Wikipedia‐ノート:独立記事作成の目安/過去ログ9
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「一般的な目安」節の修正提案
[編集]経緯としては、英語版en:Wikipedia:Notability#General notability guidelineをそのまま訳した結果のようですが、構成・表現などいくつかの修正を提案します。--柒月例祭(会話) 2015年1月19日 (月) 07:59 (UTC)
他の方の意見も聞きたいのでWikipedia:コメント依頼#議論活性化のためのコメント依頼とプロジェクト:プロジェクト関連文書/リストに追加しておきました。--Yapparina(会話) 2015年1月24日 (土) 13:44 (UTC)
「複数の」
[編集]一般的な目安では、「有意な言及」、「信頼できる」、「情報源」、「対象と無関係な」、「推定できる」という5つのキーワードが強調表示されています。これに加えて「複数の」というキーワードもを追加・強調表示することを提案します。(参考)英語版では「情報源」に相当する語が「Sources」と複数形です。ただし特に「複数の」を強調する用法としては「multiple sources」という表現も用いられています。
- 「一般的に、複数の情報源があったほうがよい」
- 「複数の独立した情報源によって言及されていない話題は(中略)」統合・削除の検討をするべき
- 「推定できる」とは、複数の(出典が必要)
このように、基本的な決まりを説明する中で「複数の」は3度使われています。しかも、これらを読めば、「出典が1つしかない」場合はOUT側である(1つではダメ)、ということになります。この点については強調して然るべきと考えます。
(今回の提案では多くはいじりませんが、注釈部には「複数の」の定義といえる注釈が3つもあり、“「複数の」とは云々”という説明文として「一般的な目安」のなかに組み込むこともできそうです。)
修正箇所としては下記の2点です。
- 節の冒頭文
- ↓(下線部が追加部分)
- 「独立記事として~」のなかで「一般的に、複数の情報源があったほうがよいでしょう。」を「一般的に、複数の情報源があったほうがよいでしょう。」と強調表示。
賛否、ご意見をお願い致します。--柒月例祭(会話) 2015年1月19日 (月) 07:59 (UTC)
- まず、現状内容[1]の解釈ですが、特筆性の要件の「無関係な信頼できる情報源から有意な言及」における「情報源」に複数であることは必須条件とはなっていないと思われます。情報源の説明文の中で、「必要とされる信頼できる情報源の質および数は、その情報源の言及内容の深さや質により変わりますが、一般的に、複数の情報源があったほうがよいでしょう。」とあり、さらに注釈4で「複数の情報源がなく、単一の情報源のみで特筆性を立証する場合は、その情報源が検証できる状態であり、信頼でき、中立的な観点に基づき、取り扱う対象に対し包括的かつ詳細な情報を提供している必要があります。」と述べられていますので、単一の情報源でも特筆性を確保して立項は可能であると示していると考えます。英語版の「sources」が複数形になっていることですが、単に一般名詞として表されていてため複数形になっているだけかと思います。私も英語に堪能なわけではないですが、こちらのネット辞書[2]でも通例として複数形としています。さらに、現行英語版[3]には、「There is no fixed number of sources required since sources vary in quality and depth of coverage.」とありますので、複数の情報源が必須でないことは明示しています。まだ考え中ですが、日本語版と英語版の現状について一旦コメントさせていただきます。--Yapparina(会話) 2015年1月24日 (土) 13:44 (UTC)
- ありがとうございます。
- 英文には「a single source」という明快な表現もあり、複数形の「sources」や「multiple sources」という表現とくらべて、「出典/情報源(sources)」が数を数えられる概念として用いられているように思いました。
- とはいえ、今の実際の運用としては「複数」に関してはそれほど厳密に運用されていない・もしくはまったく運用されていない、ようにも思います。今回私は最初から「変更の提案」をしましたが、見かけ上は本文を大きくいじるものではないものの、「複数の」を強調することで、いまの運用の状況とは変わる、小さくない影響があるだろう、と思います。
- 「1つの場合」の特例として(A)「検証できる状態であること」、(B)信頼できること、(C)中立的であること、(D)包括的かつ詳細な情報がある、という条件が説明されていますが、このうち(A)-(C)は、本来は当たり前に求められることであり、そもそも(A)-(C)を満たさないものは出典に使えない、ということになっているはずです。ここの部分だけ裏を返せば、「検証できず、信頼もできず、中立的でもなく、包括的かつ詳細でもない」ものを複数かき集めて「特筆性を裏付ける出典だよ」と言える、という解釈が論理的に成り立ちます。しかしこれは変でしょう。もうちょっとまっとうに考えれば、(A)-(C)が高いレベルで満たされている場合に限って特例(1つでもOK)を認める、というようにしないと、辻褄があわないようにも思います。
- ただまあ、私も明確にピシっとどっちかにしないと気が済まない、というわけでもないです。英語版絶対主義というわけでもないです。いまのこの文書は「英語版からの翻訳」というルーツがあるので英語版を持ち出しているというだけです。もしも仮に<英語版は「複数の出典でなきゃダメ」と決めている>という私の解釈が合っていたとしても、ここ(日本語版)では英語版の規定に縛られる必要はないと考えています。出典が1つしかない場合、複数ある場合、いずれの場合でも、出典の信頼性・中立性などなどを、ケースバイケースで、複数の人間による総合的な考慮の結果として判断していこう、ということであればそれでよいと思っています。「複数」を強調するあまり、「1つ」のものが機械的に・大量に削除依頼にかけられるような事態は望みません。案件ごとに個別的に「総合的に判断しよう」というようなふわっとした形で落ち着くのであれば、それはそれでよいと考えていますし、今回の議論を通じて、そういう解釈・運用がオーソライズされればそれでよいです。
- ひとまずいまの規定の字面からは置いといて、「1つはNG、複数が必須」寄りなのか、「1つはOK、複数はベター」寄りなのか、合意を得たいところです。そのうえで、文面の訂正が必要かどうかです。ひとまず、下記の「修正提案」は、凍結してもいいと思います。--柒月例祭(会話) 2015年1月26日 (月) 03:09 (UTC)
- 私の結論を端的に述べますと「1つはOK、複数はベター」です。上記で述べた通りそれが現状の内容が示すところでもあり、私自身の意見もこの通りです。グレーゾーンのマイナーな記事だと1つの外部情報がケースEで削除されるかどうかの分水嶺となるときもありますし、それが間違っているとも思えません。何よりも「複数」を特筆性の要件に組み込めば、機械的な削除依頼が絶対に発生します。「全国レベルの雑誌の特集が1つ示されているけど複数ないから記事の特筆性が示されていません」みたいな無茶な意見を誘発し得ます。
- 私は、複数を強調よりもむしろ、現状版の『「推定できる」とは、複数の信頼できる情報源において、~』箇所の「複数の」が、複数が要件のようにミスリードしているので、ここから除去した方が良いと考えています。この前文まで「対象と無関係な信頼できる情報源から有意な言及があった場合」としてあるのに、急にここで「複数」が要件のように示されています。
- 一方、単一情報源で特筆性を確保する場合、柒月例祭さんがおっしゃる特例、注釈4での「複数の情報源がなく、単一の情報源のみで特筆性を立証する場合は、その情報源が検証できる状態であり、信頼でき、中立的な観点に基づき、取り扱う対象に対し包括的かつ詳細な情報を提供している必要があります。」を満たす必要があります。これは現行英語版の注釈2に相当します。しかし、この文章は英語版と見比べて何を求めているのかが不明確になっていると考えます。英語版文章[4]は「In the absence of multiple sources, it must be possible to verify that the source reflects a neutral point of view, is credible and provides sufficient detail for a comprehensive article.」となっています。みっちさんたちの翻訳[5]を引用すると「複数の情報源がない状態でその情報源のみを利用する場合は、その情報源が中立的な観点に基づいているかを検証でき、信頼でき、記事を包括的なものにするために十分詳細な情報を提供している必要があります。」(引用者強調追加)となっています。ここで求めていることを私なりに解釈すると、「単一情報源で特筆性を確保したければ、その単一情報源だけで記事を中立的で信頼できる情報でスタブ以上の記事にできるポテンシャルはあるのか」を求めているのだと思います。柒月例祭さんがおっしゃる(A)-(D)で説明すると、(A)、(B)は確かに当たり前です。ただ(C)「中立的であること」については、ここでの中立の意味をWP:NPOVと捉えると、通常の出典に使えるかどうかで言えば必須ではないです。少数派の意見に基づく情報であっても、WP:SUBSTANTIATEに配慮しながら記事中でその出典を使うことはできます。よって、1つの場合で中立的な観点からの情報源かどうかを改めて求めているのは、その1つの情報源で記事全体にわたって中立な記事にできるのかどうかということだと思います。そして(D)「包括的かつ詳細な情報がある」かどうかで、ある程度百科事典的な記事まで記述できるのか(最低限WP:STUBの「役に立つスタブ」くらい)が求められているのだと思います。
- まとめますと、最初に述べた通り「1つはOK、複数はベター」が私の意見で、「"複数"を強調は不要」「"推定できる"の説明箇所から"複数の"は無くしたい」と考えております。さらに、代わりといってはなんですが、上記の注釈4をもっと前に押し出しても良いと考えています。どこまで解釈が変わるのか分かりませんが、みっちさんたち翻訳のような表現に変えて、注釈を止めて本文中に組み込むのはいかがでしょうか?それ以外にも現状の文は注釈が多すぎで、しかも結構重要なことが書かれていますので、他にも本文中に組み込めるものはそうしたいと思ってます。その場合、今のような箇条書きスタイルでは文章量が多過ぎになってきますので(すでにそうかもしれませんが)、#節の構成の修正についてで提案されているように、箇条書きからサブセクションへ変更した方が良いかもしれません。この辺は話が逸れますので別議論で良いですが。--Yapparina(会話) 2015年2月1日 (日) 13:48 (UTC)
- 今回の私の最初の提案が『「複数の」を強調します』というカタチでのものだったので、個人的にはちょっと話の進め方として失敗したと感じています。「複数のとはどういうことか?1つじゃダメなのか?」みたいなかたちで始めればよかったです。
- Yapparinaさんがおっしゃる通り、現行の解釈・運用は「1つはOK、複数はベター」側にあると思います。「複数の」を強調することで機械的な削除案件が多発する、というご懸念もその通りと思います。私は「1つはOK、複数はベター」という考え方に合意できます。(賛否いずれにしろ、他の方の見解もほしいところではありますが。)
- 「推定できる」の部分については、正直私はよくわからない、決めきれないです。そもそもなんで「断定」とか「確定」ではなく「推定」どまりなのか。要するにウィキペディアには「責任をもって確定する人」なんていないので、誰も「断定」できる人なんていない、ということなのか。それともガチガチの出典が出てくる前の時点でも、複数の出典があるなら暫定的にOKってことにしておこう、という趣旨なのか。「複数の・推定」という言葉の組み合わせから私が連想するのは、どちらかというと後者のような意味合いでして、決定的な出典が明記されていなくても、小さく言及されているものが複数(3つも4つも)あるような状況ならば、いずれ誰かがその主題を大きく取り扱っている出典を持ってくるだろうから、ひとまずOKにしておこう、ということなのか。いろいろ他のかたのご意見も聞いてみたいところです。
- 「中立的」の部分については、なるほどと思いました。ここらへんの記述にはいかにも抽象的なので、文章を細かくいじくり回すことにどれだけ実があるかなあという感じもしてきます。きっと、実際には個別具体的な案件のなかで妥当かどうかを議論していくことにはなるのでしょう。
- 節構成の変更については、(同じ話の繰り返しになっちゃいますが)注釈が多く、なおかつ注釈のなかで重要な事が書かれているように思うので、変更するに値すると思っています。Yapparinaさんからもこの点についてはご賛同いただけているように思いますので、いずれ具体的に手を付けたいところです。が、この件については、今すぐ急ぐということでもないので、ひとまず別節で棚上げとして、上の何点かについて、他の方々の見解もほしいです。(Yapparinaさんの見解が信用ならんということではなく、それなりに重要な文書なので、2人だけで決めてしまうのはどうかな、という意味です。)--柒月例祭(会話) 2015年2月4日 (水) 05:07 (UTC)
- 「1つはNG、複数が必須」なのか、「1つはOK、複数はベター」なのか、という点について、英語版においてはen:WT:Nでの過去の議論(例えば2010年のen:Wikipedia talk:Notability/Archive 40#Plurality(#複数))などから、その中間の「複数の情報源であればOK、情報源の質によっては一つでもOKな場合もある」だと思っています。例に挙げた英語版の議論では"multiple sources are generally preferred"(一般的に、複数の情報源があることが好まれます―「複数はベター」寄り)、を"... are generally required"(一般的に、複数の情報源があることが要求されます―「複数が必須」寄り)、と変えたことで長い議論になり、最終的には現行の"... are generally expected"(一般的に、複数の情報源があることが期待されます―その中間)、となりました。--Kusunose(会話) 2015年2月5日 (木) 08:29 (UTC)
- 言及されている「sources」は複数のソースという積極的な意味ではなく、単にひとつ以上のソースという意味です。複数のソースという意味では述べられているように「multiple」が付きます。この英文が全てでしょう。「There is no fixed number of sources required since sources vary in quality and depth of coverage, but multiple sources are generally expected.」故に提案には反対します。--IP58xv(会話) 2015年2月6日 (金) 12:12 (UTC)
- 「1つはNG、複数が必須」なのか、「1つはOK、複数はベター」なのか、という点について、英語版においてはen:WT:Nでの過去の議論(例えば2010年のen:Wikipedia talk:Notability/Archive 40#Plurality(#複数))などから、その中間の「複数の情報源であればOK、情報源の質によっては一つでもOKな場合もある」だと思っています。例に挙げた英語版の議論では"multiple sources are generally preferred"(一般的に、複数の情報源があることが好まれます―「複数はベター」寄り)、を"... are generally required"(一般的に、複数の情報源があることが要求されます―「複数が必須」寄り)、と変えたことで長い議論になり、最終的には現行の"... are generally expected"(一般的に、複数の情報源があることが期待されます―その中間)、となりました。--Kusunose(会話) 2015年2月5日 (木) 08:29 (UTC)
- もとの英文の解釈に関しては、Kusunoseさんが示していただいた過去の議論にあらわれているようです。(私もすべてを精読したわけではないので恐縮ですが)Kusunoseさんが例示された英語版の議論でも「sources」と表記され、単数なのか複数なのかをポイントに議論が始まっています。
- 日本語版のこの文書が、英語版に(自動的に)準拠するべきなのか、英語版から離れて独自に考えてもいいのか。今の文書はもとは「英語版の訳」として持ち込まれているという経緯。など、掘り下げるといろいろ話が広がっていくように思いますが、端的に「1つはNG、複数が必須」と「1つはOK、複数はベター」、或いは「原則は複数、1は条件付きで可」と表現すると二択(あるいは三択)のようになってしまいます。が、実際問題としては出典の程度に応じての閾値が広がる・連続性のあるもので、言葉の上では1とか複数と区別できても、現実の記事には機械的にあてはめて判断できないでしょうね。複数の出典が示されているように見えても一つ一つ精査したら全部ダメということもあるでしょうし、1つしか無くても優れた出典ということもあるでしょう。(複数形のない日本語はむしろ便利ですね。)
- 当初私は、「複数の」を強調すると提案を行いましたが、「1つ」だろうが「複数」だろうが、むしろ問題になるのは出典の質であり、単純な数の問題ではないと思うに至りました。よって、「複数の」を強調するという提案は取り下げます。
- 数を書くことで機械的な(あやまった)判断の根拠になることを避ける、という観点で、Yapparinaさんの ご提案(2015年2月1日 (日) 13:48 (UTC)のご発言「"推定できる"の説明箇所から"複数の"は無くしたい」)については、引き続きお話いただければと思います。また、注釈を本文に組み込むことや、節構成の修正についても、引き続きお願い致します。--柒月例祭(会話) 2015年2月9日 (月) 03:14 (UTC)
注釈7について
[編集]現状の版([6])で「注7」となっているものについて。
「注7」は、「広告」や「マイナーな新聞記事」はNGだと述べています。いまは「広告」と「対象と無関係な」のつながりでこの位置にあると思います。が、「広告」と「マイナーな新聞記事」は、「対象と関係がある・ない」という観点ではかなり異なるものであると考えます。
「名簿」「データベース」「マイナーな新聞記事」は「有意な言及」に関連し、「広告」は「対象と無関係な」に関連すると思います。注釈を2つにわけ、「有意な言及」「対象と無関係な」それぞれの項目の注釈とする。--柒月例祭(会話) 2015年1月19日 (月) 07:59 (UTC)
- 特に問題なく、おっしゃる通りと思います。変更を支持します。--Yapparina(会話) 2015年1月31日 (土) 15:39 (UTC)
解釈について
[編集]話がややこしくなるので節をわけますが、特に「マイナーな新聞記事」では、「マイナーさ」が問われることになるでしょう。「<マイナーな新聞>の記事」なのか、「マイナーな<新聞記事>」なのかも解釈の余地があります。「○○町の広報誌」みたいなもののデカイ記事と、全国紙の地方面の数行の記事など、どちらの場合も問題視される可能性はあるでしょう。
- また、これは私の個人的な考えですが、たとえばモノ・マガジンの記事とか、るるぶに掲載されているお店とか、ネットの「○○ニュース」のようなサイトの中には、体裁は「記事」だけども実質的には「広告」だろうと思われるものがあります。対象と関係がある・ないの判断が問われる「広告」と、「有意かどうか」が問われる「新聞記事」とでは、判断の性格としてはずいぶん別のように思うのですがいかがでしょう。--柒月例祭(会話)
- 「マイナーな新聞記事」に対応する英語版の記述は"minor news stories"ですので、「マイナーな<新聞記事>」が元々的には正解でしょうね。このときの編集で[7]で今のようになったようです。「小さな新聞記事」とするか、原文に忠実にしつつウェブニュースなども視野に入れて「小さなニュース記事」とかに表現を改めた方が良いかと思います。
- 「<マイナーな新聞>の記事」という解釈・表現を残すべきかは難しいですね。「マイナーな新聞」というのは「小さな記事」以上に区別が難しそうです。「モノ・マガジンの記事とか、るるぶに掲載されているお店」などは、広告の関係が強いので「対象と無関係な」に引っ掛かるという考え方で良いと思います。--Yapparina(会話) 2015年1月31日 (土) 15:39 (UTC)
節の構成の修正について
[編集]一般的な目安節(WP:GNG)にある5つの太字項目(上での「複数の」を太字化すると6つになります)は、個々の記事の特筆性の判断や議論で大いに参照されることになると思います。
そこで、「一般的な目安」節の下に5ないし6の小節を設け、各項目を掲載するとともに、いまは注釈に書かれていること(けっこう重いことが書いてある)も本文化する。また、各小節にショートカットを設定する。
ショートカットの原案は一応下記の通り示しておきますが、なんでもよいです。(「WP:N#○○」のような形式のほうがいいかもしれません。)
- 有意な言及 - WP:SIGCOV
- 信頼できる - WP:RELIABLE - WP:RS・WP:SOURCESとの兼ね合い
- 情報源 - WP:SECONDARY (secondary sources) - WP:PSTSに詳しい説明
- 対象と無関係な - WP:IOS (Independent of the subject)
- 推定できる - WP:PRESUMED
- (複数の) - WP:MULTIPLE
賛否、ご意見をお願い致します。--柒月例祭(会話) 2015年1月19日 (月) 07:59 (UTC)
箇条書き廃止と脚注をできるだけ止める方向での「一般の目安」節修正案
[編集]柒月例祭さんの最後書き込みから1週間以上経過しましたが、新たな意見もありませんでしたので、具体的な修正案の提案に進んでみたいと思います。今の「一般の目安」節では、箇条書きのフォーマットで書かれ、脚注の使用が多くなっています。提案する修正の方向は節タイトルのとおりで、「箇条書きを止めてサブセクションに置き換える」と「脚注を止めて本文中にできるだけ組み込む」というものです。今の箇条書きと脚注併用スタイル自体は英語版も同一で、日本語版が英語版と同じスタイルで導入した自体はおかしなことではなかったと思います。しかし次のような欠点が考えられるため、今回の提案をさせていただきます。
まず、現行の脚注ですが、脚注でありながらも非常に重要な補足が書かれています(柒月例祭さんの言葉を借りるなら「けっこう重いこと」が示されています)。今までのところ、これらの内容が脚注だったから軽く見てもよいものとされてきたのか、それとも便宜的に脚注化だがあくまでも本文同等の効力があるとされてきたのか、jawp内でどのように扱われてきたのか正直なところ私も分かりかねます。しかし、一般的に言って脚注であっても示すものは同じであり、本文同等の効力があったと私は思います。
脚注化している弊害として、やはり「見落とし」が挙げられます。脚注までしっかり読んでいる人と、気づかずに読まない人が生まれることが考えられます。また、脚注内容も本文と同等に扱われるべきことが正であったなら、今のスタイルは脚注だから軽く見てもよい認識する人を生み出してしまい、無駄な認識違いが発生する懸念があります。また、通常記事空間においても、できるだけ本文中に内容を盛り込むのが第一とされ、安易に脚注を増やしていくことはあまり良しとはされていないと私は認識しています。多くの人が参照するガイドラインが、通常記事空間では良しとはされていないスタイルで書かれていることも望ましくないと思います。
推測ですが、今のように脚注が増大してしまったのは箇条書きフォーマットで書いていたから、というのが主な原因だと思います。箇条書きフォーマット上の制約から文章が増えていっても改行して適時読みやすくするという工夫ができないので、文章量を増やすことに抵抗が生まれ、脚注で逃がすような形になってしまったのだと思います。そのため、「箇条書きを止めてサブセクションに置き換える」ことを提案します。その上で「脚注を止めて本文中にできるだけ組み込む」ことを提案します。この提案は、上記の#節の構成の修正についてにて㭍月例祭さんから提案されたものと同じ方向の提案です。また、#「複数の」の議論の中で、2015年2月1日 (日) 13:48 (UTC)に私も賛成する主旨の意見を出しています。
まずは叩き台ですが、以下に修正案を示します。やや長々と提案理由を説明しましたが、以下の文面では、「箇条書きのサブセクション化」、「内容も順番も変えない脚注の単純な廃止」にまずは留めています。脚注を廃止したものについては下線を付けています。要は、今回の案では中身自体は変えていないということです。ただし、現行版で「推定できる」の説明のあとに「ただし以上の目安を満たしていた~~とも言い切れません」と続いていたものは、説明の流れ上、冒頭に移して「ただしこの目安を満たしていた~~とも言い切れません」に変えています。さらにその後に「以下に各々の語句の詳細を説明します。」と言葉を続けて、各々の説明に入るようにしています。これらの変更点についても下線を付けています。また、サブセクション化の利点を生かして、意味の区切りで私なりの改行は施しています。
#注釈7についてでの提案内容、#節の構成の修正についてでのショートカット追加案などはまだ案に組み込んでいません。まずは、具体的な文章を示すことで皆さんからの意見を募りたいと思います。--Yapparina(会話) 2015年2月21日 (土) 10:07 (UTC)
(追記)利用者:Yapparina/sandboxに下線無し、セクションwiki化したバージョンを置いてます。ご参考まで。--Yapparina(会話) 2015年2月22日 (日) 04:00 (UTC)
==一般的な目安== もし「対象と無関係な信頼できる情報源から有意な言及」があった場合、その話題はウィキペディアの独立記事として作成、収録するだけの価値があると推定されます。ただしこの目安を満たしていたとしても、編集者の間での合意形成により、作成、収録にふさわしくないとされる話題もあります。例えばウィキペディアは何ではないかに違反している場合などです。逆に、既にある記事においては、信頼できる二次情報源による出典が提示されず、この目安を満たさないとしても、独立記事として収録するだけの価値がない、とも言い切れません。以下に各々の語句の詳細を説明します。 ===有意な言及=== 「有意な言及」とは、対象の話題について、直接的かつ詳細に述べていることを意味します。元となる情報源において、「特集記事」(もっぱらその話題について述べている記述)とまではいかなくても、少なくとも「取るに足らないようなもの」(他の話題に関する記述において蛇足的に触れられているもの)以上の言及が必要です。 例えば、IBMに関するソーブル著の360ページの本やブラック著の528ページの本は明らかに「取るに足らないようなもの」ではありません。しかし、ビル・クリントンが高校時代に作っていたバンド「Three Blind Mice」についてウォーカーが述べたたった1行の文は「取るに足らないようなもの」でしょう。 ===信頼できる=== 「信頼できる」とは、信頼できる情報源のガイドラインを満たすことを意味します。情報源の形式・メディアは問いません。 ===情報源=== 独立記事として作成、収録するだけの価値があるか否かの判断における「情報源」は、二次資料でなければなりません。特筆性のもっとも客観的な証拠を提供するのは二次資料だからです。主題に言及している信頼できる二次資料が見つかるかどうかは、独立記事として作成、収録するだけの価値があるか否かを評価するためのよい指標になります。 必要とされる信頼できる情報源の質および数は、その情報源の言及内容の深さや質により変わりますが、一般的に、複数の情報源があったほうがよいでしょう。特筆性を示す出典がない、またはひとつしかないということだけでは削除の理由になりませんが、複数の独立した情報源によって言及されていない話題は、特筆性を示す出典が他に見つからないか試みた後、より広範な内容を扱う記事に記載するか、記事の統合を検討する方がよいかもしれません。あるいはその項目が百科事典にふさわしいのかを再考するのも良いでしょう。 同じ発行元による再版は、複数の情報源とはなりません。発行元が地理的に同じ地域であったり、さらに先の情報元が同一であったりし、同じような情報を提供しているだけの場合、それらは複数の情報源としては扱えません。例えば、同じ出版社が、地理的に同じ地域で発表した、同じ記事を書いた雑誌は、特筆性を評価する上で複数の情報源とはなりません。複数の情報源がなく、単一の情報源のみで特筆性を立証する場合は、その情報源が検証できる状態であり、信頼でき、中立的な観点に基づき、取り扱う対象に対し包括的かつ詳細な情報を提供している必要があります。 ===対象と無関係な=== 「対象と無関係な」という条件は、例えば自己宣伝や広告、記事主題によって自主公表されたもの、自叙伝、プレスリリースなど、記事主題と、何かしらの提携・協力関係にある情報源を取り除く、ということを意味します。記事主題自身やそれと強く関係するものにより公表されたものは、それが世間で広く注目されていることを示しているとは考えられません。自己宣伝や自叙伝、製品紹介は百科事典的な記事を得るための手段になりえません。公表された作品を書いた人は、記事について無関係な立場から書いている誰か他の人でなければなりません。 独立記事として作成、収録するだけの価値があるか否かを考えるための指標は、記事主題そのもの(あるいはメーカーや作者、著者、発明者や販売者)とは無関係な人たちが書いて公表した、「取るに足らない」ものではない作品において、記事の主題を「取るに足らない」程度以上の言及をしているかどうかということです。そうでないと、単純に個人的なブログなどを使い、ウィキペディアの外で記事の対象について説明するだけで、独立記事となるだけの価値を簡単に与えることになってしまいます。このような情報源にのみ頼ることは、Wikipedia:信頼できる情報源の考え方にも反します。また、自己宣伝は明らかに中立的ではないですし、自主公表された情報源も、故意でなくとも偏ったものになっていることが多く、中立的な記事を作成するには、別の中立的な情報源の確保が必要です。そのような情報源の中立性に関する問題の議論は、Wikipedia:自分自身の記事をつくらないをご覧ください。宣伝的でない自主公表された情報源であっても、それは世間一般で注目を集めたことを立証できないので、依然として特筆性の根拠にはなりえません。 さらに言えば、信頼できる情報源における全ての言及が、特筆性の根拠になるとは限りません。例えば、名簿やデータベース、広告および広告欄、マイナーな新聞記事などは信頼できる情報源に該当したとしても、独立記事として作成、収録するだけの価値があることを示す証拠にはならないでしょう。 ===推定できる=== 「推定できる」とは、複数の信頼できる情報源において、それぞれ独立した言及がされているとき、取り扱う対象には、独立記事として作成、収録するだけの価値を有すると推定できることを意味します(保証ではありません)。 |
- 賛成 この提案は単純な構成の変更であり、ルール・記述の変更はひとまず行っていません。Yapparinaさんのご説明通りで、注釈欄に分かれていて気づかれにくかった記述を、目に留まりやすくしただけです。したがって、本当は「何も変更はしていない」はずなのですが、条項の中には「気づかれていなかったことが気づかれるようになった」ことで、変化や影響力が生まれるものもあるでしょう。しかしまあそれは「あるべき姿になった」というものだと考えます。これでおしまいというわけではないと思っていますが、最初のステップとしては妥当と考えます。--柒月例祭(会話) 2015年2月23日 (月) 06:51 (UTC)
- 賛成ありがとうございます。反対もありませんので話を進めたいと思います。上記の叩き台に、#注釈7について、#節の構成の修正についてでの提案と少し修正を加えたものを提案します。変更点については下線を付けてます。私としてはこれで最終案のつもりです。
- #節の構成の修正についてでのショートカット追加について:ショートカットがあった方が利便性が高いとのことで、ショートカットを追加してみました。将来的に他とかぶらないようにしたいのと、サブセクションにつけるショートカットであることから、単純に「/」後に英語の頭文字を付けるスタイルとしました。「Significant coverage → WP:GNG/SC」、「Reliable → WP:GNG/R」、「Sources → WP:GNG/S」、「Independent of the subject → WP:GNG/IOTS」、「Presumed→ WP:GNG/P」
- #注釈7についてでの提案について:「「名簿」「データベース」「マイナーな新聞記事」は「有意な言及」に関連し、「広告」は「対象と無関係な」に関連すると思います。注釈を2つにわけ、「有意な言及」「対象と無関係な」それぞれの項目の注釈とする。」との提案について、提案文へ反映させました。文面はほぼ変えていないつもりです。
- 上記の提案時、『「推定できる」の説明のあとに「ただし以上の目安を満たしていた~~とも言い切れません」と続いていたものは、説明の流れ上、冒頭に移した』と述べましたが、英語版を含めて読み直してみると、現行の位置のままで問題ないと思い直しました。今回の提案は内容の変更にはできるだけ踏み込まないのが主旨ですので、元の位置に戻しました。ただ、前後の文の繋ぎを分かり易く変更しています。
- ビル・クリントンの「Three Blind Mice」について、その記事を参考できるように注釈にいれました。英語版では注釈文と一緒に掲示されていたものです。一応WP:Vを満たすという意味もあります。余談ですが、日本語版の方針なので日本語での例が望ましいとは思いますが、今回の提案は内容の変更にはできるだけ踏み込まないのが主旨ですのでそのままで提案します。
- 以上よろしくお願いします。--Yapparina(会話) 2015年3月8日 (日) 14:33 (UTC)
- 賛成ありがとうございます。反対もありませんので話を進めたいと思います。上記の叩き台に、#注釈7について、#節の構成の修正についてでの提案と少し修正を加えたものを提案します。変更点については下線を付けてます。私としてはこれで最終案のつもりです。
==一般的な目安== {{Shortcut|WP:GNG}} もし対象と無関係な信頼できる情報源から有意な言及があった場合、その話題はウィキペディアの独立記事として作成、収録するだけの価値があると推定されます。以下に各々の語句の詳細を説明します。 ===有意な言及=== {{Shortcut|WP:GNG/SC}} 「有意な言及」とは、対象の話題について、直接的かつ詳細に述べていることを意味します。元となる情報源において、「特集記事」(もっぱらその話題について述べている記述)とまではいかなくても、少なくとも「取るに足らないようなもの」(他の話題に関する記述において蛇足的に触れられているもの)以上の言及が必要です。 例えば、IBMに関するソーブル著の360ページの本やブラック著の528ページの本は明らかに「取るに足らないようなもの」ではありません。しかし、ビル・クリントンが高校時代に作っていたバンド「Three Blind Mice」についてウォーカーが述べたたった1行の文は「取るに足らないようなもの」でしょう[1]。さらに言えば、名簿やデータベース、マイナーな新聞記事などによる言及は、信頼できる情報源に該当したとしても、独立記事として作成、収録するだけの価値があることを示す証拠にはならないでしょう。 ===信頼できる=== {{Shortcut|WP:GNG/R}} 「信頼できる」とは、信頼できる情報源のガイドラインを満たすことを意味します。情報源の形式・メディアは問いません。 ===情報源=== {{Shortcut|WP:GNG/S}} 独立記事として作成、収録するだけの価値があるか否かの判断における「情報源」は、二次資料でなければなりません。特筆性のもっとも客観的な証拠を提供するのは二次資料だからです。主題に言及している信頼できる二次資料が見つかるかどうかは、独立記事として作成、収録するだけの価値があるか否かを評価するためのよい指標になります。 必要とされる信頼できる情報源の質および数は、その情報源の言及内容の深さや質により変わりますが、一般的に、複数の情報源があったほうがよいでしょう。特筆性を示す出典がない、またはひとつしかないということだけでは削除の理由になりませんが、複数の独立した情報源によって言及されていない話題は、特筆性を示す出典が他に見つからないか試みた後、より広範な内容を扱う記事に記載するか、記事の統合を検討する方がよいかもしれません。あるいはその項目が百科事典にふさわしいのかを再考するのも良いでしょう。 同じ発行元による再版は、複数の情報源とはなりません。発行元が地理的に同じ地域であったり、さらに先の情報元が同一であったりし、同じような情報を提供しているだけの場合、それらは複数の情報源としては扱えません。例えば、同じ出版社が、地理的に同じ地域で発表した、同じ記事を書いた雑誌は、特筆性を評価する上で複数の情報源とはなりません。複数の情報源がなく、単一の情報源のみで特筆性を立証する場合は、その情報源が検証できる状態であり、信頼でき、中立的な観点に基づき、取り扱う対象に対し包括的かつ詳細な情報を提供している必要があります。 ===対象と無関係な=== {{Shortcut|WP:GNG/IOTS}} 「対象と無関係な」という条件は、例えば自己宣伝や広告、記事主題によって自主公表されたもの、自叙伝、プレスリリースなど、記事主題と、何かしらの提携・協力関係にある情報源を取り除く、ということを意味します。記事主題自身やそれと強く関係するものにより公表されたものは、それが世間で広く注目されていることを示しているとは考えられません。自己宣伝や自叙伝、製品紹介は百科事典的な記事を得るための手段になりえません。公表された作品を書いた人は、記事について無関係な立場から書いている誰か他の人でなければなりません。 独立記事として作成、収録するだけの価値があるか否かを考えるための指標は、記事主題そのもの(あるいはメーカーや作者、著者、発明者や販売者)とは無関係な人たちが書いて公表した、「取るに足らない」ものではない作品において、記事の主題を「取るに足らない」程度以上の言及をしているかどうかということです。そうでないと、単純に個人的なブログなどを使い、ウィキペディアの外で記事の対象について説明するだけで、独立記事となるだけの価値を簡単に与えることになってしまいます。このような情報源にのみ頼ることは、Wikipedia:信頼できる情報源の考え方にも反します。また、自己宣伝は明らかに中立的ではないですし、自主公表された情報源も、故意でなくとも偏ったものになっていることが多く、中立的な記事を作成するには、別の中立的な情報源の確保が必要です。そのような情報源の中立性に関する問題の議論は、Wikipedia:自分自身の記事をつくらないをご覧ください。 また、信頼できる情報源に掲載されていても、広告および広告欄などは独立記事として作成、収録するだけの価値があることを示す証拠にはならないでしょう。さらに、宣伝的でない自主公表された情報源であっても、それは世間一般で注目を集めたことを立証できないので、依然として特筆性の根拠にはなりえません。 ===推定できる=== {{Shortcut|WP:GNG/P}} 「推定できる」とは、信頼できる情報源において、それぞれ独立した言及がされているとき、取り扱う対象には、独立記事として作成、収録するだけの価値を有すると推定できることを意味します。すなわち、独立記事としての作成、収録が保証されるわけではなく、この目安を満たしていたとしても、編集者の間での合意形成により、作成、収録にふさわしくないとされる話題もあります。例えばウィキペディアは何ではないかに違反している場合などです。逆に、既にある記事においては、信頼できる二次情報源による出典が提示されず、この目安を満たさないとしても、独立記事として収録するだけの価値がない、とも言い切れません。 ==注釈==
本文反映のため、ショートカットをnowiki化--Yapparina(会話) 2015年3月27日 (金) 23:17 (UTC) |
- 賛成 遅くなってしまいました。賛成します。(繰り返しになってしまいますが)Yapparinaさんがおっしゃっている通り、今回の修正は基本的に構成の修正だけで、内容の変更は伴っていないものと思います。気づかれにくかった部分が気づかれやすくなる、という点で、変化は出てくるかもしれませんが、それは本来のあるべき状態になった、ということでしょう。--柒月例祭(会話) 2015年3月19日 (木) 07:53 (UTC)
- 報告 改めての賛成表明ありがとうございます。最終案掲示から19日が経過して、賛成のみ反対無しでしたので、本文への反映を行いました。(差分:prev)--Yapparina(会話) 2015年3月27日 (金) 23:17 (UTC)
過去ログ化の提案(2015年2月)
[編集]皆さま、お疲れ様です。当ノートページのサイズが約81万バイトとなり、ブラウザで開くには重いと感じます。そこで、以下のように過去ログ化することを提案します。
- 以下の5節(2012年4月まで)を過去ログ4に追記 … 約4.1 + 約9.5 = 約13.6 (万バイト)
- 特筆性除去提案テンプレートの作成について
- 過去ログ化の提案(2011年11月)
- 特筆性タグを除去する基準と告知方法について
- 特筆性タグを貼り付けるときにその理由をノートに記載することを貼り付けた人の義務とする
- 「特筆性のガイドラインを満たしていない記事」の訳について
- 以下の8節(2012年5月から2013年9月まで)で過去ログ5を作成 … 約15万バイト
- 文書名を「単独の記事を作成するためのガイドライン」とすることを提案します
- ガイドライン化
- 英語版に基づく追加の提案
- ガイドライン化 20130223
- ガイドライン化に向けての相談
- 名称変更に即した内容編集に関して
- 除外規定について
- 削除に用いる範囲
- 以下の5節(2013年9月から2014年6月まで)で過去ログ6を作成 … 約17万バイト
- 改名後の編集
- WP:GNGに書かれている「対象と無関係な信頼できる情報源」の定義
- ガイドライン化について
- ガイドライン化の提案
- 元に戻す提案
- 以下の2節(2014年4月から2014年7月まで)で過去ログ7を作成 … 約18万バイト
- 削除を求める側の努力規程に関して
- 以上の意見をふまえて、FALINの改正提案を行います
上記の区切り方は、単にサイズだけでなく、議論の流れを(ある程度)考慮したつもりです。取り敢えず、以上を削ることで、約81万バイトあったものが、約21万から22万バイト程度になる見込みです。いかがでしょうか。特にご異論がないようなら、一週間後を目処に作業するつもりです。 --Kanjy(会話) 2015年2月8日 (日) 11:16 (UTC)
- ご提案ありがとうございます。ご提案の区切りで大丈夫と思います。次の過去ログ化のときは「ガイドライン化の提案20141214」までにすれば、議論の流れ的にもバイト的にも丁度良い感じになりそうですね。よろしくお願いします。--Yapparina(会話) 2015年2月11日 (水) 14:05 (UTC)
- ご支持ありがとうございます。大変遅くなりましたが、上記20節を過去ログ化いたしました。次の過去ログ化については Yapparina さん仰せのとおりが良さそうですね。 --Kanjy(会話) 2015年2月22日 (日) 07:54 (UTC)
- (報告)「ガイドライン化の提案20141214」までを過去ログ化しました。Wikipedia‐ノート:独立記事作成の目安/過去ログ8 - 約18万バイト。--Yapparina(会話) 2016年12月29日 (木) 00:17 (UTC)
- ご支持ありがとうございます。大変遅くなりましたが、上記20節を過去ログ化いたしました。次の過去ログ化については Yapparina さん仰せのとおりが良さそうですね。 --Kanjy(会話) 2015年2月22日 (日) 07:54 (UTC)
「Template:特筆性」の変更を提案しました。
[編集]報告 このガイドライン名の変更が、Template:特筆性の文章に反映していないので、ガイドライン名の変更を反映した文章に変更することを、Template‐ノート:特筆性で提案しました。200z(会話) 2015年4月28日 (火) 11:48 (UTC)
- 報告 (報告が遅くなりましたが)Wikipedia:管理者伝言板/保護ページ編集で編集依頼をしました。200z(会話) 2015年5月20日 (水) 11:48 (UTC)
- 報告変更されました。200z(会話) 2015年5月20日 (水) 12:40 (UTC)
「Wikipedia:特筆性」への改名を提案します
[編集]このガイドラインの現在の名称「Wikipedia:独立記事作成の目安」はガイドライン化の検討を行う中で、2013年9月23日(UTC)に「Wikipedia:特筆性」から改名されたものです。しかし、関連のガイドライン(草案を含む)の大部分が「特筆性」の言葉を使っており、関連するテンプレートもTemplate:特筆性から変更されていません。また、このガイドラインの表現自体多くの個所で「特筆性」の言葉を使っていて、名称の変更に対応していません。現在の状況は、このガイドラインと他のガイドライン等とのつながりを分かりにくくしているだけです。そこで、もとの名称である「Wikipedia:特筆性」に改名することを提案します。121.176.198.9 2016年1月7日 (木) 14:58 (UTC)
反対 いろいろなご意見はあると思いますし、IPさんのようなご意見もあるでしょう。過去の議論で「特筆性」なる語の是非を論じたこともありますが、今は私はこの説明的なタイトルのほうがかえっていいなあと感じています。「仮に特筆性がいくらかあるとしても単独記事にすべきとは限らないよ」などのようなことも説明されていますので。なお、ご提案者のIPさんにはWikipedia:説明責任をご案内しておきます。--柒月例祭(会話) 2016年1月7日 (木) 16:15 (UTC)
コメント(柒月例祭さんへ)Wikipedia:コメント依頼で告知頂いたことについて感謝いたします。その上で、私の提案を補足します。ガイドライン等の名称が「特筆性」(A)であれ「独立記事作成の目安」(B)であれ「特筆性判断の基準と独立記事作成についてのガイドライン」(C)であれ、柒月例祭さんが指摘された「仮に特筆性がいくらかあるとしても単独記事にすべきとは限らないよ」という点は共通しています。現在のように、ガイドライン等の名称が3種類あるのでは同種のガイドライン等であることが分かりにくいので、揃えるべきだというのが私の提案の趣旨です。柒月例祭さんが「Wikipedia:競走馬の特筆性判断の基準と独立記事作成についてのガイドライン」という新しいガイドラインを提案されるにあたって、(A)や(B)でなく(C)を提案されたこと自体が、これらのガイドライン等が共通のものであることがあいまいになりかけていることの証拠であると思います。したがって、反対提案としてテンプレート:特筆性も含めて(B)あるいは(C)で揃えるという提案をされるならば反対しません。しかし、圧倒的に(A)の知名度が高い現状で(B)や(C)に揃えるということは実用的でないように思います。121.169.217.158(121.176.198.9)2016年1月8日 (金) 05:24 (UTC)
- (IPさんへ)ご提案の主旨(揃えたほうがわかりやすい)はわかります。
- しかし私は「揃えないほうがいい」と考えています。なぜならば、中身がちょっとづつ違うからです。体裁優先で安易に揃えることは、中身に対する誤読を招くと考えています。
- 「特筆性」は有無ではなく大小として把握されます。各分野ごとの「基準」は、その大小の幅に線を引こうとするものであり、ある種の乱暴さを持っています。大小は相対性をもっており、小なるものも微小に対しては大になりえます。なので、文書は「特筆性」と「独立記事とするべきかどうか」を別に論じています。
- WP:Nはしばしば削除案件(ケースE)で援用されますが、その援用のしかたはしばしば不十分だと私は考えています。WP:FAILNがじゅうぶんになされていないとか、「存続/削除」の二元論ではなく「統合」「リダイレクト」などの多様な選択肢を検討するべきであるはずなのに。
- こうした観点で、文書名を端的なものに揃えるよりも、「おや?」と思って読ませるような説明的で冗長な名称のほうが、目的に適うと考えています。言い換えると「体裁を揃える」は目的としては重要ではないと考えています。--柒月例祭(会話) 2016年1月8日 (金) 06:23 (UTC)
(反対)Wikipediaに不慣れな方が見ても何を言わんとする文書なのか一発で分かる、今のページ名の方が良いと思います。--Yapparina(会話) 2016年1月8日 (金) 14:51 (UTC)
- コメント(IP121.169.217.158です。)
柒月例祭さんのコメントを読むと、柒月例祭さんは特筆性のガイドライン等の改名履歴をあまり読んでおられないように思います。改名履歴を要約したものをこのコメントの最後に付けておくので、参考にしながら以下の文章をお読みください。
柒月例祭さんは「Wikipedia:独立記事作成の目安」と「特筆性」を別のものだと考えておられるようですが、それは間違いです。Wikipedia‐ノート:独立記事作成の目安/過去ログ1をご覧頂けばわかるように、「特筆性」は、en:wikipedia:notabilityを日本語版ウィキペディアに導入する際に、「著名性」に代わる「Notability」の訳語として造語・提案されたものです。したがって、「特筆性」は「日本語版ウィキペディアでしか通じない用語」であり、Wikipedia:独立記事作成の目安などのガイドライン群から離れて「特筆性」というものは存在しません。
つまり、これらのガイドライン群の基準に当てはまることを「特筆性がある」と表現し、基準に当てはまらないことを「特筆性がない」と表現しているに過ぎません。
また、柒月例祭さんは私の提案を「安易に揃える」と評しておられますが、これも間違いです。下の表にある「Wikipedia:競走馬の特筆性判断の基準と独立記事作成についてのガイドライン」以外のガイドライン等は、元々Wikipedia:著名性と一緒に英語版からの導入が検討されたものです。つまり、私の提案は本来の姿に戻そうとしているにすぎません。
Yapparinaさんのご意見については、以下のように考えます。GOOGLEで「特筆性、独り歩き」で検索したところ、プロジェクト‐ノート:競馬/過去ログ5に2009年3月8日 (日) 09:33 (UTC)のクサマクラさんの投稿で『なんか特筆性という言葉が独り歩きしていて「一覧にするほどのことかどうか」という事と特筆性がごちゃ混ぜになって、参加者によって特筆性をどういう意味で使っているのかがバラバラなような気がします。』というのがありました。私も同感です。クサマクラさんが投稿した時点では「Wikipedia:特筆性」だったので、「Wikipedia:特筆性」を「Wikipedia:独立記事作成の目安」に変えたのは同じような考えに基づくものだろうと思います。しかし、「Wikipedia:特筆性」だけを改名したため、「独り歩き」という状態は悪化しているように思います。Wikipedia:独立記事作成の目安のガイドラインだけについて考えるならば、Yapparinaさんのおっしゃる通り「Wikipediaに不慣れな方が見ても何を言わんとする文書なのか一発で分かる」と言えるのでしょうが、特筆性について発言する人が全員Wikipedia:独立記事作成の目安を読んでいるわけでもないように思います。そのことを考えると、現在のばらばらな状態はやはり「ごちゃ混ぜ」を助長していると思います。
なお、今回の提案とは直接関係ありませんが、英語版のen:Wikipedia:Notabilityの履歴を調べると、これらのガイドライン群の元々の目的が「内容のない記事を排除すること」ではなく「広告・宣伝の記事を排除すること」であることが分かります。
以上の点を確認の上、ご検討いただくようお願いします。122.46.187.42 2016年1月14日 (木) 06:55 (UTC)
- コメント(IP121.169.217.158です。)
名称 | 現在の種別 | 英語版の対応するページの種別 | |||
---|---|---|---|---|---|
Wikipedia:著名性 | Wikipedia:特筆性 | Wikipedia:独立記事作成の目安 | ガイドライン | ガイドライン | |
Template:著名性 | Template:特筆性 | テンプレート | テンプレート | ||
Wikipedia:著名性 (音楽) | Wikipedia:特筆性 (音楽) | ガイドライン | ガイドライン | ||
Wikipedia:著名性 (ウェブ) | Wikipedia:特筆性 (ウェブ) | 草案 | ガイドライン | ||
Wikipedia:著名性 (人物) | Wikipedia:特筆性 (人物) | 草案 | ガイドライン | ||
Wikipedia:著名性 (組織) | Wikipedia:特筆性 (組織) | 草案 | ガイドライン | ||
- | Wikipedia:特筆性 (書籍) | 草案 | ガイドライン | ||
Wikipedia:著名性 (フィクション) | Wikipedia:特筆性 (フィクション) | 私論 | 私論 | ||
- | - | - | Wikipedia:競走馬の特筆性判断の基準と独立記事作成についてのガイドライン | 草案 | 対応するページ無し |
「-」は他のガイドライン等の改名後提案されたことを示す |
- コメント
- 文書の統一性については、他の分野別が「Wikipedia:特筆性」時代の名残で、「特筆性」よりは「独立記事作成の目安」のほうがいいという合意があるのですから、統一するなら分野別を「独立記事作成の目安」に揃えるのが自然だと思います。
- 使用頻度が高いのは「特筆性」ですが、従来の文書名をそのまま使っていて「独立記事作成の目安」を意図している場合(特筆性のほうが書く分には短いですし)、一般的な「特筆すべき」からの流れで使っている場合、の両方が混在していて、やや混乱していると思います。これはケースEの「百科事典に記載するほどの著名性・特筆性がない記事」という記述の影響が強いと思うので、「百科事典の独立した記事の主題として十分でないもの。Wikipedia:独立記事作成の目安を参照」などとするのがよいと思います。--Ks aka 98(会話) 2016年1月14日 (木) 09:02 (UTC)
Template‐ノート:特筆性#改訂の提案に追加提案をしました。
[編集]Template‐ノート:特筆性#改訂の提案に追加提案をしました。「特筆性のガイドライン」が存在することを明確に示すことを目的としています。 121.169.217.158 2016年1月22日 (金) 05:45 (UTC)
- #「Template‐ノート:特筆性#改訂の提案」参加のお願いに続きます。(IPが変わっています)125.176.80.16 2016年3月12日 (土) 02:18 (UTC)
放送番組に関する独立記事作成の目安について
[編集]放送番組に関する独立記事作成の目安について、プロジェクト‐ノート:放送番組#プロジェクト‐ノート:放送番組において2015年10月から議論していますのでご参加ください。--Cauli.(会話) 2016年1月30日 (土) 04:49 (UTC)
「Template‐ノート:特筆性#改訂の提案」参加のお願い
[編集]先に報告したTemplate‐ノート:特筆性#改訂の提案について、反対意見がなかったため、Wikipedia:管理者伝言板/保護ページ編集で編集依頼をしたところ、Wikipedia:管理者伝言板/保護ページ編集でHaifun999さんが「 反対 賛成意見が一切なく合意が成立しているとは言えないため。」との反対意見を表明され、「(終了)今後の参照の都合から、議論は Template‐ノート:特筆性#改訂の提案 に戻って行ってください。こちらの依頼はとりあえず終了とします。--Kurihaya(会話)」とのことで差し戻しになりました。引き続き、Template‐ノート:特筆性#改訂の提案で議論を行いますので、ご参加をお願いします。125.176.80.16 2016年3月12日 (土) 02:17 (UTC)
特筆性について
[編集]>例えば信頼できる複数の専門家や、対象の専門分野の信頼できるメディアから、相応の評価があれば、証拠として活用できるでしょう。 とありますが、これは権威主義になれということでしょうか? とてもじゃありませんが、執筆者のほとんどが専門家の信頼性などを測るのは不可能ではないですか? そのような検証不可能なことを頼りに決定を下すことに意味があるとは思えません。またメディアが評価していることを根拠にする根拠がわかりません。 --にょろん(会話) 2016年4月28日 (木) 21:43 (UTC)
- メディアによる評価とは「執筆者及び一次情報源に相当する人物や組織ではない第三者による評価」を指します。権威主義ではなく、情報の信頼性の問題です。例えば「物理学の専門誌に生物学の記事」が載っているのと「生物学の専門誌に生物学の記事」が載っているのであればどちらが信頼できる情報源としてみることができますか?ということです。執筆者は「自分の中にある信頼性」である程度の情報の取捨選択をします。そうして記述された内容を査読する利用者や、確認する利用者がいて「この情報源にはこういう疑義があるので情報源に用いるべきではない」となればその情報源は除かれます。除かれないように、執筆者はより「全体に受け入れられる情報源」を選択して記述するようになるでしょう。なので、Wikipedia:検証可能性、Wikipedia:独自研究は載せない、Wikipedia:中立的な観点、Wikipedia:信頼できる情報源、Wikipedia:出典を明記する、といった執筆と情報源の選択に関する文書はそれぞれ独立しているのです。ウィキペディアでいう信頼できる情報源として「まず満たさなければならないもの」は情報源そのものを書いた人以外に目を通しているか(査読されているか)です。メディアというのは、例えば放送しているものであれば放送作家や番組構成を行うディレクターなどの複数の目がありますし、新聞記事や一般的に流通している書籍や雑誌、専門誌は記者だけではなくその内容に問題がないか、誤字脱字が無いかなどをチェックするための人物が必ず存在します(そして掲載するかどうかの最終判断をする人物もいます)。専門家としての信頼性を執筆者は考慮しません。何故なら「専門家」だと評価しているのは他ならない情報源だからです。「~~の専門家」という評価を執筆者がするわけではないのです。それに疑義があるならノートで理由を説明して除去するなり、議論するなりすればよいです。--アルトクール(会話) 2016年4月29日 (金) 08:10 (UTC)
一過性の興味を引いた事項の特筆性について
[編集]Wikipedia:削除依頼/MEMS-IGZOディスプレイにて、利用者:Muck vht(会話 / 投稿記録)さんが当該項目の主題に対する興味は一過性のものであり、将来の発展性が見込めないため特筆性がないとのお考えで削除票を投じられております。私はリンク先にもありますとおり一過性の興味であっても特筆性の担保とは成り得ると考え、加えて一過性の話題であるからこそ情報を残すことで将来の利用者の利益に供することができると考えて存続票を投じました。その後、1ヶ月ほど経ちましても他のご意見が寄せられておりません。この話題は当該項目だけでなく広く特筆性の判断に重要ではないかと思いましたので、ここで問題提起させていただきます。
さて、一過性の興味を集めた話題の特筆性に関してはどのように考えたらよろしいでしょうか。ご意見お待ちしております。 -- ktns(会話) 2016年10月13日 (木) 08:16 (UTC)
- 一過性の興味と言うよりも計画したものの結局は実現に至らなかったケース(あるいはいつ実現するのかわからない)ですね。これは、場合によって異なります。道路、鉄道の場合は計画しただけで着工に至ってもいないのに作成されたケースでは削除になったこともあります。--hyolee2/H.L.LEE 2016年10月13日 (木) 08:34 (UTC)
- 各個の場合について考えるしかないものでしょうか?より一般的な方針を模索することができると嬉しいと考えているのですが。 -- ktns(会話) 2016年10月13日 (木) 08:46 (UTC)
- 難しいと考えます。Wikipedia:削除依頼/東海道新幹線火災事件でも色々と意見が分かれました。これだけ世間を騒がせた明らかに特筆性のある出来事でさえ意見が分かれる難しい問題なのだと認識しています。--世界最狂の魔法使いCray-G(会話) 2016年10月13日 (木) 09:03 (UTC)
- 上記の削除依頼についてですが、争いがあったのはWP:NOTNEWSPAPERに関連した記事作成の時期であって特筆性そのものではないのではないでしょうか。特筆性については肯定的意見が大勢であるように見受けました。熟読したわけではないので誤認がありましたら申し訳ありません。一般的に多数の報道が一過性とはいえなされた場合については特筆性を認めるといったような方針が存在してもよいのではないかと考えています。 -- ktns(会話) 2016年10月13日 (木) 09:10 (UTC)
- 問題は、単なる特筆性の有無以外にも、百科事典として適切か、というのもあります。件の表示装置に関しては、何かその存在なり報道なりが表示装置以外の「他の九十九科」にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。「及ぼすと見込んでいた」のが「見込みが外れた」ので「削除依頼」となったのではないでしょうか。それ等は「各個の場合」以外の基準を設けようがありません。先の火災事件はその意味で例示しました。私は「見込み」の段階で執筆することに否定的な見解を持っていますし、現段階で実現しそうもない状態では今後の加筆も期待出来ませんし、有意な言及があるのでMEMSに応用の参考として一行ぐらい書けるかなとか思ったら既にMEMSがあの状態では(最初の応用というわけでもありませんので)特筆性を認めようがありません。MEMSに応用製品を全部載せるのが適切だとお考えなのでしょうか。逆に応用としては液晶には敵わない(商業的成功が見込めないと判断されたと推測される)一例としてならばMEMSや逆に液晶ディスプレイに書ける程度の特筆性があるのかも知れません。或いはメーカーのページか。しかしそれは立項出来るほどの特筆性ではないと考えます。--世界最狂の魔法使いCray-G(会話) 2016年10月13日 (木) 09:36 (UTC)
- 論点が当該記事の品質基準に及んでいるように感じます。ここでは、特筆性の議論に論点を絞り込みたいと思っているのですが、ご同意いただけるでしょうか。私は、「有用となる見込みがある歴史上の一点で存在した」という事実は特筆に値するのではないかと思っています。この是非について
ここで論争固執するつもりはありませんが、その客観的事実性の担保として一過性とはいえ多数の報道があることは相当ではないかという点についてご意見を伺いたく存じます。 -- ktns(会話) 2016年10月13日 (木) 09:52 (UTC)一部修正しました。--ktns(会話) 2016年10月13日 (木) 10:21 (UTC)- 回答は「同意出来ません」「相当ではないと考えます」です。もしも「「有用となる見込みがある歴史上の一点で存在した」という事実は特筆に値する」と認めるなら、著名人に子供が生まれました記事が複数あるからその子供の独立記事が作られるべき、インチキ論文が発表されて○○業界に改革がもたらされるかも記事が複数あるからインチキ論文の独立記事が作られるべき、という主張が可能になります。私の専門分野では、ZeoSyncという米国の会社が「劣化無しに1/100に圧縮するアルゴリズム」で特許を得た(ZeoSyncで検索すると未だに何件か引っ掛かります)ことがあります。これは専門家が見れば一目でインチキ(良く言っても論理的錯誤)であることがわかる内容でしたが、素人目には説得力を持つ内容でしたし実現すればとてつもなく有用だったので、賛否両論大量の記事が書かれロイターでも報道されました。結果としては、その会社に投資した誰かが損をしたであろう以外には特に社会に影響を及ぼさずに終わりました。で、ktns氏は、その「客観的事実性」に依り「そのインチキ圧縮をwikipediaに載せる価値がある」との主張と同じ論拠に基づく主張をしていることになります。「只の事実」には特筆性は認められません。なので「客観的事実性」がどんなにあろうとも、それだけでは特筆性の有無を判断出来ません。--世界最狂の魔法使いCray-G(会話) 2016年10月19日 (水) 01:27 (UTC)
- 「同意出来ません」とのことでしたが、論点の絞込みは行っていただけたようでありがとうございます。「「そのインチキ圧縮をwikipediaに載せる価値がある」との主張と同じ論拠に基づく主張をしていることになる」とのご指摘ですが、その通りです。個人的にはそれだけの反響があり、しかも現在でも検索にひっかかるのであれば、独立記事を作成してその後の経緯までを記述し、「客観的にはインチキであった」ことをZeoSyncについて知りたいと考えた読者に伝えられることが wikipedia の方針に適うと思っています。Cray-Gさんは「社会への影響」を重視しておられるようですが、たとえば「ウォーデンクリフ・タワー」などの実動しなかったアイデアなどについてどうお考えなのでしょうか。全て削除すべきであるとお考えなのでしょうか?もし、採録すべき事物とすべきでない事物に境目があるとお考えでしたら、その客観的基準をどのようにさだめるべきとお考えですか? -- ktns(会話) 2016年10月19日 (水) 05:06 (UTC)
- 回答は「同意出来ません」「相当ではないと考えます」です。もしも「「有用となる見込みがある歴史上の一点で存在した」という事実は特筆に値する」と認めるなら、著名人に子供が生まれました記事が複数あるからその子供の独立記事が作られるべき、インチキ論文が発表されて○○業界に改革がもたらされるかも記事が複数あるからインチキ論文の独立記事が作られるべき、という主張が可能になります。私の専門分野では、ZeoSyncという米国の会社が「劣化無しに1/100に圧縮するアルゴリズム」で特許を得た(ZeoSyncで検索すると未だに何件か引っ掛かります)ことがあります。これは専門家が見れば一目でインチキ(良く言っても論理的錯誤)であることがわかる内容でしたが、素人目には説得力を持つ内容でしたし実現すればとてつもなく有用だったので、賛否両論大量の記事が書かれロイターでも報道されました。結果としては、その会社に投資した誰かが損をしたであろう以外には特に社会に影響を及ぼさずに終わりました。で、ktns氏は、その「客観的事実性」に依り「そのインチキ圧縮をwikipediaに載せる価値がある」との主張と同じ論拠に基づく主張をしていることになります。「只の事実」には特筆性は認められません。なので「客観的事実性」がどんなにあろうとも、それだけでは特筆性の有無を判断出来ません。--世界最狂の魔法使いCray-G(会話) 2016年10月19日 (水) 01:27 (UTC)
- 論点が当該記事の品質基準に及んでいるように感じます。ここでは、特筆性の議論に論点を絞り込みたいと思っているのですが、ご同意いただけるでしょうか。私は、「有用となる見込みがある歴史上の一点で存在した」という事実は特筆に値するのではないかと思っています。この是非について
- 問題は、単なる特筆性の有無以外にも、百科事典として適切か、というのもあります。件の表示装置に関しては、何かその存在なり報道なりが表示装置以外の「他の九十九科」にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。「及ぼすと見込んでいた」のが「見込みが外れた」ので「削除依頼」となったのではないでしょうか。それ等は「各個の場合」以外の基準を設けようがありません。先の火災事件はその意味で例示しました。私は「見込み」の段階で執筆することに否定的な見解を持っていますし、現段階で実現しそうもない状態では今後の加筆も期待出来ませんし、有意な言及があるのでMEMSに応用の参考として一行ぐらい書けるかなとか思ったら既にMEMSがあの状態では(最初の応用というわけでもありませんので)特筆性を認めようがありません。MEMSに応用製品を全部載せるのが適切だとお考えなのでしょうか。逆に応用としては液晶には敵わない(商業的成功が見込めないと判断されたと推測される)一例としてならばMEMSや逆に液晶ディスプレイに書ける程度の特筆性があるのかも知れません。或いはメーカーのページか。しかしそれは立項出来るほどの特筆性ではないと考えます。--世界最狂の魔法使いCray-G(会話) 2016年10月13日 (木) 09:36 (UTC)
- 上記の削除依頼についてですが、争いがあったのはWP:NOTNEWSPAPERに関連した記事作成の時期であって特筆性そのものではないのではないでしょうか。特筆性については肯定的意見が大勢であるように見受けました。熟読したわけではないので誤認がありましたら申し訳ありません。一般的に多数の報道が一過性とはいえなされた場合については特筆性を認めるといったような方針が存在してもよいのではないかと考えています。 -- ktns(会話) 2016年10月13日 (木) 09:10 (UTC)
- 難しいと考えます。Wikipedia:削除依頼/東海道新幹線火災事件でも色々と意見が分かれました。これだけ世間を騒がせた明らかに特筆性のある出来事でさえ意見が分かれる難しい問題なのだと認識しています。--世界最狂の魔法使いCray-G(会話) 2016年10月13日 (木) 09:03 (UTC)
- 各個の場合について考えるしかないものでしょうか?より一般的な方針を模索することができると嬉しいと考えているのですが。 -- ktns(会話) 2016年10月13日 (木) 08:46 (UTC)
- ニコラ・テスラの世界システム構想の電波塔は削除も已む無しとは思いますが、そもそもニコラ・テスラの知名度が高過ぎますし、ニコラ・テスラの世界システム構想は複数の「科」に渉って様々な影響を及ぼしました。それを客観的基準と呼ぶことが許されるなら「百科事典なのだから複数の「科」に渉って影響を及ぼした内容」であるか否かが私なりの立項基準であり、「べき」だと考えています。一つの「科」だけの話なら専科辞典(一科事典)に載せるべきだ、との見解です。この基準は、会社やら政治家やら芸能人やらビデオゲームやら道路やらを全部立項する一部の運動とは明に相反していて、私はその運動に反対の立場を取っています。
- >「客観的にはインチキであった」ことを
- 複数の新聞に載った全ての事件/事故/スキャンダルを結果まで追いかけて載せるべきだ、との主張ですか。百科事典の役割からはかけ離れていると考えます。
- 世界最狂の魔法使いCray-G(会話) 2016年10月19日 (水) 06:19 (UTC)
- コメントWikipediaはボランティアの善意によって成り立っているわけですから、もとより「完全さ」が制度的に保証されているわけであはりません。が、スキャンダルというものは社会的な事象ですから、Cray-Gさんの言い方に倣えば「複数の科」にまたがったものであると思います。上のインチキの案件も、世間を騒がせるなどスキャンダル度が相対的に高いならば、立項できると思います(スキャンダル度が高いか否かの判定は、その分野に詳しい利用者の皆様が検討するでしょう)。芸能人の子供の例は、あくまで「一人の人間」という枠を出ないので、立項は不可です。--Susuka(会話) 2016年10月19日 (水) 06:38 (UTC)
- 「複数の新聞に載った全ての事件/事故/スキャンダルを結果まで追いかけて載せるべきだ、との主張ですか」とのご質問ですが、可能であればすべきだ(もしくはしてよい)と考えています。しかし、それら全ての項目について検証可能性を満たしつつ百科事典的な記述が可能であるとは思えませんので、特筆性とは別の観点からそれは不可能であると考えています。 -- ktns(会話) 2016年10月19日 (水) 06:48 (UTC)
- そうですか、私はそうは思いません。
- ある情報が事実である、または有用であるとしても、それだけではウィキペディアという百科事典に掲載すべきだという根拠にはなりません。 — Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか
- では、何があれば「ウィキペディアという百科事典に掲載すべきだという根拠」になるのでしょうか。それは曖昧で、個々人により異なる基準があるものでしょう。ただそれだけの話です。
- なので「各個の場合について考えるしかないもの」だと考えます。
- 世界最狂の魔法使いCray-G(会話) 2016年10月19日 (水) 08:39 (UTC)
- そのご意見ですと、このガイドラインの存在意義が揺らぐのではないでしょうか。少くともガイドラインとして、
- 対象と無関係な信頼できる情報源から有意な言及があった場合、その話題はウィキペディアの独立記事として作成、収録するだけの価値があると推定されます—[8]
- とされている以上、ある程度客観的な基準があった方がよいということについてはコミュニティの合意があるものと考えます。そこに、言及が「一過性のものであるかどうか」が判断基準になりうるかどうかを付け加えることは、今後の削除依頼において重複した議論が行われることを回避する意味で重要ではないでしょうか。合意が難しいことはこのガイドラインが方針となっていない状況からも予想されますが。 -- ktns(会話) 2016年10月19日 (水) 09:38 (UTC)
- 「推定」というのは法律用語であり、「他に何も無い間に限ってはそう看做す」という未確定の時の扱い方を示しています。「推定無罪」が有名ですね。Wikipedia:独立記事作成の目安にあるのは推定#法律上の事実推定の意味であり、Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側にの逆を示しているに過ぎません。即ち、出典と共に掲載されているならばその除去を求める側にWikipedia:説明責任がある、ということです。これは「除去を求めてはならない/除去してはならない」ではありません。なので全く揺らぎません。
- ktns氏の論法は「推定無罪なのだから、犯罪を犯した者は全員無罪なのではないでしょうか? 犯罪者個別に裁判しなければならないものなのでしょうか?」と言っていることになってしまいます。
- 件のディスプレーに関しては、出典が有りましたので特筆性有りと「推定」されました。黙って除去は出来ません。その後「特筆性不充分」と異論が主張されましたので、その時点で「推定」の「定」は消え失せ、「推測」かそこらへと低下しました。後は議論して合意を形成して下さい。まる。ということです。
- なので、異論が出るまではktns氏の主張は認められます。ですが異論が出された時点で合意を形成しなければならなくなります。異論は「各個の場合について」それぞれ異なる異論が出されます。なので「各個の場合について」それぞれ異なる合意が形成されます。つまり「各個の場合について考えるしかない」のです。
- 「一過性のものであるかどうか」は問題ではありません。「一過性のものでしかなかった」場合に問題となります。件のディスプレーは「一過性のものでしかなかった」ので除去意見が出ました。例えその出来事自体は一過性のものであっても、その後に(例えば一般社会に、例えば何処かの専門分野に)影響を残したならば、その影響を以って特筆性を認められるかもわかりません。例えば福岡猫虐待事件なんて、無名の無職が一匹の猫をハサミで切り付けただけの、何の特色も特筆性も無い話です。本来なら「一過性」以外のなにものでも無かったことでしょうし、実際「一過性」であり今では話題にもなりません。しかし記事の通り大きな影響を与えたことで記載に値すると認められています。
- 世界最狂の魔法使いCray-G(会話) 2016年10月20日 (木) 03:52 (UTC)
- 「複数の新聞に載った全ての事件/事故/スキャンダルを結果まで追いかけて載せるべきだ、との主張ですか」とのご質問ですが、可能であればすべきだ(もしくはしてよい)と考えています。しかし、それら全ての項目について検証可能性を満たしつつ百科事典的な記述が可能であるとは思えませんので、特筆性とは別の観点からそれは不可能であると考えています。 -- ktns(会話) 2016年10月19日 (水) 06:48 (UTC)
なかなか真意がご理解いただけないようで、申し訳ありません。もちろん、個別の議論が不要であるなどとは申し上げておりません。しかし、Muck vhtさんの提起はこのガイドラインを「一過性の報道により特筆性を認めてはならない」というように理解なされたことから生じたものではないかと思っております。私個人としては、このような理解は間違いではないかと思っておりまして、このような理解が生じうるガイドラインには改訂の必要性があるのではないか、と申し上げているつもりでした。また、個別の議論を行う際にもあるていど客観的な基準が存在することは依然望ましいと考えています。この方向に議論を向けることは不可能でしょうか。-- ktns(会話) 2016年10月20日 (木) 05:37 (UTC)
- その方向の議論をしていますよ。私は単にその主張(=「このような理解は間違いではないか」)を否定しているのです。
- >「一過性の報道により特筆性を認めてはならない」というように理解なされたことから生じたものではないかと
- 「一過性の報道により特筆性を認めてはならない」という表現は、二通りの解釈が可能です。
- あらゆる「一過性の報道」には、一過性の報道であることを理由に「特筆性を認めてはならない」
- 「一過性の報道」であり且つそれ以外に特筆性が認められない、ならば「特筆性を認めてはならない」
- 前者は明確に誤りですが、後者は妥当と言うか順当と言うか、とにかく他の方針やガイドラインと合わせて考えれば常識的な判断だと考えます。以って後者として削除を検討したものと想像します。ガイドラインに対する後者の理解が誤りだ、との考えであれば、それは既に述べた
対象と無関係な信頼できる情報源から有意な言及があった場合、その話題はウィキペディアの独立記事として作成、収録するだけの価値があると推定されます — Wikipedia:独立記事作成の目安
- の「推定されます」を「確定します/決定します/確実です」等に変更するように変更提案を行なうべきです。現状で「推定されます」であるのは、「対象と無関係な信頼できる情報源から有意な言及があった」というだけでは「特筆性を認められない」と合意(コンセンサス)が得られているからだと考えます。それは例えば
ウィキペディアでは新製品に関する最新の知識も扱っていますが、発表されたという情報を載せただけの短い記事は不適切です。製品に関するより多くの事典的知識が検証が可能になるときまで、製品発表への言及は関連するより大きなトピック(例えば、開発者や製品のシリーズ、前の製品の記事など)に統合されているべきです。憶測や噂を記載することは、信頼できる情報源からの言及であっても百科事典として適切ではありません。 — Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは未来を予測する場ではありません ウィキペディアは新製品の発表や噂を収集する場ではありません。
ウィキペディアでは人物や出来事の歴史的な特筆性が考慮されます。報道は百科事典の項目のための有用な資料となり得ますが、あらゆる出来事がそれ単独の百科事典記事を作成する正当性をもつわけではありません。 — Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは新聞ではありません 報道
この方針の冒頭でも説明したように、単に真実であるだけでは、たとえ検証可能であったとしても、百科事典に収録するのに相応しい内容であるとは限りません。 — Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません 冒頭
ある事柄が単に「検証可能」だからといって、それをウィキペディアに書いてよいとは限りません。 — Wikipedia:検証可能性#他の原則との兼ね合い 冒頭
- などで繰り返して言及されていることからも明らかです。つまりこれ等やその他全部も同様に変更するように変更提案を行なわなければならない、ということになります。それ程に革新的な(有体に言えば無謀な/既存の合意と齟齬のある)主張なんだ、とご理解を戴けることを期待します。
- 世界最狂の魔法使いCray-G(会話) 2016年10月20日 (木) 06:39 (UTC)
- 私は少し違う解釈をしています。
- 「特筆性」のルールは「対象と無関係な信頼できる情報源から有意な言及」を要求していますが、ここで言う「情報源」は二次資料でなければならないとされています。
- 事件・事故を直接取材してありのままに報じる「ニュース報道」は一次資料とされていますから、「特筆性」の根拠にはなりません。同様に、本人のインタビューやプレス発表、そして、インタビューやプレス発表の情報をそのまま伝える報道も、一次資料ですから、「特筆性」の根拠にはなりません。
- つまり、いわゆる「一過性の報道」のほとんどは一次資料ですから、「特筆性」の根拠にならない。一過性の報道では特筆性が認められないというのは、そのあたりの事情を言ったものだと思います。(念のために付け加えると、「一過性」だからダメだと言っているわけではないという理解は、Cray-Gさんと同じです)--Dwy(会話) 2016年10月22日 (土) 04:09 (UTC)
特筆性の性質について
[編集]- 第一.特筆性の始期について(特筆性の用語法)
WP:NTEMPの「記事で取り扱う対象が、ある時点で十分に特筆性を得ていた場合、独立記事として作成あるいは収録することが可能です。」の「ある時点」とはいつなのでしょうか?
WP:NTEMPには明治時代の変わった学生騒動の例があります。この例での「ある時点」は明治時代で、その時代のその対象に「百科事典の記事として言及するにふさわしい価値」があるかどうかで特筆性を判断するという意味だと思いました。しかしWikipedia:独立記事作成の目安の冒頭には特筆性について「百科事典の記事として言及するにふさわしい価値」という定義とは別に「立項される対象がその対象と無関係な信頼できる情報源において有意に言及されている状態」という定義も書かれているのですが、この2つでは「ある時点」の解釈も「特筆性」の意味も全然違うものになるのではないでしょうか。
例えば記事として言及するにふさわしい価値があるとみられる3世紀の古墳が21世紀に発見されて考古学の文献に記述された場合
- A.特筆性とは「百科事典の記事として言及するにふさわしい価値」である(特筆性の存在と特筆性の証明は別の問題で両方が必要とみる)
- この場合の「ある時点で十分に特筆性を得ていた場合」の「ある時点」は「百科事典の記事として言及するにふさわしい価値が存在する時」であり、3世紀以降に「百科事典の記事として言及するにふさわしい価値」があったかどうかを判断するという意味。ただし、記載の要件としては、その特筆性を二次資料で証明することが必要。
- B.特筆性とは「立項される対象がその対象と無関係な信頼できる情報源において有意に言及されている状態になること」である(特筆性が証明できることも特筆性の存在の一部に含まれるとみる)
- この場合の「ある時点で十分に特筆性を得ていた場合」の「ある時点」は「立項される対象がその対象と無関係な信頼できる情報源において有意に言及されている状態になった時」であり、21世紀以降に「立項される対象がその対象と無関係な信頼できる情報源において有意に言及されている状態」になっているかどうかで判断するという意味。
どちらでも独立記事の要件として二次資料による特筆性の証明が必要ですから結果は異ならないと思いますが、ガイドラインの文脈によっては本来の意図に影響を与えているようにも思います。
- 第二.特筆性の存続について
WP:NTEMPは「特筆性は一時的なものではない」というタイトルですが、いったん成立した特筆性は存続するのでしょうか?
WP:NTEMPには「記事で取り扱う対象が、ある時点で十分に特筆性を得ていた場合、独立記事として作成あるいは収録することが可能です。たとえその評価が社会的に継続していなくとも関係ありません。」とあります。「ある時点で十分に特筆性を得ていた場合」を「過去のある時点では十分に特筆性を得ていたが、現在はそうではない場合」と解釈してしまうと、「特筆性は一時的なものではない」というタイトルの意味(「特筆性はある時点にあれば足りる」が「特筆性は一時的なものではない」という関係)がよくわからなくなります。またこう解釈してしまうと特筆性を「記事として言及するにふさわしい価値」と定義したときに「現在は記事として言及するにふさわしい価値がなくなっていても立項できます」というパラドックスに陥るような気もします。
「特筆性は一時的なものではない」の意味ですが、「特筆性は一時的に判断されるものではない」や「特筆性は一時的に存在するものではない」という意味でしょうか?
- 特筆性は一時的なものではない
- 特筆性は一時的に判断されるものではない(ただし「ニュース報道等」は分離しているのでこの意味は全面的には含まれていないかもしれません)。
- 定常的な報道は特筆性の根拠にならない。反対に、その出来事の影響が明らかに永続的に広く社会に与えるであろう場合には特筆性が推定される。
- 立項される対象について、ある時点で特筆性がないとみられていても状況が変化して特筆性が発生する場合がある。
- 特筆性は一時的に存在するものではない
- 「記事で取り扱う対象が、ある時点で十分に特筆性を得ていた場合、独立記事として作成あるいは収録することが可能です。たとえその評価が社会的に継続していなくとも関係ありません。」というのは「記事で取り扱う対象について、そのある時点に記事として言及するにふさわしい価値が認められるに至った場合には、「名声」「重要性」「人気」などの評価に変化があったとしても、特筆性には影響を与えません。」というような意味でしょうか。
- 特筆性は一時的に判断されるものではない(ただし「ニュース報道等」は分離しているのでこの意味は全面的には含まれていないかもしれません)。
特筆性の始期(特筆性の用語法)と特筆性の存続の2点について質問します。--Skimr(会話) 2016年11月8日 (火) 01:24 (UTC)
- 第一:「ある時点」は「過去~現在の任意のある時点」だと、私は解釈します。特筆性とは、Aが定義文になり、Bはその立証の代表的な方法になると思います。WP:NRVEが、特筆性の要件になると思います。
- 第二:特筆性は一時的に存在するものではないでご説明の解釈でいいと思います。
- --背番号9(会話) 2016年11月8日 (火) 04:27 (UTC)
- (第一):記事のジャンル等によってAにもBにもなりうると思われ、一概にどちらと断言するのは難しいと思います。歴史的な事物に関しては、ある時代にそれに関する研究が進んで文献が残されれば特筆性はあるでしょう。明治時代の変わった学生騒動(賄征伐)ですが、それが行われていた明治時代に特筆性があるというより、後年の研究者が明治時代の人物を研究する中でこのような運動に関する研究発表も進んだからこそ特筆性があるとみるのが適切でしょう。(第二):「特筆性は一時的に判断されるものではない」し、「特筆性は一時的に存在するものではない」、すなわち「いったん成立した特筆性は存続する」でしょう。「名声」「重要性」「人気」が出れば「記事として言及するにふさわしい価値」が付きますが、一度出た「名声」「重要性」「人気」が消えても「記事として言及するにふさわしい価値」は消えないでしょう。--Muyo(会話) 2016年11月8日 (火) 12:40 (UTC)
- 御回答ありがとうございます。背番号9さん、Muyoさんの御意見をうかがいましたが、「特筆性」の有無の判断というか用語法は思った以上に難しいようです。
- Wikipedia:独立記事作成の目安に「特筆性のある対象は発明、発見、事象発生、新たな定義などによって日々産み出されており、記事として潜在的な価値を持ちますが、ウィキペディアの項目に既に書かれているとは限りません。」とありますが、客観的・潜在的な価値という点を強調するなら、未知の巨大彗星にでも特筆性はあり、その特筆性を信頼できる情報源で立証すると問題を分けたほうが結論は同じでも「特筆性」の意味が複雑にならないで済む(WP:NTEMPなど他の文脈への影響も少ない)のかなと思い取り上げました。ただ、例えば天動説は百科事典で扱ってほしい項目に入ると思うのですが、この場合の立項の根拠は天動説自体の客観的・潜在的な価値というより主に歴史的な意味であり、確かに後世の研究を通してみないと判断できない要素も含まれているのかもしれません(この要素を含めた一体的な定義があれば良いと思いますが)。
- 「特筆性」という言葉自体にもいろいろ議論があるようです。特筆性の存在、特筆性の証明、価値の変化と特筆性の扱いなど規定されている要素はいくつかありますが、局面ごとに的確でわかりやすい価値の表現がガイドラインに反映されるとよいなと思います。--Skimr(会話) 2016年11月8日 (火) 17:00 (UTC)
削除依頼が存続で終了した場合の特筆性タグの扱いについて
[編集]特筆性について削除依頼が出された項目があり、存続で終了いたしました[9]。完全に特筆性があるというような終了の仕方ではないのですが、少なくともウィキペディアに残しても特に支障がないレベルだととらえ、特筆性タグを除去しようとしましたが、「特筆性があるかどうかは不明」とのことで差し戻しを受けております。ここまで行くと、また削除依頼だせばいいのに、などと思うのですが、削除依頼には出されず。このタグを貼っていることの意味とはなんなのか、何を読者に注意喚起したいのかと考えてしまいます。このような場合でも独立記事作成の目安は満たしておらず、特筆性タグは除去しないというのが正しいのでしょうか。 --Banku(会話) 2017年7月17日 (月) 11:23 (UTC)
- WP:DEL#Eを理由とする削除依頼が存続で終了したことがイコールで「著名性がある」に直結するわけではありません。例えば、削除依頼の中で出典が示されたとしても、本文にそれが反映されていなければ「出典が明記されていない」となります。
- ちなみに、Wikipedia:削除依頼/ウェルスナビは、「改善なき再投稿での即時削除を判断できないためのWP:DEL#A」が理由ですので、著名性・特筆性が削除依頼では判断されていません。将来的に記事として成立する可能性は十分にあるという将来性を買っての存続と考えてください。企業記事における一般的な「特筆できる事柄」とは外部評価です。ウェルスナビでいえば、RISING EXPO 2016 in Japanで何かを受賞しているようですから、そのあたりが「著名性を示す一つ」の材料になります。確かに、そのあたりを加筆しなければタグを除去する理由にはできないでしょう。--アルトクール(会話) 2017年7月17日 (月) 11:49 (UTC)
- アルトクールさん、即時削除の方針全般5には該当しない、というのは、前回の削除依頼で議論されたケースEに該当するか否かを改めて議論した場合、それに該当するかどうかが問題になるのであり、それを存続で終えたというのは、すなわち「著名性、特筆性が無いとは言い切れない」という判断は、したつもりなのですが。 そこについて「判断されていません」という解釈は本意ではありません。今後は対処の際、もう少し詳しく説明することにします。テンプレートを取り除くにあたって、記事の加筆を行うべし、という点はそのとおりだと思います。--Bellcricket(会話) 2017年7月17日 (月) 12:12 (UTC)
- ニュース報道をもとにまだまだ加筆が可能と思えます。現在出典としめされているもののうち2つ、資金調達をしたプレスリリースは特筆性の根拠としては妥当ではありません。日本経済新聞の報道などをもとに加筆が十分可能でしょう。また企業記事よりはダイヤモンド社でコラムを担当されていもいる[10]柴山和久さんの記事を作成してみても良いのではないかと思います。--Tiyoringo(会話) 2017年7月17日 (月) 12:01 (UTC)
- 存続1票、削除1票である以上、積極的に存続すべきとの合意をもって存続させたとは判断しづらく、「特筆性があるともないとも確定できないまま1か月が経過したため対処せずに打ち切り」という意味での存続とみなすのが妥当であり、そういう場合はまだ特筆性があるかどうか怪しい状態を脱していないということになるので、特筆性タグを除去しないほうがいいと思います。もちろんさらに出典・記述を増やせばタグを除去してもいいでしょうけど。--Muyo(会話) 2017年7月17日 (月) 12:27 (UTC)
- 週刊東洋経済 2017年2月18日号でも報道されていますので、記事の補充は追加可能と思います。--Eifuku191(会話) 2017年7月17日 (月) 12:34 (UTC)
- 存続1票、削除1票である以上、積極的に存続すべきとの合意をもって存続させたとは判断しづらく、「特筆性があるともないとも確定できないまま1か月が経過したため対処せずに打ち切り」という意味での存続とみなすのが妥当であり、そういう場合はまだ特筆性があるかどうか怪しい状態を脱していないということになるので、特筆性タグを除去しないほうがいいと思います。もちろんさらに出典・記述を増やせばタグを除去してもいいでしょうけど。--Muyo(会話) 2017年7月17日 (月) 12:27 (UTC)
カテゴリー変更の提案
[編集]現在、この文書はCategory:記事の内容についてのガイドラインに分類されています。しかし、文書の内容は、ある記述内容を、独立の記事にするのが適切なのか他の記事の中に記述するのが適切なのかというもので、どのような形で構成するのが適切なのかというものであり、記事の中に記載する内容についてのものではありません。そこで、カテゴリーをWikipedia:ページの分割と統合と同様にCategory:記事の編集についてのガイドラインに変更することを提案します。118.21.146.95 2017年10月22日 (日) 01:13 (UTC)
- わざわざ会話ページまでご案内ありがとうございます。結論から言うと、私としてはどちらのカテゴリでもいいと思います。Template:Wikipediaの方針とガイドラインで差し戻ししたのは本ページのカテゴライズと違う形になってしまったので戻しただけなので、本ページのカテゴライズ変更を先に行っていただければ何も言うことはありません。特筆性は記事内の記述とは無関係であるという原則の存在を考慮すると「記事の内容についてのガイドライン」じゃないような気もするし、「記事の内容」が記事主題そのものも含めて指すのならば「記事の内容についてのガイドライン」でもいいような気もしますし、私としてはどちらでもいいと思います。--Yapparina(会話) 2017年10月22日 (日) 13:39 (UTC)
- 返信 (Yapparinaさん宛) コメントいただきありがとうございます。とりあえず、Yapparinaさんはカテゴリーの変更に反対ではないと受け取らせていただきます。別段急ぐことでもないので、他に反対の方がおられるかどうかもうしばらくお待ちしたいと思います。118.21.146.95 2017年10月29日 (日) 17:29 (UTC)
各分野において汎用的な「有効ではない一般的基準」
[編集]以下はWP:PERSON(人物)だけに掲げられている基準ですが、他のあらゆる分野(音楽、組織、人物など)の特筆性サブガイドラインについても該当しうる話だと考えます。特にパソコン通信やインターネットが普及する以前に流行した事象は(メジャー歌手など一部の分野を除き)、現在のインターネットには情報として記述されにくい傾向があるからです。WP:NTEMPは、過去の時点で特筆性を満たしていれば現在において単独立項可能な事を示唆しています。ただ、これをトップのガイドライン(WP:N)に記載するのはバランスを欠くので、参考情報としてここに報告しておきます。--Kyuri1449(会話) 2018年9月28日 (金) 13:42 (UTC)
有効ではない一般的基準 検索エンジンの検索件数(グーグルで検索できることやAlexaのランキングといったこと)に基づく基準や、オンラインで公開されている写真の枚数を数えることは避けるべきです。たとえば、ランキングに影響を及ぼすために検索エンジンスパムが利用されているかもしれません。
特筆性の基準の変更は過去に遡及する
[編集]上記に関連し、事例として、音楽分野のサブガイドライン(WP:NM)において「音楽家・音楽グループ」の「その国の特筆すべきラジオ放送でヘヴィー・ローテーションされた。」という基準が、該ガイドラインのノートの議論を経て、削除されました。これは、基準の変更です。よって、過去の削除依頼議論を含めて「その国の特筆すべきラジオ放送でヘヴィー・ローテーションされた。」事実だけをもって特筆性有りと判断された項目は、該基準の変更後は特筆性無しと判断される可能性があります。この事は、WP:NTEMPに一言書く必要があるかも知れません。(ここでは提案に留めておきます)-Kyuri1449(会話) 2018年9月29日 (土) 09:27 (UTC)
文章追加の提案
[編集]冒頭部の最後に次の文章を追加することを提案します。
他の言語版で特筆性があるとされる事物は日本語版でも特筆性があるものとします。
この提案は日本語ではないある言語が使われる地域では知られているが、日本語が使われる主な地域である日本ではあまり知られておらず、新聞などで取り上げることも少ない事物を想定しています。
日本で知られていない例を挙げるのは難しいので、逆に日本以外でほとんど知られていないだろう例として森脇和成を挙げておきます。(2018年11月14日 (水) 11:48 (UTC)現在、日本語版以外には記事がありません)それ誰と言われる方が少なくないでしょうが、記事を読めば「あー、あの人ね」と思われるでしょう。
日本でほとんど知られていない事物の記事を一から作ることは少ないでしょうが、他言語版内のリンクで記事を発見して翻訳する可能性は少なくありません。
全体として多言語版の百科事典を構成するというWikipediaの性格からいって、そのような事物の日本語版記事を作ることは有用であり、そのときに特筆性でもめることを避けたいという趣旨の提案です。よろしくご検討ください。--59.129.118.125 2018年11月14日 (水) 11:48 (UTC)
- 質問 「他の言語版で特筆性がある」かどうかは、どうやって判断するのでしょうか?ひょっとして特筆性を議論するためには全ての言語版の特筆性の基準を熟知する必要があるとしたいという提案でしょうか?--aki42006(会話) 2018年11月14日 (水) 12:22 (UTC)
ますは、上に挙げた森脇和成のように1つの言語の記事だけが存在している場合です。この場合は、元の記事に特筆性テンプレートが貼られているかどうかで判断すればよいと思います。例えば日本のローカル地下アイドルの記事が作られたとして、それが全くの宣伝目的なのか、一定の特筆性があるのかを一番適切に判断できるのは日本語話者でしょう。それと同じ考え方です。複数の言語に記事がある場合、どれか特筆性テンプレートの貼られていない記事があれば、たぶんそれが本国(本言語?)の記事なので、そのことで特筆性があると考えてよいと思います。ご存知かと思いますが、特筆性のガイドラインそのものが存在しない言語版もかなりあります。(実は日本語版も音楽についてのガイドラインは2008年1月から存在したものの、全般的なガイドラインは 長い間作成中の状態が続き、2015年1月までガイドラインとしては存在しませんでした。)特筆性のガイドラインが存在しない言語版では、そもそも特筆性の問題が発生していないと考えられ、最初から特筆性が問題になるような記事はないと考えてよいと思います。--14.101.55.164 2018年11月14日 (水) 16:19 (UTC)
ps.直接今回の提案に関係する話ではありませんが、以前とある伝統芸能の人間国宝の記事に特筆性テンプレートを貼ってあるのを見かけたことがあります。確認したら今も貼ってあります。歌舞伎などと違ってあまり話題にならない分野の方ではあります。しかし、記事の中に人間国宝と書いてあることが信用できなかったのかな。人間国宝かどうかはすぐに確認できるはずなのですが。あるいは、テンプレートを貼った方は人間国宝という言葉の意味を知らなかったのかもしれません。どうも自分が知らないと「特筆性がない」と思う人がいるようです。今回の提案もその辺の状況を踏まえての提案です。--14.101.55.164 2018年11月14日 (水) 16:19 (UTC)
先ほど書き忘れたので書いておきます。IPが変わっています。投稿ついでに歌舞伎の人間国宝について少し書くと四代目坂田藤十郎をはじめとして(生きている人では)7人おられるようです。詳しくはこちらをご覧ください。さすがにこの人達の記事に特筆性テンプレートを貼る人はいないでしょう(と信じたい)。--14.101.55.164 2018年11月14日 (水) 16:32 (UTC)
反対 自律的に特筆性を証明すべきです。WP:CIRCULARの精神にもそぐわない。Wikipedia:説明責任もご案内します。--柒月例祭(会話) 2018年11月14日 (水) 17:13 (UTC)
反対 付記するメリットはなく、大きなデメリットがあると判断します。
まず、メリットがない話。ある言語版で(日本語版でいうところの)「特筆性」を有する記事が作成されているとき、それを立証するための「情報源」が記載されているはずです。仮に日本語版で記事作成を行う場合でも、その「情報源」を用いることで「特筆性」を立証できることになります。故に他言語版の記事の有無によって影響される必要性はまったくありません。
次に大きなデメリットの話。他言語版の記事が「特筆性」に十分注意を払って作成されているのかは誰も立証できません。そのため、『ある言語版で記事が作成されていること』によって『その対象に「特筆性」があること』は証明できません。日本語版の事例を出すとカテゴリ「Category:ソフトウェア」やそのサブカテゴリが付与されている記事のうち{{特筆性}}などによって「特筆性」に疑問が提示されていない記事全てがガイドライン「Wikipedia:独立記事作成の目安」を十全に満たしているのかといえばそんなことはありません。--iwaim(会話) 2018年11月15日 (木) 18:33 (UTC)
反対 まず質問に回答していただき、ありがとうございます。どうやら「特筆性テンプレートが貼られてない記事は、その言語版で特筆性がある」と思い込んでいらっしゃる様ですが、その前提条件は誤りです。日本語版でも{{特筆性}}も貼られずに放置されている記事が大量にあります。--aki42006(会話) 2018年11月15日 (木) 23:40 (UTC)
返信 コメントを頂いた皆様へ。ご意見をご表明頂きありがとうございます。
お返事が遅くなってすみません。
以下に「特筆性」全般及び今回の提案について私が考えていることを書きます。利用者:Aki42006さん、利用者:Iwai.masaharuさん、利用者:㭍月例祭さんのご意見を読むと、皆さんはWikipedia:独立記事作成の目安を重要なルールと考えておられるのだと思います。しかし、私は、「特筆性」について活用されているのはTemplate:特筆性とWikipedia:特筆性 (音楽)であり、その他のルールなどは断片的に引用されるだけというのが実情だと考えています。このことは、「特筆性」のルール群で草案の段階で議論が止まっているものがいくつもあること、Template:特筆性が貼られた状態のままで改善されていない記事が多数ある事、Aki42006さんが指摘された特筆性の問題があるにもかかわらずテンプレートすら貼られていない記事がたくさんある事に現れています。このような事態になったのは、「音楽」以外に特筆性の必要性が認識されていない時点で英語版にあるからと言って導入をしようとしたこと、ルールの方のガイドライン化ができていないのにテンプレートを作ってしまったこと、「特筆性」という言葉があまりによくできた造語であったために「流行語」になってしまったことが原因だと考えています。たしかに、Wikipedia:独立記事作成の目安はなかなかしっかりした文書ですが、文書がしっかりしているということとその文書が活用されていることは別物です。
今回の提案ですが、改めて書くまでもなく当たりまえのことを確認しているに過ぎません。それはウィキペディアが多言語の百科事典を目指すプロジェクトだからです。したがって、ウィクショナリーのように何語版であっても基本的に同じ内容であるというのが理想です。(あくまで、理想です。)細かい運用やルールについては、各言語版に任されているわけですが、多言語版としての全体の形と大きく食い違うのはよいことではありません。
つまり、今回の提案が認められようが、拒否されようがルールとしてはほとんど変化はないということです。ならば、なぜこのような提案をしたかというと、影響の少ない変更を加えていくことで、現在の「特筆性」についての膠着状態を解決していく手掛かりになるのではないか、微力ながらウィキペディアの発展に寄与できるのではないかと考えたものです。
おそらく、上に書いた「特筆性」全般についての私の認識も含め反対の方が少なくないと思います。ざらにご意見をお書きいただけば幸いです。--118.156.88.29 2018年11月22日 (木) 19:44 (UTC)
反対 提案者様の実情についての認識には根拠が何もございません。また各記事の特筆性について他言語版と擦り合わせをしたいのであれば、それはまずメタウィキなどのグローバルなプロジェクトでの協力を呼び掛けるべきでしょう。日本語版がローカルでの検討を行うことなく他の言語版の判断に従ってしまうことは、即ちグローバルスタンダードに対する日本語版の意思表明の放棄へとなってしまうことでしょう。--Miraburu(会話 / 投稿記録) 2018年11月26日 (月) 12:35 (UTC)
コメント'終了提案' 特筆性周辺文書への執着はLTA:SUZUの典型行動ですね。「議論が長引くことを好む」のも特徴です。SNOWとして終了でよいでしょう。--柒月例祭(会話) 2018年11月27日 (火) 14:59 (UTC)
- 終了提案に 賛成 既にWP:AN/Sで報告されていると思いますが提案IPはLTA:SUZUまたは模倣かと思います([[利用者:○○]]さんと記述するのもLTA:SUZUの特徴と思います)。変更として合意形成の見通しも立ちませんし、終了で良いのではないでしょうか。そもそも、jawpで特筆性を立証するための信頼できる第三者言及は日本語で記述されているものに限定されていないかと思います(仮に日本語の限定があったら翻訳も気楽に行えなくなるでしょうし、LTA:MIKIによる削除依頼提出荒らしで悪用されそうにも思えます)。出典提示としては他言語での記述よりは日本語のほうがよいのでしょうが、(少なくともjawpと他言語版で特筆性基準が同じ場合は)他言語版をきちんと翻訳すればその時点で特筆性は立証されるはずでしょうし、追加する意味もありません。--郊外生活(会話) 2018年11月28日 (水) 04:27 (UTC)
コメント 提案者です。(最近アカウントを取得しました。)ここまでの議論を見ていると、他言語版で特筆性が認められている対象に対して日本語版でも特筆性を認めることを全面的に否定しておられるわけではないようなので、議論の終結に同意します。ところで、直接議論に関係することではないのですが、利用者:郊外生活さんが「[[利用者:郊外生活]]さん」という書き方をLTA:SUZUの特徴と書いておられるのは、雑に過ぎるように思います。(この文章でも使っています。)この辺の書き方は「[[利用者:郊外生活]]さん」の他に「[[利用者:郊外生活|郊外生活]]さん」、「[[user:郊外生活]]さん」、「[[user:郊外生活|郊外生活]]さん」、「[[利用者:郊外生活|郊外生活さん]]」、「[[user:郊外生活|郊外生活さん]]」など何通りか考えられます。しかし、ある程度妥当性のある書き方は限られるでしょう。(リンクをつけないなら「郊外生活さん」で十分ですね。)郊外生活さん自身のお好みの書き方と違うからと言ってWikipedia:進行中の荒らし行為である根拠とされるのはいかがなものでしょうか。「LTAまたは模倣」という表現があるのでそう書いておられるのでしょうが、模倣の範囲がどんどん広がっているように思います。--KD059129118125 2018年12月2日 (日) 00:55 (UTC)
コメント LTA「模倣」はむしろ適用が難しくて困っているぐらいですが、これは置いておきます。また、この疑問はLTAとは無関係に発生しうるでしょうし、ここまでの議論で看過できない問題があります。ですから、私はこの一度だけ提案者がLTAであるかどうかは考慮せずに記載します。
- この提案の問題点は、「他の言語版で特筆性があるとされる事物」の判定にあります。そもそも「日本語版」の「独立記事作成の目安」に合致するのであれば、既に記事中で示されており「他の言語版で特筆性があるとされる事物は日本語版でも特筆性があるものとします」という雑な判定を行う必要はありません。加えて、{{特筆性}}等のタグが付いている/いないことには本質的に意味がありません。悪用を別としても検証を経ていない個人の判断にすぎませんし、この点では単にタグが付いていないこともまた同等なのであり、タグが付いていないから「独立記事作成の目安」に合致する/付いているから「独立記事作成の目安」に合致しない、とはできず、目安に合致するかを検証することが必要なのです。
- もちろん、他言語版で記事が存在するものでも、日本での知名度が低いどころかなきに等しいために削除依頼が提出されることは多々あります。しかし、これは本質的には依頼者の問題であって、方針で手当をするなら「日本語は必須ではない、なくてもよい」事を重ねて強調する程度で対処可能です。もう少し進めるなら、残存する「特筆性」という用語の変更でしょうか。この語に問題があることは認識されていましたが、テンプレート等で多数使用されており、改訂が放置されていたことは事実です。乱用・誤用を避けるなら、変更すべきでしょう。
- そして、この提案はその裏である、「他の言語版で特筆性がないとされる事物は日本語版でも特筆性がないものとします」という形で深刻な問題を生起します。技術的に「他の言語版で特筆性がないとされる」判定を信頼することは難しいのです。削除されずタグのみの場合については、有無が根拠にならないのは「特筆性がある」で述べたとおりです。そして、他言語版で削除されている記事に対してその妥当性を判断することは困難です。これは、権限の関係で他言語版の削除された版を確認することが事実上不可能であることによるもので、近い将来に解決することはできないでしょう。まして、他言語版でも虚偽の申告や方針の誤読等による削除は発生しうるものですから日本語版でも個別に審議が求められるのですが、この改訂案ではその過程をスキップして削除につながるでしょう。
- 一方、「他の言語版で特筆性があるとされる」記事が「日本語版」の「独立記事作成の目安」に合致しないケースについては、3つのパターンが考えられます。まず、方針文書間の食い違いによる場合があります。日本語版のこの文書もかなり古く、Wikipediaの実情や現実の世界に合っていなかったり、見落としがあったり、導入時に誤訳があったりする可能性は否定できませんし、他言語版が改訂されていることも考えられます。この場合は、方針文書の改訂を考慮すべきです。ついで、日本語版特有の事情が関与する場合です。日本語版を含む各言語版にはそれぞれの事情があり、日本語版では特別に排除されていたり、他言語版で特別に記事が存在している可能性があります(比較的理解しやすいのは地方議員。国によって差が大きいので一様な判定ができません)。これは、「日本語版特有の事情」が適用できないものであれば、その旨一言残して作れば問題ないでしょう。最後に、過去にこの方針を理由に削除されている場合です。これは少なからず発生しますが、基本的には出典で対処するべきです。多々見られるケースは「時期尚早だった」、「削除理由はケースB/Gで特筆性を判定していない」、「出典を欠くスタブ状態で誤ってケースE判定された」ですから、出典で対処する余地は大きいのです。
最後に、人間国宝のケースをあげられていますが、明白に問題行為の一環として悪用されているタグであれば容赦なく除去し、添付者を荒らし(タグボンバー)として粛々と報告するのみです。これは方針文書の改訂が不要な対処であって、誰にでもできることなのですから。--Open-box(会話) 2018年12月6日 (木) 13:07 (UTC)