大阪工業大学 (旧制)
大阪工業大学(おおさかこうぎょうだいがく)は大学令によって1929年(昭和4年)に設立された日本の官立旧制大学。
1896年(明治29年)に開設された大阪工業学校(戦後の工業高等学校に相当する学校)が1901年(明治34年)に大阪高等工業学校(旧制専門学校)に昇格し、さらに第一次世界大戦後の高等教育機関拡充の流れの中で1929年(昭和4年)に官立単科大学に昇格したものである。
1931年(昭和6年)に大阪帝国大学(当初は医学部と理学部の2学部。大阪大学の前身)が発足すると、本学との統合を望む声が高まり、1933年(昭和8年)に統合が実現し、本学は大阪帝国大学工学部となった。
本記事では、本学の前身諸校の沿革についても概説する。
沿革
[編集]大阪工業学校時代
[編集]- 1893年6月:大阪市会、文部大臣に工業学校設立要望を建議。
- 1895年:第8回帝国議会、大阪工業学校設立建議案を可決。
- 1896年:第9回帝国議会、大阪工業学校設立予算可決。
- 1896年5月18日:文部省直轄学校官制改正、大阪工業学校設立公布(勅令第226号、第227号)。
- 1896年10月:大阪工業学校、授業開始。
- 学校の目的を、上等職工・職工長の養成とした。
- 機械工芸科、化学工芸科の2科を設置。
- 修業年限4年、入学資格は満14歳以上・高等小学校卒業程度。
- 1897年5月:規則改正、2学部制となる。
- 機械工芸部 - 機械科。
- 化学工芸部 - 応用化学科、染色科、窯業科、醸造科、冶金科。
- 1899年6月:規則改正(1900年から施行)。
大阪高等工業学校時代
[編集]- 1901年5月10日:大阪高等工業学校と改称(勅令第99号)。
- 一般の工業学校より高レベルであることを名称で明確化。
- 1903年3月:専門学校令公布に伴い、4月1日付で実業専門学校となる。
- 1903年6月:規定改正、学部を廃止(文部省令第27号)。
- 設置学科は、機械科、応用化学科、染色科、窯業科、醸造科、冶金科、造船科(旧船体科)、舶用機関科(旧機関科)。
- 1906年5月:冶金科を採鉱冶金科と改称。
- 1906年9月:染色科を廃止。
- 1908年2月:電気科を設置。
- 1914年9月:窯業科を廃止、東京高等工業学校窯業科に併合。
- 1915年7月:同窓会「玉江会」発足。
- 1916年5月:大阪工業夜学校を併設。
- 中等科2年制、高等科2年制。1917年、大阪工業専修学校と改称。
- 1919年1月:大学昇格運動勃発。2月、昇格期成学生大会を開催。
- 昇格運動は同窓生の手に委ねられることとなった。
- 1919年3月:同窓会「大阪工業倶楽部」設立(後の社団法人大阪大学工業会)。
- 1920年5月:工業教員養成所を附設(機械科・応用化学科・電気科)。
- 修業年限3年、入学資格は中学卒・師範学校卒。
- 1923年3月:第46回帝国議会、大阪高等工業学校を含む5校の大学昇格案を可決。
- 1924年7月:大阪市電無警告ストライキに対し、生徒有志が運転手代行。
- 車掌代行は大阪高商生有志が務めた。
大阪工業大学時代
[編集]- 1929年4月1日:大学令および官立工業大学官制(勅令第36号)により大阪工業大学(旧制)設立。
- 学部、研究科、選科、附属工学専門部を開設。
- 学部は修業年限3年、設置学科は機械工学科、応用化学科、醸造学科、冶金学科、造船学科、電気工業科。
- 附属工学専門部は大阪高等工業学校在学生を収容し、1931年3月に廃止された。
- 1929年4月15日:第1回入学式。翌16日、授業開始。
- 1929年10月:「大阪工大学報」創刊(文芸部発行)。
1930年9月に大阪帝国大学設置が具体化し始めたが、1931年2月、大阪工大は帝国大学に合流しないと判明。すぐさま学生が決起し、2月9日に全学生協議会を結成、「1931年4月の大阪帝国大学創設と同時に工学部とする」旨の決議を採択。同2月18日には同窓会「大阪工業倶楽部」理事会も紛糾のすえ[1] 同調。同2月21日には、在学生・同窓生有志が大阪帝大への編入を求めて街頭デモを挙行。同2月27日、文部省からの最終回答は、「1931年の編入は不可能、1932年度編入」であった。学生側はこれを不満として過激化しそうになったが、教授会・同窓会の勧告を容れて、同3月に学生実行委員会を解散した。しかし、1931年12月に若槻内閣が倒され帝国議会が解散した煽りで、1932年4月編入も不可能となり、さらに1年遅れの1933年4月編入となった。
- 1932年2月:大阪工業大学第1回卒業式。
- 大阪工業大学学部名義の卒業はこの1回のみ。
- 1933年2月:大阪帝国大学工学部設置予算、貴族院予算会議を通過。
- 1933年4月:大阪帝国大学工学部発足、大阪工業大学廃止(勅令第33号)。
- 4月5日、大阪帝国大学工学部第1回卒業式(大阪工業大学第2期生)。
歴代校長
[編集]大阪工業学校
大阪高等工業学校
- 校長:伊藤新六郎(1901年5月 - 1902年11月)
- 校長:安永義章(1904年4月18日 - 1918年3月)
- 校長:土井助三郎(1918年4月 - 1924年12月)
- 前・名古屋高等工業学校校長
- 校長:堤正義(1924年12月 - 1929年4月)
大阪工業大学
- 学長:堤正義(1929年4月 - 1933年3月)
- 後身の大阪帝国大学工学部 初代学部長
校地の変遷
[編集]大阪工業学校は大阪市北区玉江町(現北区中之島5丁目)で発足し、後身の大阪高等工業学校も同地を使用した。玉江町校地が狭隘となったため、1921年から1923年にかけて大阪市都島区網島(東野田町)に移転完了した。網島校地(東野田校地)は後身の大阪工業大学・大阪帝国大学工学部に引き継がれた(網島駅も参照のこと)。
東野田校地の跡地は、現在は大阪市立東高等学校やNTTの研修施設となっている。
著名な出身者
[編集]- 岩井喜一郎(1902年大阪高工卒)- 摂津酒造常務兼技師長
- 星住鹿次郎(1908年大阪高工卒)- 大阪機工社長
- 塚田實則(1910年大阪高工卒)- 東邦瓦斯社長
- 石黒英一(1911年大阪高工卒)- 東邦瓦斯社長
- 吉野孝一(1912年大阪高工卒)- 日本団体生命保険社長、大阪工業会第4代会長
- 樋口佐兵衛(1912年大阪高工卒)- 京三製作所社長
- 町永三郎(1913年大阪高工卒)- 神戸製鋼所社長
- 小松原信(1914年大阪高工卒)- 御幸毛織社長
- 矢野亀太郎(1915年大阪高工卒)- 大阪機工社長
- 田中清一(1916年大阪高工卒)- 大阪製材機工作所(現・富士製作所)創業者、社長、国土開発縦貫自動車道構想
- 竹鶴政孝(1916年大阪高工卒)- ウイスキー製造技術者、ニッカウヰスキー創業者
- 榎本好文(1917年大阪高工卒)- 三井化学工業社長
- 小石雄治(1917年大阪高工卒)- ダイハツ工業社長
- 田中繁松(1918年大阪高工卒)- 三井造船社長
- 木村音吉(1919年大阪高工卒)- 住友機械工業会長
- 江口孝(1920年大阪高工卒)- 日本瓦斯化学工業社長
- 伊瀬芳吉(1923年大阪高工卒)- ダイハツ工業社長
- 塩塚忠美(1926年大阪高工卒)- ユニチカ会長
- 八谷泰造(1928年大阪高工卒)- 日本触媒創業者
脚注
[編集]- ^ 大阪帝国大学への編入には、旧高工醸造科出身者の大半が反対した。大阪工業大学への昇格時も、醸造科・採鉱冶金科は廃止されそうだったが、帝国大学の工学部と異なり 「応用に重点を置く」 独自方針が示されたことにより、廃止を免れた経緯があった。帝国大学への編入により独自性を失うことに反対したのである。参照:『大阪大学五十年史: 通史』 (1985年) 83頁、86頁、103-104頁。
関連書籍
[編集]- 作道好男・江藤武人(編) 『大阪大学工学部七十五年史』 財界評論新社、1973年。
- 大阪大学五十年史編集実行委員会(編) 『大阪大学五十年史: 通史』 1985年。
- 大阪大学工学部 『大阪大学工学部創始百年史』 1997年。
関連項目
[編集]- 大阪大学大学院工学研究科・工学部
- 旧制大学・旧三工大
- 大阪高等工業学校 - 1939年に設立された官立の同名学校。