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Wikipedia‐ノート:独立記事作成の目安/過去ログ2

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「Wikipedia:特筆性」の目的

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この特筆性・著名性 (Notable) という言葉が使われ始めた背景として、ウィキペディアの収録数や知名度が高まるにつれて極めてマイナーな主題を扱った記事が増え始めたことにあります。この状況に変化はなく、むしろ議論不足のために乱用されることになるという現状から早急な整備が必要とされています。そのための議論のスタートとして、この文章に何を求めるのか。まずはこの点について共通の認識を得たいと思います。

ウィキペディアというものは、『質も量も最高の百科事典』を目指すものから比較的マイナーな記事も扱うわけですが、質が担保できないほどの記事を除去することにより、質の向上を図るための指針がこの文章群の位置づけになるかと思いますがいかがでしょうか。そのための方法としての概念が特筆性・著名性 (Notable) であると。それ以上でも、それ以下でもなく。--Knua 2008年5月31日 (土) 16:48 (UTC)

「質」というのが漠然としているので、明確化する必要があるでしょう。わたくしはこう考えます:
  • 百科事典にふさわしい項目かどうかを判断するための基準、またはその基準を設けるための基準を示した文書。ここでいう「ふさわしい項目かどうかの基準」とは、その項目の記事内容についての適否規範ではなく、そういう項目が百科事典に含まれていること、いいかえれば世界を記述する上での分類単位としてその項目が百科事典を構成すること、その目的において適当かどうかという全体的判断のこと。項目名と定義文で判断できしてしまう様な基準。
内容そのものではなく、項目の位置づけから判断する基準にかかわる文書ではないかと思います。--Jms 2008年5月31日 (土) 21:14 (UTC)

Notabilityとは

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では最も基本的なところから議論を始めていきましょう。現状の日本語版では、特筆性・著名性 (Notability) という言葉は大まかに2つの意味で使用されていると思われます。

  • 1つは『記事主題の知名度』に関するもの。
  • もう1つはen:Notabilityが意図するように『信頼できる情報源により相当量の記載がされている事を明記する』ことをもってNotabilityがあると解釈するもの。

削除依頼の場では専ら前者の意味で用いられ、過去の議論で一部の人が後者の意味でガイドライン化を推進していきましました。両者の意味は似ているようで全く異なり、前者の意味では定義は分かりやすいものの収録価値を判断する場合の明確な基準が必要で、曖昧な基準では混乱を生じる。一方、後者の意味では収録価値が乏しいようなものでもNotabilityが存在する、又は収録価値があるにも関わらず、出典の明記が行われないために削除されることになります。そのため、両者には相容れないものがあり、過去には議論の空転が起こりました。

まず特筆性・著名性 (Notability) の意味を統一して、意味の違いによる混乱を防ぎ、議論の方向性を定めましょう。これにより、Wikipedia:特筆性の文章は英語版をそのまま翻訳するのか、独自の文章としていくのかが決まってくるかと思います。--Knua 2008年6月14日 (土) 08:15 (UTC)--修正--Knua 2008年6月14日 (土) 14:59 (UTC)

後者は前者の外形的基準を与えているだけだと思いますが。en:Wikipedia:Notability冒頭で
notability is an inclusion criterion based on encyclopedic suitability of a topic for a Wikipedia article.
としていますから、後者の書き方はミスリーディングに思えますし、「両者の意味は似ているようで全く異なり」「両者には相容れないものがあり」というのも誤認に思えます。厳密に言えば notablity を外形的に示せないとはどういことか、から、notablity があるということを外形的に示すとはどういうことか、という誤った推論をしているのではないかというのが気にはなりますが。--Jms 2008年6月14日 (土) 10:32 (UTC)
英語版の考え方も一応は理解していますが、そのような解釈を日本語版では採用できるのかな、というのも問題だと思ってます。ちょっと極端に書いちゃいましたが、日本語版におけるNotabilityの理解というものはそのようなものではないですかね。収録するための水準を記事自身に求めるのか編集者に求めるのか。--Knua 2008年6月14日 (土) 11:50 (UTC)
「そのようなもの」というのはどのようなものですか。「収録するための水準を記事自身に求めるのか編集者に求めるのか」の、編集者に求める、というのは、A さんが書いた記事はよくて B さんが書くと削除、という意味ではないと想像しますが、ではどういう意味なのかというのがわかりません。「記事自身に求める」というのも、記事の内容 (現に書かれていること) に求めるのか、記事のとりあげる題材 (潜在的に書かれ得ること) に求めるのか、判然としません。どちらの意味でしょう。
ウィキペディアの文脈での notability の意味として、題材が採録に値するかどうか、以外の意味があるとは思えませんが、何か他にありますか。--Jms 2008年6月14日 (土) 14:22 (UTC)
notabilityの意味はそれで間違いないでしょう。といいますか、そう定義してあるのですから。ですが、単に有名かどうかをnotabilityの有無と考えること、後者の基準をnotabilityの有無と解釈すること。そのような一人歩きする解釈をどうするのかです。単に一つ、Notabilityの意味を宣言するための議論ですよ。--Knua 2008年6月14日 (土) 14:59 (UTC)
議論の方向をどうなさりたいのかわからなくなりました。notablity の定義があたえられているなら、notabilityの意味を宣言するための議論は不要ではないでしょうか。解釈が独り歩きしない様にするというのはWikipedia:特筆性の内容についての議論でしょう。何が独り歩きなのかを判断するためにWikipedia:特筆性のスコープを決める議論をするべきなのではありませんか。--Jms 2008年6月14日 (土) 16:55 (UTC)
そんなに結論を急がないで下さいませ。皆がJms様のように完全に内容を理解しているわけではないのですから。さも当然というところから固めていかなければ議論にならないでしょう、過去の議論を見ても。--Knua 2008年6月14日 (土) 17:21 (UTC)
英語が読めないので理解に限界がありますが、私としてはこの方針は、項目が百科事典として書くに足るものかどうかを判断する基準を示すものだと思っています。しかし、英語版(というかその訳文)では、項目そのものでなく、書かれた内容で判断する、という趣旨のように感じました。もし「収録基準」を、項目自体でなくその内容、すなわち中立的観点や検証可能性など他の方針を満たした上で成立しているかどうかで判断する、ということなら、他の方針があれば十分で、この方針はいらないのではないか、というのが大きな疑問でした。削除された訳文を読んだときに感じた、こうした方針の自己否定のようなわけのわからなさを、Knuaさんのご提案はうまく説明してくださっているように思います。以前も述べたとおり、私としては、収録基準は利用者によって、またそのときどきの判断で変わるもので、ある意味「いい加減」でよいのではないかと考えています(タイトルには少しこだわりましたがf^^;)。--みっち 2008年6月15日 (日) 00:38 (UTC)
私も収録基準には曖昧性を残したほうが全体の利益になると考えていますが、そこに起因する問題があることも確かだと思います。例えば人物項目において要求される著名性は基準がバラバラになっているように感じます。というのもある専門分野において著名かどうかはその分野の専門家でないとわからないことが多いですし(しかも議論に参加する利用者が専門家であるかどうかはWikipedia上で判断がつきにくい上に分野によっては絶対数が少ない)、あるいは専門家にすら百科事典に掲載すべきほどの著名性があるかどうかは、個人によって判断が別れると思われるからです。掲載するにあたっては特に著名性についての審査があるわけではないため、著名性の無さを根拠とする削除依頼を出せば削除され得ると思われる記事も、多く存在するのではないかと考えていますので、そういう意味で掲載基準の公平性は必ずしも保持されていないと考えます。しかしこれらの問題を抱えているにしても、前述のように私は収録基準には曖昧さを残すべきとの立場です。--HATARK 2008年6月15日 (日) 03:04 (UTC)
収録基準の曖昧性をどうするか。いつかは深く議論すべきものですか、その基礎となる議論を先に行いますので少しばかり先送りさせて頂きます。
『Notabilityとは、記事主題がウィキペディアに採録すべきかを示す基準である。』
これは定義です。Notabilityの訳語として知名度・著名性・特筆性などの言葉を使用される際は、この定義から乖離していないか注意してください。--Knua 2008年6月20日 (金) 16:33 (UTC)
完成度が著しく低ければ、関連する最も適した記事に統合しなさいと勧告されるわけですから記事の存続と完成度とは無関係とは考えません。記述量についても同様と考えます。言い換えると「中立性」の方針があるので三方針の絶対基準満たす概念についてWikipediaに書くなと言うことはできません。その場合、既存記事の一部として加筆するか新たに記事を起こすかということになります。記事の統廃合に関するガイドラインで完成度や記事量も判断上の重要な要素であると明記されているまい。なので、記事主題がウィキペディアに採録すべきかを示す基準を考える上で、記事の統廃合で重要な要素を抜いて判断することは困難と考えます。--あら金 2008年6月29日 (日) 22:26 (UTC)
「三方針の絶対基準満たす概念についてWikipediaに書くなと言うことはできません」というのが問題だと認識されているからこそ、この議論があるのです。既存の方針で対処できるなら、改めて方針を作る必要はありません。既存の方針上は問題のない記事であってもなお、記事主題として適切かどうかという観点からの議論がこの議論です。記事の内容 (の充実) と、記事主題とは、完全に一致するわけではなく、理論的には独立でさえあり得ます。--Jms 2008年6月29日 (日) 22:42 (UTC)
「住み分け」の理論は必要であったとしても「排除の理論」は不必要と考えます。どのような概念であれ、上位概念(基本概念)や下位概念(派生概念)あるいは関連概念は存在するので、どのような概念であれ独立で存在するということは無いと存じます。また、Wikipediaは百科事典ですから国語辞書のように用例や意味の定義だけではすみません。必ずほかの概念との言及を含めて概念を解説する記述にしかなりません。したがって、記事主題とその範囲をどのように設定したらとりあえず適当であるかは、その時点時点でのWikipediaの他の記事の執筆状況に強く依存します。逆に、最初から最良の記事主題とその範囲を定めるのが適当ではないので、統合と分割のルールでその時点ごとのより良い記事構成を動的に改変してゆくルールが存在していると考えます。「住み分け」の理論は現状に合わせる以上どこまで言っても相対評価です。なので「記事主題がウィキペディアに採録すべきかを示す基準である。」について「独自研究」、「検証可能性」、「著作権」あるいは「プライバシー侵害」のように絶対基準を設けるのが適当とは考えません。また、「著名性」は「記事主題がウィキペディアに採録すべきかを示す基準である。」の十分条件であっても必要条件ではないとも私は考えます。--あら金 2008年6月30日 (月) 14:29 (UTC)
大項目主義小項目主義の問題ですが、採録すべき主題というのが全て個別に存在する必要はないのでしょう。現在は完成度が低い記事も、他の記事と統合すれば読者にとっての利便性が向上するということ。採録には値しているが、あえて統合するという判断もアリなのであって、統合の判断がNotabilityに影響を与えてはいないと思いますが。逆に、採録に値しない主題をいくら統合して集めたところで、条件がクリアされるわけではないのです。--Knua 2008年6月30日 (月) 15:12 (UTC)
排除の理論が不必要なら、notability に関する基準についての議論を排除する理論も不必要でしょう。まずは議論してみて、方針なりガイドラインの草案を書いてみて、それからその草案を方針なりガイドラインなりとして採用するかどうかを判断してもよいのではないでしょうか。できあがった草案を見てからでも遅くはないでしょう、少なくとも他言語版では存在しているものなのですし。また、十分条件で十分でしょう、その否定が使われるのですから、それは排除の必要条件になるわけです。概念の存否については、概念として成立する論理的条件がある (en:Formal concept analysis参照) ので、なんでもかんでも記事主題として成立するわけではありません。--Jms 2008年6月30日 (月) 15:39 (UTC)
Wikipediaでご遠慮いただきたい内容はWP:NOTで扱われています。また、Wikipediaの記事の要件はWP:STYLEですし、最低満たすべき要件はWP:STUBで扱われています。Jms氏の「なんでもかんでも記事主題として」という観点については含みが広いので論点を整理させていただきます。
WP:NOTに該当する記事は本稿の対象外であるという点は同意いただけると存じます。また、WP:STUB未満に該当する記事も本稿の対象外であるという点は同意いただけると存じます。したがって、WP:NOTに該当せず、WP:STUB以上の要件を満たす記事が著名性を欠くことで記事として不適格であるかどうかということです。少なくとも、WP:NOTおよびそのノートを見る限りは、著名性を欠く記事がWP:NOTであるというコンセンサスはまだ無いと存じます。
Wikipedia:ガイドブック引用しても『「ウィキペディア」は「著作権を侵害しない」、「検証可能性を満たす」、「独自研究は書かない」、「中立的な観点で書く」等の「ウィキペディア」の基本方針に賛同するならば、誰でも、その場で編集できます。』ですし、同じくガイドラインの「誰でも編集できて問題はないの?」の節では「デタラメ」は排除すべきと書いてありますが、このガイドラインのデタラメの趣旨は三大方針に適合しないことで解釈するのが妥当というのもご同意いただけると存じます。なのでWP:NOTに抵触せず、WP:STUB以上の記事について著名性を欠く事を唯一の理由としてWikipediaが受け入れるべきではないというコンセンサスはないということも同意いだだけると存じます。
また英語版でも"The topic of an article should be notable, or "worthy of notice". "なので勧告の域を出ないと存じます。なので『Notabilityとは、記事主題がウィキペディアに採録すべきかを示す基準である。』のように特筆性を必要条件や排除条件として扱うのはここ固有の議論であると存知ます。
まあ、草案が正式化する際には「著名性を欠く事を唯一の理由で記事をWikipediaが受け入れない」というガイドライン・ルールが残っているようでしたら「参照する外部基準(著名性の根拠)が恣意的に設定可能であり、運用時に新たな編集合戦の震源地となることが懸念されるので」私は反対する予定です。--あら金 2008年7月1日 (火) 10:29 (UTC)
うむ、その懸念は非常に理解できる。著名性というマジックワードが設定されることで、記事の作成・削除基準がある程度明確になります。その基準が記事の運命を左右するわけですから、あたかも編集合戦のような怒涛の論戦が起こることは火を見るよりも明らかでしょう。では、この草案を放棄することで著名性が設定されることもなく、理想に向かってウィキペディア日本語版が歩んでいけるのでしょうか。著名性・特筆性という言葉が最も使用されるのは、ここのノートでは無く削除依頼の場です。そこでは記事の存続か削除かの二者択一の議論が行われているのです。著名性の有無のみを考慮した削除基準の設定が。
著名性・特筆性とした概念の定着が乏しかった数年前であれば、私も反対をしていたでしょう。しかし、既に「特筆性を必要条件や排除条件として扱かわれている」のです。Wikipedia:削除の方針#ケース E: 百科事典的でない記事として既に正式化が行われています。除去をなさりたいのであればお手伝いさせて頂きますが、人々の心に染み付いた概念は、文言を消したところで「百科事典的でない」との一言で片付けられてしまうでしょう。私やあら金様のような考えを持つものとして、いま行わなければならないことは、一人歩きして定着してしまった「Notability・特筆性・著名性」の概念をしっかり定め、震源地を削除依頼ではなく、ここのノートに戻すことではないかと思います。ろくな議論なしでの著名性の設定を行おうとした草案に対して、方針化反対の表明を取り下げてはいない私としては。--Knua 2008年7月2日 (水) 15:38 (UTC)

ウィキペディアに採録すべき記事とは

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今後の方向性を決める最も重要な議題の一つです。おそらく各個人のウィキペディアの価値観に関わるものであり、一つの結論に達することは難しいかもしれません。しかしそれでも、自分とは異なる考え方を知ることは今後の議論でも有用であり、総論のようなものくらい見えてこればと思っております。なお、無駄な論争を避けるためにも、「お前の価値観は間違ってる」(批判はダメ)・「私には不必要な分野だ」(客観的にお願いします)・「[[○○]]は不要」(個別記事を挙げないで)、ということでお願いしますね。--Knua 2008年6月20日 (金) 16:33 (UTC)

まずは私から。ウィキペディアが質も量も最大の百科事典を目指す以上、通常の百科事典が収集している程度の記事では足りないでしょう。私としては一般的な百科事典で採録される記事より深く、広いもの。専門家や、その分野に興味のある人でしか必要としない範囲のものが存在しててもかまわないかと思っています。それこそ、歴史事典・人名百科・科学事典などの分野に特化した事典を全て包括するような。単純な記事の特筆性という概念だけでなく、誰にとっての特筆性を考えるべきかと。--Knua 2008年6月22日 (日) 10:01 (UTC)
Knuaさんのコメントを拝読して、いまさらながら見えてきた気がすることをそのまま書きますと、「質量ともに最大」といっても、この方針で示せるのは質でなくて量についての基準のみではないかということです。この理解でいいのでしょうか。というのも、この点はかなり重要で、「いや量だけでなく質もこの方針で追求するのだ」ということになりますと、再び英語版のようなややこしい状況に舞い戻ってしまうように思うからです。量だけだとすると、めざす「最大」の程度を考えることになるでしょう。紙の百科事典と同等以上で具体的なモデルがあって、それよりひとつでも項目が多ければいいのであれば、収録基準は紙製のものとそれほど大きく変える必要はないでしょう。しかし、比較対象を抜きにして果てしなく成長を続けるべき、ということであれば、思い切った広い基準が必要になるでしょう。--みっち 2008年6月26日 (木) 09:26 (UTC)
「ウィキペディア日本語版は6月25日に50万項目を達成しました。」と誇らしい表示があり、また、Wikipedia:発表/50万項目達成を見れば、過去からずっと、項目「量」の増大のみを追い続けていたことが窺い知れます。今後も「特筆性」などという規制をかけず、どんなことでも何でも載っている百科事典を目指すべきだと思います。--Peek-poke 2008年6月26日 (木) 22:45 (UTC)
数は分かり易いですから。いちおう「質」の側としてWikipedia:秀逸な記事はありますけどね。
この文章は量に対するものかどうか。単純に質の追求もするための文章ではないと私も思っています。かつては「信頼できる二次情報源が…」という事が前面に出ていましたが、本来は採録に値することを証明するための手段であって、二次情報源が無ければ採録には値しない、といった記事の内容(質)に関する指針(出典はあったほうが良いでしょうが、それはWikipedia:出典を明記するの守備範囲)ではないはずでしょう。量の追求(規制)をするのに最低限の内容(質)が担保できるかどうか、くらいには関わると思いますがね。質に関する方針は数多くありますけど、量に関する方針なんてあったかな。--Knua 2008年6月27日 (金) 13:42 (UTC)
記事の数は、場合によったら、各言語版の競争ということになりかねませんからねえ。私も、参加したてのころは、できるだけ多くの記事を作ろうと試みたものですが、例えば、「○○は××の首相である。△△年から△□年まで、首相を務めた」で終わってしまう文章では、読んだ人は、がっかりするでしょう。それぞれの方の編集方針があるので、押し付けは当然出来ませんけど、Aという記事ができた、その結果、B、C……Zがまだ、記事として出来ていない。だったら、みんなで協力して、その残りの記事を埋めていく作業があれば、記事の数は無尽蔵でも結構でしょう(例えば、こんな感じ)。記事が無限大に増えていく過程で、○○語の記事から借りてきたら記事は貧弱なままかもしれないけど、××語から翻訳してきたら記事の質が充実していく……。というのは理想ですよね。
ただ、皆様の得意分野が当然てんでばらばらであるでしょうけれども、本当に記事にする価値があるの?あるいは、独自研究とか妄想系の記事に出くわすと少しは、「記事の質と信憑性を考えて、記事を投下してくれないものかなあ」と、ため息をつきたくなることはありますけどね。--Tantal 2008年6月27日 (金) 14:24 (UTC)


「質」「量」という語に期待されているであろう意味の違いから議論が混乱しかねない気がします。以下の使い分けはいかがでしょう。

記事の数
項目数のこと
記事の量
各項目の文書量のこと
記事の主題
記事がとりあげる題材のこと
記事の内容
記事本文などの内容自体のこと
記事の質
記事の主題、または、記事の内容。まぎらわしいのでこの議論では用いない。

この議論に関係があるのは、「記事の主題」と、せいぜい「記事の数」だけかと思います。--Jms 2008年6月26日 (木) 23:10 (UTC)

「記事の量=記事の数」だと思ってましたが、確かに「記事の質=記事の主題、記事の内容」とは取れますね。注意します。--Knua 2008年6月27日 (金) 13:42 (UTC)
「記事の完成度」の意味で記述量が問題にされる場合があります。要するに{{stub}}にまつわる話です。{{stub}}の本来の意味について考えを示します。複数の信頼できる情報源の最大公約数としてタイトルの主題にたいして、7つのトピックスが取り上げられている場合を仮定します。Wikipediaに7つのうち1~2のトピックしかない場合は記事の完成度が著しく低い為に{{stub}}が貼られます。べつに記事量が512byte以下であるからという文字数の基準で{{stub}}が貼られるわけではないという点が重要です。
「複数の信頼できる情報源の最大公約数」ということばを使用しましたが、本質は「その分野でのコンセンサス」の意味であって、執筆者が記事作成に際して参照できる複数のソースにおいて積集合に相当するトピックという意味ではないという点は重要です。後者の場合、記事につけられている出典だけを問題にすればよいのですが、前者の場合はソースがどのような程度の情報収集に基づいて作成された所作物であるかでソースによってはコンセンサスに寄与する程度が多かったり少なかったりします。教科書などはコンセンサスであるか否かを徹底的に精査されてから収録されますが、新書などでは筆者の説明に都合のよいものだけ収録される場合もあります。「筆者の説明に都合のよい」というのはコンセンサスを保障しません。
よくありがちな議論では、「複数の信頼できる情報源の最大公約数」というのが、単純に収集した複数のソースの積集合をかぞえあげてトピックスとして、「その分野のコンセンサス」と判断してしまう場合も多く、「コンセンサス」の実態があまり問題にされません。(GoogleのHit数を比較するような話です)
まとめると、コンセンサスに対して記事の網羅度が高いと「記事の完成度」が高いのですが、情報ソースから引用した文字数が多いからといって「記事の完成度」が高いとは認められないです。言い換えると、「記事の完成度」を高めるためにその時点で加筆することが必須なトピックスが特筆性が高いトピックスになります。「その時点で」という限定をしたのは類似のトピックスがすでに執筆されてあると二番手、三番手の類似トピックスは「記事の完成度」に対する貢献度は低下します(「Wikipediaは事例リストではない」ということです)。なので、五番手、六番手などの類似トピックスは著名性や特筆性の為に追加する価値があるのか?ということになると考えます。--あら金 2008年6月27日 (金) 15:17 (UTC)
記事の完成度や記述量はこの議論の対象ではないと思うのですが如何でしょう。--Jms 2008年6月29日 (日) 19:40 (UTC)
「特筆性」は価値観に基づいてあるとか無いとか評価されます。最終的には価値の基準はなんであるかという点についてコンセンサスがないと特筆性の特性にかんする議論がかみ合いません。そのために例示しました。「特筆性」は「中立性」、「検証可能性」、「独自研究」のようにガイドラインと状況を比較してYesかNoを判定できず、「~と比べて特筆性がより高い」というように相対評価でしか判断できないので例示することは重要だと考えます。
ぎゃくに「はこの議論の対象ではないと思う」といわれても、Jms氏の下した結論はわかりますがどの点が「特筆性」と無関係であるかと考えておられるのかいうことはまったくわかりません。なので手がかりがないので「見解の相違ですね」としかいえないので「私はそうは考えません」とお答えするしかないようです。--あら金 2008年6月29日 (日) 21:58 (UTC)
「Notabilityとは、記事主題がウィキペディアに採録すべきかを示す基準である」と、前項で太字で書かれていることがこの議論の前提であると思います。この議論では記事の主題が問題とされているのであって、記事の完成度や記述量ではありません。百科事典編纂の上で共有される価値判断基準が必要であることはもちろんですが、ここで議論されるべきは記事主題の採録基準であって、記事の採録基準ではありません。--Jms 2008年6月29日 (日) 22:06 (UTC)

通常「特筆性・著名性」というのは、主観的だったり相対的だったりするところがあります。紙の百科事典などであれば、全体を眺めた上で監修者や編集部が線引きすることができます。しかし、ウィキペディアでは、そのような立場というのが存在しません。ある程度までは、「特筆性・著名性」がある/ないという判断を共有できるとしても、思い入れの強い編集者がいたり、それほど「明らか」に判断できる材料がなかったり、情報があったとしても境界線上にあったり、ということもあります。ですから、(Jmsさんのいう)「外形的な」基準を作らざるを得ない。

分野に特化した事典に掲載されているような項目を主題とするウィキペディアの記事は、特筆性を満たすと考えてよいでしょう。それはひとつの外形的な基準だと思います。

では、そうした事典に項目のない項目について、どういう基準を作るのがよいか。誰かが、ここまで、と線引きできるわけではないですから、特筆性・著名性があると、誰もが判断できる基準を作る必要があります。その基準を、「主題」だけで判断することは困難でしょう。そこで、「記事に書かれていること」に依拠する必要がでてきます。

そこで、その記事を書こうとしている人に、当該主題の特筆性・著名性を、検証可能な情報源で示してもらうという形で線を引くというのが、英語版の文書の意図するところであると考えます。つまり、信頼できる情報源の有無や多寡を用いて、特筆性・著名性を判断する。概念として存在するかどうかというのも、論争になりうるものですが、同様に判断できます。ここに翻訳されている英語版の方針は、そういうものだと思いますし、日本語版でも、似たような形にせざるを得ないと思います。確か英語版では、特筆性・著名性について検証可能な情報源が示されていなかったら、即時削除の対象ではなかったか。

その上で、どこまで広く/深く対象を含めるか、というのは、実は二次的なものだと思うのですが、それはそれで、線の引き方を考えていくことになると思います。これは、分野ごとの知識がないと判断できない面もあるでしょうから、プロジェクトなどに委ねる必要もあるでしょう。ひとまず、意見としてはそんなところです。--Ks aka 98 2008年6月30日 (月) 16:23 (UTC)

かなり先に進みましたね。本家の英語版を正しく解釈した場合は、そのように掲載基準の境界線上にある微妙な記事に対して、「Wikipedia:信頼できる情報源(日本語版では草案)」を記事の内容に示してもらうことでNotabilityを満たすと解釈するわけですね。
この意図を成り立たせるには、まず掲載基準となるもの決定することが必要です。この節では、基準をどうするかについて各人の意識調査から入りました。その上で、完璧な掲載基準を作ることは困難であることから、曖昧な部分を判断するのに「Wikipedia:信頼できる情報源により…」を判断基準とする、となるでしょう。英語版を踏襲するなら。--Knua 2008年7月5日 (土) 06:54 (UTC)
英語版を踏襲するなら、という前提の話ですが、はっきりさせておく必要があるのは、存命中の人物・団体に関しては英語版では二段階の基準があるということです。即時削除の対象になるen:Wikipedia:CSD#A7は検証可能性や信頼可能な情報源とは別の基準であり特筆性の下位の基準と位置づけられたもので、大雑把にいえば(おそらく即時削除業務にあたる専門外の管理者のための目安として)「何が特筆性にあたりそうかを明示してあるかどうか。」を要求するもので、人物・団体にしか適用されません。基本的にはNotabilityは通常の削除依頼に至る編集者同士の議論のルールを定めたものです。誤解があるようなので。--Cerberean 2008年7月12日 (土) 06:43 (UTC)
あー、何か違和感があるなぁーと思ったら日本語版のWikipedia:存命人物の伝記が英語版の2年前のままで削除までは踏み込んでないからだな。即時削除に導入できるとは思ってませんが、参考になりました。--Knua 2008年7月30日 (水) 15:57 (UTC)

現状のNotabilityの整理

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これまでの議論の筋道があまりよくわかっていないのですが、事実上のこれまでの路線の確認をしたということでしょうか? 総論として論じることが可能な内容の記事であれば、情報源や議論による合意形成という方法はこれまでもうまく機能してきたと思いますが、これまでにも話が出ているように、問題はより専門的な内容の記事ではないかと思います。これは各分野の専門家やプロジェクトに委ねざるを得ない部分が大きいと思いますが、Wikipedia上で数も質も十分なだけのその分野の専門家が議論に参加する保証というのはありません。例えば、掲載すべき人物かどうかの掲載基準というのは各分野でばらばらで、言ってしまえば半分は放置状態になっている部分もあるかと思いますが、じゃあその掲載基準を決定することができるかというのは、どの分野も縦割りがかなり進んでいると思いますので私は疑問です(例えば物理の物性理論のこの分野では有名、という方もいるが、その場合はその他の分野の物理の専門家の方でも知らないかもしれない。端的に言えば、ノーベル賞を取ったとたんに「著名人」の仲間入りをされる方がいらっしゃったりもする)。学会全体で認知されるほどの情報源による著名性が必要となれば、それはそれでひとつの方法ではありますが、現状だとその場合はかなりの数の人物項目が削除対象になると思われますので、信頼できる情報なら多いほうが良いという立場の私はあまり賛同できません。逆に、では専門分野を除く総論としてよりタイトな基準を決めようというのであれば、これまでの信頼できる情報源からの引用や議論による合意形成というのはうまく働いてきたと思いますので、あえてさらに議論を推し進めようとする意図があまりよくわかりません。英語版についてもざっと見たところ、日本版とあまりたいして変わらない状況のように思えるのですが、違う点があればまとめていただけると幸いです。--HATARK 2008年7月5日 (土) 11:07 (UTC)

確認といえば確認かもしれませんが、多くの方の意見を聞くことで出てくるアイデアというものもあるでしょう。プロジェクトに委ねるとか。
Notabilityの概念自体に反対される方が少ない無い現状で、細部から詰めすぎるのは良策とは思えません。議論の一切を行わず、方針化のみに突き進んだ反動として、一から議論をし直していると思っていただければ。
英語版とかつての日本語版との違いは即時削除か削除依頼か程度の違いのはずです。それなのに、日本語版での混乱は何が原因なのか。単純に議論不足なんでしょう。--Knua 2008年7月5日 (土) 11:43 (UTC)
その「混乱」とは具体的に何を言っているのかいまいちよくわかりませんので、よければ日本語版と英語版の状況の違いを含めてもう少し具体的にご説明願えないでしょうか?--HATARK 2008年7月5日 (土) 12:09 (UTC)
英語版の運用に関して詳細を存じませんので比較できませんが、Wikipedia‐ノート:特筆性/過去ログ1や削除依頼における誤ったWikipedia:特筆性の利用のされ方を検索していただければ少しばかり見えてくるでしょう。申し訳ないですが、具体的に説明できるほど局所的なことではありませんので。--Knua 2008年7月5日 (土) 12:28 (UTC)
いえ、そういうことではなくて、Kunaさんは「『英語版と比較して』なぜ日本語版がこれほど混乱しているのか」という意味のことをおっしゃったと思うのですが、私が観た限りでは、英語版に混乱がないとは思えないのです。「英語版でできているのだから日本語版でもできるはず」という意味での主張として「(日本語版では)議論不足なんでしょう」とおっしゃったと思ったのですが、その点に関しては同意できなかったというわけです。日本語版においても各項目での議論を「混乱」と呼ぶのであれば、それは許容されるべき範囲での混乱に留まっているのではないかというのが私の印象です。さらに言えば、大局的に具体的に(要点をまとめて)問題点を述べることもできない内容であれば、そのことを議論しようとしても、余計に混乱を招く元になるのではないでしょうか。現状の状況を踏まえて「確認」をしたいというのであればそれはそれで良いとは思いますが、せめて何を問題とし、この議論が何を目標としているのかを明確にして欲しいと願います。「混乱」の「原因」を探りたいというのであれば、その混乱が、Wikipediaのルールと用語の共有化がまだ十分になされていない、あるいは各専門家に任せるべき内容で十分な専門家同士の議論が行われていない、という程度のレベルではないという例を可能であれば具体的に示していただきたいです。それが示せないあるいは要点を述べることが出来ない、というのであれば、それはそもそも混乱が存在していないのではないかという疑念を抱かざるを得ません。--HATARK 2008年7月5日 (土) 12:35 (UTC)
英語版の混乱というのは、日々の大量の議論のことでしょうか。私にはより良い文章にするためのものと捉えましたが。削除依頼の場で混乱が生じているというなら非常に参考になりますのでお教えいただければありがたいです。
正直、ルールや用語の共有化に向けた議論は始まったばかりで、専門家に任せるという認識すら固まってない未熟すぎる文章なのです。それなのに、著名性・特筆性という言葉は非常によく使用される。ルールの共有化もなく広まってしまった、Notabilityの意図を無視した言葉の一人歩き。まずは、文章の方向性について共通の認識をしないことには先に進めないでしょう。スタートラインに立ったばかりの議論なのですから。文章を作るための議論ですが、それ以上に多くの人にNotabilityの意図を認識してもらわなけらばならない。--Knua 2008年7月5日 (土) 13:25 (UTC)
「英語版の混乱」については「日本語版と英語版を比較して状況の違いがわからない」という意味で書きました。先ほど「日本語版の混乱」とはなんですかと聞いたら具体的にいえないという答えが返ってきたので、そもそも何をKunaさんが「混乱」と呼んでいるのか実態がよくわかりません(日本語版に限らない混乱、という意味でなら理解できるのですが)。先ほどと立場が逆ですが、私には日本語版の議論も「混乱ではなく」記事をより良くするためのものと捉えているわけです。そして日本語版と英語版の議論の質的な違いは何かと先ほどお聞きしたわけです。用語やルールについての誤解という意味での混乱なら英語版でも見かけますし、[要出典]タグを貼りさえすれば良いような内容でも削除されてしまうことをよく見かけました。どちらかというと英語版では灰色は削除、というスタンスのようには思えましたが、英語版と日本語版の違いについて個人的に気付けたのはそのくらいです。--HATARK 2008年7月5日 (土) 13:48 (UTC)
ふむ、私の中では日本語版での議論がほぼ皆無であったと認識しています。質の以前に。Notabilityの訳語について投票することは、内容に関する議論ではないでしょう。議論を行わないままにWikipedia:削除の方針で著名性の要件が記事の存廃として採用されてしまったために、Notabilityの意図が誤って認識され、有名でないという理由で出された削除依頼の中で、著名性・特筆性という言葉に反発させて議論をわざわざ空転させているのです。これが混乱。もう何年も前から続いている日本語版にとっての根深いトラウマです。--Knua 2008年7月5日 (土) 14:52 (UTC)
延々独り言みたいなノートでの議論を展開してきたKnuaさんが勝手に混乱して勝手にトラウマになってるだけですね。勝手に議論を要約したり台無しにして楽しんでいるだけです。はやく「あなた」の意見を要約しなさいよ。迷惑ですから。Wikipediaのユーザは「はじめから」議論したりすることを望んでるのではなく、英語版Notabilityを翻訳したものを導入したいだけだということを理解できていないのは貴方だけですよ。--121.112.78.247 2008年7月6日 (日) 03:22 (UTC)
肝に銘じておきます。--Knua 2008年7月6日 (日) 04:19 (UTC)

先行修正

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なるほど、解説をありがとうございます。議論なしに導入することはそれはそれで各項目や各分野でのノートの議論に委ねられているとも捉えることができ、英語版をトップダウン型とするとダウンアップ型で、自由度が高いという意味で必ずしもマイナス面だけではないと思いますが、各自に委ねたはずなのに、各自があるはずのない「明確な合意が形成された確固たる定義とルール」がすでに決まっているんだと誤解していると自由度も抹消していまい、大問題ですね。ウィキペディアの著名性に関する記述などを見る限り、著名性に関しては議論を呼ぶものであるとあったのと、ウィキペディアの性質と目的を考えるに、各項目における議論において、最終的には「その記事が掲載されるべきか否か」という点が最優先で(各個人の主観と客観に基づいて)判断されると思っていました。そしてNotabilityの取り扱いや定義については「明確な定義やルールは決まっていない」ということは共通意識として形成されているものだと認識していました(実際にそういう議論もあるところはあって見かけたこともあったので)。そして、各項目や分野ごとにそれなりの慣例や議論が蓄積されているはずなので、そろそろそれらを回収しよう、というのがここでの議論の主題かと思っていましたが、各自が「すでに終わったこと」と誤解してしまっていてはそれすら蓄積されていない可能性もありますね。管理者レベルにおいてもそうなのでしょうか? もしそうなら、「現状の日本語版でのNotabilityは曖昧でありその位置づけも不明」という点については議論によって合意が形成できると思いますので、ただちにその合意を形成し、そのことを明確にNotabilitiyや削除方針の記述などに大きく反映させることを提案します(つまり議論を促す)。もしそうでないなら、管理者レベルにおいては各分野や項目においてある程度の慣例や議論の蓄積がなされていると思いますので、管理者を集め、それらをまずリストアップするのが正攻法ではないかと考えます。--HATARK 2008年7月5日 (土) 17:45 (UTC)

失礼ながら節分けしました。日本語版はどうなんでしょかね。ノートの議論に委ねているようにも見えますが、Wikipedia:特筆性 (人物)を翻訳してコンセンサスだとして押し付けたあたり、トップダウンとも取れますが。まぁ、両者の悪い部分だけ採用しましたと。
おそらく各分野の慣例はまだ多くありません。いくつかは大量の削除依頼が提出された際、ウィキプロジェクトに議論を促されて作られたものもありますが数えるほどです。リストアップをする前に各分野へ議論を促さなければならないでしょう。そのための骨格は#ウィキペディアに採録すべき記事とはで進行中なわけですが。これまでの議論を反映させるのは良いと思います。といっても曖昧・不明だ、と明記しても対処療法にしかならないので、冒頭の定義部分の改定案を考えてみました。
Notability(著名性・特筆性)とは、記事主題がウィキペディアに採録すべきかを示す基準です。ウィキペディアの記事は各分野で定められた採録基準を満たす必要があります。基準を満たすか微妙な場合、または基準自体が存在しない場合は、信頼できる情報源で相当量の記載がされている事を明記することでNotabilityを満たすことを証明することができます。
少しは分かりやすくなったかな。--Knua 2008年7月6日 (日) 04:19 (UTC)

どこに書くのが適切なのかわからないんで、とりあえずここに。

管理者レベルで云々というのは、関係ないです。方針の策定に管理者であることは何ら意味を持ちません。せいぜいが、一定の活動歴があり、信任される程度には方針類を理解していると思われているというくらい。あとは、権限行使に関する経験というのはありますし、作業している上で自分の関心のある分野以外の記事の状況を多少は把握しているということくらい。

英語版がどうなってるか、ということ自体は、実はどうでもよくて、日本語版で最適なものを考えればよいと思います。ただ、しばしば方針類の議論で英語版を参照する事が多いのは、ひとつには検証可能性など議論で覆すべきではない部分があることというのがあって、あとは、先行して多くの人によって議論が行われているわけですから、その成果を得ることで、似たような議論の繰り返しや論点の見逃しを避けることができるということがあるからではないかと。

で、あとは、どういう問題があると認識されているか、ウィキペディアの項目や記述に必要な特筆性というのは、どういうものか、ということで、ある程度の合意というか、共通認識があって、それをウィキペディアの仕組みの中で実現させるにはどうすればいいか、どこはフォローできて、どこは無理で、どれくらい余計な規制がかかる可能性があるか、といったことから、判断していくしかないのではないか。

たとえば、ぼくが学生時代にやっていたバンドの項目を作ることは、百科事典として認められるかどうか。出典として当時のライブハウスのスケジュール表を挙げる事ができるでしょう。現在活動していないのですから、「宣伝」ではないという抗弁をするかもしれません。これを、ぼく自身が立てた場合にどうなるか。バンド関係者ではない誰かが立てた場合どうなるか。バンドではなく、住んでいる町の個人商店の単独記事とかは、どうなるか。--Ks aka 98 2008年7月6日 (日) 07:10 (UTC)

管理者レベルで、というのは、ある程度ウィキペディアの過去の事例や方針を熟知しているユーザーという意味で用いました。英語版についてもそうで、私も日本語版で最適なものを考えれば良いと思いますが、私は現状で最適とはいわないまでも十分適切ではないかとも思っているわけです。本当に現状が大きな見過ごすことのできない問題点を抱え、それがどういうものかを明らかにするために管理者レベルでのユーザーの意見を集めたほうが得策ではないかと考えました。というのも、英語版でのいわゆるトップダウン方式のものは、信頼できる多数のユーザーによって信頼できる結論が得られるということが前提となっており、日本語版ではそれらが十分になされ得るとはあまり思えません。たとえばここで議論して合意を形成したとしても、それは本当にごく一部のユーザーの議論による意見と結論に過ぎない、という可能性が払拭できませんし、そういう危険性があるからこそ日本語版では現行の状況になっているのではないかと考えています。したがって、ある程度信頼できる合意を形成するためにも、ある程度まとまった信頼できるユーザーの集合体という意味で、管理レベルにあるユーザーの総意としての意見をまとめる必要が少なくともあるのではないかと思いました。そうでないと「ここで行われている議論に参加しているユーザー」という点だけでかなりのフィルターがかかってしまう危険性が想像以上にあるのではないかと危惧しています。まずは信頼できるランダムサンプルを採取すべき、との立場です。Ks aka 98さんのおっしゃられるバンドの項目についても、各項目ノートや削除依頼上において議論がなされ、最終的には(各人の立場や意見を反映した)民主主義的な投票によって決定がなされる、という現状で良いのではないでしょうか。ただしその際、もし多数のユーザーが「すでにルールや定義が明確化されており、機械的に行える」という幻想を抱いているのであれば、問題であるとは思います。したがって、私は「曖昧であるなら曖昧であるとちゃんと言ってその都度議論すればそれで良い」という立場であり、もちろん用語の整理をしておくことは有用であると思いますが、問題は「定義や位置づけが曖昧である」ことにあるのではなく、「ありもしない定義やルールをあると思っている」ことが問題であると思っており、もしそういう誤解が生じていなければ特に問題にする必要は無いのではないかと思っています。--HATARK 2008年7月6日 (日) 07:40 (UTC)
んと、余談気味ですが、HATARK さんがおっしゃっている方法論的なというか、参加者への評価というか、そのへんの問題は、特筆性に限らず、他の方針やガイドラインでも同じことが言えますし、管理レベルにあるかどうかの区分をどうやってつけるか、という判断という問題が再生産されてしまいます。
なので、議論は参加したい人が参加する、重要な問題については最低限決定までの間に告知をして参加者を募る、議論は自由に行い、安易に多数決に頼らない、ということでやっていくしかないんじゃないかなあ。この議論に関心のある利用者であり、議論の進展と問題の解決を望んでいる利用者が、ここに参加している利用者、ということなわけで。過去の議論は閲覧可能ですから、個々に参照していただき、あるいは参照先を示すということで、議論に追いつくことはできます。この種のオープンコンテンツでは、「各分野や項目においてある程度の慣例や議論の蓄積」を収集することは、それを必要と考える人がする、というのが基本じゃないかと。--Ks aka 98 2008年7月6日 (日) 08:05 (UTC)
その「基本」の周知や習熟が徹底されていないがゆえに、議論なしの導入が行われたのではないかとも考えていますので、その「基本」の周知のためにはある程度まとまった数のユーザーへの告知というか宣伝みたいなのが必要ではないか、と考えました。実行するとなるとかなり厄介なので私も本気でやろうとは実は考えていませんでしたが、しかしこの種の議論を実際に条文その他に反映させるという実効力を本気で持たせるなら、そのくらいかなり大きな転換点になり得るのではないかと思いますし、この場合は「これまでの方針を転換して、これからはこういうスタンスでいくよ」という周知が徹底していないとかえって混乱を増したり、結局は空洞化するのではないかとも思えます。議論を必要としている人と、その具体的な解決策を必要としている人と、大半のユーザーの総意というのは必ずしも一致しません。私は議論はおおいに結構だと思いますが、その結論を本当に実効力あるものとして反映させるのであれば、現状では「(実効力をもって)解決すべき問題である」ことの証明が不十分ではないかと思います。なのでかいつまんで言えば、仮に「こういう変更をしてみてはどうか」というような議論は有用ではあるとは思いますが、じゃあ実際に変更を加えましょう、となれば「現状では」賛成できないかもしれない、という立場であることを自由な議論の範疇として表明しました。オープンコンテンツのルールに則るのであれば、「解決すべき問題か否か/現状のままで良いかどうか」という点について決を採るべきだと思います。しかし最初にこれを行っては議論の妨げにもなり得るとは思うので、そのへんは結論が見えたあたりでやればよいとも考えていますが。--HATARK 2008年7月6日 (日) 09:23 (UTC)
いちおう、議論参加のお願いはWikipedia:お知らせとかにしているので、「管理者レベル」というような人たちには何かしてるということは分かってもらえていると信じてます。ですが残念ながら毎日ウォッチリストを見ている人は多くないでしょうし、実効性を持って初めて危険性に気づき、多数の反発を招いた結果に空洞化・廃案となるケースも少なくありません。この文章は削除の基準にもなりうるものなので突如現れたガイドラインに反発する可能性は高いでしょう。反発のエネルギーが文章の否定ではなく、基準の改定に向かえば最高なのですが。多くの人に参加してもらいたいので簡単なテーマを挙げてみたのですが効果は薄かったようですね…。
現状のままで良いというのはこの場合、何を意味しているのでしょうか。ガイドライン化が一度拒否され、整備が行われない草案文章。一方で、著名性・特筆性という言葉だけは浸透している。この文章の進む道は廃案にしてNotabilityを否定するのか、方針化して正しく認識してもらうかの二者択一しかないと思いますが。結果は正反対ですが、どちらも議論なくしてたどり着けないゴールですし、立ち止まるという選択肢は私たちには残されていない気がしますが。
そう、全面改訂&ガイドライン化の暁にはMediaWiki:Sitenoticeに掲載して欲しいなと思ってますけど。このサイトの最上部に大々的に。--Knua 2008年7月6日 (日) 15:51 (UTC)

議論が停滞気味なのでコメントしてみます。議論のとっかかりにしてもらえれば幸いです。
まず「ウィキペディアに採録すべき記事」の範囲としては多少広めにとることに同意します。紙の百科事典では紙幅の都合上割愛されるようなものであってもその分野の専門的な見地から見て重要と判断されるものは含めるということでいいと思います。ですがその線引きについてはある程度はっきりとした外形的な基準を作る必要があると思います。あまり曖昧で結局何を言っているのかわからないような基準は削除の審議を混乱させる要因になりかねません。
即時削除なのか通常の削除依頼なのかについては実際に対処に当たる管理者の方の見解を聞いて判断したいところです。簡素な手続きで時間的に早く対処できる方が楽なのか、苦情が寄せられた時に「コミュニティーによる審議の結果だから」という説明を用意できる方が楽なのか。少し前に特筆性の欠如を理由とする削除がかなり乱雑に行われた時期があって、即時削除ではちょっと危険なのでは、と思わせるものがあったのですが、こうした案件に辣腕をふるった管理者さんが幸か不幸か解任されてしまったので、今なら即時削除でもうまくいきそうな気もします。
ではそもそもなぜWikipediaの項目の主題には特筆性が要求されるのか、それはWikipediaの存在意義が閲覧者の利便に供することにあり、執筆者の自己満足のためにあるのではない、ということだと思います。十分な社会的関心の認められない主題について執筆を行うのは執筆者の自己満足であり、公共の利益に資することを意図して財団に寄付をした方の善意に対する背信行為だからではないでしょうか。また、実際問題として特筆性に問題のある項目というのは項目主題の関係者が宣伝や売名を意図して投稿したと考えられるケースが多く、そのようなものを掲載しておくことはWikipediaの中立性に重大な疑義を生じさせることになります。この文書の整備が求められているのはそういった事情によるのだと思います。--sergei 2008年8月23日 (土) 14:49 (UTC)

Template:特筆性について

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Template:特筆性についてですが、現状では特筆性を明らかにせず作成され放置された記事を見つけることは難しく、そうした記事に対してカテゴリが付与されるようにテンプレートを修正していただけると他のユーザーによる加筆ができるものもあると思いますがいかがでしょうか。--Tiyoringo 2008年8月23日 (土) 02:05 (UTC)

[[Category:特筆性を欠いているおそれがある記事]](カテゴリ名は一例)みたいなカテゴリを付与するようにテンプレートを修正したほうがいいかもしれませんね。--Web comic 2008年8月23日 (土) 03:46 (UTC)
「特筆性」という言葉自体に異論があるのと、結局は適切な出典を示せれば良いのですから、「Category:出典を必要とする記事」で十分では。--Jms 2008年8月23日 (土) 04:33 (UTC)
出典さえあればOKとなると市民マラソンの優勝者などでさえOKとなってしまうのではと思いますがいかがでしょうか。特筆性という言葉についてこれまで長く議論がされてきていることは理解していますが出典があれば良いだけでなくWikipedia:即時削除の方針が改訂されて非常に短いもの、定義未満などは対象外となりましたが宣伝立項や投稿するユーザーの身近なものではあるがWikipediaに掲載するに疑問があるもの(その時点での記事内容では)にテンプレートが貼られているものと思います。出典を必要とする記事とすると記述の一部に要出典があるものも入ってしまうのでは。--Tiyoringo 2008年8月23日 (土) 17:35 (UTC)
Wikipedia:特筆性はガイドラインですらない以上、Template:特筆性が求めているのは実効的には「それを立証する出典を示してください」すなわち検証可能性を満たす出典を示すことだけです。それならば「Category:出典を必要とする記事」で十分です。--Jms 2008年8月23日 (土) 18:08 (UTC)
単純に出典を求めるだけの記事との区別をつけるためにも特筆性に言及したカテゴリを作ったほうが便利だと思いますが。そこまでして特筆性という言葉を排除する必要性は感じません。--Web comic 2008年8月23日 (土) 18:39 (UTC)
「特筆性」以外の言葉であっても、結局は草案でしかなく、現状では出典明示以上の要求はできないのではないか、というのは同じです。Wikipedia:特筆性についてまとめるのが先にすべきことでしょう。それまでは「Category:出典を必要とする記事」で十分であり、Wikipedia:特筆性がガイドラインになった時点でTemplate:特筆性の指示するカテゴリを「出典を必要とする記事」以外のもの (を必要に応じて作成して) に切替えれば良いのではありませんか。根拠となる方針文書がしっかりしていないのに対応するカテゴリを作ることを問題にしています。--Jms 2008年8月23日 (土) 18:48 (UTC)
カテゴリ付与がされた方がいいとは私もかねがね思っていました。Tiyoringoさんのご提案に賛成します。今後この文書の名称が変更されることがあったとしても、カテゴリの名称の変更はテンプレートだけをいじれば済むことなので、名称の問題はあまり気にしなくていいのではないかと思います。--sergei 2008年8月23日 (土) 14:49 (UTC)
一応賛否の表明はしていませんでしたが改めて今回の提案に賛成いたします。カテゴリ名はJmsさんが例にあげられていた[[Category:出典を必要とする記事]]との区別がつきやすいように[[Category:特筆性を証明する出典を必要とする記事]]が現時点では適切ではないでしょうか。特筆性があるかどうかはたとえWikipedia:特筆性が方針になっていないにしても、削除の方針における「ケースE」と密接な関係がありますのでカテゴリとして作成することは良質な百科事典作成に役立つはずです。--Web comic 2008年8月23日 (土) 19:02 (UTC)
その場合、Template:特筆性が参照させるべきはWikipedia:特筆性ではなく「ケースE」ですね。同時にTemplate:特筆性をそのように修正する ([[Wikipedia:特筆性|特筆性]]とあるのを[[Wikipedia:削除の方針#ケース E: 百科事典的でない記事|特筆性]]とする)という条件ならば、よろしいと思います。カテゴリ名は「特筆性の疑わしい記事」か、「ケースE」を根拠とするなら「百科事典的でない記事」ないし「百科事典に記載するほどの著名性・特筆性がない記事」ではないでしょうか。--Jms 2008年8月23日 (土) 19:49 (UTC)
  • 特筆性で問題となる記事の大半は検証可能性で対処できるものですし、「市民マラソンの優勝者」みたいな記事だけを対象にするので宜しいかと思います。「特筆性」というのは造語(特筆+~性)のようなのですっきりしないということは感じますが、「著名性」ということばのもたらす誤解(著名でなければWikipediaに投稿できない)のほうが被害が大きそうなので、造語でも仕方が無いかなという感じはします。--ネコバット 2008年8月31日 (日) 12:29 (UTC)