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阿曽沼元理

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
阿曽沼元理
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 不詳
死没 承応2年11月14日[1]1654年1月2日
改名 天野兵七[1]幼名)→阿曽沼元信[1]→元理[1]
別名 阿曽沼元随[1]
通称:宮三郎[1]、左兵衛尉[1]、帯刀[1]
官位 石見守[1]
主君 毛利輝元秀就
長州藩
氏族 大江姓毛利氏藤姓足利氏阿曽沼氏
父母 父:天野元政、母:木梨隆盛の娘
養父:阿曽沼元郷
兄弟 毛利元倶天野元以阿曽沼元理天野元雅天野就員毛利元嘉、女(毛利元宣室)、女(細川元董室)、女(椙杜元周室)、女(梅香寺専誉瑩)
正室:阿曽沼元郷の娘[1]
継室:宍戸元続の娘[1]
就致[1]、女(宍道就旨室)[1]
女(清光寺二世の良重室)[1]、女(夭折)[1]
女(夭折)[1]、女(阿曽沼秀光室)[1]
養子:秀光秋里元平の子)[1]
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阿曽沼 元理(あそぬま もとまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武士毛利氏家臣で長州藩士。毛利元就の七男である天野元政の子で、阿曽沼元郷の娘婿となり阿曽沼氏を相続した。禄高は2500石。

生涯

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毛利元就の七男である天野元政の子として生まれる[1]

慶長6年(1601年8月3日毛利氏家臣の阿曽沼元郷が死去。当時、元郷には嗣子がいなかったが正室が妊娠していたため、同年8月26日に輝元は佐世元嘉に書状を送り、男子が生まれた場合はその男子に阿曽沼氏を相続させ、女子が生まれた場合は毛利秀元天野元政と相談した上で決定するとしたが、翌年に生まれた子は女子であった。そこで輝元は毛利秀元と天野元政と相談し、元政の子である兵七(後の元理)が阿曽沼元郷の娘と婚姻し、婿養子として阿曽沼氏を相続することと決まった。

慶長7年(1602年6月14日、輝元から加冠状を受けて元服し、「元」の偏諱を与えられて「元理」と名乗った上で、将来的に元郷の娘と婚姻することとして阿曽沼氏を相続した。なお、約定に違反した際には元郷の知行は元郷の娘の方へ与えるとも決められている。

慶長14年(1609年4月29日に実父・元政が死去し、同年12月28日に輝元から「左兵衛尉」の官途名を与えられ、翌慶長15年(1610年10月10日には、毛利秀元から疎意無き旨を誓う血判起請文を与えられた。慶長17年(1612年11月19日には毛利秀就から「帯刀左衛門尉」の官途名を与えられる。

慶長20年(1615年4月14日の、毛利元就の遺訓に従い毛利家へ別心を抱かない旨を誓った毛利一門の連署起請文では「阿曽沼左兵衛頭元随」と署名している[注釈 1]

寛永9年(1632年9月5日毛利秀就から「石見守」の受領名を与えられ、寛永14年(1637年3月3日、元理の2500石の知行を子の就致が相続することを秀就に認められた。

承応2年(1653年11月14日に死去[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『毛利家文書』第1038号。この起請文での署名は座配の様に記され、長門守秀就(毛利秀就)幻庵宗瑞(毛利輝元)が向かい合い、秀就の左側に宍戸備前守元続繁澤左近入道立節(繁沢元氏)毛利甲斐守秀元毛利兵庫頭元宣吉川又次郎広正が並び、右側に毛利山城守元倶阿曽沼左兵衛頭元随吉川蔵人広家繁澤志摩守元景毛利伊賀守元鎮が並んでいる。

出典

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参考文献

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  • 萩藩閥閲録』巻35「阿曽沼二郎三郎」
  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション