コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ロブ・ディブル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ロブ・ディブル
Rob Dibble
2009年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 コネチカット州ブリッジポート
生年月日 (1964-01-24) 1964年1月24日(60歳)
身長
体重
6' 4" =約193 cm
230 lb =約104.3 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1983年 MLBドラフト1巡目(全体20位)
初出場 1988年6月29日
最終出場 1995年9月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ロブ・ディブル英語: Rob Dibble, 本名:ロバート・キース・ディブルRobert Keith Dibble, 1964年1月24日 - )は、アメリカ合衆国コネチカット州ブリッジポート出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。

現役時代は大きなモーションから時速99マイル(約159km/h)の剛速球を投げた救援投手だった。

経歴

[編集]

プロ入りとレッズ時代

[編集]

1983年MLBドラフト1巡目(全体20位)でシンシナティ・レッズに指名され、契約。メジャー昇格までは5年を要し、1988年6月29日のサンディエゴ・パドレス戦(リバーフロント・スタジアム)の7回表から登板し、メジャーデビューを果たす。結果は2イニングを投げて無失点だった。持ち前の剛速球で中継ぎ投手(セットアップマン)としての地位をすぐに確立し、その年は59回1/3を投げて59奪三振を記録。

1989年7月4日のパドレス戦の8回にMLB史上22人目、ナ・リーグ史上14人目の「1イニング三者連続三球三振」を達成。この年は74試合に登板して10勝5敗2セーブ、防御率2.09。99回を投げて奪三振141は、奪三振率12.82という剛腕ぶりを見せつけた。

1990年にはランディ・マイヤーズノーム・チャールトンと共に「Nasty Boys」と呼ばれる速球派救援投手陣を形成。MLBオールスターゲームに初選出された。最終的に68試合に登板して8勝3敗11セーブ、防御率1.74(自己最高)、98回を投げて奪三振136と活躍。チームの地区優勝に貢献。ピッツバーグ・パイレーツとのリーグチャンピオンシップシリーズではマイヤーズと共にMVPを受賞し、チームをワールドシリーズに導いた。オークランド・アスレチックスとのワールドシリーズでも第2戦で勝利投手となり、チームの4連勝でのワールドシリーズ優勝に貢献した。オフには日米野球でMLB選抜の一員として訪日した。

1991年には先発に転向したマイヤーズに代わって抑えとなった。2年連続でMLBオールスターゲームに選出された。最終的に31セーブを記録し、82回1/3を投げて124奪三振を記録した。

1992年も25セーブを記録する。

1993年に防御率6.48の乱調で19セーブに終わった。

1994年は腕の故障で全休した。

レッズ退団後

[編集]

1995年シカゴ・ホワイトソックスと契約するが、それまでほどは三振を奪えず、逆にイニングの倍近い四球を与え、16試合の登板で防御率6.28でシーズン途中に解雇。ミルウォーキー・ブルワーズに移籍するが、ここでも15試合の登板で防御率8.25という散々な成績で、シーズン終了後に解雇。

1996年フロリダ・マーリンズと契約するが、再び故障し、登板のないまま解雇され、現役を引退した。

投手としての球種はスライダー。『guide to pitchers』(米書 より)

人物

[編集]

レッズ時代には、ボールを外野席に投げ込んで観客の女性を骨折させたり、1991年にヒューストン・アストロズエリック・イェルディングと乱闘を起こしたり、プレー中にベースで交錯したシカゴ・カブスダグ・ダセンゾにボールを投げつけたりと問題を起こした。当時の監督ルー・ピネラとも喧嘩となり、ピネラからは「お前は大人扱いされたくないのか!(You don't want to be treated like a man!)」と怒鳴られた。また、試合中ユニフォームの袖が破れて、相手チームからのクレームがついて、投手コーチのユニフォームを借りて投げてセーブを記録したことがある。貸したコーチは「オレが19年ぶりにセーブを挙げた」と、ディブルのピッチングを含めて喜んでいた。

現役引退後、1998年にESPNの解説者となる。解説者になってから、イチローの成功に対しては否定的で、2001年2月20日に、シアトルの新聞紙上で、「もしイチローが首位打者を獲ったら、ニューヨークタイムズ・スクエアを裸で走ってやる。3割打てたら、それだけでも競泳用水着で同じことをする。」と公言。果たしてイチローは首位打者ばかりかMVPまで受賞し、タイムズ・スクエアを素っ裸でイチローの背番号「51」のタトゥー・シールを貼って走り公約を果たした[1]。レッズ時代の監督、ルー・ピネラ(当時はシアトル・マリナーズ監督)は、この年6月22日に、「そろそろ日焼けの準備をしておいた方が良いぞ」とディブルに語ったという。

詳細情報

[編集]

年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1988 CIN 37 0 0 0 0 1 1 0 -- .500 235 59.1 43 2 21 5 1 59 3 2 12 12 1.82 1.08
1989 74 0 0 0 0 10 5 2 -- .667 401 99.0 62 4 39 11 3 141 7 0 23 23 2.09 1.02
1990 68 0 0 0 0 8 3 11 -- .727 384 98.0 62 3 34 3 1 136 3 1 22 19 1.74 0.98
1991 67 0 0 0 0 3 5 31 -- .375 334 82.1 67 5 25 2 0 124 5 0 32 29 3.17 1.12
1992 63 0 0 0 0 3 5 25 -- .375 286 70.1 48 3 31 2 2 110 6 0 26 24 3.07 1.12
1993 45 0 0 0 0 1 4 19 -- .200 196 41.2 34 8 42 0 2 49 4 0 33 30 6.48 1.82
1995 CWS 16 0 0 0 0 0 1 1 -- .000 78 14.1 7 1 27 2 3 16 5 0 10 10 6.28 2.37
MIL 15 0 0 0 0 1 1 0 -- .500 65 12.0 9 1 19 0 0 10 3 0 11 11 8.25 2.33
'95計 31 0 0 0 0 1 2 1 -- .333 143 26.1 16 2 46 2 3 26 8 0 21 21 7.18 2.35
通算:7年 385 0 0 0 0 27 25 89 -- .519 1979 477.0 332 27 238 25 12 645 36 3 169 158 2.98 1.19

受賞

[編集]

記録

[編集]

背番号

[編集]
  • 49 (1988年 - 1993年、1995年)

脚注

[編集]
  1. ^ Run for 51 By Rob Dibble - ESPN: The Worldwide Leader In Sports

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]