵を打倒するために国内の姦賊を滅ぼそうとする[165]。
フランスの敗戦と壊滅の危機に対して責任があるのは祖国の裏切者を率いる国王だと民衆は見ていた。首都パリ48区のセクションの議決に基づいて特別自治市会パリ・コミューンが設立された。パリ・コミューンによって蜂起のために国民衛兵から民衆部隊を徴募して2万人の連盟兵が組織され、8月10日、民衆と連盟兵が合流してテュイルリー宮殿を襲撃した。8月10日事件である[166]。ロベスピエールにとって、この事件は特別な意義を持っていた。「こうして、ユマニテ(人間性)の栄光を讃えるべく、かつてない最も美しい革命が始まった。さらに言おう。人類にふさわしい目的をもった唯一の革命とは、平等、正義、そして理性という不滅の原理を基準とした政治を、最終的に打ち立てる革命である」と語った。すぐさま蜂起への支持を表明し、共和国樹立を支援した。ただし、この「最も美しい革命」は民衆の襲撃により戦闘中、戦闘後で計600人のスイス衛兵が次々と虐殺された。ロベスピエールはこうした民衆暴力もこれまでの政治的抑圧からの解放を考えれば正当な行為であると受け止めた[167]。
まもなく立法議会では王権停止の諸法令が通過、君主権が停止されたのである。フランスは共和制へと移行していく。普通選挙によって議員を選出して新たな議会「国民公会」を招集するように求めた。まもなく、立法議会の解散が決まり、普通選挙の実施が約束された。8月13日、国王一家はタンプル塔に幽閉されこととなった[166]。ジロンド派内閣が復活してコルドリエ・クラブで名声を博したダントンが司法大臣に就任した。15日、ロベスピエールは王党派と全ての反革命分子を裁く特別重罪裁判所(後に革命裁判所に改組)を設置するように提案、パリ・コミューンの承認を取り付けた。特別裁判所が設置されれば反革命派は法に基づいて処罰でき、無規律な民衆暴力は回避できると考えた。民衆による超法規的なリンチに賛同できなかったのである[168]。だが、この提案はパリの急進派の影響力を強めていくことにつながるため、穏健共和派のジロンド主義者とロベスピエールの関係を決定的に悪化させていく。ロラン夫人は「私たちは、ロベスピエールやマラーのナイフに身をさらしているのです」と支持者への手紙で語った。8月23日からギロチンの使用が始まっていたのだが、穏健派はパリの人民に影響力を持つマラーやロベスピエールによって訴えられ粛清されることを恐れ始めていた[169]。
一方、反革命も生き残りを欠けて最後の抵抗を示した。前日の14日、フイヤン派のラファイエット将軍は王政の復活を画策してパリ進軍を企図するが兵士の反対で失敗に終わる。8月19日、進退窮まったラファイエットは軍を捨てて敵国オーストリアに亡命した。立憲派貴族の頭目が亡命して立憲君主制の政治的支柱は倒壊する。君主制は風前の灯であった。
8月27日、次の議会のための予選会(第一次選挙)が始まった。選挙中の情勢下で対外危機が生じる。プロイセン軍が9月1日にヴェルダン要塞を攻略したのである。1792年9月2日-6日、凶報がパリに届くとパニックが発生した。数箇所の監獄に民衆が殺到してランバル公妃が殺害されて彼女の遺体は凌辱を受けた他、大半が王党派とは無関係の囚人を即席裁判で殺戮し大量虐殺を働いたのである。九月虐殺である[170]。必然、事件後に政治対立は激しくなった。ジロンド派内閣は責任回避のために事件への言及を避ける一方、事件発生の責任をロベスピエールに転嫁しようとした。政府からの非難に対し、ロベスピエールは事件への関与を否定して治安責任者であるパリ市長ペティヨンと内務大臣ロランを非難して、事件発生に遺憾の意を表明した。理想に燃え革命を支持してきたロベスピエールであっても、法治主義の信奉者だったこともあって事件に対する不快感と苦痛を隠し切れなかった。この事件については「血!さらに血だ!ああ!やつらはついに、革命を血で溺れさせてしまったのだ!」と語っていた[171]。
国民公会の総選挙に向けて、一年以上の居住条件を満たした21歳以上の成人男性を有権者と定めた普通選挙法[注釈 14]が発効し、9月3日には選挙集会(第二次選挙)が始まった。ロベスピエールは、アラスでも候補者名簿に加えられていたがアラス選出議員であることをこの選挙でも選ばなかった。パリでは反戦を訴えたことの正しさが証明され、ロベスピエールは得票数525票中338票を集めて市長ペティヨンを破って彼を二位当選者に押し退けて、パリでトップ当選を果たした。ロベスピエールは圧倒的人気を背景に以後もパリの代表者として活動していく。弟オーギュスタンはアラス代表の議員に選出され、兄弟はパリで合流を果たした。ロベスピエールの熱狂的な支持者であったサン=ジュストもこの時の選挙で選出され、以後行動を共にした[173]。
9月20日、ヴァルミーの戦いで革命フランス軍が初勝利を挙げた[174]。また、離婚法が成立、戸籍の世俗化が進められた。この日、立法議会は最終議事を終了して解散した。
国民公会発足
[編集]この頃、民衆は革命の中心にいながらも常にその指導部からは排除されてきたが、国王の拒否権によって機能不全に陥った国家を救うべく立ち上がったのは、共和主義者としての自覚を持つに至った民衆、つまりサン・キュロットであった。彼らの蜂起によって王政は打倒され、革命は第二段階に入っていた。一方、共和制の樹立で政権を取り戻したジロンド派であったが、経済と戦況の悪化によって批判が高まる。窮した彼らは対立派閥に責任を転嫁しようと「モンターニャールの三位一体」と云われたロベスピエール、マラー、ダントンの三人を三頭政治を目指す悪党として激しく攻撃したが、逆に民衆の支持を大きく失って凋落していた。
ヴァルミーの勝利に沸く喧騒のなかで実施された総選挙によって国民公会が発足した。9月21日には王政の廃止を決議して共和国宣言を発し、フランス第一共和政が成立を見た。翌9月22日、この日は革命暦の元年元旦となった。フランスは一院制議会を堅持しながら、王権を停止したことで君主権と均衡していたこれまでの立法議会と比べると、行政の上に立つ立法大権を持ったはるかに強力な議会体制を構築した。10月2日には執行機関として保安委員会や公教育委員会など14の実務委員会を設置して、その上部に行政機関国民公会政府を組織した。
フランス革命時の議会の座席(議長席から見て)[176] 左側(左翼) 中央 右側(右翼) 備考 1789-1790 制憲議会 ジャコバン派(民主派) ジャコバン派(立憲派) 王党派 急進派が左、保守派が右に座った 1790-1792 立法議会 (ジャコバン派)民主派 フイヤン派(旧立憲派) 王党派が消滅し、立憲派が右に移動した 1792-1793 国民公会 山岳派(経済的平等主義) 平原派 ジロンド派(経済的自由主義) フイヤン派が消滅、民主派が三派に分裂、経済的自由主義が右に移動した 1793-1794 国民公会 山岳派(実権掌握) 平原派 ジロンド派が追放、議会外に過激な民衆運動「アンラジェ」やバブーブ派(極左) 1794-1799 国民公会 平原派(山岳派残党 - 王党派残党) テルミドールの反動で山岳派指導者が消失
ロベスピエールも国民公会の議員に選出されて、再び中央政界の表舞台へと帰ってきた。
普通選挙制の導入を受けて、ロベスピエールは『憲法の擁護者』の誌名を『有権者への手紙』に変更し、フランス全国と首都パリの代表者という立場を明確にしていく。一方、地方選出議員の一部にはパリで政治情勢が大きく規定される事態に憂慮があった。9月25日、国民公会はジロンド派議員フランソワ・ビュゾーが提案した州連邦制度案を否決した。この提案は、ジロンド派の一部(ビュゾー派)が主張したものに過ぎないが、ジロンド派とは連邦主義者であるという悪評が定着するもとになった。連邦主義は南仏に政治的地盤を持ち政治スタンスとしてはアメリカ型の連邦国家を目指す地方分権論であったが、ジャコバン派から内戦や割拠を誘発する分裂主義の主張と見なされ、中央集権と首都パリへの一極集中を主張する革命主流派の敵と見なされた。
フランス南西部の選挙区から選出されたジロンド派議員たちは、パリの革命的情勢と共に躍進したロベスピエールをこぞって「独裁を目指す者」として告発していく。ルヴェによる告発に対して、ロベスピエールは「自分が独裁者を目指すのならば、三頭政治を開始して立法府を破壊するであろう」と言及、実際に独裁を目指すような権謀術数は弄していないと反論した[177]。
ロベスピエール批判によってジャコバン派とジロンド派の対立が決定的になっていった。10月8日にビュゾーの提案により創設され集結していた県連盟兵が翌11月にはパリに到着していた。南部の都市マルセイユから来た連盟兵たちは、街頭で「マラー、ロベスピエール、ダントン、そして彼らを支持するものすべての首をよこせ!ロランはその地位に留まれ!国王裁判はいらない!」と叫んでいた。南西部の地方では穏健派が支配的な影響力をもっていた。これに対し、ロベスピエールは革命が厳しい状況にあるのは甘い見通しで諸外国と開戦したジロンド派に責任があり、治安や国内情勢が切迫しているのは内閣に参加した大臣に職務能力が欠落しているためだと批判した。また、パリでの急進的な革命に反対する地方の穏健派に対しても、ロベスピエールは国民公会で反論、革命の歩みから首都パリの急進性を外すことはできないと語り、革命と蜂起した民衆を擁護した。
「市民諸君、あなたがたは革命なき革命を望んだのか。自由の友であるフランス人が、先の八月、パリに集い、全県に代わってこの問題に取り組んだ。われわれは、彼らを完全に承認するか否認しなければならない。いくらかの、外見上そう見える、あるいは明白な軽罪を犯すことは、こうした偉大な激動の中においては避けられないものだが、彼らの献身にもかかわらず、彼らを罰するべきなのだろうか。」
人民の正義に基づく蜂起を非とすればフランス革命は根本から否定されてしまうとの懸念がロベスピエールの脳裏にあった。このときのロベスピエールの演説は印刷されて市中で民衆から歓迎された。その結果、連邦主義者による告発は一般国民の広範な支持は得られず連邦制導入の企ても失敗に終わり、人民と革命を擁護して世論を味方につけたロベスピエールの勝利に終わった。しかし、政界復帰間もなくのタイミングで、自身への糾弾の機運が高まったことに深く落胆したロベスピエールは告発を反駁したものの、11月に再び体調を崩して一か月にわたる病気療養に入ってしまう。
一方、パリではジャコバン・クラブからブリッソーが追放され、ジロンド派は脱退することになった。これにより政治的勢力図はおおよそ上図で示すような構成を示すようになった。ロベスピエール率いる狭義のジャコバン派はコルドリエ・クラブと合流していく。彼らは国民公会の左上部の議席を陣取っていたため左翼と呼称するとともに、同派は山岳派と呼ばれるようになった。議席の下方部の議員は平原派と呼ばれる穏健な中間派が占め、議場右側には右翼のジロンド派が陣取っていた。国民公会議員たちは対外戦争と内戦で共和国が最大の苦境に陥るなか、革命期最大の政治決断を下していく。国王裁判に着手するのである。
国王処刑
[編集]1792年後半、国王の処遇を巡って、国王を支持するフイヤン派(王党派)、処刑を求めるジャコバン派、裁判に慎重なジロンド派が対立した[178]。議論が長引くなか状況を一変させた人物、それが25歳の青年サン=ジュストであった。11月13日、サン=ジュストは共和国においては国王というその存在自体が罪であるとして国王の有罪を強く主張、個人を裁くのではなく王政そのものが処罰されるべきであると演説した。これは新人議員であった彼の公会での最初の演説であったため「サン=ジュストの処女演説」とも呼ばれる。共和政を求めるものの国王の処遇は穏便に収めることを希望したジロンド派を窮地に陥れた[179][180]。
1793年1月15日〜19日、国民公会はルイ16世の処遇を決定するために投票を実施した。各議員は登壇して意見を表明した後投票した。これは傍聴人が怒声を浴びせるなかであり、議場の外には武装したサン=キュロットが待ち構えている。国王に同情的な発言をした議員は生命の危険もあったため穏便に収めたいと考える派閥には不利な投票方法だった。それまで国王処刑に反対していた議員が突然態度を翻して賛成票を入れたのは、反対票を入れるのは必死の覚悟が必要だったためである。
一回目の投票では、まず「国王は有罪であるか否か」が問われ、各議員(定数は749)は賛成693対反対28(欠席23・棄権5)で有罪を認定した。ジロンド派が公会の判決は人民投票で可否を問われなければならないと主張していたため、第二回投票では、「ルイに対する判決は人民投票によって批准されるべきか否か」が問われ、これは賛成292対反対423(欠席29、棄権5)でジロンド派の予想に反して否決された。第三回投票では、「ルイは如何なる刑を科されるべきか」という刑罰を決める投票が行われ、初めて賛否では決まらない意見表明の投票となった。ロベスピエールも発言し、「彼にどういう刑罰を科すべきか。……個人、あるいは社会の安全のために必要な場合においてのみ、死刑は正当化されうる。ルイは死ななければならない。祖国が生きねばならないからだ」と述べ、死刑を求刑した。
集計したところ「無条件の死刑」が387票で最多となったのだが、さらに死刑を延期すべきかを改めて討議した。投票の結果、387対334(欠席23・棄権5)で即時死刑と決まった。第四回投票では、死刑延期の賛否が投票されたが、賛成310対反対380(欠席46・殺害1・棄権12[181])で、これも70票差で否決され、即時の死刑執行が確定した。なお、死刑に賛成した387人の内26人は執行猶予を求めており、この26名を死刑反対票に加算するとすれば、賛成361対反対360となり、1票の僅差で処刑が決したと見ることもできる。国王の助命を求めたジロンド派内においても処刑を支持したものが含まれ党派としての足並みが揃わなかったことが死刑判決という結果を招いたと言える[180]。
1793年1月21日10時、王は断頭台の下にたどり着くと自ら上衣を脱ぎ、手を縛られた後、ゆっくり階段を上った。王は群集の方に振り向き叫んだという。「人民よ、私は無実のうちに死ぬ」。太鼓の音がその声を閉ざしたが、王は傍らの人々にこう言った。「私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることのないように神に祈りたい」。午前10時22分、サンソンの執行により革命広場(現コンコルド広場)でギロチンで斬首刑にされた。
最高価格令と生存権
[編集]国王処刑という歴史的事件を経験したころ、連戦連敗のため戦線は後退を余儀なくされ、フランスの経済は混乱を極めていた。経済混乱の主たる原因は、度重なる敗戦に加えて生じた金融危機にあった。債券から強制流通権を付与され通貨へと格上げされていたアシニアが突如暴落して猛烈なインフレが生じ、物価が急騰したのである。急遽フランス政府は経済混乱を終息させる施策を策定しなければならなくなる。そこで浮上したのが物価統制であった。
1792年11月30日、国王裁判の最中、国民公会ではウール・エ・ロワール県で発生した食糧危機が議論された。物価統制の導入と生存権をいかに保障するかという問題が喫緊の課題となっていた。戦時中の物不足とインフレの進行で困窮する者がいる一方で、不当な利益を享受する買占め業者、悪徳商人が市場に蔓延って経済を麻痺させており、民衆は公定価格の設定を要求していた。
ロベスピエールは物資不足と食糧難による飢餓の蔓延が庶民生活を脅かす深刻な問題であることを理解していた。「同胞が空腹で死につつあるそのそばで、小麦を山ほど積み上げる権利をもっている人間などいない。社会の第一の目的とは何であろうか。人の、奪うことのできない諸権利を守ることである。これらの権利のうち、第一に重要なものとは何であろうか。それは生存権である。それゆえ、社会の第一の法は、社会の全成員の生存のための手段を保証する法である。この法以上に重要なものなどないのだ。」と述べた。「人間に必要な食料品は、生命それ自身と同様に神聖である。およそ生命の保全にとって不可欠なものは、社会全体の共同の所有であり、それ以上の超過分だけが個人的所有である」と見解を示し、食糧価格の統制によって民生の安定を図る必要があると認識していた。
ただし、ロベスピエールは統制経済への移行や財産の平等化を志向したわけでない。最高価格を設定して買占めと投機による価格高騰を防止して、悪徳商人による不正な利益追及を規制しようとした。積極的な食糧市場への介入によって穀物をはじめ物資の自由な流通を保証し、商品取引の公正性を維持して市民の食糧調達の術を確保しようと考えていたのである。2月12日、ロベスピエールはジャコバン・クラブで演説し、国民公会において民生安定化策を検討することを約束した。ロベスピエールの勧告によって政府は物資の確保を最優先にすべく戒厳令を敷いた。5月4日には穀物の最高価格令が制定され、9月29日から施行されることで本格的な物価統制が始まった。
ジロンド派粛清
[編集]国王の処刑とベルギー進出によって脅威を感じた周辺国はフランスを打倒するべく結束した。2月1日、国民公会はイギリスとオランダに宣戦布告する。2月13日には、オーストリア・プロイセン・イギリス・スペイン・オランダによって第一次対仏大同盟結成された。
一方、こうした孤立状態での対外戦争の敗北によって国内での危機がピークに達する。フランスは挙国一致体制で戦争を戦い抜こうと試み、2月24日、国民軍への強制募兵制度30万人募兵令を発した。これが引き金となってパリに不満を持った地方が反抗を開始する。内戦が発生したのである。3月3日にはリヨンの反乱が発生、1794年10月9日の陥落まで反乱が続いた。また、一週間後の3月10日にはフランス西部のヴァンデの反乱が始まる。聖職者民事基本法への宣誓問題と、募兵令に反発した王党派農民が反革命の蜂起を起こしたのである。対外戦争中での内戦は長引き1796年まで3年にわたって続き、およそ20万人が犠牲となった。5月29日にはマルセイユで反乱が発生、反革命派による反抗は全国的な規模へとエスカレートしていった。
3月18日、フランスはベルギーでネールウィンデンの戦いに挑むが大敗を喫した。4月2日には、北方軍司令官のデュムリエ将軍が裏切り、敵に投降したのである。事の経緯はデュムリエ将軍がオーストリア軍と共謀してパリに進撃して王政復古を目指したことに端を発した。企ては前線指揮官だったダヴー中佐らフランス将兵に拒否され、計画は失敗に終わった。デュムリエは止む無く、総司令官でありオルレアン公爵の息子であるルイ・フィリップとともに亡命した。前線のフランス軍は最高指揮官を失って大混乱に陥った。ロベスピエールは国家の危機と分裂の脅威を訴えた。
「われわれがなすべきなのは、単にヴァンデの反乱者たちだけでなく、人類とフランス人に対する反乱者すべてを消滅させるためである。存在するのは二つの党派だけだ。一つは堕落した人間の党派。もう一つは有徳の人間の党派である。その財産や地位ではなく、その性格でもって人を見分けなければならない。人間には二種類のカテゴリしかない。一方に、自由と平等の賛同者、抑圧されているものの擁護者、生活困窮者たちの友がいる。他方に、邪悪で、富裕で、不正義で、暴虐なアリストクラートがいる。まさにこれがフランスに存在する分裂なのである。」
ロベスピエールは危機に直面した国家を救うためと称して、緊急措置の採用を国民公会に働きかけた。ジロンド派と反革命分子の協力関係を危険視するロベスピエールの提言に従って、国民公会は国内に潜む「裏切り者」なるものを炙り出すために動く。3月10日、特別重罪裁判所を強化して革命裁判所が設置された。4月6日には、臨時行政機関として、第1期公安委員会が成立した。4月9日、派遣議員制度が導入され、地方や前線の軍事活動を議員たちが直接指導することとなった。デュムリエ反逆の結果、恐怖政治の執行機関を整備する動きは加速され、マリー・アントワネットとその家族に加えて、デュムリエと関係が深かった穏健なジロンド派に対する追及は日に日に厳しくなっていた。また、ジロンド派内閣は共和国の窮状の責任を戦争責任を負う自らではなく、パリの急進的な民衆運動に転嫁しようと試みた。この時の政局はパリ民衆とジロンド派との完全な決裂を意味するものであった。また、ジャコバン派を糾弾するのみでなかなか危機を打開できないジロンド派を国民公会で多数派であった平原派議員たちは次第に見切りをつけるようになった。ジロンド派政権は風前の灯火となっていた。
ロベスピエールは、長期に及んだ病気療養後に復職すると、民衆に武装蜂起を促すことを決断する。この時、ロベスピエールやマラーをはじめジャコバン派指導者は新聞の発行によって効果的なメディア戦略を打ち出すことに成功しており、「世論の専制支配」というべき影響力を保持していた。5月31日には宣伝によって国民衛兵と約8万人のサン・キュロットが大挙して参集、国民公会を大群衆が包囲した。749人の議員からなる国民公会中、ジャコバン派はおよそ215議席ほどを占める程度であったが、300議席ほどの中間派がジャコバン派に同調してジロンド派を徐々に追い詰めていった[132]。1793年6月2日、国民公会はジロンド派追放を決議、議員29名が逮捕され、6月2日の革命がおこった。ロベスピエールはデュムリエ将軍が裏切ったことにより死刑制度擁護派へと転向していく。国家の安全、あるいは、自由、統一、平等、共和国の不可分性に対してなされたあらゆる陰謀」に対する報復措置が求められた。ロベスピエールは死刑制度を活用して国家存亡の危機を切り抜けるよう国民に訴えていく。これ以降、国民公会は公安委員会を掌握するロベスピエールに広範な内政・治安権限を委ね、ジャコバン派政権のもとで各地に散開した派遣議員の活動や保安委員会、革命裁判所などの機関を通して恐怖政治(Terreur:テルール、テロの語源)を断行し、反対派をギロチン台に送った。
恐怖政治(1793年9月-1794年7月)
[編集]1793年憲法の採択
[編集]国王処刑とジロンド派粛清により王政は崩壊した。1791年憲法は共和国樹立とともにすでに失効しており、立憲君主制によらない共和国憲法の制定が急務となっていた。ロベスピエールとモンターニュ派政権は共和政体と自由/平等/友愛を軸とする革命の三理念に調和した憲法制定を構想していく。
ロベスピエールは元来、政治的平等をはじめとして権利の平等に価値を置いており、農地均等法を「ペテン師の亡霊」と呼ぶなど長年にわたって経済的平等に関心を割かなかった。革命戦争の勃発と内乱の激化、食糧騒擾や経済混乱による飢餓の蔓延を前にして、1793年以降ロベスピエールは自由主義的な従来の立場を見直していき、所有権の制限や富の再分配に法的根拠を与えようとした。人権宣言の起草委員会での議論に度々介入して、「自由が他人の権利を守るために制限されうるならば、なぜ所有権に適用しないのか」と発言、「財産の極端な不均衡が多くの災禍と多くの犯罪の源」であるとして貧困による社会悪の是正を図るように訴えた。人権宣言内には「所有権は、他のあらゆる権利と同じように他人を尊重する義務によって制限される」とする第七条が盛り込まれ、経済的平等をはじめ社会的な権利が規定された。「極端な財産の不均衡はあらゆる悪の源泉である」として所有権の制限が提唱されことにより、累進課税制度の導入や貧困者に対する課税免除、均分相続制が導入された。
ロベスピエールによる精力的な発言と介入の結果、6月24日、1793年の人権宣言の発布へとこぎ着けた。この宣言はフランス革命中にサン=ジュストやエロー・ド・セシェルらが参加した委員会によって作成された。1789年の人間と市民の権利の宣言との主な違いとして、法の下の平等(機会の平等)から一歩進んで平等主義的傾向が明確となり結果の平等へと踏み込んでいった。ジャコバン派政権の樹立により社会的平等は優越的地位を占める権利と規定された。人権宣言の発布と同時に、セシェルの主導のもと人民主権[182]、男子普通選挙制度[183]、国民投票の実施、人民の労働または生活を扶助する社会の義務[184]、抵抗権[185]、奴隷制廃止[186] が規定された1793年憲法(ジャコバン憲法)が制定された。しかし、この憲法は恐怖政治の採用のため実際には施行されなかった。
マラー暗殺と恐怖政治導入
[編集]1793年憲法の施行を前に政治的脅威を拭い去るべく、サン・キュロットはジロンド派を追放、ここに山岳派・平原派連立政権が成立した。連立政権とはいえ、政権中枢を抑えたのはモンターニュ派であった。内憂外患に曝された革命はその防御として民衆の支持を集めてさらに革命を前進させるモンターニュ派指導者による強力なリーダーシップを必要としていたからである、というのが独裁正当化の論理であった。絶対的な権限を公安委員会に集めて強力な革命機関が整備された。
1793年5月31日のジロンド派議員の逮捕の後、リヨン、アヴィニョン、ニーム、マルセイユをはじめフランスの各市が相次いで連邦主義者(分裂主義者を意味する)に指導され反乱を起こした。フランス南部ではイギリスやスペインと手を組んだ王党派が1793年9月にトゥーロンで反乱を起こし、三か月にわたるトゥーロン攻囲戦が展開された。
フランス国内では敵に打ち勝つためと称して恐怖政治が要望され、実施された。「政党政治や選挙による政権交代が憲法で制度化される以前のフランス革命期で、ジャコバン独裁という広く流布した歴史解釈は史実を正確に反映していない」という主張は誤りである。古代からネロ、秦の始皇帝など「独裁的」支配者は存在した。政権運営にあたって多数派を形成した平原派の同意と協力が必要だったことも、独裁政治には日和見派の協力が常に必要なので、ジャコバン支配の独裁的性格を否定する論拠にはならない。 「革命独裁」が形成された頃、議会外の民衆運動は過熱していた。ジャック・ルーによって指導されたアンラジェ(フランス語で「激怒している人々」を指すが「狂人」という意味もある)と呼ばれる極左グループがその活動を活発化させていた。アンラジェは農地均等分割により農地解放を実現して急進的な革命を遂行しようとする平等主義者の運動であった。物資欠乏の元凶である買い占め人や投機師、悪徳商人らの処罰などを革命政府に要求してサン・キュロットの支持を得た。私有財産制の否定や人民自身による直接民主制、女性参政権などのプロト共産主義的な急進的主張を展開したが、議会政治に反対して国民公会の権威に挑戦しようとする過激な主張・活動によって政府から危険視されていた。
7月27日、公安委員会が刷新されてロベスピエールが公安委員会に参加することが決まった(大公安委員会が始まる)。政府は公安委員会の改組で国内監視体制を強化し、危険勢力の一掃に本腰を入れて取り組み、アンラジェ弾圧が本格化していく。8月22日には中心人物であったジャック・ルーが証拠不十分にもかかわらず二度にわたり逮捕され自殺を遂げたほか、同様の不当逮捕によってテオフィル・ルクレール、ジャン・フランソワ・ヴァルレ、革命的共和派女性協会の指導者クレ―ル・ラコンブといった指導者たちが相次いで捕らえられ、投獄、組織は解体され消滅していく。支持者となっていたサン・キュロットと釈放された指導者層はコルドリエ派の左派勢力を形成したエベール派に合流していった。
右翼のジロンド派と極左のアンラジェを粛清した後も政情不安は続いた。7月13日、マラーがジロンド派の刺客となったシャルロット・コルデーに暗殺されるという事件が発生した。ロベスピエールは恐怖政治"Terreur"を必要なものだと信じ、1794年2月の議会演説で「徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である」と主張、サン・キュロットの支持を得て強力な政治指導力を掌握し、公安委員会ならびに革命裁判所を通じて戦争遂行と内乱の終息に向けて注力した。一方、マラーの死に国民が動揺しないよう彼を讃え顕彰しながら国家が服喪することで、革命中に殺害された多くの指導者たちと同様、「人民の友」マラーのカリスマ性をさらに高め「革命の殉教者」として神格化した。このようなマラーの英雄化を通じ、ロベスピエールはジロンド派の支持を完全に奪うとともにジャコバン派内のリーダーシップを不動のものにしていいった。マラー暗殺後、ロベスピエールによる政権掌握によって恐怖政治が強化されていく。
歴史家ピーター・マクフィーは、恐怖政治が導入されたことにより、国民公会による強権的な政策遂行、リヨンの虐殺をはじめとする派遣議員によるテロやロベスピエールの権力掌握が決定的になったと指摘している。恐怖政治演説が示唆するような国民に対する大迫害や弾圧の恐怖が国家を支配する手段として大規模に利用されたとする従来通りの歴史解釈に異論を提示している。当時の恐怖政治の性格は、革命戦争や内戦、経済混乱に対応する非常手段であって、言論の自由も保証されており国家総動員体制を構築するための戦時政策であると指摘し、後の時代に典型化する現代的な恐怖政治が想起させる抑圧体制とは性格が異なっていると結論付けている。しかし、この主張には、政敵の政治的自由と肉体的生命を躊躇なく奪うに至ったロベスピエール派の、ファシズムとスターリニズムにつながる要素を過小評価しているという批判もできる。
公安委員会の支配
[編集]第二次公安委員会(ダントン委員会と呼ばれた)はジロンド派粛清後の難局を打開できなかった。そればかりか、モンターニュ派内部の左右両派の不和に加え、ダントンの指導力不足によって公安委員会の信用が著しく低下したことから、政府は死に体に近い状態になった。そうこうしている間にも戦局はますます悪化し、国内では親ジロンド派とされる西部または南部の地方県で
汚職の発覚によってダントンは引責辞任し、公安委員会は1793年7月10日に大規模に改組された。定数9名で構成され委員は中道右派が多数を占めていたが、政権交代によって人員を交代することとなった。人員はジロンド派の粛清とダントン派からの政権交代によって中道左派のジョルジュ・クートン、エロー・ド・セシェル、サン=ジュストをはじめロベスピエール派の多数で構成された。当初、ロベスピエールは公安委員会に選出されていなかったが、平原派のトマ=オーギュスタン・ガスパランの辞任による欠員補充のため参加が決定した。
1793年9月5日、ロベスピエールが公安委員会に参加したことによって、委員会内のリーダーシップは国民公会で最も影響力のあるロベスピエールが掌握していく。重要委員であったカンボンは財政政策に専念させるという理由で公安委員からは除かれ、財政委員会の専任となった。これによって公安委員会は財政とは完全に切り離されることになった。ロベスピエール、クートン、サン=ジュストの三者によって組織は強化されていき、活動領域は必然拡大していった。メンバーの入れ替えは頻繁に行われるが、軍事と兵站の専門家であるラザール・カルノーと台頭する左派を背景にビョー=ヴァレンヌとコロー・デルボワの2人が加わって、内閣に相当する広範な行政権を付与され、12人体制で財政と警察を除く国政全般(司法、行政、派遣議員の人事や監査、軍事、政令ならびに命令書の発行に関わる審議・議決)を公安委員会が総合的に担当していった。
公安委員会は国民公会内の内閣に相当する機関で、公会議員で構成され、定期的な公会への報告義務があった。大臣は別にいたが、大臣の汚職と背任が相次いだため名目的なものとなっていた。代わりに、大臣に対する監督が本来の役目であった公安委員会が事実上の政府となっていった。公安委員会による政権掌握からテルミドール9日のクーデターまでの期間を、公安委員会政府と呼ぶ。審議は常に非公開とされ、非常に閉鎖的な組織であった[注釈 17]。公安委員会の執行権の対象は「全てのこと」に及び、緊急時には臨時立法や超法規的な行政命令を発令できたが、警察権[注釈 18] や司法権を持たず、財政にも関与できないなど権限には制限があり、命令書が発効するには少なくとも公安委員の3分の2以上が参加する行政会議で委員の過半数の署名が必要だった[187][注釈 19]。
公安委員会は国を支配する中枢機関ではあったが、独裁の実態は少人数の合議制(または寡頭制)であった。ロベスピエールは首相でも公安委員会委員長でも議長でもなかったが、大公安委員会の首班的存在で政権の責任者であった。このことは一人であらゆることを決めていたことを意味するものではないし、実際のところロベスピエールは他の委員に優位となる地位や特別な権限を持っていたわけでもないが、彼が持っていた民衆からの人気、世論に対する支配力、人民への影響力という見えざる力は大きな権力だった[注釈 20]。各部門、部局、後には内部の各執行委員会に細分化されており、公安委員には各々に管轄が決められていて、委員会内の権力は分割されて1人に権限が集中することはなかった。公安委員会全体としては実際的には通常の国家での内閣の性格を持っていた[注釈 21]。
恐怖政治はサン・キュロットの要求を受け入れて始まったが、当初のところ恐怖政治を推進していくための法制度は未整備のままだった。そのため、超法規的措置を採用してでも戦争遂行など当面の危機対応をしなければならず、自ずと公安委員会の決定に対する事後承認が増えていった。手続き上の手間の解消のため、9月5日、国民公会が正式に採択してロベスピエールに政権を付与した[注釈 22]。革命裁判所が強化され、8月23日には総動員法が施行[注釈 23] され、食糧徴発隊が招集されたほか、反対派の粛清のため反革命容疑者法が制定された。革命に反対して敵を糾合する王党派と高位聖職者たち、連邦主義者やふくろう党など地方反乱分子など国家分裂の危機を招く裏切り者、これら反革命容疑者は厳しく取り締まられた。9月25日、国民公会が公安委員会に強力な決定権を付与した。1793年10月10日、サン=ジュストの革命政府宣言[注釈 24] を受けて国民公会が「フランスの臨時政府は平和が到来するまで革命的である」と表明、公安委員会の超法規的な執行権を公認したことにより、ロベスピエールの権力掌握が達成された。12月4日、フリメール14日法が成立し、法令により政府の細目が制定される。恐怖政治の基本法となる法律の制定により、公安委員会の執行権が法的に規定され、公安委員会は外交・軍事・一般行政を、保安委員会が治安維持を担当することになった。一方、リヨンでの反乱鎮圧にあたった派遣議員ジョゼフ・フーシェ、コロー・デルボワらによってリヨンの大虐殺が始まった。
ロベスピエールに対する執権付与に遡ること、7月17日には経済混乱収拾のために封建的特権の無償廃止が決議されるなどアシニアの暴落が抑制された。買占禁止令が布告され、価格統制で価格や賃金が制限された。9月29日には 最高価格令(一般最高価格令)が施行、39品目の商品価格に上限が設定されることでようやく軍の糧秣をはじめ必要物資の確保が可能となった。これにより、アシニア下落にようやく歯止めがかかり悪性インフレの進行は抑えられるとともに、軍隊は反撃に転じて共和国は窮地を脱した。公安委員会を利用してロベスピエール派はさらに本格的な社会改革に着手し、小土地所有農民を育成しようと試みた。
政敵の処刑
[編集]10月16日には元王妃マリー・アントワネットが、次いでジロンド派の粛清が行なわれた。
ロベスピエールは国王処刑を積極的に支持した。マリー・アントワネットについては、ロベスピエールは元王妃をコンシェルジュリーの地下牢に移送して人民を落ち着かせ、旧体制を象徴する元王妃の破滅を願う急進派の勢いを削ごうとした。しかし、彼の狙いは求心力を強めようとする急進主義者のエベールの挑戦によって外れていく。民衆の怒りを焚きつけ革命をさらに推し進めようとするエベールと革命裁判所の野心的な検事フーキエ・タンヴィルは互いに提携、急進派を味方に革命の主導権を掌握しようと試みた[注釈 25]。国民公会では穏健な立場をとるロベスピエールは彼らの試みにより孤立していき、閣議でマリー・アントワネットに対して国家転覆罪の罪状で裁判を実施することが確認された。
10月14日、革命裁判所ではマルティアル・エルマンを裁判長として裁判が開廷した[注釈 26]。すぐさまエベールは王太子ルイ・シャルルとの近親相姦など彼女への憎悪を駆り立てるネガティブ・キャンペーン(エベールによる大衆向け新聞『デュシェーヌ親父』が有名)をはって民衆を扇動し、15名の陪審員の元王妃への反感を巧みに利用して裁判を有利に進めていった。裁判の結果、10月16日有罪判決が出され元王妃は即日革命広場にて処刑されることとなった[188][189]。
ロベスピエールは前年の九月虐殺のような凄惨な事件が再発すること、勢いづく急進派が暴発して政権を崩壊させることを恐れ、ガス抜きの必要から処刑を黙認した。また、国民公会は元王妃の裁判を受けて王妃に同情を示す可能性のある女性の政治クラブの解散を命じ、女性市民から政治的権利のはく奪を進めた。
一方、ロベスピエールはジロンド派粛清には容赦がなかった。
国民公会においてジロンド派は3日間しか弁論の期間を与えず、21人全員が死刑判決を受けた。うち1人は自殺し、ブリッソー、ヴェルニヨら20人は10月30日にギロチンで処刑された。11月8日にはロラン夫人が処刑された。彼女は「ああ自由よ、汝の名においていかに多くの罪が犯されたことか!」と叫んだという。その死を知った夫のロランは自殺した。革命初期に活躍した指導者が次々と処刑されていく。
さらに天文学者でパリ市長でもあったフイヤン派のバイイや三頭派のリーダーであるバルナーヴも処刑された[188]。ジロンド派の指導者で逃亡中だったコンドルセは服毒自殺した。国王ルイ15世の愛妾であったデュ・バリー夫人は金持ちというだけで処刑された。
また有名な化学者のラヴォアジェは徴税請負人だったため人民に憎まれていた。審理が終わらないまま判決が出され「共和国は学者を必要としない」という理由で処刑された。
ルイ16世の死刑に賛成票を投じ平等公の異名をもつ王族オルレアン公がジロンド派と手を組み王政復古を図ったなどで処刑されたのは1793年11月6日のことである[188]。1794年4月22日にはルイ16世の弁護人、ラモワニョン・ド・マルゼルブが処刑されるなど王党派の一掃が進められた。
粛清の嵐と内憂外患
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
公安委員会を率いるロベスピエールは、フランスの指導者として「共和国の敵」を処罰して国家を防衛する責任がある、と自己認識していた。
このとき、政府を指導する彼の目には、イギリスのピット首相と反仏同盟諸国が国内の反対勢力の運動を支援し、陰謀を図ってフランスを打ち破ろうとしているように映った。反革命派がクラブや議会にスパイを潜り込ませて、連邦主義などの運動をつくり出し国家の転覆を図っているのだと繰り返し訴えた。公安委員会のメンバー、エロー・ド・セシェルの秘書がイギリスのスパイであることが発覚し、公安委員会の議事が漏洩していたことも背景にあった。ロベスピエールのイギリスの陰謀に対する敵意は強まっていき、公会でイギリスの議会政治を金権政治であるとして非難しフランスの共和政を擁護している。政府はトゥーロンの反乱[注釈 27] やコルシカの反乱[注釈 28] をはじめイギリスの介入で長引いていた内戦の早期終結を目指した。危機を克服するために恐怖政治を続けて軍の強化を進め、国民の結束を促して国内の再統一を図ろうした[注釈 29]。1793年末、ロベスピエールは「共和国の敵」を打破する試みを果たすべく、有能で信頼できる人脈を整理して革命を支持する「才能ある愛国者」のリストを作成している。リストにはエルマンやサン・ジュスト、さらには信頼できる友人として大家のデュプレなどの名が連ねられ、恐怖政治を継続して政敵を倒すため党派の結束を保って問題に対処しようとしていたことがうかがえる。
1793年9月以降はエベールの影響力が強まるにつれて恐怖政治が強化された時期である。革命裁判所の組織強化が進んで貴族、王党派、ジロンド派の多くの者が粛清されていき、非キリスト教化運動が盛んとなって社会の混乱が深刻化した。ロベスピエールは革命に反対するカトリック教会に警戒感を持っていたが、宗教を否定していたわけではなった。国民公会は10月5日にグレゴリオ暦を廃止してフランス革命暦(共和暦)を採用したし、公安委員会は教会の鐘を軍需物資として徴発したものの、ロベスピエールが教会堂の破壊を支持したことはなかった。むしろ、エベールが扇動する攻撃的な無神論が民衆に受容されて民衆運動が過激化し、社会秩序が失われて放火や殺人、略奪が発生することを懸念していた。11月10日、エベールはノートルダム聖堂で理性の祭典と呼ばれるカーニヴァルを挙行するなど扇動活動を活発化させていた。ロベスピエールは無神論を非難して礼拝の自由を擁護する演説をおこなうことでエベール派の動きを牽制し、宗教に対する過激な攻撃につながらないように苦心した。やがてロベスピエールは無知と狂信、そしてその対立物である憎悪に対抗するため「もし神が存在しなければ発明しなくてはならない」と考えるようになる。これはすぐ後の「最高存在の祭典」につながっていく。
一方、7月にはヴァンデ地方ではナントの戦いで反乱軍の指導者カトリノーを打ち破り、国内の敵を撃退しつつあった。10月にはリヨンの反乱も鎮圧され、その後大規模な報復がおこなわれた。このとき反乱分子の処罰のために派遣されたジョゼフ・フーシェ、コロー・デルボワは、国民公会の命令書に従って町の家屋や教会などの建築物の破壊をおこない、銃殺や大砲の砲撃によって1800人に及ぶ大量処刑を実行した。両人は反乱分子の根絶をはかるため全権を与えられていたのだが、妹シャルロットによると、このときロベスピエールはリヨンの虐殺に胸を痛め、二人の行為に激怒していたという。虐殺後フーシェがロベスピエールのもとを訪ねて釈明を試みようした際、ロベスピエールはフーシェに軽蔑に満ちた態度を取っていたと、バラスも回想している。
矯激派のエベールは恐怖政治の強化を図り、ロベスピエールがバランスをとるという状態は長続きしなかった。穏健派のダントンとデムーランはリヨンの大虐殺に強く反発し、恐怖政治の終結を要求した。しかし、このとき公安委員会を糾弾していた両派の頭目エベールとダントンは政治スキャンダルの渦中にあった。植民地の喪失に伴ってフランス東インド会社が解散されたが、この解散による会社資産の清算において莫大な献金を違法に受けたとしてエベールが告発された。そして、この一件にダントンも関与しているという嫌疑がかけられたのだ。密告者によるとオーストリアの銀行家がエベールに革命の資金を提供して過激な運動を活発化させ、フランス共和国に内紛を生じさせるという陰謀を企てており、エベールとダントンに接触を図ったというものであった。密告があった段階でロベスピエールはこの嫌疑を信じず盟友のダントンを擁護した。しかし、この間もロベスピエールが率いる中央派と左右両派との政治的対立は次第に深まっていた。
デムーランは『ヴィユー・コルドリエ』紙を発行し、恐怖政治への批判を活発化させていた。彼はロベスピエールとの友情に触れながら「歴史と哲学の教訓を思い出せ。愛は恐れよりも強く長く残る」と語って恐怖政治の早期終結を訴えた。国民公会でも恐怖政治への批判や不満が論じられた。しかし、国内は未だ問題山積で尚且つ戦争中のフランスで恐怖政治を終結させることは非現実的なことだった。対外戦争ではピレネー地方に位置する南部の国境の町コリウールがスペインに占領されるなど戦況は悪化していたため、混乱を広げぬようにするために政治的緊張を解くわけにはいかなったのである。1793年クリスマスの演説で「憲法によって作られた政府の主要な関心は、個人の自由である。そして革命政府の主要な関心は、公の自由なのである。憲法に基づく政府においては国家の欺瞞に対して個人の自由を守っていればほぼそれで十分だった。ところが、革命政府のもとでは、国家は、国家を攻撃する徒党から自身を守らねばならない。革命政府においては、国家の防衛は良き市民にかかっている。人民の敵がもたらすものは唯一死だけである。」と述べ、ロベスピエールは共和国は未だ戦時下で革命中の状況にあることを示し、国家転覆を画策する党派を根絶するまで恐怖政治を継続しなければならないと力説した。
議会外ではデムーランの恐怖政治に対する批判と恐怖政治を推進しようとする『デュシェーヌ親父』との非難の応酬となっていた。ロベスピエールは両派のバランスを維持しようとしていたが、世論の分裂は危険水準に達していた。1794年2月、国民公会は「黒人友の会」の活動をうけ西インド諸島での奴隷制の廃止を議論していたが、ロベスピエールは奴隷制を非難する決議を採択しながらも議論に加わらなかった。それ以上に国内の分断との闘いに追われ、重要な演説の作成に取り組んでいたのである。5日、「政治的道徳性の諸原理に関する報告」と題して有名な恐怖政治演説が行われる。ロベスピエールは「われわれが目指すものは何か?」と問いかけ語り始めた。目的は「自由と平等を平穏のうちに享受できること」にあった。
「[国内が二分する]このような状況にあって、諸君の政治の第一行動原理は、人民を理性によって導き、人民の敵を恐怖によって制することである。平時における人民の政府の主要な動力は徳である。革命の渦中にあっては、それは徳と同時に恐怖である。徳のない恐怖は忌まわしく、恐怖のない徳は無力である。恐怖とは、即座に行われ、厳格で、確固とした正義である。」
3月13日にはエベールとその一派が逮捕され、3月24日に処刑された。
3月30日にはダントンやデムーランも逮捕される。告発を行ったのはサン=ジュストだが、告発状作成にあたりロベスピエールはダントンらの悪行を記した覚書をサン=ジュストに提供した。覚書や告発状に記されたダントンの罪の大半は(冗談への非難までを含む)いい加減なものであり、デムーランはダントン派の多くが関与した汚職とは無関係にもかかわらず共犯者とみなされた[190]。彼らは法廷で反論し、一時は無罪に傾きかけたが、妨害を受けたこともあり、結局4月5日に処刑された。
テルミドール反動
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1794年5月6日(フロレアル18日)、ロベスピエールは36歳の誕生日を迎えた。この時期のロベスピエールの様子を訪問客の一人であったポール・バラスは後にこのように述懐している。
「見えにくそうに眼を細めた濁った眼で、彼はじっとわれわれを見ていた。彼は不愉快そうで幽霊のように青白く、緑がかった血管が浮き出ていた。表情は、しょっちゅう変わる。彼の手も、閉じたり開いたり、あたかも神経症の痙攣のようだ。彼の首も肩も、断続的にぴくぴくと動いていた。」
この時期のロベスピエールの健康状態は悪化の一途を辿っていた。度重なる危機にあって極度の精神的緊張を強いられ、一日16時間を仕事に費やし、休みなく働き続けるのは常人には困難なことであるが、ロベスピエールはハードワークの過酷な生活を日常にしていた。
背景
[編集]ジャコバン派が1793年から1794年にかけてフランス内外の戦乱を収拾した後、国民は恐怖政治に嫌気が差すようになっていた。94年春にエベール派とダントン派が粛清されると、ジャコバン派の一部は国民公会の中間派と密に協力してロベスピエールを打倒しようとした。また、恐怖政治の先鋒としてパリ以上に行き過ぎた弾圧を行っていた地方派遣議員(ジョゼフ・フーシェ、ポール・バラス、ジャン=ランベール・タリアンら)は、ロベスピエールの追及を恐れて先制攻撃を画策していた。
一方、恐怖政治の中心だった公安委員会も、ロベスピエール派(ロベスピエール、サン=ジュスト、クートン)・戦乱収拾により勢力を拡大した穏健派(ラザール・カルノーなど)と、恐怖政治のさらなる強化を主張する強硬派(ジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌ、ジャン=マリー・コロー・デルボワなど)に分裂していた。それに嫌気が差したのか、ロベスピエールは6月半ばから7月26日まで、公の席にほとんど姿を見せなかった。その間にも反対派の陰謀は進行していた。7月22日には対立関係にあった公安委員会および保安委員会による合同会議が開かれたが、ロベスピエールはもはやサン=ジュストの忠告にも耳を貸さなくなっていた。
テルミドールの演説
[編集]7月26日(テルミドール8日)、国民公会でロベスピエールは、サン=ジュストらに諮らないまま「粛清されなければならない議員がいる」と演説をした。議員達はその名前を言うように要求したが、ロベスピエールは拒否。攻撃の対象が誰なのかわからない以上、全ての議員が震えあがった。反対派たちの結束はこれで決定的なものとなった。
その晩、ロベスピエールはジャコバン・クラブで演説し、「諸君がいま聞いた演説は私の最後の遺言である」と発言した。彼は翌日の悲劇を予感していたのかもしれない。
テルミドール9日の始まり
[編集]翌7月27日(テルミドール9日)午前11時、ロベスピエールらは国民公会に臨んだ。正午ごろ、サン=ジュストが「自分は特定の党派など関係ないし、党派争いを望まない。」とロベスピエール擁護の演説を始めると、突如タリアンが「昨日同じように孤高を気取っていた奴がいたはずだ。暗幕を切り裂け。(暗幕に隠されたロベスピエール派の結託を明らかにせよ。)」と野次り、サン=ジュストの演説を打ち切らせた。さらに議長のコロー・デルボワは繰り返し発言を求めるロベスピエールらの発言を阻止。議場から「暴君を倒せ」と野次が飛ぶなか、タリアンはロベスピエール派の逮捕を要求した。午後3時、ルーシェが逮捕について採決を求めると、ロベスピエール派の擁護の声は反対派の怒号にかき消され、全会一致でロベスピエール、クートン、サン=ジュスト、ル・バ、ロベスピエールの弟のオーギュスタンのプロスクリプティオが決議された。
ジャコバン派の最後
[編集]その後、パリ市のコミューンが蜂起し、そのすきにロベスピエールらはパリ市庁舎に逃げ込む。市庁舎にはロベスピエールを守るべくパリ市国民軍司令官フランソワ・アンリオ率いる200人の国民衛兵と3500人の群集が集結してきたが、独裁者と呼ばれたくないロベスピエールに彼らの先頭に立つ気はなかった。なお、このときアンリオは泥酔状態だったという。この間に、国民公会は、ロベスピエールらコミューンに従うものを法の外に置くことを決定した。深夜になって国民衛兵は引き上げ、国民公会が派遣したポール・バラス率いる軍隊はやすやすと市庁舎を占領した。ル・バはピストル自殺し、ロベスピエールも自殺を図るが失敗して顎に重傷を負い、逮捕された。のちに准将に昇進したシャルル・アンドレ・メルダは自らが顎を撃ち砕いたと主張している。その後、ロベスピエールらはコンシェルジュリー牢獄に連行されて短い最後の夜を過ごした。
翌7月28日、かつてロベスピエールの指示に従って反対派を断頭台に送り込んでいた革命裁判所の検事アントワーヌ・フーキエ=タンヴィルはロベスピエールらに死刑の求刑を求め、裁判長より死刑判決が下された。午後6時、ロベスピエール兄弟、サン・ジュスト、アンリオら22人は革命広場でギロチンにより処刑された。翌日には70人のコミューンのメンバーが処刑され、その翌日には12人が同じ罪状で処刑された。
さらに、ジャン=バティスト・カリエやフーキエ=タンヴィルらジャコバン派の生き残りは、同年から翌年にかけて次々に逮捕され、死刑に処せられた。クーデターに加わっていたビョー=ヴァレンヌやコロー・デルボワも公安委員として恐怖政治を推進した責任を問われ、ギュイヤンヌへ流罪となった。
7月28日に処刑された人物
[編集]- アドリアン=ニコラ・ゴボー:26歳。元代理検事。在野活動家。パリ・コミューン委員。
- アントワーヌ・ジャンシ:23歳。桶屋。在野活動家。パリ・コミューン委員。
- アントワーヌ・シモン(en):58歳。ドーファン看守。パリ自治委員。
- エティエンヌ=ニコラ・ゲラン:52歳。年金生活者(ランテイエ)。在野活動家(モン=ブラン・セクション委員)。
- オーギュスタン・ロベスピエール(小ロベスピエール)
- クリストフ・コシュフェ:60歳。室内装飾商人。パリ自治委員。
- クロード=フランソワ・ド・パイヤン(en):28歳。パリ市第一助役。
- ジャック=ルイ・フレデリク・ウアルメ:29歳。元ワイン商人。パリ自治委員。
- シャルル=ジャック・ブーゴン:57歳。元切手販売店給士。パリ自治委員。
- ジャン=エティエンヌ・フォレスティエ:47歳。製錬業者。パリ自治委員。
- ジャン=クロード・ベルナール:34歳。元司祭。在野活動家。パリ・コミューン委員。
- ジャン=バティスト・ド・ラヴァレット(en):40歳。元北方軍准将。国民衛兵隊副司令官(大隊長)。
- ジャン=バティスト・フルーリオ=レスコー(en):33歳。ブリュッセル出身。パリ市長。
- ジャン=ベルナール・ダザール:36歳。理髪屋。在野活動家。パリ・コミューン委員。
- ジャン=マリ・ケネ:木材商、パリ自治委員。
- ジョルジュ・クートン
- ドニ=エティエンヌ・ローラン:32歳。パリ市庁職員。在野活動家(マラー・セクション委員)。
- ニコラ=ジョゼフ・ヴィヴィエ:50歳。弁護士。パリ県刑事裁判所判事。ジャコバン・クラブ代表。
- フランソワ・アンリオ(en):32歳。国民衛兵隊司令官。
- マクシミリアン・ロベスピエール
- ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト
- ルネ=フランソワ・デュマ(fr):40歳。革命裁判所所長。
-
テルミドール9日。ロベスピエールの逮捕。『国民公会でのロベスピエールの打倒』マックス・アダモ (de:Max Adamo) 作(1870年)
-
銃撃されるロベスピエール。
-
『恐怖政治、最後の荷車』
-
反ロベスピエール派によるテルミドールのクーデター。この絵ではロベスピエールはピストルで撃たれている。
-
恐怖政治の象徴として処刑されるロベスピエール派。ギロチン台の人物はクートン。左隣の荷馬車上で顎を布で押さえている人物がロベスピエール。
遺体は同志とともにエランシ墓地(fr)に埋葬されたが、後の道路拡張による墓地の閉鎖に伴って、遺骨はカタコンブ・ド・パリに移送されている。
私生活
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私生活は至って質素で、紳士的な服装や振る舞いは広く市民の尊敬を集めた。テルミドールのクーデターで処刑されたときには、下宿していたデュプレ家に借金が残っていたともいわれる。その清潔さと独身であることから女性から特に人気があり、ロベスピエールが演説する日は女性の傍聴人が殺到したと伝えられている。
生涯独身を貫いたが、アラスの弁護士時代には、地方の名士として社交界に出入りして女性たちには好感をもって迎えられており、中でもデゾルティ嬢とは恋人関係にあるとの噂もあった。またパリに赴いてからは下宿先であるデュプレ家の長女のエレオノール・デュプレと内縁の妻同然の間柄だったという[注釈 30][注釈 31]。直系の子孫はいない。
生前は、端正な容貌をしていたとされており、肖像画などもそのように描かれていた。しかし、2013年にフランスの法医学者グループが、著名な蝋人形師のマダム・タッソーが制作したデスマスクを元に顔を復元したところ、ロベスピエールの顔は、あばた顔で陰湿な目つきをしたものとなった。あばたは自己免疫不全や類肉腫症によるものとされる。
弟のオーギュスタンは兄と同様に政治家の道を歩み、テルミドールのクーデターで兄共々処刑されている。妹のシャルロットによる兄弟の回想録がある[192]。
発言
[編集]- 「徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である」[193]
評価
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脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 18世紀末に中央集権的な組織を備えた近代的「政党」は存在しなかった。当時のジャコバン派は議員たちの緩やかな連合体であって、国民公会内の一会派的な性格が強かった。したがって、ジャコバン体制はファシズムやスターリニズムのような20世紀的な一党独裁体制とは異なっている。ロベスピエールが政権を掌握していた1793年から1794年の間もジャコバン派は少数派で、実際には独立した穏健な中間派(平原派)が多数派を占めていた。恐怖政治期に国民公会が立法と行政を統括する政府で、国民公会政府はジャコバン派と平原派の連立政権に支えられていた。さらに警察・財政は独立した委員会によって担われおり、軍事は平原派の閣僚が担当、ジャコバン派は立法・行政・司法に及ぶ国政の全権を掌握できたわけではなかった。柴田三千雄はジャコバン派の独裁は存在しなかったと指摘した上で、恐怖政治を現代的な意味で理解するのは時代錯誤で歴史的に正確な理解ではないと述べた。ロベスピエールによる恐怖政治は現代の恐怖政治、独裁体制とは性格が大きく異なっていると強調した[2]。
- ^ 脚注の追記。歴史家による心理分析
- ^ 否定する研究あり[21]。
- ^ 脚注の追記。生活サイクルについて(p.67)
- ^ この時アカデミーに入会した女性のうち一人は、革命期にジャーナリストとして活躍するルイーズ・ケラリオである。
- ^ 世界的な火山の活動期で、噴火による大気中の粉塵の増加によって世界中で気温が最大-1.5度低下した。これにより世界中のいたるところで厳冬と凶作に見舞われ、飢饉が起こったが、これはフランス革命の遠因の一つとされる。
- ^ 歴史家の解説を記述
- ^ グレート・ブリテン王国は既に産業革命によって機械化と工業化を達成し大量生産を可能とする歴史段階に入っていた。その結果、いまだにに農業国であったフランスは貿易競争力を喪失して国内産業が疲弊していく状況に陥っていく。フランス革命前夜、英仏間の貿易摩擦に起因する緊張状態は戦争寸前の状況にあった。フランス国内では協定破棄のためなら戦争も止む無しという世論が高まっていた。(遅塚氏)
- ^ 国民議会のブルジョワ議員も土地を所有しており、多くが不在地主となっていた。彼らの領主権は農民騒擾によって侵害されていた。封建的諸特権の廃止は農民の要求を認めて貴族的特権を廃止する一方で、ブルジョワジーによる私的所有権を確立する方策であった。柴田三千雄による分析
- ^ 脚注の追記。アッシニアについての説明。暴落原因に関する柴田三千雄の分析
- ^ 脚注の追記。有権者資格の説明。柴田三千雄による分析
- ^ ジャコバン派は一般に急進的な過激派のイメージで認識されているが、このイメージは史実ではない。ジャコバン派は共和制移行からロベスピエールの恐怖政治期に急進化するが、この特定の期間を除いては急進的ではなかった。革命初期のジャコバン派は王党派も加わっていたため共和主義団体ではなく、多様な人々から構成されておりおよそ過激派という様相ではなかった。ジャコバン修道会で毎晩会議を開いて政治談議をおこなうクラブであったが、年会費も労働者の二週間分の賃金に相当する24リーブリと高額だった。したがって、ジャコバン・クラブはブルジョワの政治クラブであってその構成は民衆的でもなかった。現代的な大衆政党とは異なり党員と党幹部による役務の序列に基づく党組織はなく、組織的拘束性のある権力関係もない単なる政治会派でしかなかった。内部に政治的対立が生じると分派が生じて、会員がクラブを脱会して新クラブを結成していくという事象が生じた。ジャコバン派はフイヤン派やジロンド派といた各勢力の離合集散が進展したことによって次第に急進性が増してロベスピエールと彼の周辺をなした政治家の支持団体という性格を強めていったのである[101]。
- ^ 脚注の追記。柴田三千雄による分析
- ^ このときの有権者資格を正確に表現すれば、成人男子選挙権である。ただし、投票は間接選挙であり、婦人と家内奉公人には選挙権が与えられず、選挙権も現代の普通選挙とは異なる幾つかの制限があった。また農作業の繁忙期であったことや従軍中の兵士が全線で投票できなかったこと、教会改革への反発、王党派が被選挙権から排除されたため選挙をボイコットしたため、投票率は低調で10%に留まった。投票者数も1791年憲法後の立法議会選とそれほど変わらなかった[172]。
- ^ 赤色は山岳派、灰色は平原派、青色はジロンド派を表しているが、当時は政党というものがなく、議員の信条や派閥は必ずしも明確ではなかった。そのため後世の学者の独断による分類の具体的な勢力数は出典によってまちまちで、これは一例に過ぎない。ただし平原派のような中間派が最多であったことは学者間の共通認識である[132][175]。
- ^ ロベスピエールの良き友人。髄膜炎により車椅子生活をしていたが、テルミドールのクーデターでは享年39歳で、病気はフィクション(長谷川哲也著『ナポレオン・獅子の時代』)で描かれたような老齢のためではない[158]。
- ^ 秘密会議とされたのは外野の干渉を避けるためで、公開にして政治アピールの場とかした後述の国防委員会の反省から
- ^ 警察権は主に保安委員会が管轄していた。後に1793年7月28日の法令で公安委員会を強化する目的で、嫌疑者の拘引する命令を発する権限だけは同委員会にも与えられることになったが、治安・警察に関する広範囲な権限は依然として保安委員会が持っていた。つまり事実上は両委員会の二元支配となっていたわけで、この権限争いがテルミドールのクーデターの一因となっている。1794年4月16日、ジェルミナル27日の法令で公安委員会にも逮捕権(告発権と予審権)が与えられ、両者の争いは一層激しくなった。なお保安委員会は治安委員会とも訳される
- ^ つまり9人制の場合は最低でも6人以上の会議で4人以上、14人制の場合は最低でも9人以上の会議で5人以上、12人制の場合は最低でも8人以上の会議で5人以上、11人制の場合は7人以上の会議で最低でも4人以上の委員の賛意と署名が必要とされた。これは公安委員会のメンバー構成上、どの派閥も単独ではいかなる決定もできなかったことを意味する。主導権を持ちながらも常に協議と妥協をしいられた。ロベスピエールが何かにつけて公会やクラブで演説したのは、他の委員を説得するために人民の支持と後押しを必要としたため
- ^ 後世の批評家が指摘するロベスピエールの個人独裁というのは歴史学的に間違いで、ロベスピエール独裁といった場合、公安委員会の強力な支配体制を人格化したに過ぎない。ロベスピエール個人独裁のイメージはテルミドールのクーデター以降に成立した政治的フィクションであり、その後継承されてきた歴史認識上の大きな誤りであって、史実ではない。
- ^ 公安委員会の委員は大臣よりも上位の権限を持っていた。大臣を監視する民衆代表の位置づけが公安委員であったが、公安委員自身に強い権限が与えられたので、公安委員が事実上の大臣に、大臣が格下げされて事実上の省庁長官になるというような構造になった
- ^ 広義では8月10日事件や6月2日の革命にすでに開始されていたという考え方もあるが、国民公会が公式に認めたのはこの日から
- ^ これも徴兵制とは異なる。人的・物的資源の無制限の動員を可能にするもので、総力戦体制の始まり
- ^ サン=ジュストが国民公会に提案し「平和が到来するまで革命的である政府」を続けると宣言。ここでいう“革命的”とは三権の非分立を意味する
- ^ 当初は陪審員や検事、裁判長らがブルジョワ出身者であったため意図的に緩慢で、逮捕者の大半を釈放していたが、1793年の夏ごろから左派が台頭すると、エベール派の要求で恐怖政治が始まった9月5日より強化され、人員も刷新された。
- ^ エルマンは元検事で裁判官を歴任後、革命裁判所の裁判長となり権勢をふるったが、テルミドール反動で逮捕され、フーキエ・タンヴィルらとともに処刑された。彼が就任してからは、それ以前の死刑宣告が49名であったのに対して、以後は12月までに209名、翌年1月から5月までに942名が反革命の容疑で死刑宣告を出した。さらに1794年6月10日のプレリアール22日法ができると、弁護が禁止されるなどの手続きが簡素化され、最盛期で監獄と刑場が裁ききれないほど大量の有罪判決を出した。ギロチン刑は大量処刑には不向きな処刑方法で設置やメンテナンスに時間がかかり、一日に処刑できる人数は一台あたり7、8人と非効率的な処刑法であったため、執行待ちの死刑囚が増加していった。ギロチン刑による死者数は総数およそ1万4千人~1万7千人、また一説によると4万人とされ、パリでは2600人だった。全国で猛威を振るった恐怖政治のうちヴァンデ戦争の中心地フランス西部では処刑数の74%を占め、全体の割合において突出している。有罪とされた罪状の78%が国家反逆罪で陰謀が19%、経済混乱罪は1%であった。処刑の目的は内戦の終結と革命の防衛にあったと見ていい[188]。革命裁判所では上訴も抗告もできず、判決は一度きりの絶対的なものであった。死刑の判決が出た場合は被告人の財産は国に没収された。初期には財産のない親族に没収財産は返還されたが、ヴァントーズ法成立後は死刑だけでなく追放刑を受けた者も、所有財産は全部無条件で没収され、貧者に再分配されることに改まった。
- ^ 12月19日ナポレオンの活躍によりトゥーロン市は奪回され、イギリス・スペイン・ナポリ他の同盟軍が同市を放棄して撤退。フランス軍が入城。報復のテロも始まる
- ^ 独立派の頭領パスカル・パオリによる反乱をイギリスが支援したことでフランスから分離して、ジョージ3世を国王にアングロ・コルシカ王国を称する反乱地域となっていた
- ^ 戦闘指揮は貴族出身の将校が長らく独占してきたが、恐怖政治期に貴族が次々と亡命したため有能な指揮官が不足した。そのため指揮官の任用に実力主義が取り入れられるようになった。軍の実力評価によって縁故のない若い士官が活躍できる土壌ができたことが、ナポレオンが後に頭角を現す契機となる。
- ^ 彼女は未亡人と呼ばれ、亡くなった際にはロベスピエール未亡人に準じるとして、共和主義者が大勢、葬儀に参列した。
- ^ 妹のシャルロットはこれを否定して、兄は生涯童貞だったと述べている。
出典
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文献リスト
[編集]- ロベスピエール関連
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- J.M.トムソン 著、樋口謹一 訳『ロベスピエールとフランス革命』岩波書店、1956年。
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- 松浦義弘『ロベスピエール: 世論を支配した革命家』山川出版社、2018年。
- 井上幸治『ロベスピエール ― ルソーの血ぬられた手』誠文堂新光社、1962年。
- 小井高志『世界を創った人びと(22)ロベスピエール』平凡社、1979年。
- 遅塚忠躬『ロベスピエールとドリヴィエ : フランス革命の世界史的位置』東京大学出版会、1986年。
- パトリス・ゲニフェニー「ロベスピエール」(フランソワ・フュレ、モナ・オズーフ編『フランス革命事典:1』河野健二ほか監訳、みすず書房、1995年、pp. 447-467)[原著1988]
- 成城大学法学会 編『成城法学第31巻』1989年。
- 辻村みよ子「<論説>フランス1793年憲法とジャコバン主義(6) : ロベスピエール=ジャコバン派の憲法原理」『成城法学』第31巻、成城大学法学会、1989年6月、47-103頁、ISSN 03865711、NAID 110000246333、CRID 1050564287426995968。
- スラヴォイ・ジジェク『ロベスピエール/毛沢東 : 革命とテロル』長原豊ほか訳、河出書房新社(河出文庫)、2008 [原著2007]
- Scurr, Ruth. Fatal Purity: Robespierre and the French Revolution. London: Metropolitan Books, 2006 (ISBN 0-8050-7987-4).
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- フランス革命関連
- 浅羽通明『右翼と左翼』幻冬舎、2006年。ISBN 4-344-98000-X。
- 安達正勝『フランス革命の志士たち―革命家とは何者か』筑摩書房、2012年。
- 安達正勝『物語フランス革命 バスティーユからナポレオン戴冠まで』中央公論新社、2008年。
- 河野健二、樋口謹一『世界の歴史〈15〉フランス革命』河出書房新社、1989年。
- 多木浩二『絵で見るフランス革命―イメージの政治学』岩波書店、1989年。
- 松浦義弘『フランス革命の社会史』山川出版社、1997年。
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- 芝生みつかず『フランス革命』河出書房新社、1989年。
- トーマス・カーライル『フランス革命史1〜6』柳田泉訳、春秋社、1947年、48年 [原著1837年]。
- モナ・オズーフ『革命祭典』立川孝一訳、岩波書店、1988年7月 [原著1984年]、ISBN 978-4000003223。
- ミシェル・ヴォヴェル『フランス革命の心性』立川孝一ほか訳、岩波書店、1992年5月 [原著1985年]、ISBN 978-4-00-003622-1。
- 松浦義弘「フランス革命期のフランス」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『フランス史 2 16世紀 - 19世紀なかば』山川出版社〈世界歴史大系〉、1996年7月。ISBN 978-4-634-46100-0。)
- ハンナ・アーレント『革命について』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1995年6月 [原著1963年]、ISBN 978-4480082145。
- アレクシス・ド・トクヴィル『旧体制と大革命』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉1998年1月[原著1856年]、ISBN 978-4480083968。
- 『フランス革命事典 2』フランソワ・フュレ、モナ・オズーフ編、河野健二ほか監訳、みすず書房〈人物 1 みすずライブラリー〉、1998年12月 [原著1988年]。ISBN 978-4-622-05033-9。
- カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』植村邦彦訳、平凡社〈平凡社ライブラリー 649〉、2008年9月。ISBN 978-4-582-76649-3。
- 二宮宏之「フランス絶対王政の統治構造」(『二宮宏之著作集 3 ソシアビリテと権力の社会史』岩波書店、2011年12月、ISBN 978-4-00-028443-1。)
- 柴田三千雄『フランス革命はなぜおこったか 革命史再考』福井憲彦・近藤和彦編、山川出版社、2012年4月。ISBN 978-4-634-64055-9。
外部リンク
[編集]マクシミリアン・ロベスピエールに関する 図書館収蔵著作物 |
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