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大阪工業大学 (旧制)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大阪工業大学(おおさかこうぎょうだいがく)は大学令によって1929年昭和4年)に設立された日本の官立旧制大学

1896年明治29年)に開設された大阪工業学校戦後工業高等学校に相当する学校)が1901年(明治34年)に大阪高等工業学校旧制専門学校)に昇格し、さらに第一次世界大戦後の高等教育機関拡充の流れの中で1929年昭和4年)に官立単科大学に昇格したものである。

1931年(昭和6年)に大阪帝国大学(当初は医学部理学部の2学部。大阪大学の前身)が発足すると、本学との統合を望む声が高まり、1933年(昭和8年)に統合が実現し、本学は大阪帝国大学工学部となった。

本記事では、本学の前身諸校の沿革についても概説する。

沿革

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大阪工業学校時代

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  • 1893年6月:大阪市会文部大臣に工業学校設立要望を建議。
  • 1895年:第8回帝国議会、大阪工業学校設立建議案を可決。
  • 1896年:第9回帝国議会、大阪工業学校設立予算可決。
  • 1896年5月18日:文部省直轄学校官制改正、大阪工業学校設立公布(勅令第226号、第227号)。
  • 1896年10月:大阪工業学校、授業開始。
    • 学校の目的を、上等職工・職工長の養成とした。
    • 機械工芸科、化学工芸科の2科を設置。
    • 修業年限4年、入学資格は満14歳以上・高等小学校卒業程度。
  • 1897年5月:規則改正、2学部制となる。
    • 機械工芸部 - 機械科。
    • 化学工芸部 - 応用化学科、染色科、窯業科、醸造科、冶金科。
  • 1899年6月:規則改正(1900年から施行)。
    • 学校の目的を、工業従事者養成に変更。
    • 修業年限3年、入学資格は中学校卒業程度(後の高等工業学校と同じ)となる。
    • 造船部を新設(船体科、機関科)。

大阪高等工業学校時代

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  • 1901年5月10日:大阪高等工業学校と改称(勅令第99号)。
    • 一般の工業学校より高レベルであることを名称で明確化。
  • 1903年3月:専門学校令公布に伴い、4月1日付で実業専門学校となる。
  • 1903年6月:規定改正、学部を廃止(文部省令第27号)。
    • 設置学科は、機械科、応用化学科、染色科、窯業科、醸造科、冶金科、造船科(旧船体科)、舶用機関科(旧機関科)。
  • 1906年5月:冶金科を採鉱冶金科と改称。
  • 1906年9月:染色科を廃止。
  • 1908年2月:電気科を設置。
  • 1914年9月:窯業科を廃止、東京高等工業学校窯業科に併合。
  • 1915年7月:同窓会「玉江会」発足。
  • 1916年5月:大阪工業夜学校を併設。
    • 中等科2年制、高等科2年制。1917年、大阪工業専修学校と改称。
  • 1919年1月:大学昇格運動勃発。2月、昇格期成学生大会を開催。
    • 昇格運動は同窓生の手に委ねられることとなった。
  • 1919年3月:同窓会「大阪工業倶楽部」設立(後の社団法人大阪大学工業会)。
  • 1920年5月:工業教員養成所を附設(機械科・応用化学科・電気科)。
    • 修業年限3年、入学資格は中学卒・師範学校卒。
  • 1923年3月:第46回帝国議会、大阪高等工業学校を含む5校の大学昇格案を可決。
  • 1924年7月:大阪市電無警告ストライキに対し、生徒有志が運転手代行。

大阪工業大学時代

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  • 1929年4月1日:大学令および官立工業大学官制(勅令第36号)により大阪工業大学(旧制)設立。
    • 学部、研究科、選科、附属工学専門部を開設。
    • 学部は修業年限3年、設置学科は機械工学科、応用化学科、醸造学科、冶金学科、造船学科、電気工業科。
    • 附属工学専門部は大阪高等工業学校在学生を収容し、1931年3月に廃止された。
  • 1929年4月15日:第1回入学式。翌16日、授業開始。
  • 1929年10月:「大阪工大学報」創刊(文芸部発行)。

1930年9月に大阪帝国大学設置が具体化し始めたが、1931年2月、大阪工大は帝国大学に合流しないと判明。すぐさま学生が決起し、2月9日に全学生協議会を結成、「1931年4月の大阪帝国大学創設と同時に工学部とする」旨の決議を採択。同2月18日には同窓会「大阪工業倶楽部」理事会も紛糾のすえ[1] 同調。同2月21日には、在学生・同窓生有志が大阪帝大への編入を求めて街頭デモを挙行。同2月27日、文部省からの最終回答は、「1931年の編入は不可能、1932年度編入」であった。学生側はこれを不満として過激化しそうになったが、教授会・同窓会の勧告を容れて、同3月に学生実行委員会を解散した。しかし、1931年12月に若槻内閣が倒され帝国議会が解散した煽りで、1932年4月編入も不可能となり、さらに1年遅れの1933年4月編入となった。

  • 1932年2月:大阪工業大学第1回卒業式。
    • 大阪工業大学学部名義の卒業はこの1回のみ。
  • 1933年2月:大阪帝国大学工学部設置予算、貴族院予算会議を通過。
  • 1933年4月:大阪帝国大学工学部発足、大阪工業大学廃止(勅令第33号)。
    • 4月5日、大阪帝国大学工学部第1回卒業式(大阪工業大学第2期生)。

歴代校長

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大阪工業学校

大阪高等工業学校

  • 校長:伊藤新六郎(1901年5月 - 1902年11月)
  • 校長:安永義章(1904年4月18日 - 1918年3月)
  • 校長:土井助三郎(1918年4月 - 1924年12月)
  • 校長:堤正義(1924年12月 - 1929年4月)

大阪工業大学

  • 学長:堤正義(1929年4月 - 1933年3月)
    • 後身の大阪帝国大学工学部 初代学部長

校地の変遷

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大阪市都島区の同校跡地(現大阪府立東高等学校中庭)に建つ『大阪大学工学部記念碑』
記念碑裏に記された沿革

大阪工業学校は大阪市北区玉江町(現北区中之島5丁目)で発足し、後身の大阪高等工業学校も同地を使用した。玉江町校地が狭隘となったため、1921年から1923年にかけて大阪市都島区網島東野田町)に移転完了した。網島校地(東野田校地)は後身の大阪工業大学・大阪帝国大学工学部に引き継がれた(網島駅も参照のこと)。

東野田校地の跡地は、現在は大阪市立東高等学校NTTの研修施設となっている。

著名な出身者

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脚注

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  1. ^ 大阪帝国大学への編入には、旧高工醸造科出身者の大半が反対した。大阪工業大学への昇格時も、醸造科・採鉱冶金科は廃止されそうだったが、帝国大学の工学部と異なり 「応用に重点を置く」 独自方針が示されたことにより、廃止を免れた経緯があった。帝国大学への編入により独自性を失うことに反対したのである。参照:『大阪大学五十年史: 通史』 (1985年) 83頁、86頁、103-104頁。

関連書籍

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  • 作道好男・江藤武人(編) 『大阪大学工学部七十五年史』 財界評論新社、1973年
  • 大阪大学五十年史編集実行委員会(編) 『大阪大学五十年史: 通史』 1985年
  • 大阪大学工学部 『大阪大学工学部創始百年史』 1997年

関連項目

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外部リンク

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