コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

紀州 (フェリー)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
さるびあから転送)
紀州
基本情報
船種 フェリー
船籍 日本の旗 日本(1972-1982)
大韓民国の旗 韓国(1982-1999)
フィリピンの旗 フィリピン(1999)
所有者 神紀フェリー(1972-1976)
日本カーフェリー(1976-1982)
運用者 神紀フェリー(1972-1975)
日本カーフェリー(1976-1982)
建造所 波止浜造船
母港  神戸 広島
姉妹船 白浜勝浦
信号符字 JJ2801
IMO番号 7213046
改名 紀州(1972-1976)
さるびあ(1976-1982)
HANIL CAR FERRY(1982-1999)
ASIA SOUTH KOREA(1999)
経歴
起工 1971年1月
進水 1972年3月
竣工 1972年5月
就航 1972年
運航終了 1982年1月
最後 1999年12月23日バンタヤン島沖で沈没
要目
総トン数 2,436 トン
載貨重量 744DWT
全長 86.4 m
垂線間長 78.00 m
15.00 m
深さ 5.40 m
機関方式 ディーゼル
主機関 ダイハツ 8DSM26 4基
推進器 2軸
出力 6,400 PS
最大速力 19.16ノット
航海速力 18.8ノット
旅客定員 610名
車両搭載数 トラック22台、乗用車30台
テンプレートを表示

紀州は、神紀フェリーが運航していたフェリー。後に日本カーフェリーさるびあとして運航された。

概要

[編集]

神紀フェリーの航路開設にあたって波止浜造船で建造され、1972年8月に神戸 - 海南 - 白浜航路に就航したが、1975年4月1日に航路休止となり、係船された。

1976年、衝突事故で沈没したふたばの代船として日本カーフェリーに売却された。さるびあと改名され三菱重工業広島造船所で改装工事を受けた後、1976年11月1日に広島 - 日向航路に就航した[1]1982年1月、広島航路の廃止により引退した。

その後、海外売船され、韓国韓一高速フェリーHANIL CAR FERRYとして就航した。 1999年フィリピントランスアジア・シッピングライン英語版に売却され、ASIA SOUTH KOREAとして就航したが、12月23日、荒天と過積載によりバンタヤン島沖で沈没した。

就航航路

[編集]

神紀フェリー

  • 神戸港 - 海南港 - 白浜港
白浜勝浦と本船の3隻で、3隻ダイヤの場合は1日3往復、2隻ダイヤの場合は2往復を運航した。海南港には3隻ダイヤの際に1往復のみ寄港した。

日本カーフェリー

  • 広島港 - 細島港
本船1隻で1日1往復を運航した。下り便が夜行便、上り便が昼行便となっていた。

設計

[編集]

船体は3層構造で旅客甲板上層は操舵室、乗組員区画および特等室、旅客甲板下層は一等室および二等室、最下層が車両甲板となっていた。ランプウェイは船尾と船首(バウバイザー付)に設けられていた。

船内

[編集]

船室

[編集]
  • 特等室
  • 一等室
  • 二等室

設備

[編集]
  • 案内所・売店
  • うどんコーナー

事故・インシデント

[編集]

荒天と過積載による沈没

[編集]

1999年12月22日、5時ごろ、セブ島マンダウエからパナイ島イロイロへ向かっていた本船は、荒天によりバンタヤン島沖で大波を受け、船内の電力が失われて航行不能となり、サンゴ礁に接触した後、沈没した[2][3]

付近を航行していた貨物船、ジョン・デクスター(MV Jon Dexter)は、右舷に照明が失われた沈没前の本船を発見して通報した。船上では救命胴衣が配布され、ラフトが展開された。ジョン・デクスターおよびフェリーSt. Peter the Apostle(元第三十二阪九)により救助活動が行われ、フィリピン海軍の艦艇やヘリコプターが現場に到着するまでに多くの生存者を救出した[4][5]

本船は、出港前の沿岸警備隊の検査で過積載が発見され、出港が差し止められていた[3]。出港の許可は、過剰な乗客を降ろすことで与えられた。沿岸警備隊は乗客614名、乗員58名の定員を承認しており[3]、トランスアジア・シッピングラインは事故発生当時、乗客606名、乗員52名が乗船していたと発表したが[4]、捜索救助に当たった現地の軍当局は、755名が乗船していたと推定した。死亡者の数は錯綜しており、Philippine Daily Inquirerは死者を42名と報道したが、民間防衛局では45名としていた[3]。また、国際海事機関2008年の海上安全報告書では56名と報告されている[6]

2000年、船長および一等航海士は安全な航海に失敗し、人的損害および物理的損害を引き起こしたことで有罪となった[5]

脚注

[編集]
  1. ^ 世界の艦船(1977年1月号,p178)
  2. ^ “Hundreds rescued as ferry sinks”. BBC News (London: BBC). (23 December 1999). http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/asia-pacific/575891.stm 21 August 2012閲覧。 
  3. ^ a b c d Macatangay, Marlene, ed (November–December 1999). “Interisland ship sinks in Cebu” (PDF). Parola (Rotterdam: Philippine Seafarers Assistance Programme) (101). ISSN 1389-9465. http://www.psap-parola.org/home/wp-content/files/pdf/publication/parola101.pdf 21 August 2012閲覧。. 
  4. ^ a b Vanzi, Sol Jose (23 December 1999). “Cebu-Iloilo ferry sinks, 450 missing”. Headline News Philippines. 21 August 2012閲覧。
  5. ^ a b Anibale, Teresa, ed (March 24, 2000). “Officers charged in Philippine ferry sinking” (PDF). West Coast Sailors (San Francisco: Sailors' Union of the Pacific) LXIII (3): 5. http://www.sailors.org/pdf/newsletter/wcs-mar2000.pdf 21 August 2012閲覧。. 
  6. ^ Maritime Safety Committee : Formal Safety Assessment : RoPax Ships” (PDF). International Maritime Organization (21 July 2008). 21 August 2012閲覧。