ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座
ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座 | |||||||||
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詳細 | |||||||||
管理団体 |
日本プロレス 全日本プロレス | ||||||||
創立 | 1970年10月 | ||||||||
廃止 | 1989年4月18日 | ||||||||
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ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座(ユナイテッド・ナショナル・ヘビーきゅうおうざ)は、全日本プロレスが管理、PWFが認定している王座。UNヘビー級王座(ユー・エヌ・ヘビーきゅうおうざ)の略称で表記、呼称されている。NWAの認可だったこともあり、日本国外ではNWAユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座(NWA United National Heavyweight Title)とも呼称されている[1]。現在は三冠ヘビー級王座を構成しているチャンピオンベルトの1つである。
ベルト自体は吉永プリンス作成で、日本製のベルトである。
歴史
[編集]日本プロレスがNETでのテレビ中継を開始するに伴い、それまで単独で放送していた日本テレビに配慮し、フラッグシップタイトルであるインターナショナル・ヘビー級王座のタイトルマッチは日本テレビのみでの放送となったため、NETでの看板となる王座を作るため、NWAハリウッド・レスリングのプロモーターだったマイク・ラベールに働きかけ、アメリカ、カナダ、メキシコの3国で通用するNWAの国際タイトルとして、1970年10月に新設された。初代王者のデール・ルイスからアントニオ猪木に奪取されたジョン・トロスまでの変遷については、プロレス雑誌でも諸説がある。
1971年3月26日、ロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムにおいて、猪木がトロスを破って王座を獲得後、日本に定着する。猪木はUN王座を獲得したことで、インターナショナル・ヘビー級王者であったジャイアント馬場に対抗するはずであったが[2]、猪木が日本プロレスを除名されるとともにベルトはNWA本部へ返還された。その後、坂口征二が王者となり延べ1年にわたり保持し、その坂口が日本プロレス離脱後には高千穂明久が王者となった[3]が、間もなく日本プロレスが崩壊し、王座は休眠状態になった。
1976年に全日本プロレスの要請で王座が復活し[4][5]、以降は同団体に定着する。ジャンボ鶴田が王者になったが、タイトルの格はPWFヘビー級王座より下とされていた。その鶴田も5度目の王獲得後、インター王座の獲得に専念するために王座を返上してしまい、全日本におけるタイトルの格は3番目ということになってしまった。その後、天龍源一郎が長きにわたってベルトを保持し、天龍の代名詞といわれるまでになった。
1989年4月18日に鶴田が本王座、PWF王座、インター王座の三冠を統一してからは、三冠ヘビー級王座のベルトの一本として定着する。
プロレスリングZERO1にてNWA UNヘビー級王座という同名の王座が存在しているが、こちらの王座は継承や復活ではなく、新たに認定された王座で関連性はまったくない[6]。
歴代王者
[編集]歴代 | 選手 | 戴冠回数 | 防衛回数 | 獲得日付 | 獲得場所 (対戦相手・その他) |
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初代 | デール・ルイス | 1 | 不明 | 1970年10月 | NWAが王者に認定 |
第2代 | パンテラ・ネグラ | 1 | 不明 | 1970年10月23日 | カリフォルニア州ロサンゼルス |
第3代 | ジョン・トロス | 1 | 不明 | 1970年11月20日 | カリフォルニア州ロサンゼルス |
第4代 | レイ・メンドーサ | 1 | 不明 | 1970年12月4日 | カリフォルニア州ロサンゼルス |
第5代 | ジョン・トロス | 2 | 不明 | 1971年2月16日 | カリフォルニア州ロサンゼルス 前王者が防衛戦を行わなかったため認定 |
第6代 | アントニオ猪木 | 1 | 4 | 1971年3月26日 | カリフォルニア州ロサンゼルス 日本プロレスを除名のため返上 |
第7代 | キング・クロー | 1 | 0 | 1972年1月 | ブリティッシュコロンビア州バンクーバー 王座決定トーナメントで獲得 セーラー・トーマス |
第8代 | 坂口征二 | 1 | 3 | 1972年2月11日 | カリフォルニア州ロサンゼルス |
第9代 | ザ・シーク | 1 | 0 | 1972年9月6日 | 田園コロシアム |
第10代 | 坂口征二 | 2 | 4 | 1972年9月7日 | 大阪府立体育館 |
第11代 | ジョニー・バレンタイン | 1 | 0 | 1973年3月2日 | 横浜文化体育館 |
第12代 | 高千穂明久 | 1 | 4 | 1973年3月8日 | 佐野市民会館 日本プロレスが崩壊のため返上 |
第13代 | ジャンボ鶴田 | 1 | 2 | 1976年8月28日 | 日本大学講堂 王座決定戦で獲得 ジャック・ブリスコ |
第14代 | ビル・ロビンソン | 1 | 1 | 1977年3月5日 | 秋田市立体育館 |
第15代 | ジャンボ鶴田 | 2 | 12 | 1977年3月23日 | フロリダ州マイアミ |
第16代 | ディック・マードック | 1 | 1 | 1980年2月23日 | 鹿児島県立体育館 |
第17代 | ジャンボ鶴田 | 3 | 2 | 1980年3月5日 | 黒磯市公会堂 |
第18代 | アブドーラ・ザ・ブッチャー | 1 | 3 | 1980年10月13日 | 愛知県体育館 |
第19代 | ジャンボ鶴田 | 4 | 13 | 1981年1月22日 | 韮崎市体育館 |
第20代 | ハーリー・レイス | 1 | 0 | 1982年8月1日 | 後楽園ホール |
第21代 | ジャンボ鶴田 | 5 | 6 | 1982年10月24日 | 北海道立北見体育センター インターナショナル・ヘビー級王座の防衛戦に専念するため返上 |
第22代 | テッド・デビアス | 1 | 6 | 1983年10月14日 | 佐世保市体育文化館 王座決定戦で獲得 天龍源一郎 |
第23代 | マイケル・ヘイズ | 1 | 0 | 1984年1月28日 | ジョージア州アセンズ |
第24代 | デビッド・フォン・エリック | 1 | 0 | 1984年2月3日 | テキサス州ダラス 死去のため空位 |
第25代 | 天龍源一郎 | 1 | 10 | 1984年2月23日 | 蔵前国技館 王座決定戦で獲得 リッキー・スティムボート 返上 |
第26代 | 天龍源一郎 | 2 | 10 | 1986年4月26日 | 大宮スケートセンター テッド・デビアス PWFヘビー級王座との二冠王者 |
第27代 | スタン・ハンセン | 1 | 3 | 1988年7月27日 | 長野市民体育館 PWFヘビー級王座との二冠王者 |
第28代 | ジャンボ鶴田 | 6 | 0 | 1989年4月18日 | 大田区体育館 PWFヘビー級王座、インターナショナル・ヘビー級王座との王座統一戦が行われて三冠ヘビー級王座となる |
主な記録
[編集]- 最多戴冠記録:6回
- ジャンボ鶴田(第13・15・17・19・21・28代)
- 最多連続防衛:13回
- ジャンボ鶴田
- 最多通算防衛:35回
- ジャンボ鶴田
脚注
[編集]- ^ “NWA United National Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2022年10月5日閲覧。
- ^ 猪木は馬場への挑戦時に、「インター王者とUN王者はどちらが強いのかファンの前に明確にすべき」との論法を用いている。
- ^ 高千穂が王座を奪取した試合は、日本プロレスという団体自体の、テレビ中継最後の試合でもあった。
- ^ 復活当初は「NWAが認定し、日本プロレスが管理」するタイトルという位置付けだった。1976年8月28日に行われた復活王座決定戦では、日本プロレス(会社組織としては、まだ存在していた)の代表であった芳の里淳三がタイトルマッチ宣言を行い、その旨にも言及している。その後、王座は「NWAが認可し、PWFが認定する」形態に移行。
- ^ 休眠前に王座を保持していた高千穂に対しても、馬場から直々に王座を譲るよう打診があり、高千穂も受諾した(辰巳出版『"東洋の神秘"ザ・グレート・カブキ自伝』2014年10月29日 p105 ISBN 9784777813933)。
- ^ 当初はNWA本部が認定していたが、現在はニュー・レスリング・アライアンスという別組織が認定する王座となっている。
外部リンク
[編集]関連項目
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