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山岡久乃

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やまおか ひさの
山岡 久乃
本名 山岡 比佐乃(やまおか ひさの)
生年月日 (1926-08-27) 1926年8月27日
没年月日 (1999-02-15) 1999年2月15日(72歳没)
出生地 日本の旗 日本東京都大田区
死没地 日本の旗 日本神奈川県川崎市
身長 162cm
ジャンル 女優声優
活動期間 1942年 - 1999年
配偶者 森塚敏1956年 - 1971年
主な作品
テレビドラマ
女と味噌汁』シリーズ
肝っ玉かあさん』シリーズ
ありがとう』シリーズ
あんたがたどこさ』シリーズ
おんなの家』シリーズ
三男三女婿一匹』シリーズ

野々村病院物語』シリーズ
渡る世間は鬼ばかり』シリーズ
おかみ三代女の戦い
金のたまご
映画
しとやかな獣
釣りバカ日誌7
受賞
毎日映画コンクール
女優助演賞
1968年眠れる美女』、『女と味噌汁』、『カモとねぎ
ギャラクシー賞
菊田一夫演劇賞
文化庁芸術祭賞
紫綬褒章
勲四等宝冠章
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山岡 久乃(やまおか ひさの、[1]1926年大正15年)8月27日 - 1999年平成11年)2月15日)は、日本女優

東京府東京市大森区馬込(現東京都大田区)生まれ。身長162cm、体重49kg。趣味は乗馬手芸。特技はスキー。過去の出演作品については、権利継承者である養女から、オフィス天童[2]に委任されている。

来歴・人物

役者デビュー

1942年33期生として宝塚音楽舞踊学校に入学。男役志望で、清澄あきらの芸名も予定していたが、第二次世界大戦勃発・進展により劇団生活に限界を感じ、一度も舞台に立つことなく1944年に音楽学校を中途退学。

終戦後改めて俳優座養成所で演技の勉強をしなおし、1946年俳優座入団、同年の『文化議員』で初舞台を踏む。初出演映画は1953年の『やっさもっさ』である。1954年には、同じ俳優座の準劇団員だった東恵美子初井言栄らとともに劇団青年座を結成[1]。その後、日活と専属契約を結び多くの映画に出演し、青年座創生期は屋台骨として、劇団を支える。以来、舞台をはじめ映像分野でも幅広く活躍する総合女優として活躍。

1956年、同じ青年座創立メンバーだった俳優森塚敏結婚するも、1971年に離婚。離婚と同年、青年座を退団[1]。その後は終世独身を通した。 

テレビの世界へ

テレビドラマ初出演は、1953年NHK『竜舌蘭の誓い』とされる。本名・山岡比佐乃での主演作であった。以後、脇役を中心に、多くのテレビドラマに出演する傍ら、契約が切れる1960年代中盤まで日活の映画にも数多く出演した。1966年には、主演映画『こころの山脈』も公開され、女優としてステップアップしていった。

そして、1970年の『ありがとう』で役者としての人気を決定付けた(娘役は水前寺清子と共演)。ドラマは水前寺とのコンビで視聴率50%を突破し、怪物ドラマと呼ばれた。この作品を契機に森光子京塚昌子らとともに、白い割烹着が似合うような「日本を代表するお母さん女優」として地位を確立。

以後、多くのホームドラマで母親役を演じ続け、「日本のお母さん」として慕われた[1]特にTBS系列の作品で演じる役柄は人気が高く、代表作といえるものも多い)。面倒見のよさ、事務所の掃除員やスタッフへ手料理を振舞うなど気前も良く、「お母さん」と慕われていた。

森繁久彌とのコンビによる作品も多く製作され、左とん平からは「(芸能界の大御所である)森繁先生を叱れるのは山岡さんしかいなかった」とコメントされている。

「準主役級の脇役」としての印象が強いが、1970年代は主演が多かった。

TBS火曜9時枠の連続ドラマには、1972年10月~1973年9月の『みんなで7人』(この作品のみ9時30分からの放送)から1976年9月~1977年4月の『三男三女婿一匹(第1シリーズ)』まで、途切れることなく連続して出演している。この内『みんなで7人』、『家族あわせ』(1974年10月〜1975年3月)、『いごこち満点』(1976年4月~9月)はトップクレジットの主演作で、『あんたがたどこさ(第1シリーズ)』(1973年10月~1974年3月)、『あんたがたどこさ(第2シリーズ)』(1975年4月~9月)、『三男三女婿一匹(第1シリーズ)』の3作は、森繁久彌との夫婦役で森繁に次ぐ準主役での出演であった。

杉村春子奈良岡朋子池内淳子黒柳徹子らとは共演が多かった。

石井ふく子橋田壽賀子が関係する作品に起用される機会が多く、「石井ファミリー(橋田ファミリー)」の筆頭格と見なさせていた。

ミス・マープル」シリーズの吹き替えも好評で、山岡が新劇出身であることを改めて印象付けた。

ドラマ降板騒動

突然の降板と憶測

1998年10月1日、晩年の代表作とも言える1990年から続いてきたドラマ『渡る世間は鬼ばかり』シリーズの主役・岡倉節子役を降板。番組の顔とも言える山岡の突然の降板劇は、世間で数々の憶測を呼んだ。TBSは山岡の降板にあたり、異例の「山岡降板説明記者会見」をマスコミに対して開いている。その際には、6月1日付けの山岡本人の診断書についても言及があり、その結果を受けて正式に出演は困難と判断したとマスコミ各社へ説明した。第3シリーズ終了後、次シリーズへの出演拒否の意思を貫く山岡に対し、橋田や石井は何度も出演要請をするが、山岡の意思は変わらなかった。これに対し橋田はTBSに「山岡さんなしではドラマが成り立たないので、もうこのドラマはやめましょう」と打ち切りの方針を伝えたが、TBSは納得せず、節子を死亡した設定にして脚本も作り変え、製作することとなった。TBSは先述の会見で「ああいう(急死の)形にしたことは山岡さんにも了解してもらっています」と説明した[3]。これに伴い、小島五月役の泉ピン子が主役に昇格した。最後のOPクレジットにおいては、第3シリーズ総集編が組まれた上にスタート時点で生存設定であった第4シリーズ第1話が、OPで山岡の名前が載った最後の回となった。ちなみに、山岡は第3シリーズTV放送終了後、1997年国際演劇月参加作品東宝現代劇5・6月特別公演「渡る世間は鬼ばかり3」の舞台版まで岡倉節子役を演じており、岡倉節子役を最後に演じたのはTVではなくこの舞台公演であった。

理由のはっきりしない山岡の突然の降板は、民放各局のワイドショー週刊誌などを中心に、世間を騒がすことになった(実際の降板理由は下記の通りで山岡の既定路線だったのだが、これに触れたメディアはない)。(山岡の)認知症発症説や山岡と橋田の確執説、山岡の橋田への報復説なども噂されることとなった。また、当時メディア出演が多くあった橋田が「山岡さんは私のことがよっぽどお嫌いなんでしょうね」などと山岡への不用意な発言を度々行ったことも騒動に火に油を注いだ。第4シリーズ放送開始後、山岡は胆管癌であることを公表。癌公表前の第3シリーズ出演中の時点で次シリーズの出演意思はなかった。

降板理由について

実際の降板理由は、「パート3撮影時に発覚した石井の脱税騒動で自分の名前が脱税のために勝手に利用されていたことによる石井への不信感と、(肝菅癌発症前に)総胆管結石および肝機能障害のため体調を崩し、自身の年齢も考えて、今後は自分の好きな仕事だけをしていくと決めたためだった」と山岡の死去後に週刊誌に報じられた。また、これと時を同じくして、東京にあった住まいを引き払い、愛知県豊田市に知人が開設する予定を立てていた老人ホームに「終の棲家」として入所することを決めており、引っ越しの準備もパート3が放送された時期には既に始めていたという(その際、財産整理という意味合いから姪と養子縁組を結んでいる)。極秘で藤岡琢也のみに今シリーズ限りで降りると話していたという。山岡の病状経過としては、第3シリーズ放送終了直前の1997年2月に、総胆管結石及び肝機能障害のため体調を崩し、渡鬼の撮影を全て撮り終えた3月に手術を受けたが、7月には胆管癌(ステージ4)を宣告された。しかし、山岡はドラマと舞台の仕事が事前に決まっていたものに関しては予定通り出演を続け、1998年2月の日生劇場での舞台「おもろい女」(森光子や芦屋雁之助らと共演)が生涯最後の仕事となった。黄疸を化粧で隠し、病状が悪化するなか千秋楽まで演じきり、その後は闘病に入って表舞台から姿を消した。

1998年12月、自らが胆管癌を患っていることを告白[1]。同月15日に所属事務所を通じて、山岡は「70年突っ走ってきてそろそろゆっくり歩いて行こうかと思っていた矢先に『癌』という最悪のシナリオを頂いてしまいました。ただ、幸いなことに、このシナリオには結末が書いてありません。私が自由に演じていいことになっているんですね。力が入りますよ。もう少し時間がかかると思いますが、しばらくこの女優の底力を見守ってください」というコメントを発表した。この発表を聞いた橋田はそれまでの自分の発言を悔い、神社へお百度参りし、山岡の回復を祈ったという。

死去

しかし、上記のコメント発表から僅か2ヶ月後の1999年2月15日午後10時02分、胆管癌による心不全のため、親族や池内淳子、長山藍子、石井ふく子らに看取られ神奈川県川崎市の病院で死去[1]。亡くなる前年の1998年1月6日に放送された、日本テレビ開局45周年記念ドラマ「嫁とり婿とり大騒動」への出演が山岡にとってTVドラマでは遺作となった(DVD等は発売されていない)。そして、1998年2月の日生劇場での舞台「おもろい女」(森光子や芦屋雁之助らと共演)が生涯最後の仕事となり、黄疸を化粧で隠して、病状が悪化するなか千秋楽まで演じきった映像が残されている。72歳没。同年7月8月に芸術座で予定されていた単独座長公演『月の光』の舞台を踏まぬままだった。山岡の代役は、親友の池内が務めた(池内は『月の光』による演技により菊田一夫演劇大賞等を受賞)。

なお、山岡の死去は、各局のニュース速報でも流れ、連日のワイドショーなどでも大きく報道された。一部スポーツ紙では、一面トップ記事扱いにもなった。築地本願寺で行われた通夜・葬儀には、「これだけ大物俳優・女優が揃う通夜・葬儀は珍しい」と評されるほど多くの俳優仲間・後輩が訪れ、一般の参列者も多く訪れた。喪主は養女が務め、通夜・葬儀の演出は石井ふく子が担当し、弔辞は森光子と長山、蜷川幸雄が読んだ。棺の葬儀場入りの際は、棺を乗せた車が1時間をかけて明治座帝国劇場芸術座をまわり、沿道には1万人のファンが集まった。戒名は「華徳院妙伎日久大姉」。遺体は渋谷区代々幡斎場荼毘に付された。墓地は東京都墨田区法恩寺

同年2月19日にTBSが放送した追悼番組は、18.6%の視聴率を獲得した。

その他のエピソード

晩年は池内、黒柳らその他の仲の良い芸能人と皆で一緒に有料老人介護施設へ入居して隠居生活をしようと約束をしていたそうで、「そこで皆で仲良くのんびり過ごしたいわね」という話があったと語っている[4][5]

宝塚歌劇団の先輩でもあった乙羽信子とは昔からドラマなどで共演が多く仲が良かったという。

評価

演劇評論家の藤田洋は山岡の演技力と存在感を認め、「“お母さん女優”として、温かさと厳しさを併せ持った母親役をうまく演じてきた」と評した[1]

受賞

出演作品

テレビドラマ

NHK

日本テレビ

TBS系列

フジテレビ

テレビ朝日

映画

  • やっさもっさ(監督:渋谷実、1953年
  • 雲ながるる果てに(監督:家城巳代治、1953年)
  • 旗本退屈男 どくろ屋敷(監督:松田定次、1954年
  • 姿三四郎 第一部(監督:田中重雄、1955年
  • うちのおばあちゃん(監督:春原政久、1955年)
  • 未成年(監督:井上海次、1955年)
  • 第8監房(監督:阿部豊、1956年
  • 死の十字路(監督:井上海次、1956年)
  • 色ざんげ(監督:阿部豊、1956年)
  • 火の鳥(監督:井上海次、1956年)
  • ニコヨン物語(監督:井上海次、1956年)
  • 肉体の密輸(監督:阿部豊、1956年)
  • デンスケの宣伝狂(監督:吉村廉、1956年)
  • 感傷夫人(監督:堀池清、1956年)
  • 若いお巡りさん(監督:森永健次郎、1956年)
  • 浮草の宿(監督:鈴木清順、1957年
  • 街燈(監督:中平康、1957年)
  • 幕末太陽傳(監督:川島雄三、1957年)
  • 九人の死刑囚(監督:古川卓巳、1957年)
  • 禁じられた唇(監督:堀池清、1958年)
  • 佳人(監督:滝沢英輔、1958年)
  • 素晴らしき男性(監督:井上海次、1958年)
  • 西銀座駅前(監督:今村昌平、1958年)
  • 風速40米(監督:蔵原惟繕、1958年)
  • 船方さんよ(監督:小杉勇、1958年)
  • これが最後だ(監督:斎藤武市、1958年)
  • 蟻の街のマリア(監督:五所平之助、1958年)
  • 紅の翼(監督:中平廉、1958年)
  • 人形の歌(監督;斎藤武市、1959年
  • にあんちゃん(監督:今村昌平、1959年)
  • 打倒 ノック・ダウン(監督:松尾昭典、1960年
  • けものの眠り(監督;鈴木清順、1960年)
  • 疾風小僧(監督:西河克己、1960年)
  • 十六歳(監督:滝沢英輔、1960年)
  • 笛吹川(監督:木下惠介、1960年)
  • 「赤坂の姉妹」より 夜の肌(監督:川島雄三、1960年)
  • 無鉄砲大将(監督:鈴木清順、1961年
  • いのちの朝(監督:阿部豊、1961年)
  • 青い狩人(監督:井田探、1961年)
  • 女は二度生まれる(監督:川島雄三1961年、筒井圭子役)
  • 海峡 血に染めて(監督:鈴木清順、1961年)
  • 草を刈る娘(監督:西河克己、1961年)
  • 花影(監督:川島雄三、1961年)
  • アラブの嵐(監督:中平廉、1961年)
  • ある関係(監督:木村恵吾、1962年
  • 人間狩り(監督:松尾昭典、1962年)
  • 若い爪あと(監督:中島義次、1962年)
  • 若者に夢あり(監督:松尾昭典、1962年)
  • しとやかな獣(監督:川島雄三、1962年、前田よしの役)
  • 都会の奔流(監督:井田探、1963年
  • 若い東京の屋根の下(監督:斎藤武市、1963年)
  • みれん(監督:千葉泰樹、1963年)
  • 成熟する季節(監督:斉藤武市、1964年
  • 人生劇場(監督:舛田利雄、1964年)
  • 浅草の灯 踊子物語(監督:斎藤武市、1964年)
  • ただいま診療中(監督:青柳信雄、1964年)
  • 青い性(監督:井上芳夫、1964年)
  • 五弁の椿(監督:野村芳太郎、1964年)
  • 青春前期 青い果実(監督:堀池清、1965年
  • 青いくちづけ(監督:井上芳夫、1965年)
  • こころの山脈(監督:吉村公三郎、1966年
  • (監督:池広一夫1966年
  • 湖の琴(監督:田坂具隆、1966年)
  • 命果てる日まで(監督:野村芳太郎、1966年)
  • 嵐を呼ぶ男(監督:舛田利雄、1966年)
  • 星よ嘆くな 勝利の男(監督:舛田利雄、1967年
  • 上意討ち 拝領妻始末(監督:小林正樹、1967年)
  • 砂糖菓子が壊れるとき(監督:今井正、1967年)
  • 君に幸福を センチメンタル・ボーイ(監督:丸山誠治、1967年)
  • 眠れる美女(監督:吉村公三郎、1968年
  • 女と味噌汁(監督:五所平之助、1968年)
  • カモとねぎ(監督:谷口千吉、1968年)
  • 夜の手配師(監督:村山新冶、1968年)
  • 講門館破門状(監督:井上昭、1968年)
  • ザ・テンプターズ 涙のあとに微笑みを(監督:内川清一郎、1969年
  • かげろう(監督:新藤兼人監督、1969年)
  • 赤頭巾ちゃんに気をつけて(監督:森谷司郎、1970年
  • 海軍特別年少兵(監督:今井正、1972年
  • 青幻記 遠い日の母は美しく (1973年、東和
  • 陽のあたる坂道(監督:吉松安弘、1975年
  • 喜劇 百点満点(監督:松林宗惠、1976年
  • 悪魔の手毬唄(監督:市川崑1977年、井筒いと役)
  • 植村直己物語(監督:佐藤純彌1986年
  • 次郎物語(監督:森川時久1987年
  • 善人の条件(監督:ジェームス三木1989年、清川いさ子役)
  • パチンコ物語(監督:辻理、1990年
  • 釣りバカ日誌7(監督:栗山富夫1994年、田上夏江役)
  • 秋桜(監督:すずきじゅんいち1997年

舞台

文化庁芸術祭賞菊田一夫演劇賞を受賞。
  • おもろい女※1998年2月日生劇場、山岡の生涯最後の仕事となった。黄疸を化粧で隠して千秋楽まで演じた映像が残されている。
  • 近松心中物語
  • 元禄港歌
  • ハムレット
  • 鶴亀屋二代
  • ナポリの王様
  • 遙かなり山河
  • 櫻姫
  • 初蕾
  • レティスとラベッジ
  • 夫婦
  • トーチソングトリロジー
  • もず
  • 渡る世間は鬼ばかり(複数回上演されていたが、第3シリーズTV放送終了後の1997年国際演劇月参加作品東宝現代劇5・6月特別公演「渡る世間は鬼ばかり3」の舞台版まで岡倉節子役を演じており、岡倉節子役を最後に演じたのはTVではなくこの舞台公演となった)
  • 幸福
  • かたき同志
  • 夢千代日記
  • 田川のお仙
  • うちのおばあちゃん
  • 結婚する手続き
  • いくじなし
  • 友達

ラジオ

劇場アニメ

吹き替え

CM

脚注・出典

  1. ^ a b c d e f g h i “山岡久乃さん死去”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 39. (1999年2月16日) 
  2. ^ オフィス天童. “オフィス天童 office-TENDO トップページ”. 2017年6月19日閲覧。
  3. ^ [1],日刊ゲンダイ,2014年1月8日
  4. ^ 黒柳徹子が盟友・池内淳子に「本当に今までの友情、ありがとう」と涙のコメント”. ウォーカープラス (2010年10月1日). 2015年2月9日閲覧。
  5. ^ TVでた蔵「2010年9月24日放送 徹子の部屋」”. ワイヤーアクション (2010年9月24日). 2015年2月9日閲覧。
  6. ^ 第7回(1969年度)期間選奨”. 放送批評懇談会. 2015年2月10日閲覧。

その他

外部リンク


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