コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

今野泰幸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Syouhos0 (会話 | 投稿記録) による 2021年6月3日 (木) 06:57個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (プロ入り前)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

今野 泰幸
名前
愛称 鉄人[1]、ヤス、こんちゃん
カタカナ コンノ ヤスユキ
ラテン文字 KONNO Yasuyuki
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1983-01-25) 1983年1月25日(41歳)
出身地 宮城県仙台市太白区[2]
身長 178cm
体重 73kg
選手情報
在籍チーム 日本の旗 ジュビロ磐田
ポジション MF / DF
背番号 2
利き足 右足[1]
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2001-2003 コンサドーレ札幌 65 (2)
2004-2011 FC東京 254 (33)
2012-2019 ガンバ大阪 210 (17)
2019- ジュビロ磐田 11 (1)
代表歴2
2001-2003  日本 U-19/20 13 (4)
2004  日本 U-23 9 (0)
2005-2017[3] 日本の旗 日本 93 (4)
1. 国内リーグ戦に限る。2020年12月20日現在。
2. 2017年12月16日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

今野 泰幸(こんの やすゆき、1983年1月25日 - )は、宮城県仙台市出身のプロサッカー選手Jリーグジュビロ磐田所属。ポジションはミッドフィールダー(ボランチ、ウイングバック)、ディフェンダー(センターバック、サイドバック)。元日本代表

来歴

プロ入り前

小学校1年時からサッカーを始めた[4]。サッカー強豪校の東北高等学校には、スポーツ特待生に入れず[5] 一般受験で進学したが[6] ここで頭角を現し宮城県選抜[7] に選ばれ富山国体への出場、東北高では全国選手権への出場を経験。ナショナルトレセンやユース代表候補合宿への参加もあったが、プロクラブからの勧誘の対象にはならず、卒業後は地元のソニー仙台への加入が内定していた[2][8]

しかし、コンサドーレ札幌に練習参加する機会を得て[注 1]、札幌監督の岡田武史の注目するところとなり[9][10]、同クラブと契約。札幌への入団内定後に出場した高3冬の全国選手権ではベスト8に進出した[2]

[追記] サッカー協会のトレセンコーチから岡田武史氏に「いい選手がいるのですが、Jリーグのチームどこも興味を示さないのです」と電話がかかってきたという。岡田はビデオを確認し「高校生で、こんなに厳しいアプローチができる選手がいるんだと目が釘付けになりました」と評価した。今野にコンタクトを取るも実業団のソニー仙台に社員として内定していた。また今野の両親も「うちの子は大したことないので、安定した会社勤めを」という本心だった。しかし岡田はソニー仙台の監督に「彼の将来のためにも」と直談判し、今野本人を説得し、コンサドーレ札幌に獲得したという。[11]

コンサドーレ札幌

札幌では、監督の岡田からボールホルダーへの素早いアプローチとボール奪取能力を評価され[12]、加入初年度の2001年から先発出場の機会を得た。さらに2001 FIFAワールドユース選手権に出場するU-20日本代表に飛び級で選出されレギュラーポジションを獲得したものの、本大会直前の怪我により自身の出場を逃した[9]

2002年には主軸として期待され背番号が4に変更された。同年、U-19日本代表に招集され、AFCユース選手権・カタール大会キャプテンとして出場し[9] 準優勝に貢献。一方、札幌では新たに監督に就任した柱谷哲二によりレギュラーとして起用されたがチームは苦戦を強いられ、自身もシーズン途中での監督交代やリーグ最下位でのJ2降格(代表招集中に降格が決定[9])も味わった。

2003年12月にはU-20日本代表として、FIFAワールドユース選手権・UAE大会に出場[13]

FC東京

2004年に「J1であること」、「若手の出場機会が多い」、「まだタイトルを取った事が無いチームで、チームと共に成長できると思った」ことが決め手となり[14]、J1のFC東京に完全移籍した[15][16]。前年末のワールドユースが終了してすぐの[10] 1月からはU-23日本代表に飛び級で招集され、アジア地区最終予選では代表チームでただ一人全6試合にフル出場し[10]アテネオリンピック出場に貢献[注 2]。8月のオリンピック本大会にも出場した。同年のヤマザキナビスコカップ決勝では、FC東京のセンターバックであるジャーンが退場し1人でボランチを任されることになったが、延長戦を含む100分近い時間を守りきり、PK戦の末自身にとってもクラブとしても初のタイトル獲得を果たした。

当時のFC東京監督を務めた原博実は今野の守備力、特にボール奪取能力について「間合いの取り方も、相手への体の入れ方もうまいし、ファウルしないでボールを奪える。日本人離れしている」と絶賛した[18]。また、原からは攻撃面の能力を見出され[19]、2005年には自己最多となるリーグ戦7得点を記録。同年12月のJ1最終節では後半ロスタイムに同点ゴールを決め、結果的にセレッソ大阪の優勝を阻止した。ただし原は、自分で守りきれる能力があるために声を出して味方を動かすことができていない、と欠点も挙げており[20]、今野に声を出させるためにボランチのパートナーを外す[注 3]布陣を敷くこともあった[21][22]

2005年7月、東アジアサッカー選手権において日本代表に初選出され[23]、同大会の中国戦で国際Aマッチ初出場を記録した[3]。同年末、イタリア・セリエAUSレッチェから興味を持たれていたが、12月の天皇杯浦和レッドダイヤモンズ戦で左膝内側側副靱帯損傷してしまう[24]。イタリアに渡り診察を受けたものの、レッチェが想定する以上の重症だったことから[25] 正式オファーには至らなかった[26]

2006年10月、日本代表に選出され、ガーナ戦で代表では初めてとなるディフェンダーとして右センターバックのポジションでフル出場した。11月のサウジアラビア戦ではフォワードのヤセル・アル・カフタニのマークにつく一方で、果敢なオーバーラップから2点目をアシストし[注 4]、3点目の起点となるパスを配球[27][28]。いずれも我那覇和樹の得点を導いた。これ以後もオシムは「好みではないポジションも喜んでやる準備ができている」[29] と今野を高く評価し、サイドバックなど複数のポジションで起用した[17]

2007年12月初頭の天皇杯開催中に、今野の代理人である西真田佳典の売り込みにより[30]、浦和レッズ、ガンバ大阪名古屋グランパスエイトと移籍交渉を行なっていると報道されたが[31]、FC東京の次期監督就任が発表された城福浩と面談しチーム構想や強化方針に共感し、12月29日に残留が発表された[32]。この際の契約を経て今野はFC東京の最高年俸日本人選手となった[33]

2009年は第9節よりセンターバックにコンバートされ、玉際の強さや優れたカバーリングを発揮[4]。さらに両足でのフィード力を活かして同じくCBのブルーノ・クアドロス、ボランチの梶山陽平らとFC東京のポゼッションサッカーの起点となった[4][34]

オシム退任後、日本代表監督となった岡田武史は今野を「ユーティリティーがあって貴重な選手」と評し[35] 常に代表に選出。2010年に開催されたワールドカップ・南アフリカ大会日本代表メンバーにも選出し、宮城県出身選手として初となるワールドカップ日本代表選手となった。本大会直前に行われたコートジボワールとの親善試合で左膝靭帯損傷の怪我を負ったものの、懸命のリハビリを行い本大会に間に合わせ[36]、グループリーグ第3戦のデンマーク戦において途中出場を果たしたが、本大会での出場はこの1試合に終わった[注 5]

この年、FC東京監督の城福は今野を「日本でトップ・オブ・センターバック」と評し[38][39][40]、中盤の選手に負傷離脱が相次いだ中でもセンターバックに据え続けた。また、ボランチとしては前方へのパスを出す能力に課題があるがダイナミズムを出せるとして[40]、より攻撃に比重をかけたい状況になった場合には、控えディフェンダーを投入するなどして今野を中盤に上げるという起用法を採っていたが[39] 結果は伴わず、札幌所属時以来2度目のJ2降格を経験。

岡田の後任として日本代表監督に就任したアルベルト・ザッケローニは、初采配となった2010年10月8日のアルゼンチン戦以降全試合で今野をセンターバックとしてスタメン起用した。2011年1月に開催されたAFCアジアカップでは、ザッケローニからディフェンス陣のリーダーに指名され[41]、同じくセンターバックの吉田麻也をリードし[42] 経験の少ない守備陣を統率。全試合にフル出場し(日本代表では今野と長友佑都のみ)、日本代表の優勝に貢献した。

2011年はキャプテンに就任[43]。J2最少失点となる堅守を築き、1年でのJ1復帰を達成。同年のJリーグアウォーズにてJ2 Most Exciting Playerの初代受賞者として表彰された[44]。また、主将の大役を任されたことでチーム全体へ目を向け、原から指摘された「声」についても積極的になり[45]、自身の殻を破る1年となった[46]天皇杯決勝の京都サンガF.C.戦では、先制を許した直後に同点ゴールを決め、チームの天皇杯初優勝に貢献。代表では11月11日の2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選タジキスタン戦で国際Aマッチ初得点を記録した[6][42]

ガンバ大阪

2012年、「一段階も二段階も上がっていかなきゃいけない」とさらなるチャレンジを目指すため[47]、ガンバ大阪へ完全移籍[48][49]ブラジルワールドカップ予選では、日本代表のワールドカップ出場に貢献した。7月21日、カシマスタジアムで行なわれた東日本大震災復興支援 2012Jリーグスペシャルマッチでは、被災地選抜チーム「Jリーグ TEAM AS ONE」(ベガルタ仙台鹿島アントラーズの選手と東北地方出身選手による混成チーム)の一員として出場した。この年、G大阪は深刻な不振に陥り、失点数はリーグワースト2位を記録してしまうなど[50] シーズン通して守備陣を統率できず、自身3度目のJ2降格を喫した。

2013年、日本代表との並行日程のためリーグ戦の約4分の1ほどを欠場したが、センターバックとボランチを並行してプレーし、それぞれのポジションで安定したプレーを披露して、G大阪のJ2優勝と1年でのJ1復帰に貢献した。

2014年、G大阪では前年に引き続きボランチでの起用が続いたが、代表との役割の違いから本調子とは程遠い状態が続き、チームもW杯ブラジル大会中断前は降格圏の16位に低迷してしまう。第8節大宮戦では途中出場で決勝ゴールを決めたが、自身が投入された直後に同点にされたことで試合後には「舌を噛んで死にたいと思いました。本当に」とコメントするなど精神的にも追いつめられていた[51]。5月、W杯ブラジル大会の日本代表メンバーに選出されたが、直前の親善試合や第1戦コートジボワール戦はスタメンから外れる。第2戦ギリシャ戦と第3戦コロンビア戦はスタメンで起用されたが、コロンビア戦では自身のファウルで相手にPKを献上してしまうなど、クラブでの不調からの脱却ができずチームもグループリーグ敗退となった。中断明け以降、ボランチに専念し遠藤保仁と共に中盤を締め、攻撃面でも間接的に絡むプレーを見せるなど自身が「人生最大のスランプ」と語った不調を払拭する好パフォーマンスを発揮[52][53]。11月にはハビエル・アギーレ体制となった日本代表にW杯以来となる復帰を果たし、11月18日の親善試合オーストラリア戦ではボランチとして出場し自身3年ぶりとなる代表での得点を決めた。自身の復調と共にG大阪も後半戦は猛烈な巻き返しを見せ、昇格1年目でのJ1優勝を果たし、さらにはG大阪の国内三冠達成に大きく貢献した。

2015年、1月にオーストラリアで行われたAFCアジアカップ2015ではグループリーグのイラク戦で左太もものハムストリング肉離れで戦線離脱し、2月のキャンプには復帰するもまたも同じ左太ももを故障し2015年シーズン開幕に間に合わなかった。自身が離脱中、チームは公式戦2分3敗と低空飛行を続けるも、4月上旬に復帰しその後は安定したプレーを見せ、G大阪の復調を支えた[54]CS準決勝浦和戦では先制ゴールを決め決勝進出に貢献。決勝の広島戦では第1戦・第2戦共にセットプレーからゴールを決めるもいずれも勝利には結びつかず後一歩でリーグ連覇を逃した。天皇杯決勝浦和戦では試合開始早々に米倉恒貴が負傷交代したことで右サイドバックを務めることになり、勝ち越した後半は浦和の猛攻を受けるもこれを耐え抜き天皇杯連覇を達成した。

2016年、シーズン序盤はセンターバックに怪我人が相次いだことで第3節の大宮アルディージャ戦ではセンターバックとして出場した。

2017年はインサイドハーフが主戦場となった。3月23日に約2年ぶりに代表復帰を果たし、ワールドカップ最終予選のUAE戦ではスタメン出場で約2年半ぶりとなる代表でのゴールを決めた。しかし、この試合で左足小指を骨折し、途中離脱となってしまった[55]。負傷が癒えてから、6月4日の磐田戦で2ヶ月半ぶりの実戦復帰を果たし、その試合30分間だけのプレーだったが、UAE戦の活躍もありハリルホジッチの信頼も厚く、負傷明けすぐに召集された[56]。6月7日、負傷明け2試合目となったシリア戦にスタメンで出場し、代表2試合連続となる得点も挙げた[57]。7月29日、第19節のセレッソ大阪戦で、史上15人目となるJ1リーグ通算400試合出場を達成した[58]

2018年、シーズン開幕前に右足を負傷し、第4節の柏レイソル戦で今季初出場を果たしたものの、その後離脱を繰り返し、5月22日に右足関節前方インピンジメント症候群で手術を受けた[59]。ハリルホジッチが解任され、日本代表監督になった西野朗からW杯ロシア大会に向けたメンバーリストに選出されていたが、怪我の影響もあり3大会連続のW杯メンバー入りは叶わなかった[60]。W杯後も怪我で試合に出場出来なかったが、8月26日に行われたJ3リーグY.S.C.C.横浜戦にガンバ大阪U-23のオーバーエイジ枠として出場し、その復帰戦で得点も挙げた[61]。チームはJ2降格圏内にいたが、今野が復帰後はチームが勝ち出し[62]、21年ぶりの9連勝を達成してJ1残留を決めた。

ジュビロ磐田

2019年 7月ジュビロ磐田への完全移籍が発表された[63]。8月3日に行われたベガルタ仙台戦でスタメンで移籍後初出場を果たすと、前半32分に移籍後初ゴールも挙げた[64]。しかし、その後は順位は上がらず自身4度目となるJ2降格となった。11月にトレーニング中に腰痛を自覚し、腰椎椎間板ヘルニア、嚢腫に診断を受け12月に手術を行う。そのため、次期前半戦は欠場となった[65]

2020年 6月、引退も考えるほどの怪我から復帰[66]。10月28日の東京V戦で右膝内側側副靭帯損傷のため、手術を受け2021年1月まで欠場した[67]。同年は9月にフベロ監督が辞任、鈴木監督に変わるなどJ1昇格は果たせなかった。

プレースタイル

ボールホルダーへの素早いアプローチとボール奪取能力を武器とし[68]、スピード、球際や対人戦の強さ、カバーリング能力に優れている。危機察知能力も抜群で、様々な場面で安定した対応を見せる。またパスセンスもありビルドアップに長け、攻撃の起点にもなることができる。2009年に今野をセンターバックに固定して起用した城福浩は、「トップ・オブ・センターバック」とその能力を高く評している[47][69][70]

本来のポジションであるボランチ、日本代表で務めていたセンターバックに加え、両サイドバックをこなすことができ、守備のユーティリティープレイヤーでもある[71]。豊富な運動量と国際経験も武器としたタフな選手である[72][73]。一方で、身長は178cmと絶対的な高さはない[69]

人物・エピソード

  • 2009年1月4日、読者モデルの経験がある一般女性との入籍を発表[74]。2011年8月23日、第1子の長男が誕生[75]
  • 生真面目な性格から、日本代表時代、クラブでもイジられ役として親しまれている[1][76]
  • 国内公式戦に1分でも出場したらワクチンを提供するというチャリティー活動を行っている[78][79]。今野は毎年夏に「今野カップ」という、今野自らがスポンサーとなって子ども達を招待するサッカーイベントを開催しており、このイベントも「世界の子どもにワクチンを」の活動主旨に賛同している[80]。「今野カップ」は身近な事から社会貢献が出来ることを学んでもらうことを目的として、参加チームはペットボトルのキャップを集めてワクチンに変える社会貢献活動も行うことが恒例となっている。
  • 2010 FIFAワールドカップで着用したユニフォームは、選手全員のサインを添えて、日本代表専属シェフの西芳照へ贈られた[81]。西は翌年に回想録を出版。今野のユニフォームが表紙を飾っている[82]
  • 南アフリカワールドカップから帰国した2010年7月1日、日本代表選手団の記者会見中、突然岡田武史元監督から「それより今野が話したいことがあると言っているので」と促され、「物まねをやります。闘莉王さんの物まねです」とコメント。元日本代表DF田中マルクス闘莉王氏のモノマネを披露し、「あつまれーー!!」と闘莉王に似せた野太い声を張り上げると、会見場は大爆笑に包まれた[83]
    • このモノマネは大きな反響を呼び、所属するFC東京の携帯サイトや携帯電話向け音楽配信サイト「レコチョク」で着ボイス配信された[84][85]
    • 今野はその後、モノマネについて「W杯以降、闘莉王さんと連絡を取っていないから怒られるかも」と弱気な発言もしていた。闘莉王は8月8日に行なわれたFC東京との対戦を前に「勝たせてくれるなら許してやる」とジョークを飛ばし、さらに「みんなが(モノマネで)喜んでくれればいいよ」「コンちゃん(今野)とは仲いいしね」とコメントしている[86]
  • 2012年10月12日に行われたフランスとの親善試合ではCKからボールを奪い、50〜60mほどの長い距離をドリブルで独走するカウンターを仕掛け決勝点を導いたが[87]、海外の多くのメディアがこのゴールの得点者を、本来の香川真司ではなく今野であると誤報した[88]
  • 高校二年生当時、スクワットの計測値がその世代で全国トップ3に入るほどで、当たり負けすることがなかったという[89]。当時の測定記録には206kgの記録が残っている。

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2001 札幌 26 J1 17 0 1 0 1 1 19 1
2002 4 22 0 2 0 1 0 25 0
2003 J2 26 2 - 0 0 26 2
2004 FC東京 6 J1 26 4 7 1 3 0 36 5
2005 34 7 6 1 2 0 42 8
2006 28 5 6 0 2 0 36 5
2007 33 5 6 1 3 1 42 7
2008 32 4 2 0 3 0 37 4
2009 34 2 5 0 0 0 39 2
2010 34 5 3 0 3 0 40 5
2011 J2 33 1 - 4 1 37 2
2012 G大阪 15 J1 33 2 2 0 5 0 40 2
2013 J2 32 4 - 0 0 32 4
2014 J1 33 2 7 0 6 0 46 2
2015 31 3 4 0 4 0 39 3
2016 33 4 3 0 2 1 38 5
2017 24 2 4 0 2 0 30 2
2018 14 0 1 0 0 0 15 0
2019 10 0 5 0 0 0 15 0
磐田 2 5 1 - 0 0 5 1
2020 J2 6 0 - - 6 0
2021 -
通算 日本 J1 443 46 64 3 37 3 544 52
日本 J2 97 7 - 4 1 101 4
総通算 540 53 64 3 41 4 645 56

その他の公式戦

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 期間通算
出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 期間通算
2018 G大23 15 J3 1 1 1 1
通算 日本 J3 1 1 1 1
総通算 1 1 1 1
国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFCACL
2012 G大阪 15 5 0
2015 8 0
2016 5 1
2017 3 1
通算 AFC 21 2

その他の国際公式戦

出場歴

タイトル

クラブ

FC東京
ガンバ大阪

代表

個人

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 93試合 4得点(2005年 - 2017年)[3]


日本代表国際Aマッチ
出場得点
2005 3 0
2006 3 0
2007 9 0
2008 11 0
2009 7 0
2010 7 0
2011 15 1
2012 8 0
2013 15 0
2014 6 1
2015 3 0
2017 6 2
通算 93 4

ゴール

# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1. 2011年11月11日 タジキスタンドゥシャンベ タジキスタンの旗 タジキスタン ○4-0 2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選
2. 2014年11月18日 日本、大阪 オーストラリアの旗 オーストラリア ○2-1 キリンチャレンジカップ2014
3. 2017年3月23日 アラブ首長国連邦アル・アイン アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦 ○2-0 2018 FIFAワールドカップ・アジア3次予選
4. 2017年6月7日 日本、調布 シリアの旗 シリア △1-1 キリンチャレンジカップ2017

出演

映画

テレビ

PV

書籍

  • 『観察眼』角川書店、2012年1月。ISBN 978-4041101100 遠藤保仁との共著
  • 『道を拓く力―自分をマネジメントするイメージ』日本経済新聞、2013年1月。ISBN 978-4532168599 

脚注

注釈
  1. ^ 今野によれば、札幌での練習に呼ばれた経緯については「よく分かっていない」。今野の才が埋もれることを惜しんだソニー仙台監督の長澤和明から岡田への推薦があったとされているが、国体でのプレーを目にした小野剛が岡田に伝えたという話も、元々札幌のスカウト陣から注目されていたという話もあるとのこと[8]
  2. ^ 山本は予選突破のMVPを問われた際、「誰が一番(活躍した)というわけではないが」と述べつつも、今野を称賛している[17]
  3. ^ ボランチの中でも特に三浦文丈はリーダーシップを発揮するため、三浦を併用した時の今野はただ黙々とプレーしてしまっていた[21]
  4. ^ スポーツライターの西部謙司は、この2点目について「オシム・サッカーの要素が集約された得点」と批評した[27]
  5. ^ 同大会で対峙した選手の中では、マルク・ファン・ボメルを理想に近い選手として挙げている[37]
出典
  1. ^ a b c d e PLAYER'S DATABASE”. 2010年1月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年4月2日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2008年2月21日)
  2. ^ a b c 今野だからこそのプレーを 東北高時代の恩師がエール 朝日新聞デジタル (2010年6月10日)
  3. ^ a b c “今野 泰幸”. サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/players_ka/yasuyuki_konno.html 
  4. ^ a b c 『FC東京ファンブック2010』朝日新聞出版、2010年、16頁。 
  5. ^ 『突破論』ベストセラーズ、2010年、141頁頁。ISBN 4584132275 
  6. ^ a b 「もうゴールできないかと…」今野54戦目の遅咲き1号 スポーツニッポン、2011.11.12
  7. ^ 宮城県出身・今野&佐々木 G大阪の東北コンビ対談”. スポーツ報知 東北版 (2012年2月18日). 2012年2月21日閲覧。
  8. ^ a b 道を拓く力,61-62頁
  9. ^ a b c d e f 本誌連動インタビュー VOL.901”. 2007年7月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月26日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2002年12月4日)
  10. ^ a b c Keiichi Chinoの辛口コラム Vol.236”. 2004年6月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月26日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2004年5月27日)
  11. ^ 岡田武史『岡田メソッド』(英治出版、2019年)
  12. ^ 挑む23選手:サッカーW杯日本代表DF・今野泰幸 毎日新聞、2010.06.03
  13. ^ コンサドーレ札幌 今野泰幸 選手 FIFAワールドユース日本代表チームメンバーに選出”. 2004年8月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月26日閲覧。 コンサドーレ札幌
  14. ^ 『FC東京ファンブック2004 今野泰幸「チームと共に成長したい」』毎日新聞社、2004年、72頁頁。ISBN 462079239X 
  15. ^ コンサドーレ札幌 今野泰幸選手 FC東京に完全移籍”. 2004年5月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月26日閲覧。 コンサドーレ札幌
  16. ^ 今野泰幸選手移籍加入決定のお知らせ”. 2004年3月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年9月25日閲覧。 FC東京 (2003年12月25日)
  17. ^ a b 今野泰幸(FC東京)ユーティリティーのスペシャリスト OCNスポーツ、Jリーグサッカーキング2011年6月号
  18. ^ 21世紀の骨のあるヤツ 第262回 @ぴあ、2005.07.15
  19. ^ 今野泰幸 静かなる激情家。(3/4) Number Web
  20. ^ 『FC東京ファンブック2005』毎日新聞社、2005年、9頁。 
  21. ^ a b 1ボランチは今野を伸ばすための作戦 ダニーロは驚いてると思う”. 2005年10月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月26日閲覧。 東京中日スポーツ (2005年2月15日)
  22. ^ 石垣島合宿を振り返って(上)トップ下2人、1ボランチ いろんなトライ続ける”. 2005年9月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月12日閲覧。 東京中日スポーツ (2005年2月10日)
  23. ^ 東アジアサッカー選手権大会2005 決勝大会(7/31〜8/7)日本代表チームメンバーに、土肥洋一、茂庭照幸、今野泰幸、加地亮 4選手選出のお知らせ”. 2005年12月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月26日閲覧。 FC東京 (2005年7月19日)
  24. ^ 今野泰幸選手の検査結果について”. 2006年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月26日閲覧。 FC東京 (2005年12月13日)
  25. ^ 道を拓く力,132頁
  26. ^ 今野『チームに迷惑かけられない』レッチェの正式オファーまだ届かず”. 2006年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月26日閲覧。 東京中日スポーツ (2006年1月21日)
  27. ^ a b [検証・オシムジャパン]「日本のサッカー」が見えてきた。 Number Web、2006.12.07
  28. ^ 今野泰幸 静かなる激情家。(4/4) Number Web (2007年2月8日)
  29. ^ エジプト戦後 オシム監督会見 アジア・アフリカチャレンジカップ スポーツナビ、2007.10.17
  30. ^ 浦和強化計画が狂った、今野の代理人に不信感 スポーツ報知、2007.12.29
  31. ^ 今野 浦和断るが…G大阪からもオファー”. 2008年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月26日閲覧。 東京中日スポーツ、2007.12.29
  32. ^ 今野残留 東京中日スポーツ、2007.12.30
  33. ^ 今野がFC東京に残留意志伝える…クラブ史上最高年俸で契約へ”. 2007年12月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月26日閲覧。 サンケイスポーツ (2007年12月30日)
  34. ^ 「支配」か「コントロール」か 〜FC東京好調の要因〜 Number web、2009.08.04
  35. ^ トーゴ戦前日 岡田監督会見 スポーツナビ、2009.10.13
  36. ^ “今野が先発奪回に意欲 復帰に手ごたえ”. デイリースポーツ. (2010年6月16日). http://southafrica2010.yahoo.co.jp/news/ndetail/20100616-00000026-dal-socc 2010年6月17日閲覧。 
  37. ^ 日本代表W杯メンバー帰国会見 スポーツナビ、2010.07.02
  38. ^ 岡田監督御前で今野決勝ゴール”. 2010年4月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年10月5日閲覧。 スポーツ報知、2010.03.29
  39. ^ a b 【ヤマザキナビスコカップ FC東京vs名古屋】城福監督記者会見コメント J's GOAL、2010.03.31
  40. ^ a b 【J1:第15節 FC東京vs磐田】城福監督記者会見コメント J's GOAL、2010.07.28
  41. ^ ザック、今野をDFリーダーに指名 アジア杯に臨む日本代表 東京中日スポーツ、2011.01.07
  42. ^ a b 今野代表54戦目弾で最終予選へ/W杯予選 日刊スポーツ、2011.11.12
  43. ^ 新主将・今野が舵取り 「J1復帰内閣」 東京中日スポーツ、2011.02.23
  44. ^ J2 Most Exciting Player 今野 泰幸選手(FC東京)に決定 Jリーグ、2011.12.06
  45. ^ 駆ける魂 ザック・ジャパン、唯一フル出場 FC東京・今野泰幸 (上) (2/2) 日本経済新聞 (2011年12月31日)
  46. ^ 駆ける魂 ザック・ジャパン、唯一フル出場 FC東京・今野泰幸 (上) (1/2) 日本経済新聞 (2011年12月31日)
  47. ^ a b 今野泰幸はガンバを立て直し、中澤、闘莉王を越えるCBになれるか?”. Number Web (2012年3月28日). 2012年3月30日閲覧。
  48. ^ DF今野泰幸選手 FC東京より完全移籍加入のお知らせ”. 2012年1月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年1月30日閲覧。 ガンバ大阪 (2012年1月16日)
  49. ^ 今野泰幸選手 ガンバ大阪へ完全移籍のお知らせ”. 2012年1月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年1月30日閲覧。 FC東京 (2012年1月16日)
  50. ^ 今野“本職CB”でJ1復帰導く「やりたい気持ちある」 スポーツニッポン (2013年1月23日)
  51. ^ G大阪、後半の猛追を支えた2ボランチ ブレない遠藤と悩み抜いた今野が舵を握る”. スポーツナビ (2014年12月7日). 2014年12月20日閲覧。
  52. ^ 「CBでは世界で通じないと痛感した」今野泰幸、ボランチで再び世界へ。”. NunberWeb (2014年11月22日). 2014年12月20日閲覧。
  53. ^ 【G大阪】「人生最大のスランプ」を脱した今野泰幸 三冠へ、油断は一切なし!”. SoccerdigestWeb (2014年12月12日). 2014年12月20日閲覧。
  54. ^ 【G大阪】代表で刺激を受けた今野が出色の活躍。G大阪復調の陰にこの男あり”. SoccerdigestWeb (2015年4月4日). 2016年1月11日閲覧。
  55. ^ 骨折により離脱の今野泰幸、2年ぶりの日本代表に「生半可な気持ちではダメな場所」 GOAL.com 2017年3月26日
  56. ^ ハリル監督、長期離脱明けの今野泰幸に懸念「もう少し早く復帰するのかと…」 フットボールチャンネル 2017年6月6日
  57. ^ 今野泰幸が代表復帰戦で同点ゴール デイリースポーツ 2017年6月7日
  58. ^ 2017明治安田生命J1リーグ 第19節 今野 泰幸 選手(G大阪)J1通算400試合出場達成”. Jリーグ.jp (2017年7月29日). 2018年6月29日閲覧。
  59. ^ G大阪MF今野泰幸、右足関節を手術…全治約2カ月でW杯も絶望に サッカーキング 2018年5月23日
  60. ^ 西野監督、今野泰幸の状態を心配。顔面骨折から復帰の東口順昭は「怪我の影響感じない」 フットボールチャンネル 2018年5月12日
  61. ^ G大阪今野J3で即復帰弾 5・12以来の公式戦 日刊スポーツ 2018年8月26日
  62. ^ 饒舌な今野泰幸、これぞ絶好調の証。ガンバ7連勝の立役者、苦しみ抜いた末に取り戻した躍動感 フットボールチャンネル 2018年11月6日
  63. ^ 今野 泰幸選手が完全移籍加入 ジュビロ磐田 2019年7月17日
  64. ^ 磐田でのデビュー戦でいきなりゴール! 残留のキーマン今野泰幸の秘めたる攻撃性能 サッカーダイジェスト 2019年8月9日
  65. ^ 元日本代表MF今野泰幸、12月に手術していた…練習合流まで4~5カ月 スポニチ 2020年1月7日
  66. ^ 【磐田】昇格男・今野泰幸がJ1導く…大けがで引退よぎるも「1年頑張ろうと思えた」 スポーツ報知 2020年6月25日
  67. ^ 今野合流 セットプレーで存在感 ジュビロ磐田・鹿児島キャンプ 静岡新聞 2021年2月9日
  68. ^ 遠藤保仁、今野泰幸『観察眼』株式会社角川書店、2012年、208ページ、ISBN 978-4-04-110110-0
  69. ^ a b 【日本代表】今野泰幸のフル出場が示すザックジャパンが志向するスタイル web Sportiva、2012年2月17日
  70. ^ なぜ今野泰幸はザックに重要されるのか。 Number Web、2012年4月2日
  71. ^ 今野泰幸(FC東京) ユーティリティーのスペシャリスト OCNスポーツ
  72. ^ 誰にも負けない武器を持つ、それがプロの世界で生き抜く条件@type
  73. ^ 【日本代表】ザックジャパンのCBに 今野泰幸が起用され続けるのはなぜか? web Sportiva、2012年5月19日
  74. ^ 今野泰幸選手 入籍のお知らせ”. 2009年1月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年10月29日閲覧。 FC東京 (2009年1月4日)
  75. ^ 今野泰幸選手に第1子(長男)誕生のお知らせ FC東京 (2011年8月23日)
  76. ^ 今野“集まれーっ”卒業も…代表フル参戦へ! スポーツニッポン 2011.02.02
  77. ^ 日本代表、標高3500mで“雪合戦トレ” サンケイスポーツ、2010.06.03
  78. ^ 【今野泰幸選手】世界の子どもたちにワクチンを贈る活動に参加!”. 2008年3月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月26日閲覧。 FC東京 (2008年3月5日)
  79. ^ FC東京の今野選手は2010年度も「僕のルール」を継続してくださいます! 世界の子どもにワクチンを 日本委員会、2010.06.17
  80. ^ 今野 泰幸 トピックス ソル・スポーツマネージメント
  81. ^ Jヴィレッジの「お宝」日本代表ユニホーム ブログ報知、2010.08.02
  82. ^ 西芳照『サムライブルーの料理人-サッカー日本代表専属シェフの戦い』白水社、2011年。ISBN 4560081115 
  83. ^ 別れのムチャ振りに今野応えた「一発芸」 日刊スポーツ 2010.07.02
  84. ^ FC東京・今野ものまね「着ボイス」配信 サンケイスポーツ 2010.07.11
  85. ^ 今野泰幸選手着ボイス大手音楽配信サービス『レコチョク』にて配信決定のお知らせ”. 2012年7月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月26日閲覧。 FC東京 (2010年8月6日)
  86. ^ 闘莉王、今野に爆笑提案 中日スポーツ 2010.08.08
  87. ^ 歴史的一戦で証明された今野泰幸の重要性攻守にフル稼働、独走ドリブルで決勝点演出 Sportsnavi 2012年10月14日
  88. ^ 決勝点は香川ではなく今野? 海外大手メディアが軒並み得点者を誤報 SOCCER KING 2012年10月13日
  89. ^ 今野だからこそのプレーを 東北高時代の恩師がエール 朝日新聞デジタル 2010年6月10日
  90. ^ 名探偵コナン 11人目のストライカー”. 金曜ロードSHOW!. 2016年6月11日閲覧。

関連項目

外部リンク

');