イタリア王
イタリア王(イタリアおう、羅: rex Italiae, 伊: re d'Italia)は、君主号の一つで、西方正帝の廃止後にローマ帝国の本土であったイタリア(半島部及び大陸部)を支配した人々が多くの場合に使用した歴史的背景を持つ王位。ただし実態を伴うかについては議論が残り、例えば1870年にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世によるローマ占領が行われるまで、長らくイタリアの中心地であったローマ市は歴代国王の支配下になかった。
歴史
[編集]帝国本土の争奪
[編集]ユリウス・ネポス帝、あるいはロムルス・アウグストゥルスの失脚まで、イタリア半島部及び大陸部は古代ローマの本土として統治されていた。王政期にはローマ王(rex)、共和政期には執政官や独裁官、帝政期にはローマ皇帝が君主として君臨し、帝政末期に皇帝権が二分されると「西の皇帝」(西ローマ皇帝)による支配が行われた。
476年のロムルス・アウグストゥルスの退位、および480年のユリウス・ネポス帝の暗殺によって西ローマ皇帝の称号は、元老院を通じて東ローマ皇帝ゼノンへと返還された。ゼノン帝は帝位返還の見返りとして、両者を追放・暗殺したヘルール族の族長オドアケルに「ドゥクス・イタリアエ」(dux Italiae、イタリア領主)の称号と、かつての帝国本土を支配する権利を与えた。従ってオドアケルが最初の「イタリア王」(rex Italiae)であると考える向きもあるが、オドアケルが rex Italiae の称号を公式に使用したかについては議論が残る。
493年、唯一のローマ皇帝となったゼノン帝はオドアケル討伐の命令を東ゴート族の王テオドリックに命令した。テオドリックはオドアケル軍を滅ぼすと新たにイタリアの支配者として承認され、また明確に自身が rex Italiae であると宣言した。一方で東ゴート族が数的に少数であり、周囲の反感を恐れて「国王」(rex)の称号のみを使用する場合もあった(東ゴート王国)。テオドリックの支配はオドアケルよりは長く続いたが、552年にベリサリウス率いるローマ軍の大遠征によって攻め滅ぼされた。再びイタリアはローマ皇帝の領域(ラヴェンナ総督領)となったが、この時代は短い間しか機能しなかった。
混乱の時代
[編集]568年、ランゴバルド族の王アルボイーノはベリサリウス失脚後のローマ帝国に他の異民族と連合して攻め込み、イタリア王の称号を使用した(ランゴバルド王国)。ランゴバルド王国はそれまでの勢力とは異なり、イタリア本土の行政区を完全に支配することは最後までできず、イタリア王というよりもランゴバルド王(rex Langobardorum)としての側面が強かった。最初期には北東部のヴェネツィア周辺、北西部のリグーリア、ロマーニャ、中部のローマ周辺、南部のナポリ周辺、カラブリア半島、サレント半島、シチリア島などはローマ皇帝に忠誠を誓っていた。支配が進む中でこれらの地域にも遠征が行われ、幾つかの地域は王国に併合された。それでも一部地域は抵抗を続け、次第にローマ公国・ナポリ公国・カラブリア公国・アプリア公国・ヴェネツィア共和国などランゴバルド王国に対峙する統治体制を形成していった。混乱に拍車をかけたのが、フランク人とアラブ人の侵入であった。
774年、フランク王シャルルマーニュは南フランスからランゴバルド王国領に侵攻すると、王国の北部・中部領域を占領下に置いた。同時に、実質的に崩壊状態に陥ったランゴバルド王国の併合をも宣言して、使用されていた王冠(ロンバルディアの鉄王冠)を持ち去った。一方で、遠征を途中で切り上げたことから南部は遠征の影響を受けず、さらに中部は後にローマ教会へ寄進されて教皇領となった。南部ではローマ帝国の封建勢力と旧ランゴバルド王国の南部領土を前身とするベネヴェント公国が、以前からの戦いを引き継いで紛争を続け、そこに北アフリカを支配したアラブ人の攻撃が始まった。827年、アグラブ朝イスラム帝国がシチリア島に上陸(イスラム教徒のシチリア遠征)、一度は撃退されたもののファーティマ朝の時代に再び占領され、952年にシチリア首長国が成立した。
1071年、南部情勢はヴァイキングの到来によって一応の終焉を見る。サレント半島を押さえたノルマン貴族ロベルト・イル・グイスカルドはローマ系、ランゴバルド系の別を問わずこれらを併合し、さらにその弟ルッジェーロ1世がシチリア首長国も占領して一つの王権にまとめ上げた(ノルマン・シチリア王国、オートヴィル朝)。後にナポリ王国とトリナクリア王国という二つの王国に分離したものの、それ以上の混乱は起こらなかった。
神聖ローマ帝国の封建体制
[編集]フランク王国の後裔である神聖ローマ帝国はランゴバルド王国を滅ぼして得た権威をもって、皇帝がイタリア王を兼ねると宣言していた。
しかし領土的には先述の通りランゴバルド王国の一部だけであり、中部の教皇領、南部のナポリ王・トリナクリア王の領域では君主としての権威を持たなかった。さらに北部領域においてもロンバルディア同盟との戦いなどを経て、徐々に実権を失っていった。その点において同時代のイタリア王(rex Italiae)の称号はイタリアの支配と同義ではなくなってしまっており、この歪な状態は中世から近世の長きにわたって続くことになる。
1805年、近代に入ってコルシカ島出身のナポレオン・ボナパルトが神聖ローマ帝国を滅ぼした後、占領下に置いていた地域に傀儡国家を樹立するためにロンバルディアの鉄王冠を使ってイタリア王への即位を宣言した。形式的には神聖ローマ帝国の方法に従ったもので、やはり王権は一部地域に限られ、ナポリ王位なども並存する状態にあった。1814年、ナポレオンが失脚して全ての実権・称号を手放すと自動的にイタリア王位も放棄したと見なされた。しかし中世イタリア王の領域を獲得したオーストリア帝国は神聖ローマ時代を踏襲せず、結果として数十年にわたってイタリア王の称号は空位状態が続いた。
リソルジメント
[編集]高まる民族主義の流れを受けて、イタリアという領域を統合する国家の誕生を望む声が高まる中、紆余曲折を経てイタリア北西部のサルデーニャ=ピエモンテ王国による統一戦争(リソルジメント)が始まった。1861年、この戦いに最終的勝利を収めたサルデーニャ=ピエモンテ王国は教皇領、ナポリ王国などを併合、イタリア半島部と大陸部の大部分を征服して同地を統一した。サルデーニャ=ピエモンテ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は空位であったイタリア王位の復古と継承を宣言、サヴォイア朝イタリア王国が成立した。同時にイタリアの政治的統合にも成功したサヴォイア朝は、ローマ市を中心としたイタリア全域を支配する、実態の伴ったイタリア王位を復活させるという東ゴート王国以来の偉業を成し遂げた。
1946年、二度の世界大戦を経てファシスト政権への協力などにより、国民投票で王政廃止が決定された。王国は共和制に移行、王を初めとする貴族制度は全廃された。サヴォイア家による王位請求は継続されているが、再び実態を伴わない状態へと回帰したと言える。
歴代君主
[編集]- 人名は支配領域で用いられていたイタリア語の発音に基く
ヘルール時代
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
オドアクレ | ヘルール族の王。ユリウス・ネポス帝を暗殺、ロムルス・アウグストゥルスを追放してイタリア本土の支配権を奪取。 | 476年 | 493年 |
東ゴート時代
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
テオドリック大王 | 東ゴート族の王。オドアクレを破って王位を獲得する。 | 493年 | 526年 | |
アタラーリ | テオドリック大王の外孫。 | 526年 | 534年 | |
テオダート | テオドリック大王の外甥。 | 534年 | 536年 | |
ヴィティージェ | テオダートの重臣。 | 536年 | 540年 |
西ゴート時代
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
イルディバルド | 西ゴート王の甥。東ゴートの王として迎えられる。 | 540年 | 541年 | |
エラーリコ | イルディバルドの親族、トーティラの従兄弟。 | 541年 | 541年 | |
トーティラ | イルディバルドの甥、エラーリコの従兄弟。 | 541年 | 552年 | |
テーイア | トーティラの重臣。ローマ軍に敗れ、再びイタリアはローマ皇帝の領域に戻る。 | 551年 | 553年 |
ランゴバルド時代
[編集]ガウシ朝
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
アルボイーノ | ランゴバルド王アウドゥインの子。ローマ軍に勝利してガウシ朝イタリア王国を成立させる。 | 568年 | 572年 |
内乱期
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
クレーフィ | アルボイーノの重臣。先王暗殺後、諸侯に推されてイタリア王に即位。諸侯同士の内乱(諸公爵の時代)の渦中で暗殺される。 | 572年 | 574年 | |
アウタリ | クレーフィの子。 | 584年 | 590年 | |
アギルルフォ[1] | クレーフィの甥、アウタリの従兄弟。 | 590年[1] | 616年 |
肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
アダロアルド | バイエルン公女テオデリンダとアジルルフォの子。母方の一族から大きな影響を受けていた為、バヴァリア朝とも呼ばれる。 | 616年 | 626年 |
肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
アリオアルド | 諸公爵の一人。アダロアルドの妹グンデベルガの夫として即位。 | 626年 | 636年 |
アロディ朝
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
ロータリ | 諸公爵の一人。アリオアルド死後に権力を掌握、アロディ朝を開いた。 | 636年 | 652年 | |
ロドアルド | ロータリの子。愛人の夫により僅か即位半年で暗殺される。 | 652年 | 653年 |
第二次バヴァリア朝
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
アリペルト1世 | テオデリンダの甥。ロータリ暗殺後にバイエルン人の支援でバヴァリア朝を復古した。 | 653年 | 661年 | |
ベルタリードとゴデベルト | アリペルト1世の子。王位を巡る兄弟争いの末にゴデベルトは暗殺され、ベルタリードも追放された。 | 661年 | 662年 |
ベネヴェント朝
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
グリモアルド | 諸公爵の一人。南部イタリアを支配するベネヴェント公国を率いてベルタリードとゴデベルトの内乱に介入、最終的に王位を簒奪した。 | 662年 | 671年 | |
ガリバルド | グリモアルドの子。フランク王国に逃れていたベルタリードが帰還すると失脚する。 | 671年 | 671年 |
第三次バヴァリア朝
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
ベルタリード | アリペルト1世の子、ゴデベルトの兄。 | 662年 | 671年 |
肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
アライス | 諸公爵の一人。バヴァリア朝に反乱を起こすが、短期間で征伐される。 | 688年 | 689年 |
肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
クニペルト | ベルタリードの子。アライスを討伐して王位を奪還した。 | 688年 | 700年 | |
リウトペルト | クニペルトの子。 | 700年 | 701年 | |
ラジンペルト | ゴデベルトの子、ベルタリードの甥。 | 701年 | 701年 | |
アリペルト2世 | ラジンペルトの子。ベネヴェント公国・スポレト公国など南部諸侯に加え、ヴェネツィアの攻撃などに翻弄された末に戦死する。彼の死でバヴァリア朝イタリア王国は完全に断絶した。 | 701年 | 712年 |
末期の諸王朝
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
アンスプランド | 諸公爵の一人。バヴァリア朝断絶後に王位へ推挙されるも、3ヶ月後に病没。 | 712年 | 712年 | |
リウトプランド | アンスプランドの子。王国末期において長期政権を築き、多くの治績を遺した。 | 712年 | 744年 | |
イルデブランド | リウトプランドの甥、或いは孫。無能さから諸侯の反乱を受け、強制的に退位させられる。 | 744年 | 744年 |
肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
ラーキス | 諸公爵の一人。イルデブランド追放により王に選出される。 | 744年 | 749年 | |
アストルフォ | ラーキスの弟。兄が退位した為に王位を引き継ぎ、デジデーリオの反乱で殺害される。 | 749年 | 756年 | |
デジデーリオ | 諸公爵の一人。ラーキスとアストルフォの兄弟を討ち取って王位を獲得するも、フランク王カルロ・マーニョの遠征軍に滅ぼされた。結果としてランゴバルド出身の王としては最後の人物となる。 | 756年 | 774年 |
フランク王国時代
[編集]イタリア王系図も参照。
カロリング朝
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
カルロ・マーニョ | フランク王。欧州各地に軍勢を送り、その過程でイタリア王位及びランゴバルド王位も獲得した。ただし領土面では大陸部の占領に留まった為、半島部・島嶼部にはイタリア王位の王権が及ばなくなった(中世イタリア王国)。 | 774年 | 814年 | |
ピピン1世 | カルロ・マーニョの次男。イタリア王位を分与されるも、早世する。 | 781年 | 810年 | |
ベルナルド | ピピン1世の私生児。叔父のルドヴィコ1世に挑むも、処刑される。 | 810年 | 818年 | |
ロドヴィコ1世 | フランク王。カルロ・マーニョの三男。一族内での家督争いに勝利を収め、全ての王位を継承する。 | 818年 | 822年 | |
ロターリオ1世 | 中フランク王。ルドヴィコ1世の長男。イタリア王領を含む中フランク王国を継承した為、イタリア王の一人に数えられる。 | 822年 | 855年 | |
ロドヴィコ2世 | ロターリオ1世の長男。
イタリア王位を分与される。 |
844年 | 875年 | |
禿頭王カルロ2世 | 西フランク国王
ロターリオ1世の弟。 |
875年 | 877年 | |
カルロマンノ | 東フランク王。ルドヴィコ2世バヴァリアの子。病弱さから早世する。 | 877年 | 879年 | |
肥満王カルロ3世 | フランク王。カルロマンノの弟。分散していた一族の領地を再び纏め上げた。 | 879年 | 887年 |
内乱期
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
ベレンガーリオ1世 | ロターリオ1世の外孫。肥満王カルロ3世に対して王位請求を行い、カルロ3世死後の混乱に乗じて実権を掌握する。 | 888年 | 896年 | |
グイード・ダ・スポレート | ロターリオ1世の外曾孫。ベレンガーリオ1世の政敵として王位請求を行う。 | 889年 | 894年 | |
ランベルト・ダ・スポレート | グイード・ダ・スポレートの子。東フランク王アルヌルフに敗れて追放される。 | 891年 | 896年 | |
アルノルフォ | 東フランク王。カルロマンノの子。グイード、ランベルト、ベレンガーリオ1世らを破ってイタリア王位を奪取する。 | 894年 | 899年 | |
ラトルド | アルノルフォの子。父の共同王となるが、早世する。 | 896年 | 896年 | |
ベレンガーリオ1世 | アルノルフォ親子の死後、復位を宣言。 | 896年 | 924年 | |
ランベルト・ダ・スポレート | ベレンガーリオ1世の対立王として復位を宣言。 | 896年 | 898年 | |
ルドヴィーコ3世 | ルドヴィコ2世イタリアの外孫。ベレンガーリオ1世の対立王。 | 900年 | 905年 | |
ロドルフォ2世 | ブルグント王。ベレンガーリオ1世らを破ってイタリア王位を継承する。 | 922年 | 933年 | |
ウーゴ・ディ・アルル | ロターリオ1世の外曾孫。ロドルフォ2世からイタリア王位を奪う。 | 926年 | 947年 | |
ロターリオ2世アルル | ウーゴ・ディ・アルルの子。 | 945年 | 950年 | |
ベレンガーリオ2世 | ベレンガーリオ1世の外孫。祖父の王位を請求してロターリオ2世アルル死後に即位を宣言するが、神聖ローマ皇帝オットーネ1世に滅ぼされる。 | 950年 | 961年 | |
アダルベルト2世 | ベレンガーリオ2世の子。父と共に王位継承を行い、後にオットーネ1世に追放される。 | 950年 | 963年 |
神聖ローマ帝国時代
[編集]ザクセン朝
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
オットーネ1世 | 東フランク王。ザクセン朝を東フランク王国に打ちたてた後、ベレンガーリオ親子を滅ぼしてイタリア王国にもザクセン人の王家を成立させる。後に皇帝を名乗る。 | 962年2月2日 | 973年5月7日 | |
オットーネ2世 | 神聖ローマ皇帝
オットーネ1世の子 |
980年10月[2] | 983年12月7日 | |
オットーネ3世 | 神聖ローマ皇帝
オットーネ2世の子、オットーネ1世の孫。子を持たずに病没する。 |
996年2月[3] | 1002年1月23日 |
肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
アルドゥイーノ1世 | ベレンガーリオ2世の末裔。オットーネ3世死後、諸侯の支持を得てイタリア王位に即位する。後にエンリーコ2世に敗れて退位した。 | 1002年 | 1014年 |
肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
エンリーコ2世 [4] |
神聖ローマ皇帝。
オットーネ3世の従兄弟。子を持たずに病没し、彼の死でザクセン王家は断絶した。 |
1004年2月14日 | 1024年7月13日 |
ザーリアー朝
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
コッラード2世 [5] |
神聖ローマ皇帝 | 1027年3月26日 | 1039年6月4日 | |
エンリーコ3世 | 神聖ローマ皇帝
コッラード2世の子。 |
1046年12月25日 | 1056年10月5日 | |
エンリーコ4世 | 神聖ローマ皇帝。
エンリーコ3世の子。 |
1084年3月31日 | 1105年12月 | |
エンリーコ5世 [6] |
神聖ローマ皇帝
エンリーコ4世の子。子を持たず死没し、ザーリアー朝は断絶した。 |
1111年4月13日 | 1125年5月23日 |
ズップリンゲンブルク朝
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
ロターリオ3世 | 神聖ローマ皇帝
新たに選挙君主制で帝国と諸王国の王に選ばれるが、一代のみに終った。 |
1125年 | 1133年 |
ホーエンシュタウフェン朝
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
コッラード3世[7][8] | ローマ王。ロターリオ3世の対立王として挙兵、その死後に選挙君主制の支持を集めて王朝を開く。第2回十字軍の指揮官を務める。 | 1128年 | 1135年 | |
フェデリーコ1世バルバロッサ | 神聖ローマ皇帝
コッラード3世の甥。諸地位の中でもイタリア王としての政務に熱意を注ぎ、イタリア語で「赤髭」を意味するバルバロッサの尊称で呼ばれた。第3回十字軍の指揮官を務める。 |
1154年 | 1190年6月10日 | |
エンリーコ6世 | 神聖ローマ皇帝
フェデリーコ1世バルバロッサの子。死後に反乱が起き、ローマ王を継承した弟フィリッポは神聖ローマ皇帝位及びイタリア王位から退位させられる。 |
1191年4月14日 | 1197年9月28日 |
グエルフィ朝
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
オットーネ4世 | 神聖ローマ皇帝
フィリッポを失脚させて後継者の地位を奪う。ギベリン派とグエルフィ派の由来でもある一族の出身だが、王朝は一代で途絶えた。 |
1208年 | 1212年 |
第二次ホーエンシュタウフェン朝
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
フェデリーコ2世 | 神聖ローマ皇帝、シチリア王。エンリーコ6世の子。オットーネ4世を打倒して王朝を復古する。死後の混乱によって帝国内に大空位時代が始まり、帝国の一部であるイタリア王位も不安定化する。 | 1215年11月22日 | 1250年12月13日 |
ルクセンブルク朝
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
エンリーコ7世 | 神聖ローマ皇帝。大空位時代の帝国君主の一人。ルクセンブルク朝を開き、数十年ぶりに正当な戴冠式を行う。遠征を経てイタリア王位の兼務を復活させる。 | 1311年1月6日[9] | 1313年8月24日 |
ヴィッテルスバッハ朝
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
ルイージ4世 | 神聖ローマ皇帝。大空位時代の帝国君主の一人。エンリーコ7世死後に後継者に選出され、ヴィッテルスバッハ朝を開く。 | 1327年 | 1347年10月11日 |
第二次ルクセンブルク朝
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
カルロ4世 | 神聖ローマ皇帝。エンリーコ7世の孫。ルクセンブルク朝を復古する。 | 1355年 | 1378年 | |
(ヴェンチェズラオ) | ローマ王。カルロ4世の次男。イタリア王としては即位していないが、ローマ王の権威で数名の僭主に公位を与えた。 | 1378年(ローマ王) | 1410年(ローマ王) | |
シジズモンド | 神聖ローマ皇帝。カルロ4世の三男。ニコポリスの戦い、フス戦争などで敗北を繰り返し、権威を失墜させる。 | 1410年 | 1437年12月9日 |
ハプスブルク朝
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
アルベルト2世 | ローマ王。シジズモンドの娘婿。義父の地位を引き継ぐも早世、一子ラディスラウス・ポストゥムスを遺す。 | 1437年 | 1439年10月27日 | |
フェデリーコ3世 | 神聖ローマ皇帝。アルベルト2世の同系親族。ラディスラウスの後見人を務め、死後に地位を継承する。 | 1452年3月19日 | 1493年8月19日 | |
マッシミリアーノ1世 | 神聖ローマ皇帝。フェデリーコ3世の子。積極的な婚姻外交を推し進め、ハプスブルク朝による王朝が欧州に広がる。 | 1493年 [10] |
1519年1月12日 | |
カルロ5世 | 神聖ローマ皇帝、ナポリ王、シチリア王、カスティーリャ・アラゴン王。マッシミリアーノ1世の孫。膨大な帝位・王位を兼任し、ハプスブルク朝の大帝国を築き上げる。 | 1530年2月 | 1556年1月16日 |
イタリア王の称号を正式に使用したのはカルロ5世が最後となり、以後は皇帝が主張するのみの空位状態となった。
肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
フェルディナンド1世 | 神聖ローマ皇帝。カルロ5世の弟。領土分割で神聖ローマ皇帝を継承する。 | 1556年 [10] |
1564年7月25日 | |
マッシミリアーノ2世 | 神聖ローマ皇帝。フェルディナンド1世の子。 | 1564年 [10] |
1576年10月12日 | |
ロドルフォ2世 [11] |
神聖ローマ皇帝。マッシミリアーノ2世の子。 | 1575年6月30日 | 1612年8月20日 | |
マッティーア | 神聖ローマ皇帝
ロドルフォ2世の弟。 |
1612年1月23日 | 1619年3月20日 | |
フェルディナンド2世 | 神聖ローマ皇帝 | 1619年3月10日 | 1637年2月15日 | |
フェルディナンド3世 | 神聖ローマ皇帝
三十年戦争に敗北、ヴェストファーレン条約でイタリアの帝国領を完全に喪失する。 |
1637年11月18日 | 1657年4月2日 |
ヴェストファーレン条約以降、神聖ローマ帝国の構成国家としてのイタリア王国は形骸化した。
ナポレオン時代
[編集]ボナパルト朝
[編集]フランス革命後のナポレオン戦争により、空位となっていたイタリア王位を獲得する。
肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
ナポレオーネ1世 | フランス皇帝。神聖ローマ帝国を完全に滅ぼした後、空位となっていたイタリア王の復古と即位を宣言する。 | 1805年 | 1815年 |
サヴォイア時代
[編集]リソルジメントを経てイタリア全域の実効支配を確立、空位となっていたイタリア王位を獲得する。
サヴォイア朝
[編集]肖像 | 人名 | 背景 | 即位 | 退位 |
---|---|---|---|---|
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 | サルデーニャ王。リソルジメントを経て、空位となっていたイタリア王位の復古を宣言する。 | 1849年 | 1878年 | |
ウンベルト1世 | サルデーニャ王太子。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の長男、スペイン王アマデオの兄。父の即位に伴いイタリア王太子となり、後にイタリア王位を継承。 | 1878年 | 1900年 | |
ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 | アルバニア王、エチオピア皇帝。ウンベルト1世の長男。積極的な対外政策を後援し、ファシスト政権を支持した。 | 1900年 | 1946年 | |
ウンベルト2世 | ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の長男。第二次世界大戦後、父王の戦争責任を問われた末、王政廃止が決定する。実権を伴うイタリア王としては事実上、最後の人物となる。 | 1946年 | 1946年 |
王位請求
[編集]現在、サヴォイア家によるイタリア王位請求が続けられている。
肖像 | 人名 | 背景 | 請求開始 |
---|---|---|---|
ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア | イタリア王太子。ウンベルト2世の長男。息子 | 1946年-現在 |
称号の全名
[編集]イタリア王位を意味する称号は長大な全名で呼ばれており、以下はその一例[注 1]である。
- by the Grace of God, King of Italy, King of Sardinia, Cyprus, Jerusalem, Armenia, Duke of Savoy, count of Maurienne, Marquis (of the Holy Roman Empire) in Italy; prince of Piedmont, Carignano, Oneglia, Poirino, Trino; Prince and Perpetual vicar of the Holy Roman Empire; prince of Carmagnola, Montmellian with Arbin and Francin, prince bailliff of the Duchy of Aosta, Prince of Chieri, Dronero, Crescentino, Riva di Chieri and Banna, Busca, Bene, Bra, Duke of Genoa, Monferrat, Aosta, Duke of Chablais, Genevois, Duke of Piacenza, Marquis of Saluzzo (Saluces), Ivrea, Susa, of Maro, Oristano, Cesana, Savona, Tarantasia, Borgomanero and Cureggio, Caselle, Rivoli, Pianezza, Govone, Salussola, Racconigi over Tegerone, Migliabruna and Motturone, Cavallermaggiore, Marene, Modane and Lanslebourg, Livorno Ferraris, Santhià Agliè, Centallo and Demonte, Desana, Ghemme, Vigone, Count of Barge, Villafranca, Ginevra, Nizza, Tenda, Romont, Asti, Alessandria, of Goceano, Novara, Tortona, Bobbio, Soissons, Sant'Antioco, Pollenzo, Roccabruna, Tricerro, Bairo, Ozegna, delle Apertole, Baron of Vaud and of Faucigni, Lord of Vercelli, Pinerolo, of Lomellina, of Valle Sesia, of the Marquisate of Ceva, Overlord of Monaco, Roccabruna and eleven-twelfths of Menton, Noble Patrician of Venice, Patrician of Ferrara.
- 神の恩寵によるイタリア王にしてサルディニア王、キプロス王、エルサレム王、キリキア・ アルメニア王の王にしてサヴォイア公及びモーリエンヌ伯並びに神聖ローマ皇帝の臣下たる帝国侯爵、帝国公爵及び司教、ピエモンテ公、カリニャーノ公、ポイリーノ公、オネギリア公、トリノ公、カルマニョーラ公、アオスタ公国の君主、キエーリ公、ドロネーロ公、クレシェンティーノ公、リーヴァ・プレッソ・キエーリ公、ブスカ公、ベーネ・ヴァジエンナ公、ブラ公、ジェノヴァ大公、モンフェラートの君主、アオスタの君主、シャブレー公、ジェノヴァ大公、ピアチェンツァ大公、サルッツォ侯、イヴレーア侯、スーザ侯、オリスターノ侯、チェザーナ・トリネーゼ侯、サヴォーナ侯、ボルゴマネーロ侯、クレッジョ侯、カゼッレ・トリネーゼ侯、リーヴォリ侯、ピアネッツァ侯、ゴヴォーネ侯、サルッソーラ侯、ラッコニージ侯、タレンタイゼ侯、カヴァッレルマッジョーレ侯、マレーネ侯、リヴォルノ・フェッラーリス侯、サンティア侯、アリエ侯、チェンタッロ侯、デモンテ侯、デザーナ侯、ゲンメ侯、ヴィゴーネ侯、ランスルブール侯、モダネ侯、バルジェ伯、ヴィッラフランカ・ピエモンテ伯、ジェノヴァ伯、ニース伯、アスティ伯、アレッサンドリア伯、ノヴァーラ伯、ボッビオ伯、ソワソン伯、サンタンティーオコ伯、トルトーナ伯、ロッカブルーナ伯、トリチェッロ伯、バーイロ伯、テンデ伯、オゼーニャ伯、ポッレンティア伯、ロモント伯、ヴォウド及びフォシニー男爵、ヴェルチェッリ卿、ピネローロ卿、ロメリナ卿、ヴァレシア卿、チェーヴァ侯、モナコ、ロクブリュヌ=カップ=マルタン及びマントンの宗主、ヴェネツィアとフェッラーラのパトリキ
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ サルデーニャ王、サヴォイア公爵、モーリエンヌ伯爵などの称号から、恐らくサヴォイア時代の称号であると見られる
出典
[編集]- ^ a b 「ランゴバルド王国」世界大百科事典
- ^ According to Sismondi, History of the Italian Republics in the Middle Ages (pg. 29), although Otto II was crowned King of the Romans in 961 and Holy Roman Emperor in 967, he only obtained the Iron Crown at Pavia in late 980, during his descent into Italy, and prior to his celebrating Christmas at Ravenna.
- ^ Although Otto III was crowned Holy Roman Emperor at Rome on 21 May 996, he was crowned King of Italy at Milan prior to the death of Pope John XV in early March 996 - see Comyn, History of the Western Empire, Vol. 1, pg. 123
- ^ enumerated as successor of Henry I who was German King 919?936 but not Emperor.
- ^ enumerated as successor of Conrad I who was German King 911?918 but not Emperor
- ^ Barraclough, Geoffrey (1984). The Origins of Modern Germany. W. W. Norton & Company. ISBN 0393301532
- ^ Bryce, History of the Holy Roman Empire pg. xxxix
- ^ Comyn, History of the Western Empire, from its Restoration by Charlemagne to the Accession of Charles V, Vol. I pg. 191
- ^ Jones, Michael, The New Cambridge Medieval History, Vol. VI: c. 1300-c. 1415, Cambridge University Press, 2000, pg. 533
- ^ a b c Emperor-Elect.
- ^ enumerated as successor of Rudolph I who was German King 1273?1291.
関連項目
[編集]- en:Queens of Italy
- サルデーニャ君主一覧
- サヴォイア君主一覧
- サヴォイア公
- en:List of monarchs of Naples
- en:List of monarchs of Sicily
- en:List of viceroys of Naples
- en:List of viceroys of Sicily
- en:List of monarchs of the Two Sicilies
- トスカーナの支配者一覧
- ローマ皇帝
- ローマ教皇の一覧
- フランク・ローマ皇帝
- 神聖ローマ皇帝
- エルサレム国王一覧
- en:List of monarchs of the Armenian Kingdom of Cilicia
- en:List of kings of the Lombards