野田義夫
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野田 義夫 | |
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誕生 |
1874年7月15日 福岡県八女郡下広川村(現・広川町) |
死没 | 1950年11月1日(76歳没) |
職業 | 教育者、教育学者 |
国籍 | 日本 |
教育 | 文学博士(1924年・日本) |
最終学歴 | 東京帝国大学文科大学卒 |
代表作 |
『日本国民性の研究』(1914年) 『教育学概論』(1915年) 『日本教育の検討』(1938年) |
配偶者 | ふく(高井利平妹) |
子供 | 順二(養子・高井利平次男) |
野田 義夫(のだ よしお、1874年(明治7年)7月15日[1] - 1950年(昭和25年)11月1日[2])は、日本の教育者。
経歴
[編集]福岡県八女郡下広川村(現在の広川町)出身[1]。1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、さらに大学院で学んだ[1]。1900年(明治33年)に文部属となり、広島高等師範学校教授、奈良女子高等師範学校教授、文部省督学官、大阪高等学校校長を歴任した[1]。その間の1924年(大正13年)、文学博士号を受けた[1]。
退官後、大阪高等女子職業学校(現在の英真学園高等学校)教授・名誉校長、羽衣高等女学校(現在の羽衣学園中学校・高等学校)校長を経て、1936年(昭和11年)から親和高等女学校(親和中学校・親和女子高等学校)校長を務めた[1][3]。その他、関西学院大学法文学部講師を務めた[1]。
親族
[編集]著作
[編集]- 著書
- 『続倫理学書解説 パウルゼン氏社会倫理』 育成会、1902年7月
- 『明治教育史』 育英舎、1907年12月 / 有明会館図書部、1981年9月
- 『近世教育史綱』 同文館、1908年3月
- 『欧米列強 国民性の訓練』 同文館、1913年10月
- 『日本国民性の研究』 教育新潮研究会〈教育新潮叢書〉、1914年12月 / 大空社〈叢書日本人論〉、1996年1月、ISBN 4756801153
- 『教育学概論』 同文館、1915年1月
- 『新時代の徳育』 弘道館、1921年1月
- 『現代教育概観』 人文書房、1929年12月
- 『丁抹国民高等学校の研究』 同文館、1929年12月
- 『文化教育学原論』 人文書房、1930年6月
- 『修身及公民教育原論』 教育研究会、1932年2月
- 『労作教育原論』 明治図書、1932年6月
- 『日本教育の検討』 明治図書、1938年10月
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h 大衆人事録 1943.
- ^ 20世紀日本人名事典 2004.
- ^ 人事興信録 1943.
参考文献
[編集]- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版』帝国秘密探偵社、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版(下)』人事興信所、1943年。
- 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年。
関連文献
[編集]- 大日本学術協会編修 『日本現代教育学大系 第八巻 林博太郎氏教育学 野田義夫氏教育学 辻幸三郎氏教育学 野々村運市氏教育学』 モナス、1927年11月 / 日本図書センター、1989年11月、ISBN 4820552740
- 二見剛史 「野田義夫」(山田孝雄編 『近代日本の倫理思想』 大明堂、1981年2月、ISBN 4470230138)
公職 | ||
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先代 藤堂忠次郎 |
奈良女子高等師範学校附属高等女学校主事 1915年 - 1917年 |
次代 小川正行 |
その他の役職 | ||
先代 和田豊 |
親和高等女学校長 1936年 - 1943年 |
次代 中島豊之 |
先代 本山彦一 |
羽衣高等女学校長 1933年 - 1936年 |
次代 勝本鼎一 |