銚子灘傳右エ門
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基礎情報 | ||||
四股名 | 銚子灘 傳右エ門 | |||
本名 | 網中 仙太郎 | |||
愛称 | 喧嘩五人衆[1] | |||
生年月日 | 1902年3月12日 | |||
没年月日 | 1935年1月5日(32歳没) | |||
出身 | 千葉県銚子市 | |||
身長 | 171cm | |||
体重 | 116kg | |||
所属部屋 |
中立部屋 →二子山部屋 →出羽海部屋 | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 西前頭14枚目 | |||
生涯戦歴 | 151勝129敗1預(35場所) | |||
幕内戦歴 | 25勝41敗(6場所) | |||
優勝 | 十両優勝1回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1922年1月場所 | |||
入幕 | 1931年1月場所 | |||
引退 | 1934年5月場所 | |||
引退後 | 年寄・8代稲川 | |||
備考 | ||||
2021年2月6日現在 |
銚子灘 傳右エ門(ちょうしなだ でんえもん、1902年3月12日 - 1935年1月5日[2])は、千葉県銚子市出身で出羽海部屋(入門時は中立部屋)に所属した大相撲力士。本名は網中 仙太郎(あみなか せんたろう)。最高位は西前頭14枚目。
来歴
[編集]1902年3月12日に千葉県銚子市で生まれ、1922年1月場所において中立部屋から初土俵を踏む。1928年1月場所で新十両昇進を果たすが、師匠の死によって二子山部屋を経て出羽海部屋へ転籍、1931年1月場所で新入幕を果たした。翌年に勃発した春秋園事件によって脱退するも1933年1月場所で復帰、十両格別席となり、翌年5月場所を最後に現役を引退、年寄・稲川を襲名した。しかし体調を崩し、1935年1月場所の番付発表直前に急死した。32歳没。番付発表直前だったこともあって名前だけが残された。
成績
[編集]- 幕内成績:25勝41敗
- 通算成績:51勝129敗1預
- 幕内在位:6場所
- 通算在位:35場所
各段優勝
[編集]- 十両優勝:1回(1933年5月場所)
場所別成績
[編集]春場所 | 三月場所 | 夏場所 | 秋場所 | |||
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1922年 (大正11年) |
(前相撲) | x | 西序ノ口22枚目 5–0 |
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1923年 (大正12年) |
東序二段13枚目 5–5 |
x | 東序二段12枚目 2–4 |
x | ||
1924年 (大正13年) |
西序二段21枚目 3–1 1預 |
x | 西三段目40枚目 3–3 |
x | ||
1925年 (大正14年) |
東三段目34枚目 5–1 |
x | 西三段目3枚目 5–1 |
x | ||
1926年 (大正15年) |
東幕下19枚目 3–3 |
x | 東幕下25枚目 3–3 |
x | ||
1927年 (昭和2年) |
西幕下10枚目 4–2 |
西幕下10枚目 2–3 |
東幕下3枚目 4–2 |
西幕下9枚目 4–2 |
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1928年 (昭和3年) |
西十両6枚目 3–8 |
東十両10枚目 7–4 |
西十両11枚目 6–5 |
西十両11枚目 5–6 |
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1929年 (昭和4年) |
西十両10枚目 4–7 |
西十両10枚目 4–7 |
西幕下3枚目 3–3 |
西幕下3枚目 4–3 |
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1930年 (昭和5年) |
東幕下筆頭 5–3 |
東幕下筆頭 4–1 |
西十両6枚目 9–2 |
西十両6枚目 9–2 |
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1931年 (昭和6年) |
西前頭14枚目 6–5 |
西前頭14枚目 5–6 |
東前頭16枚目 3–8 |
東前頭16枚目 2–9 |
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1932年 (昭和7年) |
東十両3枚目 – |
x | x | x | ||
1933年 (昭和8年) |
十両 5–6 |
x | 東十両10枚目 優勝 10–1 |
x | ||
1934年 (昭和9年) |
東前頭15枚目 6–5 |
x | 東前頭15枚目 引退 3–8–0 |
x | ||
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |