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阿部正明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
阿部 正明
時代 江戸時代前期
生誕 明暦元年(1655年
死没 享保4年9月16日1719年10月28日
改名 正貞→正方→正明
別名 七三郎(通称
墓所 東京都大田区池上本門寺
官位 従五位下志摩守
幕府 江戸幕府 中奥小姓小姓組番頭、書院番頭、大番頭、側衆
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
氏族 阿部氏
父母 父:阿部正能、母:牧野信成の娘
兄弟 正武正明正房正員、女(松平康官正室)
永井直右の娘
七三郎(早世)、養子:正府
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阿部 正明(あべ まさあきら)は、江戸時代前期の旗本忍藩阿部正能の二男。老中阿部忠秋の義孫にあたる。はじめ正貞(まささだ)、正方(まさかた)と名乗った。

明暦元年(1655年)、阿部正能(当時は忍藩主阿部忠秋の養嗣子にして大多喜藩主)の二男として生まれる。寛文12年(1672年)12月8日、将軍徳川家綱にはじめて御目見する。

延宝5年(1677年)7月4日、父の隠居と兄正武の家督相続にあたり、阿部家所領から上総国夷隅郡(旧大多喜藩領)のうち5000石を分与され寄合に列する。延宝8年(1680年)8月晦日、中奥小姓となり、延宝9年(1681年)7月6日には小姓組番頭に昇進する。同年12月27日、従五位下志摩守に叙任された。天和2年(1682年)4月21日、上野国新田山田郡、および下野国安蘇郡のうち1000石加増され、合計6000石を知行する。貞享2年(1685年)10月3日に書院番頭、元禄8年(1695年)2月21日、大番頭を務め、正徳5年(1715年)3月11日には側衆となった。

享保4年(1719年)9月16日、病死した。享年65。実子が早世したため、甥(正武の子)の正府を養嗣子に迎え家督を継がせた。

参考文献

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