マイク・スコット
1985年 | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | カリフォルニア州サンタモニカ |
生年月日 | 1955年4月26日(69歳) |
身長 体重 |
6' 3" =約190.5 cm 215 lb =約97.5 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1976年 ドラフト2巡目(全体37位) |
初出場 | 1979年4月18日 |
最終出場 | 1991年4月13日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
この表について
|
マイケル・ウォーレン・スコット(Michael Warren Scott, 1955年4月26日 - )は、元MLB選手。ポジションは投手。アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタモニカ出身。
経歴
[編集]アマチュア時代
[編集]高校時代は野球とバスケットボールで活躍[1]。ペパーダイン大学に進学し、1975年の第4回日米大学野球選手権にアメリカ代表として出場し[2]、江川卓,齊藤明雄らと投げ合い1勝を挙げた[3]。
ニューヨーク・メッツ
[編集]1976年のMLBドラフトでニューヨーク・メッツから2巡目(全体37位)に指名を受ける[4][5]。1978年はAAA級タイドウォーターで10勝10敗・防御率3.94を記録[6]。1979年4月18日のモントリオール・エクスポズ戦でメジャーデビューを果たし[7]、4月24日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャー初勝利[8]。1980年はAAA級で13勝7敗・防御率2.96[6]を記録してセプテンバー・コールアップでメジャーに再昇格し、9月28日のセントルイス・カージナルス戦でメジャー初完投・初完封を無四球で飾った[9]。
1981年は50日間に及ぶストライキによるシーズンの中断・短縮もあり5勝10敗。1982年は6月以降リリーフでの登板が多くなり、7勝13敗・防御率5.14と不調だった。12月10日に1選手との交換トレードでヒューストン・アストロズに移籍。
ヒューストン・アストロズ
[編集]1983年は故障で出遅れるが10勝。1984年は途中6連敗を喫するなど5勝11敗に終わる。オフにデトロイト・タイガースの投手コーチだったロジャー・クレイグからスプリットフィンガード・ファストボールを伝授される。1985年は前半戦で8勝・防御率2.76を記録。後半戦は防御率3.92ながら10勝を挙げ、シーズン通算で18勝8敗・防御率3.29を記録。
1986年は前半戦で9勝を挙げ、オールスターゲームに初選出される。9月25日、恩師クレイグが監督を務めるサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で13三振を奪ってノーヒッターを達成。18勝10敗・防御率2.22・306奪三振、いずれもリーグトップの275.1イニング・5完封・WHIP0.92を記録して最優秀防御率と最多奪三振の二冠を獲得するなど、チームの6年ぶりの地区優勝に大きく貢献。ナショナルリーグで右投手がシーズン300奪三振以上を記録したのは、20世紀以降ではJ.R.リチャード以来2人目の快挙だった。古巣メッツとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発して5安打14奪三振で完封勝利を挙げ、ドワイト・グッデンとの投手戦を制した。第4戦でも3安打無四球1失点で完投勝利を挙げるが、チームはそれ以外の試合で全て敗れ、2勝4敗で敗退した。しかし活躍が評価されてシリーズMVPを受賞。敗退チームからの選出はリーグ史上初だった。オフにサイ・ヤング賞を初受賞し[10]、MVPの投票でも10位に入った[11]。オフに日米野球でメジャーリーグ選抜の一員として来日し、日本でもスプリットフィンガード・ファストボール旋風を巻き起こした。
1987年は自身初の開幕投手を務める。前半戦で10勝5敗・防御率2.76の成績を残し、オールスターゲームでは先発投手を務めた。終盤でやや調子を落としたが、16勝13敗・防御率3.23・233奪三振を記録した。1988年は開幕から6連勝。6月12日のアトランタ・ブレーブス戦では9回2死までノーヒットに抑え、1安打無四球完封勝利[12]。途中故障による離脱もあったが、14勝8敗・防御率2.92・190奪三振を記録した。
1989年は5月19日のピッツバーグ・パイレーツ戦で7回までノーヒットに抑えて完封勝利を挙げる[13]など前半戦で14勝5敗・防御率2.58を記録し、2年ぶりにオールスターゲームに選出されるが登板機会はなし。後半戦は6勝に留まるが、20勝10敗・防御率3.10・172奪三振を記録し、最多勝利のタイトルを獲得。サイ・ヤング賞の投票ではマーク・デービスに次ぐ2位に入った。
1990年は開幕から不調で負けが先行。6月8日のシンシナティ・レッズ戦では6回までに13奪三振。試合は両チーム無得点のまま延長に入り、10回に1点を失うがその裏に逆転し、キャリアハイの15奪三振完投勝利を挙げる[14]。その後はやや持ち直したが好投しても援護に恵まれない事が多く、9勝13敗に終わった。1991年は故障の影響で開幕から2試合連続でノックアウトされると故障者リスト入りし、そのまま現役を引退した[15]。不正投球(スカッフボール。ボールに傷を付けることで変化が増す)疑惑を持たれたこともあったが[16][17]、これについては肯定も否定もしなかったという。
引退の翌1992年に自身のアストロズ在籍時の背番号『33』が、かつてのチームメイトであったホゼ・クルーズの『25』とともにチーム存命選手として初の永久欠番に指定された。
日本のゲームメーカー、ナムコが1987年に発売した野球ゲーム「プロ野球ファミリースタジアム'87」に登場するメジャーリーガーズの投手「すこつと」のモデルになっている。本家同様、驚異的なスピードのフォークボールを投げる。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1979 | NYM | 18 | 9 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | -- | .250 | 229 | 52.1 | 59 | 4 | 20 | 3 | 0 | 21 | 1 | 1 | 35 | 31 | 5.33 | 1.51 |
1980 | 6 | 6 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 132 | 29.1 | 40 | 1 | 8 | 1 | 0 | 13 | 1 | 0 | 14 | 14 | 4.30 | 1.64 | |
1981 | 23 | 23 | 1 | 0 | 0 | 5 | 10 | 0 | -- | .333 | 551 | 136.0 | 130 | 11 | 34 | 1 | 1 | 54 | 1 | 2 | 65 | 59 | 3.90 | 1.21 | |
1982 | 37 | 22 | 1 | 0 | 0 | 7 | 13 | 3 | -- | .350 | 670 | 147.0 | 185 | 13 | 60 | 3 | 2 | 63 | 1 | 2 | 100 | 84 | 5.14 | 1.67 | |
1983 | HOU | 24 | 24 | 2 | 2 | 2 | 10 | 6 | 0 | -- | .625 | 612 | 145.0 | 143 | 8 | 46 | 0 | 5 | 73 | 4 | 4 | 67 | 60 | 3.72 | 1.30 |
1984 | 31 | 29 | 0 | 0 | 0 | 5 | 11 | 0 | -- | .313 | 675 | 154.0 | 179 | 7 | 43 | 4 | 3 | 83 | 2 | 2 | 96 | 80 | 4.68 | 1.44 | |
1985 | 36 | 35 | 4 | 2 | 0 | 18 | 8 | 0 | -- | .692 | 922 | 221.2 | 194 | 20 | 80 | 4 | 3 | 137 | 7 | 2 | 91 | 81 | 3.29 | 1.24 | |
1986 | 37 | 37 | 7 | 5 | 3 | 18 | 10 | 0 | -- | .643 | 1065 | 275.1 | 182 | 17 | 72 | 6 | 2 | 306 | 3 | 0 | 73 | 68 | 2.22 | 0.92 | |
1987 | 36 | 36 | 8 | 3 | 2 | 16 | 13 | 0 | -- | .552 | 1010 | 247.2 | 199 | 21 | 79 | 6 | 4 | 233 | 10 | 2 | 94 | 89 | 3.23 | 1.12 | |
1988 | 32 | 32 | 8 | 5 | 3 | 14 | 8 | 0 | -- | .636 | 875 | 218.2 | 162 | 19 | 53 | 6 | 8 | 190 | 1 | 1 | 74 | 71 | 2.92 | 0.98 | |
1989 | 33 | 32 | 9 | 2 | 1 | 20 | 10 | 0 | -- | .667 | 924 | 229.0 | 180 | 23 | 62 | 12 | 3 | 172 | 7 | 0 | 87 | 79 | 3.10 | 1.06 | |
1990 | 32 | 32 | 4 | 2 | 1 | 9 | 13 | 0 | -- | .409 | 871 | 205.2 | 194 | 27 | 66 | 6 | 1 | 121 | 1 | 3 | 102 | 87 | 3.81 | 1.26 | |
1991 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | .000 | 35 | 7.0 | 11 | 2 | 4 | 1 | 1 | 3 | 0 | 0 | 10 | 10 | 12.86 | 2.14 | |
通算:13年 | 347 | 319 | 45 | 22 | 13 | 124 | 108 | 3 | -- | .534 | 8571 | 2068.2 | 1858 | 173 | 627 | 53 | 33 | 1469 | 39 | 19 | 908 | 813 | 3.54 | 1.20 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
[編集]表彰・記録
[編集]- サイ・ヤング賞 1回:1986年
- MLBオールスターゲーム選出 3回:1986年, 1987年, 1989年
脚注
[編集]- ^ “Mike Scott” (英語). sabr.org. 2020年8月7日閲覧。
- ^ “USA Baseball Official Roster for the 1975 Collegiate National Team” (英語). usabaseball.com. 2020年8月7日閲覧。
- ^ “第4回 日米大学野球選手権大会”. 公益財団法人 全日本大学野球連盟. 2020年8月7日閲覧。
- ^ “Transactions” (英語). Baseball-Reference.com. 2020年8月7日閲覧。
- ^ “2nd Round of the 1976 MLB June Amateur Draft” (英語). Baseball-Reference.com. 2020年8月7日閲覧。
- ^ a b “Register Pitching” (英語). Baseball-Reference.com. 2020年8月7日閲覧。
- ^ “Mike Scott” (英語). Baseball-Reference.com. 2020年8月7日閲覧。
- ^ “1979 Pitching Game Log” (英語). Baseball-Reference.com. 2020年8月7日閲覧。
- ^ “1980 Pitching Game Log” (英語). Baseball-Reference.com. 2020年8月7日閲覧。
- ^ “Baseball Awards Voting for 1986” (英語). Baseball-Reference.com. 2013年2月17日閲覧。
- ^ “Baseball Awards Voting for 1986” (英語). Baseball-Reference.com. 2013年2月17日閲覧。
- ^ “Jun 12, 1988, Braves at Astros Box Score and Play by Play” (英語). Baseball-Reference.com. 2013年2月17日閲覧。
- ^ “May 19, 1989, Pirates at Astros Play by Play and Box Score” (英語). Baseball-Reference.com. 2013年2月17日閲覧。
- ^ “Jun 8, 1990, Reds at Astros Box Score and Play by Play” (英語). Baseball-Reference.com. 2013年2月17日閲覧。
- ^ これにより彼の代名詞ともいえるスプリットフィンガード・ファーストボールが『デス・ピッチ』と呼ばれるようになり、使い手が少なくなったとも言われる。
- ^ Great Scott's power burned brightest in '86
- ^ Voice of '86: Astros pitcher Mike Scott
外部リンク
[編集]- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube