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ルイーズ・ケラリオ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルイーズ・ド・ケラリオ
Louise de Kéralio
生誕 1756年8月27日
フランス王国パリ
死没 (1822-12-31) 1822年12月31日(66歳没)
ブリュッセル
別名 ルイーズ・ロベール, ルイーズ・ケラリオ=ロベール
職業 小説家翻訳者ジャーナリスト
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ルイーズ・フェリシテ・ギヌモン・ド・ケラリオ(Louise-Félicité Guynement de Kéralio(結婚後はLouise RobertまたはKéralio-Robert), 1756年8月27日-1822年12月31日[1])はフランス作家ジャーナリスト翻訳者フランス革命期に女性として初めて新聞を発行した[2]

生涯

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革命前における作家活動

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ブルターニュ貴族の出身のルイーズは、コンディヤックとともにパルマ公の家庭教師を務め[3]1776年まで軍学校で教鞭を取った[4]軍人で学者のルイ・フェリックス・ギヌモン・ド・ケラリオ英語版と、翻訳者で作家のフランソワーズ・アベイユフランス語版の間に生まれる。ルイーズは1777年10月から1782年までヴェルサイユ宮廷に滞在した。

ケラリオはエリザベス1世の伝記(5巻, 1786-1788)や小説『アデライード』を書き[注釈 1]ヘンリー・スウィンバーン英語版ジョン・グレゴリー英語版ジョン・ハワードリグッチョ・ガルッジ英語版の著作をフランス語に翻訳した[5]

ベルナルダン・ド・サン=ピエールとの結婚話が持ち上がったことがあったが、1777年10月には立ち消えになったようである[5]

1786年から1789年にかけて、ケラリオは『女性によるフランス文学名作集』と題した、フランスの女性作家の作品を集めた14巻のアンソロジーを編纂した[6]。しかしあまりにも大規模な試みだったため、完成させることはできなかった[7]

1787年2月3日、ケラリオはアラス・アカデミーの会員に選出され、当時会長を務めていたロベスピエールに歓迎された[8]。1786年あるいは1787年から、ケラリオは伯父の経済学者ルイ・ポール・アベイユ英語版が設立したブルトン愛国者協会にも加入した。

フランス革命への参加

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夫ロベールの肖像

フランス革命が始まると、ケラリオは積極的に革命に参加した。コルドリエ・クラブ[注釈 2][9]、あるいは両性愛国者友愛協会英語版の会員になる[10]など、当時の女性としては珍しい役割を果たした。

1789年8月13日からケラリオは女性初の編集長として『国家と市民』紙の発行を始めた。2年にわたり、ケラリオはこの新聞の他にも『メルキュール・ナシオナル、あるいは国家と市民』紙や『メルキュール・ナシオナルとヨーロッパの革命』紙、『ヨーロッパの政治』紙を発行し、自身の見解を世間に伝えた。さらにケラリオは印刷所の経営を申請したが、1789年11月12日に女性には不可能という理由で却下された[2]

1790年12月、彼女は新聞に 「単語の影響と言語の力について」と題した記事を掲載し、その中で友愛の証として "tutoiement[注釈 3]"の導入を提案した。 また、ケラリオはムッシューとマダムという呼び名をやめ、代わりにシトワイヤンおよびシトワイエンヌ[注釈 4]という呼称を考案した。

1790年に、ケラリオはダントンの秘書を務めた革命家のピエール・フランソワ・ジョセフ・ロベール英語版と結婚した[2]。彼女は長女の出産を数カ月後に控えた1791年7月にジャーナリストとしてのキャリアを終えた。

ケラリオは女性の役割について、穏健ながらも強い意見を示した。例えば1789年にシェイエスが、将来の憲法において女性と子供は「受動的市民」とされるべきだと提案した際、ケラリオは『国家と市民』紙で次のようにコメントした。

「すべての市民が政府の積極的な権限の形成に積極的に参加できるわけではなく、女性や子供が政治に影響を及ぼすことは不可能である」という彼の言葉の意味は理解し難い。確かに、女性や子供は雇用されていない。しかし、政治に積極的な影響を与える方法はこれしかないのだろうか?主に女性たちによって子供たちの魂に幼い頃から刻まれる言説や感情や原則、彼女らが社会において使用人や家来に与える影響力は、祖国とは無関係なのだろうか?[11]

ヴァレンヌ事件の後、ケラリオとロベールが取りまとめていた民衆社会中央委員会は、ルイ16世が職を放棄したこと、この偽証行為によって事実上退位したこと、署名者はもはや国王に忠誠を誓っていないことを宣言する請願書を配布した。 署名式は1791年7月17日シャン・ド・マルスで行われ、シャン・ド・マルスの虐殺を引き起こした[12]

ケラリオはダントン夫妻やデムーラン夫妻と非常に親しく、リュシル・デムーランの日記にはケラリオと彼らの交友の様子が記されている[13]ガブリエル・ダントン1793年2月に死去すると、ケラリオは両性愛国者友愛協会で彼女の追悼演説を行った[14]。一方でジロンド派指導者のマノン・ロランは回想録の中でケラリオに敵意を向けている[2]

1792年、ケラリオは「正直者」と名乗る三人組に襲われコケードを奪われそうになったが、彼女は暴漢を撃退した。ケラリオはこの襲撃についてジャコバン・クラブで語った[2]

革命後

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ケラリオは文学活動を中断していたが、1808年の小説『アメリアとカロリーヌ』で再び筆を執った[5]

夫ロベールは、百日天下の際ロクロワ県知事に任命された。しかしルイ16世の死刑に賛成票を投じたことで王殺しとして王政復古時に国外追放され、夫妻は1815年ブリュッセルに亡命した。ブリュッセルで、ロベールはワイン商になった。

娘のアデライード・ロベールは音楽評論家のフランソワ=ジョゼフ・フェティスと結婚した。

評価

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ルイーズ・ケラリオ=ロベールをフェミニストとみなすべき否かは、研究者の間で意見が分かれている。ケラリオは女性参政権や政権への参加に反対し、女性は家庭で子供を育てるべきだと性別役割分業を主張した。しかしながら彼女自身は積極的に政治活動に携わり、女性として初めて(おそらく18世紀フランスでただ一人)政治紙の編集長を務め、 自分の名前で記事に署名した。アニー・ジェフロワは、ケラリオを「性差別的共和主義の先駆者」とみなした上で、その活発なジャーナリズムおよび政治活動と矛盾する思想を「謎である」と述べた[2]。一方でカレン・グリーンはジェフロワの主張に疑問を呈し、ケラリオが理想的な人間とは男性的な心の偉大さと堅固な精神に、女性的な優しさや慎み深さ、慈愛を兼ね備えた存在であると主張していたことを示す[15]

参考文献

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  • (フランス語) Geffroy, Annie. "Louise de Kéralio-Robert, pionnière du républicanisme sexiste", in Annales historiques de la Révolution française, no. 344, 2006, p. 107–124, doi:10.3406/ahrf.2006.2910 On line, accessed 7 June 2012
  • Hesse, Carla. The other Enlightenment: How French women became modern, Princeton University Press, 2001
  • Hunt, Lynn. The family romance of the French revolution, 1992

脚注

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注釈

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  1. ^ ただしGeffroy(2003)はケラリオがこの小説を執筆したことに懐疑的である。
  2. ^ 夫のロベールが一時期会長を務めていた。
  3. ^ 会話や呼びかけの際、二人称代名詞としてtuを使うこと。フランス語の二人称単数形にはtuとvousの2種類が存在する。一般に、親しい間柄ではtuを、そうでない相手との間ではvousを使用する。
  4. ^ 「市民」を意味する名詞およびその女性形。

出典

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  1. ^ Mazel, Geneviève (1989). “Louise de Kéralio et Pierre François Robert : précurseurs de l'idée républicaine”. Bulletin de la société d'histoire de Paris et d'Ile-de-France: p. 165, 235-236. 
  2. ^ a b c d e f Annie Geffroy, « Louise de Keralio-Robert, pionnière du républicanisme sexiste », Annales historiques de la Révolution française, 344, avril-juin 2006, p. 107-124.
  3. ^ Chronicle of the French Revolution p.27 Longman Group 1989
  4. ^ Green, Karen A History of Women's Political Thought in Europe, 1700–1800 p.206 CUP 2014
  5. ^ a b c Geffroy, Annie (2003). Louise De Keralio, traductrice, éditrice, historienne et journaliste, avant 1789. Presses universitaires de Rennes. doi:10.4000/books.pur.35515 
  6. ^ Volume 2 online - Google ブックス
  7. ^ Green, Karen A History of Women's Political Thought in Europe, 1700–1800 p.208 CUP 2014
  8. ^ 天野 知恵子「フランス革命と家族-「婚外子」についての議論をめぐって-」『愛知県立大学外国語学部紀要(地域研究・国際学編)』2020年3月、p. 234, 237、doi:10.15088/00004222 
  9. ^ Green, Karen A History of Women's Political Thought in Europe, 1700–1800 p.211 CUP 2014
  10. ^ Schama, S, Citizens, p.530 Penguin 1989
  11. ^ Green, Karen A History of Women's Political Thought in Europe, 1700–1800 p.213 CUP 2014
  12. ^ Schama, S, Citizens, p.566 Penguin 1989
  13. ^ Leuwers, Hervé (2018). Camille et Lucile Desmoulins. Fayard. pp. 256-257. ISBN 978-2213693736 
  14. ^ Le Créole patriote” (1793年2月21日). 2024年7月25日閲覧。
  15. ^ Green, Karen (2021). “Louise Keralio-Robert: Feminism, Virtue, and the Problem of Fanaticism”. Early Modern French Studies 43 (1). doi:10.1080/20563035.2021.1924011.