高橋円三郎
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高橋 円三郎 たかはし えんざぶろう | |
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生年月日 | 1894年9月26日 |
出生地 | 島根県出雲市(旧今市町) |
没年月日 | 1956年6月4日(61歳没) |
死没地 | 東京都文京区自宅 |
出身校 | 早稲田大学大学部政治経済学科 |
前職 | 東京朝日新聞社社員 |
所属政党 |
(立憲政友会→) 自由党 |
衆議院議員(2期目) | |
選挙区 | 島根県全県区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1953年4月19日 - 1955年1月24日 |
選挙区 | 島根県第1区(中選挙区) |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1937年4月30日 - 1942年4月29日 |
高橋 円三郎(圓三郎、たかはし えんざぶろう、1894年(明治27年)9月26日[1] - 1956年(昭和31年)6月4日[2])は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。
略歴
[編集]島根県[2]神門郡今市町[3](簸川郡今市町を経て現:出雲市[4])に父・徳助の長男として生まれる。1920年(大正9年)早稲田大学大学部政治経済学科を卒業[2][4]後、山下汽船に入社[4]。その後、報知新聞記者、東京朝日新聞記者を務めた[2][4]。
政界を志し[4]法制局事務嘱託に就任[2][4]。1937年(昭和12年)第20回衆議院議員総選挙に立憲政友会から立候補し当選[4][5]。農林大臣秘書官、日本大豆統制常任監査役を務めた[2][4]。1940年(昭和15年)帝国油糧統制筆頭理事、太陽商社取締役となる[2][4]。1946年(昭和21年)山陰日日新聞社長に就任[4]。1947年(昭和22年)公職追放となった[6]。
1952年(昭和27年)緒方竹虎内閣官房長官秘書官となり[4]、1953年(昭和28年)第26回総選挙に自由党から立候補し、再度当選(トップ当選)[4][7][8]。自由党副幹事長を務めた[2]。1955年(昭和30年)第27回衆議院議員総選挙に自由党から立候補して次点で落選した[7][9]
1956年、文京区の自宅で死去した。
国政選挙歴
[編集]- 第20回衆議院議員総選挙(島根県第1区、1937年4月、立憲政友会)当選 [5]
- 第21回衆議院議員総選挙(島根県第1区、1942年4月、翼賛政治体制協議会推薦)次点落選[10]
- 第25回衆議院議員総選挙(島根県全県区、1952年10月、自由党)落選[7]
- 第26回衆議院議員総選挙(島根県全県区、1953年4月、吉田自由党)当選[7]
- 第27回衆議院議員総選挙(島根県全県区、1955年2月、自由党)次点落選[7]
脚注
[編集]- ^ 衆議院『第七十二回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1937年、23頁。
- ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』377頁。
- ^ 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』267頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『島根県歴史人物事典』332頁。
- ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 第20回』413頁。
- ^ 公職追放の該当事項は「推薦議員」。総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、617頁。NDLJP:1276156。
- ^ a b c d e 『国政選挙総覧:1947-2016』302頁。
- ^ “第26回衆議院議員総選挙”. 島根県選挙管理委員会. 2020年10月5日閲覧。
- ^ “第27回衆議院議員総選挙(昭和30年2月27日執行)”. 島根県選挙管理委員会. 2020年10月5日閲覧。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第21回』411頁。
参考文献
[編集]- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第20回』衆議院事務局、1937年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第21回』衆議院事務局、1943年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『新日本人物大観(島根県版)』人事調査通信社、1957年、セ・タ42頁。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 島根県歴史人物事典刊行委員会編『島根県歴史人物事典』山陰中央新報社、1997年。
- 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。