コンテンツにスキップ

趙雲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
趙雲子龍から転送)
趙雲
清代「三国志演義」趙雲
清代「三国志演義」趙雲
蜀漢
鎮軍将軍・中護軍・永昌亭侯
出生 ?(生年不詳)
冀州常山国真定県
死去 建興7年(229年
拼音 Zhào Yún
子龍
諡号 順平侯
主君 公孫瓚劉備劉禅
兄弟 兄(名は不詳)
趙統趙広
テンプレートを表示

趙 雲(ちょう うん、拼音: Zhào Yún、?(生年不詳) - 建興7年(229年)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢にかけての将軍。子龍(しりゅう[1]・しりょう[2])。冀州常山国真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。封号永昌亭侯順平侯

正史における趙雲[編集]

以下は正史『三国志』(蜀書)趙雲伝(裴松之注『趙雲別伝』を含む)より。『三国志演義』の趙雲については『三国志演義における趙雲』を参照。

若き頃[編集]

常山国真定県の出身。身長八尺(約185cm)[注釈 1]あり、姿や顔つきが際立って立派だったという。故郷の常山郡から推挙され、官民の義勇兵を率いて幽州公孫瓚の配下となった[3]

当時、袁紹は冀州牧を称していた為、公孫瓚は冀州の人々が袁紹に従うことを憂いていた。公孫瓚は趙雲の来付を喜び、趙雲を嘲笑して「聞くところでは、君の州の人は、みな袁紹に付くことを願っているという。君はどうして、ひとり心をめぐらせ、迷ったのちに正道に戻ることが出来たのか?」と言った。趙雲は「天下はがやがやと勝手なことを言っていますが、未だ何が正しいのかを知ることができず、民には逆さ吊りにされるような災厄があります。わたしの州の議論は、仁政のある所に従います。袁紹殿を軽視し、個人的に将軍(公孫瓚)を尊重したわけではありません」と言った。こうして公孫瓚とともに征討した[4]

公孫瓚配下時代[編集]

劉備との出会いと別れ[編集]

正定県の子龍広場にある趙雲像

この時、公孫瓚の元に身を寄せていた劉備と出会い、これが二人を結びつける機縁となる。次第に劉備と趙雲は仲を深めていった[5]青州で袁紹と戦っていた田楷の援軍として公孫瓚が劉備を派遣した際、趙雲も随行して劉備の主騎(騎兵隊長)[注釈 2]となった。その後、趙雲の兄が亡くなり、服喪のために公孫瓚の下を辞して故郷へ帰ることになった。劉備は、趙雲が自らの下にもう二度と戻って来ることはないだろうと悟り、趙雲の手を固く握って別れを惜しんだ。趙雲は別れの挨拶をして、「絶対にあなたの御恩徳に背きません」と答えた[6]

劉備との再会[編集]

建安5年(200年)頃、曹操に追われた劉備が袁紹を頼って来ると、趙雲はで久しぶりに劉備に目通りした。再開を喜んだ劉備は、趙雲と同じ牀(ベッド)を共にして眠った。劉備は趙雲を派遣して、秘かに募った数百人の兵を連れて、みな劉備左将軍の部曲(私兵)と称したが、袁紹はこの動きに全く気付かなかった。こうして趙雲は劉備に随って荊州へ逃れた[7]

劉備配下時代[編集]

旧友と再会[編集]

建安8年(203年)、博望坡の戦いで敵将の夏侯蘭を生け捕る武功を挙げたが、彼が小さい頃からの同郷の友人であることから、劉備に助命嘆願し、法律に明るい人物として軍正に推挙した。夏侯蘭は登用されたが、趙雲は以降、降将の夏侯蘭が無用の疑いをかけられぬように自分から彼に接近しないよう気遣った[8]

長坂坡の戦い[編集]

正定県・趙雲故里「趙雲廟」前にある阿斗を抱いた趙雲像
正定県・趙雲故里「趙雲廟」前にある、阿斗を抱いた趙雲像

建安13年(208年)、荊州の当陽県長坂で曹操自ら指揮を執る精鋭5,000の兵に追いつかれた劉備は、妻子を捨てて臣下数十騎と逃走した(長坂の戦い)。劉備の娘2人は曹純に捕らえられたが、趙雲が劉禅(阿斗)を身に抱え、更に甘夫人を保護したので、無事二人は危機を免れることができた。この戦いの後、牙門将軍に昇進した。

この時、趙雲が北に逃げ去ったと言うものがいた。劉備は手戟を投げつけて、「子龍はわたしを棄て逃げることはない!」と怒った。ほどなく趙雲が到着した[9]

荊州平定[編集]

同じく建安13年(208年)、荊州平定に参加し、偏将軍・桂陽太守になった(赤壁の戦い#南郡攻防戦)。また、この桂陽攻略時に降伏した太守の趙範が、自らの兄嫁の樊氏(未亡人)を趙雲に嫁がせようとした。趙雲は「わたしとあなたは同姓ですから、あなたの兄なら、わたしの兄のようなものです」と、同姓を理由に断わった。樊氏は絶世の美女であったので、なおも趙雲に娶るように薦める者がいた。趙雲は「趙範は追い詰められて降ったに過ぎず、内実は判った者ではありません。それに、天下に女は少なくありません」と述べて、これを固辞した。その後、趙雲の警戒通り、趙範は逃亡したが趙雲は何の未練も持たなかった[10]

再び阿斗を救う[編集]

劉備は趙雲を留営司馬に任じた。そのころ、劉備の正妻となっていた孫権の妹である孫夫人(孫尚香)は、孫権の妹であることを鼻にかけ、呉の官兵を率い、侍女には武装させ、軍法を無視するわがままぶりを発揮し、劉備は手を焼いていた。劉備は趙雲が厳格で公私をわきまえ、全体を引き締めるに最適の人物であると判断し、趙雲を目付役(監視役)としてこの役に任命した[11]。孫権は劉備が入蜀したことを知ると、船を出し孫夫人を呉に帰らせたが、その際に孫夫人は劉禅を連れて行こうとした。趙雲は張飛と共に長江を遮り、劉禅を奪回した[12]。このエピソードは『漢晋春秋』にも載っている[13]

益州平定[編集]

建安18年(213年)、諸葛亮張飛劉封らと共に長江を遡って入蜀し、益州の各郡県を平定した。趙雲は江州から別の川に沿って西進し、途上で江陽を攻略した。益州が平定された後、翊軍将軍に任ぜられた[注釈 3]

益州支配後、劉備が益州に備蓄してあった財産や農地を分配しようとした。趙雲は「(前漢の)霍去病匈奴がまだ滅んでいないとして、屋敷を作ろうとしませんでした。今の国賊は匈奴程度では済まされず、まだ平安を求める時ではありません。天下が平定されるのを待ち、それぞれ郷里に帰って故郷で農業をするのが一番適切です。益州の民衆は度重なる兵火に見舞われ、田地も屋敷も荒れ放題でございます。今はこれを民衆に返し、安心して仕事に戻れるようにし、それから賦役や徴税を行なえば、彼らは自然と心服するでしょう」と反対した。劉備はその意見に賛成し、従った[14]

定軍山の戦い[編集]

建安24年(219年)、漢中攻め(定軍山の戦い)で、曹操軍の兵糧を奪うため、黄忠は趙雲の兵を借り出陣したが、約束の時間を過ぎても戻ってこなかった。心配した趙雲は少数の兵を率いて軽装で偵察へ向かったところ曹操の大軍と出くわしたが、見事な撤退戦で無事に囲(拠点)へと戻った。この際、敵陣に取り残された張著を救出した[15]

しかし曹軍は再び盛り返し、趙雲らの囲まで追撃してきた。囲には沔陽長の張翼がおり、張翼は門を閉じ拒守しようとしたが、趙雲は囲に入ると大いに門を開き、旗を伏せて太鼓を止めさせた。曹軍は趙雲に伏兵があると疑い引きあげた。そして、趙雲は雷のように太鼓を天を震わせるほどたたき、で後から曹操軍を射た。曹軍は驚き、混乱の中、互いに蹂躙し漢水の中に落ち、大勢が死んだ[16]。これが後に空城計と呼ばれる心理戦である。劉備は翌日の朝、趙雲の囲に自ら向かい、昨日の戦いの場所を視て、「子龍の一身はすべてこれ肝である(子龍一身都是膽也、子龍は度胸の塊の意)」と称賛した。楽を演奏し、宴会は夕方にまで至った。軍中は趙雲を号して虎威将軍とよんだ[17]。このエピソードは『資治通鑑』にも載っている。『三国志演義』にて、諸葛亮が空城計を用いて司馬懿ら魏軍を退けるエピソードがあるが、この趙雲の空城計がモデルとなっている。

対呉戦争[編集]

章武元年(221年)、を討とうとする劉備に、趙雲は「国賊は曹魏であり、孫権ではありません。魏を撃つことが先であり、魏が滅べば呉はおのずと降伏するでしょう。曹操は死にましたが、子の曹丕は漢室を簒いました。このときをはずさず、衆心を集め、早く関中を経略し、黄河・渭水の上流を確保して凶逆を討伐するならば、関東の義士は必ず兵糧を持ち、馬に鞭あて王師を歓迎するでしょう。魏をおいて、先に呉と戦ってはなりません。いったん戦端を開けば、それは終結させがたいものではありませんか」[注釈 4]と諫めたが聴き容れられず、対呉戦争(夷陵の戦い)では、趙雲は江州督として留まった。劉備が敗戦すると永安まで兵を進め劉備を救援した[19]

劉禅配下時代[編集]

その後、病を発し病床に臥せた劉備は章武3年(223年)4月に白帝城にて崩御した。建興元年(223年)5月、子の劉禅が即位すると中護軍・征南将軍へ昇進[注釈 5]し、永昌亭侯に封じられた。後、鎮東将軍に昇進した。

第一次北伐[編集]

建興5年(227年)、諸葛亮と共に北伐に備えて漢中に駐留した。建興6年(228年)、諸葛亮が斜谷街道を通ると宣伝すると、曹叡曹真を郿に派遣し、曹真は箕谷に大軍を派遣してこれに当たらせた。趙雲と鄧芝に別動隊を率いてその相手をさせ、その間に諸葛亮は祁山を攻めた。曹真の兵は強力で、趙雲と鄧芝の兵は弱小だった[注釈 6]ので箕谷で敗北したが、兵をよく取りまとめて固守したので、大敗にはいたらなかった。軍が撤退すると、趙雲は鎮軍将軍に降格された[注釈 7]。一方で、『華陽国志』では位階ではなく「禄を貶した」との記録がある[25]。『水経注』によると、この撤退戦の際、赤崖より北の百余里に渡る架け橋を焼き落すことで、魏軍の追撃を断ち切っており、その後しばらくは鄧芝と共に赤崖の守りにつき、屯田を行っている[26]

この退却時、趙雲が自ら殿(しんがり)を務め、兵を巧みに取りまとめたので軍需物資を殆ど捨てずに済んだ。諸葛亮は、副将の鄧芝に「街亭の戦いでは、わが軍が撤退するとき将兵はばらばらになったが、箕谷の戦いでは撤退するときでも纏まることができた。これはどういうわけか?」と尋ねた。鄧芝は「それは趙雲将軍自らが殿となり、軍需品や器物をほとんど捨てずにすみ、わが部隊はまとまりを失わず済んだのです」と答えた[27]。諸葛亮は恩賞として、趙雲が持ち帰った軍需品の絹を将兵に分配しようとした。しかし趙雲は、「敗軍の将に恩賞があってはなりません。どうかそのまま赤岸(赤崖)の倉庫におさめ、10月になるのを待ち、冬の下賜とされますようお頼みします」と進言した。この趙雲の進言に、諸葛亮は大いに喜んだ[28]

最期[編集]

建興7年(229年)卒。子の趙統が後を継いだ。

死後[編集]

景耀4年(261年)3月、趙雲は順平侯の諡を追贈された。法正・諸葛亮・蔣琬費禕陳祗夏侯覇は死後すぐに、関羽・張飛・馬超龐統・黄忠は景耀3年に追贈されており、趙雲は12人目である。時の論はこれを栄誉とした。劉禅は詔勅で、「趙雲はかつて先帝に従い、その功績はすでに顕かである。朕は幼いときに困難に直面しながらも、彼の忠誠と従順を頼りに危険から身を救うことができた。諡号とは、大きな功績を記す英雄を指す。世間では趙雲に諡号を贈るのは当然のことだと取り沙汰している」と述べた[29]。大将軍の姜維たちは会議を行い、以下を上奏した[30]

「考えますに、趙雲はむかし先帝に従い、その労苦・功績はすでに顕かであります。天下を巡り働き、法律を遵守し、功績は記録すべきものがございます。陛下をお救いした当陽の役では、義は金石を貫き、忠は至上を守るに十分なものでした。君主がそれを賞することを思い、礼により下に厚くすれば、臣下はその死を忘れます。死者であり知覚があれば、それは不朽とするに足ります。生者であり恩に感じいれば、それは身を投げ出すに足るものです。」
「謹んで諡法を調べますに、柔順で賢明で、慈愛を持ち恵愛にあふれることを『』といい、仕事を行う際に秩序のあることを『』といい、災禍や反乱を打ち勝ち平らげることを『』といいます。趙雲に諡して順平侯というべきです。」

逝去時期の違い[編集]

正史では「建興7年(229年)卒」となっているが、諸葛亮が建興6年(228年)11月に上奏したとされている『後出師表』では、「漢中に至ってより、趙雲・陽羣馬玉閻芝…(略)…を失った」[31]とあり、228年11月以前に趙雲が亡くなっていることになっている。そのため、『後出師表』について真作か偽作か結論が出ていない。

墓地[編集]

正史には趙雲がどこに葬られたのか記録はないが、以下に趙雲墓とされている墓が3か所ある。

大邑趙雲墓[編集]

趙雲の墓としてもっとも有力視されている墓。錦屏山(銀屏山とも)の南麓に位置する[32][33]。趙雲が晩年、この地に駐屯、または領地とし、土城や羌族を監視する台(望羌台)を築き、羌族の侵入を防いだとされる[34][35]。墓の前に建てられた子龍廟は末の戦争で破壊された。1665年、大邑知県李徳耀が趙雲墓のために祠堂と碑を建て[36]、その後も何度かの改修、拡張工事が行われて1930年には大邑県長解汝襄が県民と一緒に子龍廟を拡張し、前殿、本殿、拝殿などからなる壮観な建造物になった。その後は社会混乱や四川地震で深刻な被害を受けたが、現在政府により修復作業が進められており、2025年下半期に一般公開が予定されている[37]

南陽趙雲墓[編集]

南陽市南三十里に存在した墓。もっとも古い記録で天順5年(1461年)『大明一統志』に記述がある[38]。盗掘に遭い、現在は碑文の拓本が残っている。以下は墓にまつわる伝説[39]である。

順治帝は自身を劉備の生まれ変わりだと名乗り、二弟の関羽が夢に現れ、「三弟の張飛は遼陽に、四弟の趙雲は南陽にいると告げた」と大臣たちに言い、三種の神勅を発した。第一は全国の関帝廟を大改修すること、第二は遼陽で張飛の生まれ変わりを探すこと、第三は南陽で趙雲の生まれ変わりを探すことであった。南陽の知県は3か月間、趙雲らしき人物を探したが見つけられなかった。

この時、偶然にも南陽市の南三十里の村で、誤って人に怪我を負わせてしまった罪で役所に送られた趙走軍(あだ名:趙大個)という農民がいた。 知県は趙大個の濃い眉、大きな目、長身で整った容姿を見て趙雲に違いないと思い、趙大個の名前を聴いた知県は「”走”に”軍”を足すと、”運(运)”(うん)=”雲(云)”(うん)ではないか? 彼は間違いなく趙雲の生まれ変わりだ!」 と喜んだ。知県は縛られていた趙走軍を解き、服を着替えさせ、食事をするように命じ、明日都へ向かうことを告げた。そんな事情を知らない趙走軍は、都に行くということは傷害の罪で処刑されるのだと思い、恐ろしくなった彼はその夜、首を吊った。

趙走軍が自害したと聞いて、知県は急いで都に戻って皇帝に謝罪した。 順治帝は一部始終を知ると、彼を責めることなく、ただただ四弟に永遠に会えなくなったことに激しく涙を流し、趙走軍を王侯として手厚く南陽に葬り、子龍祠を建てて永遠に偲ぶようにとの詔を発し、これが南陽の趙雲墓になった。

臨城趙雲墓[編集]

2005年5月19日、臨城県麒麟崗から光緒戊戌(24年(1898年))の『漢順平侯趙雲故里』の碑が発見され、2009年に河北省政府によって無形文化遺産リストに含まれた[40]。 この臨城県の動きは正定県との趙雲の故郷をめぐる論争を引き起こし、学界でも議論を巻き起こした。地元の伝説によれば、臨城県には3つの趙雲故里の碑があったとされている[41]。臨城の趙雲墓については、1982年に臨城県文化管理局が行った文化財調査の際に臨城県澄底村の西1.3キロで発見された[42]が、大邑趙雲墓や南陽趙雲墓が、明代に遡る『大明一統志』や現地の年代記に記録されているのに対し、臨城趙雲墓は年代記や歴史書には見つかっていないため、研究者は趙雲の墓である可能性は低いとみている。

民間伝承によると、趙姓の人々がこの墓前で千年以上にわたって春と秋に祭祀を行ったというが、墓石や記念碑はなく、大邑や南陽のように墓の近くに廟も建っていない。 その理由は、「劉禅は趙雲の蜀漢建国への功績に感謝し、成都から臨城まで72の墓の建設を命じた[注釈 8]。これは後世の墓荒らしを防ぐためでもあった。そのため、「一年三百六十日、毎月毎日、趙雲を埋葬する」という故事が澄底村で代々受け継がれてきた。乱木の溜め池(乱木水庫中国語版:子龍湖)一帯には、趙雲の墓と呼ばれるこのような大きな墓が20以上ある。 「乱木」(旧称「乱墓」)とは、墓を造る者が人目を欺くために、意図的に墓を荒らしたという意味で、これが乱木村の名前の由来である」[43]とされている。

家族[編集]

親族[編集]

  • 兄:名は不詳。『趙雲別伝』に記載。趙雲が公孫瓚の配下時代に亡くなっている。『三国志演義』には登場しない。

子孫[編集]

  • 趙統:長男。趙雲の死後、後を継いだ蜀漢の武将。『三国志演義』では弟と共に趙雲の墓守を命じられる。
  • 趙広:次男。蜀漢の武将。沓中での戦いにて戦死。『三国志演義』では兄と共に趙雲の墓守を命じられる。
  • 関樾:趙雲の娘(趙氏)と、関羽の長男である関平との間に生まれたとされる人物。

官職の変化[編集]

正史(別伝含む)での官職の変化
元号年 西暦 官職名 注釈 他の就任者 出典
初平3年 192年 主騎 [注釈 2] 不明
建安13年 208年 牙門将軍 魏延 [44]
建安13年-?年 208年-? 偏将軍・桂陽太守 (偏将軍)関羽 [45]
留営司馬 なし
建安18年-章武3年 213年-223年 翊軍将軍 [注釈 3] 霍弋 [46]
章武元年-?年 221年-? 江州督 李福 [47]
建興元年-7年 223年-229年 中護軍 [注釈 5] 費禕 [48]
建興元年-?年 223年-? 征南将軍 [注釈 9] 劉巴、姜維 [49]
建興?年-6年 ?-228年 鎮東将軍 劉備 [50]
建興6年-7年 228年-229年 鎮軍将軍 許靖、陳祗 [51]
※魏・呉・蜀では制度に違いがあり、また、時代によっては同じ官職名でも職務に違いがある場合がある。
※蜀は記録の欠落などがあり、趙雲以外にも官職名および就任時期不明の者がいる。
※牙門将軍、翊軍将軍は劉備が創設。
※偏将軍・桂陽太守・留営司馬、江州督は『趙雲別伝』に記述あり。
※留営司馬は、当時劉備が開府していなかったので、留府ではなく留営になったと考えられる。
『三国志演義』での官職の変化
登場回 タイトル 官職・称号名 出典
第六十五回 馬超大戰葭萌關 劉備自領益州牧 鎮遠将軍 [52]
第七十三回 玄德進位漢中王 雲長攻拔襄陽郡 五虎大将軍 [53]
第八十〇回 曹丕廢帝簒炎劉 漢王正位續大統 虎威将軍 [54]
第九十七回 討魏國武侯再上表 破曹兵姜維詐獻書 鎮南将軍 [55]
(追贈)大将軍 [56]
※虎威将軍は『正史(別伝)』の定軍山の戦いにて、趙雲が軍中で号されたという「虎威将軍」[17]から、
また、『正史』では鎮東将軍だが、『演義』では鎮南将軍になっているのは、南蛮平定の功績で南に変更したと考えられる。

趙雲別伝について[編集]

「別伝」についての解説[編集]

「別伝」とは、主に後漢時代から東晋時代までにおける、単独の人物に関する伝記である。その多くは名士を中心とした知識人層の名声を高める目的を持っていたが、中にはあまり重要視されなかった人物に焦点を当てるためや[57]、あるいは晋代以降に世家の子弟が多く就任していた秘書郎や佐著作郎の課題として書かれた[58]。後漢時代から続く人物評の流行のみならず、魏晋時代における名士層の気風の発達に伴い盛んに製作された別伝は、対象の人物に関する雑多な内容が盛り込まれており、「正統」である史書とは異なる視点や性質を有するほか[59][60][61]、表現に小説的技法が見られるのが特徴である[62]裴媛媛によれば、別伝の作者名が往々にして無記載である理由としては、単なる佚名によるもの以外では、別伝が成立する初期段階では書面ではない逸聞の寄せ集めに過ぎなかったために、それを引用する後世の歴史家たちが便宜的に「別伝」という通称を用いたこと、またそれらの逸話が単独の人物ではなく複数人から伝わったことも挙げられる[63]。だが時には、『孫資別伝』に対して裴松之が指摘しているように[64]、家伝由来の伝記であるために該当する人物の失点を隠して記されたものも存在した[65]。また顔師古が『東方朔別伝』について「みな実際の出来事ではない」と難じたように、怪奇現象などの確証に欠ける逸話が載せられることもあった[66]。とはいえ、全ての別伝がそれらと同様に信憑性が低いとは限らず、依然として別伝の史料的価値は高いといえる[67][68]

史書は後漢時代まで国家が編纂するものであった(ただし、国家が編纂することにより偏向が生まれることもある)。裴松之が『三国志』に注をつけて引用した数々の書物を批判し、史実を確定しようとしたのは、不確実な内容を記す史書が増えたためであった[69]。『趙雲別伝』には趙雲が活躍する記述が多いのに対し、陳寿による本伝の記述は簡素[注釈 10]であることから、その信憑性を疑う声も少数ある。しかし、引用した作品を厳しく批判したり矛盾を指摘する裴松之が、『趙雲別伝』には一切疑問を呈しておらず、また三国志研究者の論文や著作物でも、史書を補う資料として扱うのが通例である。

採用者および肯定派の見解[編集]

  • 裴松之:『三国志』の注釈として引用し、内容について批判・指摘をしていない。
  • 司馬光:『資治通鑑』を編纂するにあたって、『趙雲別伝』の記述を採用している。
  • 渡邉義浩:「裴松之は、『趙雲別伝』については、内容的な誤りなどを指摘することはない。裴松之は、『三国志』を補うことができる史料と認定していたと考えてよい」と述べている[70]
  • 矢野主税:対象の人物の功績を残すのみならず、その人物周辺の政治的動向が反映されていることから、別伝は「一般史書の欠を補う貴重な史料」だと論じ、その一例として、『趙雲別伝』内に「蜀の後主が〔〕雲の死後賜った詔をのせているが如きにも見られる」ことを挙げている[71]。また、家伝に依拠した可能性も踏まえつつ、「当時、世上に流布していた人物評を基として書かれた」という作品的性質から、別伝とは「ある個人の作というよりも、当時の社会の作というべきもの(中略)換言すれば、門閥社会の、その人物に対する評価」ではないかとも述べている[72]

否定派の見解[編集]

  • 何焯:趙雲が劉備に仕えた時期が本伝と異なることを指摘し、また第一次北伐で降格された趙雲が褒賞を受けたことには「諸葛亮は賞罰が厳粛であるのに、趙雲を降格する一方で、どうして妄りに報奨を与えられるものだろうか。そうでないことは明らかだ。別伝の類はみな子孫が美辞で飾り立てたものであるため、承祚(陳寿)は採用しなかったのだ」と述べており、『趙雲別伝』の記述を批判する傾向にある[73]。劉備の呉討伐に対する諫言については、国家経営は諸葛亮の担当であり、彼が諫めるのは当を得ているが、趙雲のような武臣が口を挟むのは分不相応である[注釈 11]として、「〔趙雲の〕家伝は〔他人の〕美談を奪い取っているのだ」と主張する。また劉備の大敗を受けて諸葛亮が想起したのが法正だったことに触れながら「雑号将軍〔である趙雲〕の及ぶところではない」とし、さらには、『趙雲別伝』は諸葛瑾の書状や孫権が帝位を称した際の諸葛亮の言葉を模倣したのだろうとも述べている[76]

その他[編集]

  • 李光地中国語版:「趙雲の美徳はみな『別伝』に見られるが、本伝では全く触れられていないのは、なぜなのだろうか」と疑問を呈している[77]

「別伝」の趙雲像[編集]

趙雲の出身地である冀州・常山国は当時、常山国の王だった劉暠中国語版は、黄巾賊が蜂起すると国を棄てて逃走した[78]。その後も黒山軍中国語版の襲撃、袁紹に脅され、冀州牧を譲ったのちに自害した韓馥、袁紹と公孫瓚の争い等、冀州・常山国は支配者が目まぐるしく変わり、大きな社会混乱が続いていた。『趙雲別伝』に記される、趙雲が義勇兵を引き連れ公孫瓚の元にやってきた時に語ったという「民は未だ何が正しいのかを知ることができず、逆さ吊りにされるような災厄があります。わたしの州の議論は、仁政のある所に従います。」[4]の内容からも、当時の冀州・常山国の社会事情が伺える。冀州は豊かな耕作地帯で、人口が多く、兵糧も充分で経済的に豊かな土地だったという[79]田豊らが袁紹に遠征をやめて農業に力を入れ、民を安んじるよう説いた[80]ように、『趙雲別伝』で、益州平定の褒賞として諸将に農地を分配しようとした劉備に、趙雲が反対して「それぞれ郷里に帰って故郷で農業をするのが一番適切です。」[14]と述べたのは、戦乱で疲弊した経験のある冀州民として出た諫言と考えられる。

また、『趙雲別伝』に記される「個人的に公孫将軍を尊重して馳せ参じたのではありません。」と初対面の公孫瓚に釘を刺すかのような発言[4]や、呉を攻めようとした劉備への諫言[19]のように、立場に関係なく、主君であろうが臆せず直言する傾向が見られる。同じく主君に諫言して身を危うくしたという張郃[81]、歯に衣着せぬ物言いの為に韓馥・袁紹双方から疎まれた田豊と沮授、曹操に臆せず直言し、権力に靡かなかった崔琰なども冀州の出身者で、趙雲と彼らに共通するこれら胆の据わったような性格は、冀州人が持つ気質だと推測される[82]

評価[編集]

成都武侯祠の趙雲塑像。清代に作られたもので、別格扱いの関羽、張飛を除くと、蜀漢の武将陣の中でも趙雲の像が筆頭の位置に置かれている。

歴史的評価[編集]

後世、中国では趙雲を、目上に対して臆せず諫言する勇敢さに加え、文官的な知性、大臣の気質を持つ儒将として高く評価した。清代に作られた成都武侯祠の趙雲の塑像が、文官の服を着せられているのはこのためである。清代は『三国志演義』の流行により、更に高まった趙雲の人気もあり、蜀漢の武将としては、武将廊に筆頭の位置に置かれている。

康熙61年(1722年)には歴代帝王廟中国語版に趙雲が従祀名臣の列に加わっている[注釈 12]小林瑞恵は、趙雲が従祀名臣に列したことについて、趙雲を不忠者と評しなかった『三国志演義』の版本の流行による影響の可能性を指摘している[84][注釈 13]

主な評価[編集]

  • 陳寿:黄忠・趙雲は、共に彊摯壮猛、揃って軍の爪牙となった。灌嬰滕公の輩であろうか?[注釈 14]
  • 楊戯:征南(趙雲)は厚重、征西(陳到)は忠克、共に選り抜きの兵を指揮し、勲功をあげた猛将であった[86]
  • 李光地:趙雲と張嶷は偉大な将軍であるだけではなく、明決で思慮深く、成熟した人物であり、古の重臣に選ばれるだろう[87]
  • 蕭常中国語版:趙雲は勇猛の臣でありながら、田畑や家屋を返還して民心を大切にしたり、軍資を冬の下賜にしたり、呉を赦免して魏を重視したり、国家に対する明確な理論を築き上げたが、これは諸葛亮でも考えに至らないことだ。同姓を理由に趙範の兄嫁を受け入れないなど、己への厳しさは当時の武将の中でも随一ではないか?[88]
  • 陳造中国語版:趙子龍が魏軍を退けた時、劉備は彼を勇敢な男だと言った。いわゆる死から生へ、敗北を成功へと変えたのだ[89]
  • 宋徵璧中国語版張遼と趙雲は敵の要塞に出入りして、英雄的な精神と猛々しさで敵を抑止し、危害を阻止した。これは将軍のやり方ではない[90]
  • 大唐平百済国碑銘:『趙雲は一身之胆、勇敢三軍。関羽は万人の敵、名声は百代に渡る。』[91]

三国志演義における趙雲[編集]

「長坂坡の戦い」
「長坂坡の戦い」

『三国志演義』とは、『三国志』や元雑劇、『三国志平話』などを基にして、中国代に書かれた長編白話小説。著者は羅貫中の手によるものと伝えられている。趙雲に関しては、正史『三国志』趙雲伝および裴松之が注釈に引く『趙雲別伝』のエピソードや趙雲の言動がそのまま採用、または引用されており、キャラクター造形もこの『別伝』をベースとし、そこに武力面が更に強調され、「知勇兼備の槍の使い手」として活躍する。初登場時はまだ少年で、「身長八尺、濃い眉に大きな眼、広い顔に重なった顎、容貌は立派で、威風があり凛々しい姿」[92]となっている。「義に厚くプライドの高い関羽」「乱暴者の張飛」と比べ、「冷静沈着な趙雲」は、諸葛亮から与えられる任務を素直にきっちりこなすので、劉備、諸葛亮の双方から信頼され、物語中の重要な任務では特に重用されている。関羽・張飛・馬超・黄忠と並んで五虎大将軍(五虎上将・五虎将とも)の一人となっている。

『三国志演義』を元にした後世の創作作品では、京劇や民間伝承の影響を受け、劉備たち桃園の四人目の兄弟(四弟)になっていたり、白袍に銀槍を得物とし、「白馬に乗った美丈夫の若武者」像が、張国良長編平話『三国』(詳細は#演義関連作品を参照)や、TVドラマ『三国志演義』『三国志 Three Kingdoms』の美形役者が演じる趙雲像に見られるように、元の『演義』では英雄的な男性らしさを強調した偉丈夫の設定が、時代に合わせた美的感覚(髭のない顔など)に変わっていき、それが現代まで連綿と続いている。

登場回一覧[編集]

登場回一覧
タイトル タイトル タイトル
〇〇七 袁紹磐河戰公孫 孫堅跨江擊劉表 五十二 諸葛亮智辭魯肅 趙子龍計取桂陽 八十四 陸遜營燒七百里 孔明巧布八陣圖
〇十一 劉皇叔北海救孔融 呂溫侯濮陽破曹操 五十四 吳國太佛寺看新郎 劉皇叔洞房續佳偶 八十五 劉先主遺詔託孤兒 諸葛亮安居平五路
二十八 斬蔡陽兄弟釋疑 會古城主臣聚義 五十五 玄德智激孫夫人 孔明二氣周公瑾 八十六 難張溫秦宓逞天辯 破曹丕徐盛用火攻
三十一 曹操倉亭破本初 玄德荊州依劉表 五十六 曹操大宴銅雀臺 孔明三氣周公瑾 八十七 征南寇丞相大興師 抗天兵蠻王初受執
三十四 蔡夫人隔屏聽密語 劉皇叔躍馬過檀溪 五十七 柴桑口臥龍弔喪 耒陽縣鳳雛理事 八十八 渡瀘水再縛番王 識詐降三擒孟獲
三十五 玄德南漳逢隱淪 單福新野遇英主 六十〇 張永年反難楊修 龐士元議取西蜀 八十九 武鄉侯四番用計 南蠻王五次遭擒
三十六 玄德用計襲樊城 元直走馬薦諸葛 六十一 趙雲截江奪阿斗 孫權遺書退老瞞 九十〇 驅巨獸六破蠻兵 燒藤甲七擒孟獲
三十九 荊州城公子三求計 博望坡軍師初用兵 六十四 孔明定計捉張任 楊阜借兵破馬超 九十一 祭瀘水漢相班師 伐中原武侯上表
四十〇 蔡夫人議獻荊州 諸葛亮火燒新野 六十五 馬超大戰葭萌關 劉備自領益州牧 九十二 趙子龍力斬五將 諸葛亮智取三城
四十一 劉玄德攜民渡江 趙子龍單騎救主 七十〇 猛張飛智取瓦口隘 老黃忠計奪天蕩山 九十三 姜伯約歸降孔明 武鄉侯罵死王朗
四十二 張翼德大鬧長阪橋 劉豫州敗走漢津口 七十一 占對山黃忠逸待勞 據漢水趙雲寡勝眾 九十四 諸葛亮乘雪破羌兵 司馬懿剋日擒孟達
四十九 七星壇諸葛祭風 三江口周瑜縱火 七十二 諸葛亮智取漢中 曹阿瞞兵退斜谷 九十五 馬謖拒諫失街亭 武侯彈琴退仲達
五十〇 諸葛亮智算華容 關雲長義釋曹操 八十〇 曹丕廢帝簒炎劉 漢王正位續大統 九十六 孔明揮淚斬馬謖 周魴斷髮賺曹休
五十一 曹仁大戰東吳兵 孔明一氣周公瑾 八十一 急兄讎張飛遇害 雪弟恨先主興兵
名前だけの登場回
二十一 曹操煮酒論英雄 關公賺城斬車胄 六十三 諸葛亮痛哭龐統 張翼德義釋嚴顏 七十七 玉泉山關公顯聖 洛陽城曹操感神
四十三 諸葛亮舌戰群儒 魯子敬力排眾議 七十三 玄德進位漢中王 雲長攻拔襄陽郡 九十七 討魏國武侯再上表 破曹兵姜維詐獻書

主なあらすじ[編集]

為求仁君[編集]

タイ語版「三国志」 劉備と趙雲 (Hem Vejakorn(フランス語版)
タイ語版「三国志」 趙雲と劉備 (Hem Vejakornフランス語版

正史とは違い、最初は袁紹に仕えていた。しかし袁紹には国や民を救済する心がない人物だと判り、少年・趙雲は公孫瓚の元へ向かった。公孫瓚が袁紹配下の文醜に襲われていたところに遭遇し、公孫瓚を助けるため文醜と五、六十合渡り合ったが決着はつかず、文醜は馬を返して退却した。公孫瓚は慌てて趙雲の元に駆け寄り感謝して、臣下に迎え共に陣営へと戻った。

その後、公孫瓚配下の将として活躍をするが、界橋の戦いにて袁紹軍の追撃に遭ったところで劉備、関羽、張飛たちが公孫瓚軍の加勢にやってきた。公孫瓚は劉備に礼を言い、趙雲を引き合わせた。この時、劉備と趙雲はお互い惹かれあい、離れがたく思った。別れの日、二人は互いの手をとり、涙を流しながらいつか再会できるようにと挨拶を交わした。その後、公孫瓚は袁紹に敗れ、趙雲は袁紹からしきりに臣下になるよう招かれるが、これを固辞して各地を放浪の末、ついに再会した劉備と趙雲は大いに喜んだ。こうして趙雲は正式に劉備軍の配下となった。

単騎救主[編集]

タイ語版「三国志」 阿斗を託す糜夫人と趙雲 (Hem Vejakorn(フランス語版)
タイ語版「三国志」 阿斗を託す糜夫人と趙雲

曹操の大軍に攻め寄せられた劉備軍は、劉備を慕う民衆と共に逃げ出すが、長坂坡で追いつかれ、混乱の中で趙雲は劉備の妻子を見失ってしまう。ひとり戦場を駆け回っていた所、敵将の夏侯恩に遭遇する。これを討ち取り、夏侯恩が曹操から授かっていた宝剣『青釭剣(せいこうけん)[注釈 15]を手に入れた。さらに戦場深く入ると、阿斗(劉禅)と糜夫人を発見した。糜夫人は足手まといになることを恐れて趙雲に阿斗を託し、井戸に身投げしてしまう[注釈 13]。趙雲は曹操軍に糜夫人の亡骸を盗まれないよう、土塀を崩して井戸を覆い、阿斗を懐に抱えて、曹操軍の大軍の中を単騎で駆け抜けた。

曹操は縦横無尽にひとりの将が戦場を駆け巡る姿を眺め、「あれは誰か?」と側近に聴いた。曹洪が大声で問うと、趙雲は「我こそは常山の趙子龍だ!」と答えた。曹操は趙雲を手に入れたくなり、「矢を射てはならぬ、生け捕りにせよ!」と命じた。これが幸いして、趙雲はこの難から逃れることができた。

それでもまだ追ってくる敵将を次々に青釭剣で討ち取り、無事に劉備の元へ戻ることができた。劉備の前にひざまずいて、趙雲は泣きながら糜夫人の死を告げ、阿斗を差し出した。劉備は阿斗を受け取ると、地に放り投げて「おまえのような子供のために、大事な将軍を失うところであった!」と言った。趙雲は驚くも劉備の言葉に感激し、「肝脳地にまみれさせても、このご恩に報いることはできません。」と涙した。

計取桂陽[編集]

三国演義(繡像本)挿画「趙子龍計取桂陽」
三国演義(繡像本)挿画「趙子龍計取桂陽」

劉備は荊州南部の四郡(武陵長沙桂陽零陵)の攻略へ動き出す。桂陽攻略では趙雲が名乗りをあげるが、これに張飛も名乗りをあげて二人は喧嘩になる。諸葛亮は二人にくじを引かせて、結果趙雲が向かうことになった。桂陽太守の趙範は降伏しようとするも、臣下の陳応が反対したので、兵を与えて攻撃させた。しかし陳応はあっさり撃退されてしまったので、趙範は降伏を願いでた。

趙範は趙雲と同じ姓で真定出身、同年生まれで趙雲の方が4か月生まれが早かったので、趙雲を兄として、二人は義兄弟のちぎりを結んだ。酒宴が開かれ、趙範は一人の美しい女性を呼び入れた。趙雲が「この女性は誰なのか?」と問うと、趙範の亡くなった兄の嫁の樊氏と言う。趙範は「兄嫁は再婚するのに三つ条件を述べました。一つ目は名声を轟かせていて、二つ目は顔立ちが優れている、三つ目は文武ともに優れて知性を備えていることです。」と言って、条件を満たしている趙雲に娶るよう勧めた。趙雲は「おまえの兄嫁はわたしの兄嫁でもある。何故道理に背くことができるのか!」と大怒し、趙範を殴り倒して城を出て行った。

趙範は臣下の陳応と鮑隆を呼びつけ、偽りの投降をして隙をついて趙雲を捕らえる計画を立て実行するも、趙雲に偽りだと見抜かれて斬り捨てられてしまった。趙雲が兵を引き連れ桂陽城に向かうと、慌てた趙範は城から逃げ出すが捕らえられてしまう。桂陽の陥落を知った劉備たちは、趙範がやったことは好意からで、敵意がなかったことを知った劉備は、樊氏を娶るよう趙雲に薦めるも、「天下に女性はたくさんおります。(劉備の)名声が落ちてしまいます。」と固辞したので劉備は感嘆した。そして趙範を解放してそのまま桂陽太守にして、趙雲を賞した。

甘露寺[編集]

劉備は孫権の妹(孫夫人・孫尚香)との縁談を孫権から薦められて、この申し出を受けることにした。趙雲は呉に向かう劉備の護衛として同行することになった。諸葛亮から三つの錦袋(錦嚢の計)を授かり、困ったときに順番に開けるように命じられる。この婚姻話は周瑜・孫権による、劉備を暗殺するための罠であったが、三つの錦袋の中の指示に従って、数々の困難から趙雲は劉備を守りぬき、呉国太にもふたりの婚姻を認められ、無事に劉備と孫夫人は夫婦となって荊州へ戻ることができた。

截江救主[編集]

趙雲「截江救主」
趙雲「截江救主」

孫権は劉備が益州に入ったと知ると、呉国太が危篤であると偽りの書状を孫夫人に届けて江東に連れ戻そうとした。同時に阿斗も連れ出して荊州と交換させようと考えていた。趙雲は孫夫人とともに阿斗がいないことに気付き、慌てて孫夫人の船を追いかけた。呉兵から抵抗され孫夫人に罵られるも、隙をついて趙雲は阿斗を奪い返した。見回りから帰ってきた張飛も慌てて駆けつけて、呉の船に飛び乗って阿斗だけは返してもらって孫夫人は見逃すことにした。こうして無事に阿斗を連れ戻すことに成功した。

虎威将軍[編集]

諸葛亮は曹操軍の北山の食料を焼き払って輜重を奪うため、黄忠と趙雲を派遣することにした。二人はくじを引いて黄忠が先鋒、趙雲が陣営の守りについた。約束の時刻になっても黄忠が戻らなければ、趙雲も出陣する取り決めをした。約束の時刻になっても黄忠が戻ってこないので、張翼に陣営の守りをまかせ黄忠の元へ向かうと、黄忠たちが張郃と徐晃に囲まれていたので救出した。曹操は諸将にあの将は何者かを問い、趙雲だと知ると「長坂の英雄は健在だったか。あの者を軽んじるな!」と伝令を出した。

曹操軍が本陣に迫ってくると、趙雲は張翼に門を開けたままにさせ、弓弩兵を陣営外の壕に伏せ、陣営内の旗を倒してひとり槍を手に門外に出た。張郃たちは兵を率いて追いかけてきたが、開かれた門の前にただ一人、馬に乗った趙雲が陣営の外に構えて立っているという異様なありさまに警戒した。そこへ曹操が自らやってきて前進するよう促し、兵が陣営前に大声で走り出るも趙雲はまったく動じない。逃げようとした曹操軍に、趙雲は合図すると弓弩がいっせいに放たれ、曹操軍は混乱して互いに踏みつけ押し合い、漢水に落ちて多数の死者が出た。こうして蜀軍は曹操陣営を占領し、輜重を奪うことができた。現場にやってきた劉備は、諸葛亮に喜んで言った。「趙子龍は全身肝っ玉である!」

諫阻東征[編集]

関羽が呉に殺されたため、劉備は弔い合戦をすると詔を下した。趙雲と諸葛亮は共に諫めて止めようとするも、劉備はこれを聴きいれず、対呉戦争へと行ってしまう。その途中、張飛は苛烈な私刑でむち打ちにした部下二人に恨まれ暗殺されてしまった。さらに夷陵にて劉備軍は陸遜の火計で大敗を喫するが、江州にいた趙雲が救援に来たので陸遜は軍を撤退させた。劉備を救った趙雲は白帝城へ逃走した。この戦いで多くの将兵が戦死し、劉備は心労から病にかかってしまう。ある晩、夢の中に死んだ関羽と張飛が現れた。死期を悟った劉備は諸葛亮と趙雲を呼び寄せて後事を託す。趙雲は涙を流して地に拝し、生涯忠誠を誓った。

力斬五将[編集]

タイ語版「三国志」 姜維と戦う趙雲

諸葛亮は北伐を進める前に後顧の憂いを断つべく、度々反乱が起きる南蛮の地を平定すべく征伐を開始し、趙雲もこれに同行する。馬謖の「心を攻めるは上策、城を攻めるは下策」の案を採用した諸葛亮は、南蛮王の孟獲を七度捕らえて七度目も解放しようとしたところ、孟獲はようやく心から蜀に降伏したので、南蛮の地を平定することができた。

帰還した諸葛亮は、劉禅に出師表を奏上して、ついに北伐に取り掛かる。この時老兵となっていた趙雲は、人選からもれたので抗議の声をあげる。諸葛亮は高齢を理由に説得するも、「戦場で死ぬことができれば、わたしは後悔はありません。」と聞かなかった。鄧芝が趙雲と共に先鋒に行くことに名乗りをあげたので、精鋭五千と副将十人をつけて出発させた。趙雲は韓徳の八万の軍勢とぶつかり、韓徳の息子たちをつぎつぎに討ち取った。鄧芝は「まさかすでに七十歳になっているとは思えません」[注釈 16]と趙雲の猛将ぶりを称えた。韓徳からの報告を受けた夏侯楙は、自ら軍勢を率いて攻め込んだ。趙雲は韓徳を討ち取り、鄧芝の兵も攻撃すると、夏侯楙の軍勢は撤退したが、程武は逃走を装って伏兵がいるところまで趙雲を誘い込み、幾重にも包囲する計略を進言した。趙雲は深追いしてこの計略にはまってしまう。孤立し、老いを実感した趙雲の元へ張飛の息子張苞、関羽の息子関興が助けに現れた。若い二人の力のお蔭で、趙雲は窮地を脱することができた。

失街亭[編集]

馬謖の敗北により、諸葛亮の退却命令を受けて趙雲らは箕谷から軍を退かせようとするが、魏軍の猛追を抑えるため、鄧芝が本隊を率いて先に退却し、趙雲は別動隊を率いて殿になった。魏軍は山坂の後ろから現れた趙雲の軍勢に驚き、蘇顒他、次々に敗れて残った兵も散り散りになった。趙雲は無事に諸葛亮の元へ帰還したが、趙雲の軍が一人も失っていないことを不思議に思った諸葛亮が鄧芝に問うと、「子龍将軍は一人で殿となられたので、わたしは兵を率いて先行いたしました。子龍将軍が敵をひるませたおかげで、わが軍は物資を放棄しなかったのです」と答えた。諸葛亮は倉の中から金を趙雲に贈り、絹を兵たちへ褒美とした。しかし趙雲はそれを辞退し、「三軍に何ら功はなく、この褒美を受け取ってしまうと丞相の賞罰が明確ではないことになります。ひとまず庫におさめて、冬になってから諸軍に配ってください。」と述べた。諸葛亮は劉備が常日頃から趙雲の徳を称えていたことを思い出し、今改めて敬服するのであった。

一陣大風[編集]

ふたたび北伐をすすめるべく、諸葛亮は宴会を開いて諸将と打ち合わせをしていた時であった。突然一陣の風が吹き、庭の松の樹が折れてしまった。不吉な予感がした諸葛亮の元に、趙雲の息子の趙統と趙広がやってきて、父が昨晩病没したと拝して泣きながら言った。諸葛亮は「今年多くの将を失ってしまった。子龍どのも亡くなり、国家は棟木と梁を失い、わたしは片腕を失ってしまった。」と泣いて言った。劉禅もまた、その言葉を聞くと声をあげてひどく泣いた。「朕は幼いころ、子龍がいなかったら乱軍の中できっと死んでいたであろう。」劉禅は趙雲に大将軍・順平侯の爵位を贈り、成都の錦屏山の東に埋葬して、廟堂を立てて春夏秋冬、祭りを行うよう命じた。

解説[編集]

上野隆三は、『演義』における趙雲像について、『三国志』趙雲伝の注に引く『趙雲別伝』の記述から見出される知的な印象に、勇猛さが新たに多く書き加えられたことで、文武両道の儒将のイメージが作り上げられたと述べている[97]。また五虎大将の序列について、先述した『演義』の操作により趙雲は馬超や黄忠よりもめざましい活躍を見せたため、毛宗崗本とも呼ばれる『演義』で最も普及する版の編者である毛宗崗中国語版が、史書では5番手の趙雲を3番手まで引き上げたのではないかと論じている[98]

『演義』では武将が一騎打ちを行うシーンが頻繁に描かれるが、趙雲は一騎打ちでの勝利数が最も多い25勝となっており、次いで関羽16勝、張飛14勝、呂布7勝となっている。『演義』は蜀勢力を善側とし、物語の主人公として描いているため、蜀の武将では長生きだった趙雲が結果的に最多勝利者となったと推測できる[99]

演義関連作品[編集]

京劇における武生(立ち回りを得意とする武将役)役の趙雲。ヒゲのない端正な容姿、力強く安定した姿で演じられる。白と青を基調とした衣装に赤を用いているのが特徴。 『周恩旭《長坂坡》長安大戯院 10』周恩旭《长坂坡》长安大戏院 10
京劇における武生(立ち回りを得意とする武将役)の趙雲。髭のない端正な容姿、性格は胆大心小、演者は力強く安定した姿で演じることを求められる。白と青を基調とした衣装に、赤を用いているのが特徴。
  • 三国志後伝酉陽野史による蜀漢滅亡後、劉備や諸葛亮、趙雲ら子孫の活躍を描いた作品。
  • 反三国志演義周大荒が新聞『民徳報』にて連載した作品。趙雲と馬超の二人が主人公。作品内で馬超の妹の馬雲騄と趙雲が結婚する。
  • 説話三国演義袁闊成中国語版による三国志演義の説話作品。『三国志』『三国志演義』の他、全国の三国故事などを研究した重厚な作品になっている。張飛らから「四弟」と呼ばれたり、京劇のように中性的な白面の美丈夫としての描写が強調されている。
  • 長編平話三国:張国良による平話作品。1983年から全20巻を予定されていたが、作者の体調不良により14巻で終了となった。袁闊成の作品と同様、白馬と銀槍(亮銀槍)を持ち、ビジュアル描写がさらに強化されている。劉備の結婚話(甘露寺)で護衛の趙雲を見た呉国太が、もう一人娘を生んでいたらこの若くて美しい将軍にも娶らせたのに、と、娘を二人産まなかった自分に腹を立てるといったように、作者による独自展開や解釈、設定が盛り込まれている。

民間伝承・芸術・他[編集]

歌川国芳「五将軍見立五人男 趙雲」見立絵
歌川国芳による見立絵「五将軍見立五人男 趙雲」

伝承・創作人物[編集]

  • 孫軟児:民間伝承に登場する妻(詳細は該当記事を参照)。映画『三国志』(2008年)で軟児の名前が採用されている。
  • 李翠蓮河北梆子劇『青釭剣』の演目にて趙雲の妻として登場する。長坂坡の戦いで劉備達とはぐれた趙雲が、迷い込んだ村で出会い結婚する。
  • 関銀屏:関羽の娘がモデルの人物。趙雲に弟子入りし、師事して武術を習う。

白龍[編集]

白龍(はくりゅう)」、もしくは「白龍駒(はくりゅうく)」という名の白い駿馬を愛馬にしていたという。『子龍池』という話では、この馬は昼は千里を、夜は五百里を走ることができ、趙雲とは意思疎通ができたといわれるほど愛されたという。白龍の話は映画レッドクリフで採用されている。

子龍池(洗馬池)[編集]

演劇で使用される趙雲の仮面
演劇に用いられる趙雲の仮面

四川省成都にかつて存在した、趙雲が住んだと伝わる官邸裏にあった池。「子龍洗馬池」とも。白龍とともに趙雲が傷を癒したという。その後は邸宅の所有者が何度も変わり、その都度改築などを経て、1950年頃には池は埋め立てられ、「子龍塘街」から現在の「和平街」に改名された。跡地にある和平街小学校に『漢順平侯洗馬池』の碑がある。以下は子龍池にまつわる伝承[100]である。

南宋時代、蒙古の襲撃を受けて成都は大きな被害に遭い、蒙古の皇太子・闊端はこれを誇らしげに眺めていた。そこへ白袍姿に銀槍を抱え、白馬に乗った将軍が現れた。英気あふれる彼は、常勝将軍・趙雲にとても良く似ていた。彼は「兵よ集え、賊に抗え! 我と国を守れ!」と大喝して兵を鼓舞し、蒙古兵に突撃した。蒙古兵は次々に槍で突かれ、死体は山のように築かれた。白袍の将軍に従った兵たちは、ついに蒙古兵を成都から追い出すことができた。
後日、成都の人々は皆「あれは趙子龍が顕現して蒙古を倒してくれたのだ」と言った。趙雲はかつて子龍池(洗馬池)で馬を洗っていたので、人々はその池の横に楼閣と塔を建て、馬に乗り跳躍した趙雲の塑像を祀った。毎日絶え間なく香が焚かれ賑やかだったという。

槍・剣[編集]

  • 涯角槍(がいかくそう):『三国志平話』に書かれる。長さ九尺(約3メートル)あり、「生涯に敵う者なし」という意味で名付けられている。同説話ではこの槍で、張飛と互角に一騎討ちをしている。
  • 金牛山の剣:『古今刀剣録』に記される。章武元年(221年)劉備が金牛山から鉄を採取し、長さ三尺六寸の剣を八本鋳造したうちの一本を趙雲に与えたという[101]

戒指[編集]

趙雲が指輪を身につける文化を広めたとの伝承がある。『益州』と『荊州』で幾つかの違った話がある他、趙雲の故郷である河北省正定出身の語り部周四成の『趙子龍与戒指』の話に見られる内容では、『益州』の話に京劇や他の語り部に見られる「徐庶が趙雲を救う」エピソードが加えられ、詳細が語られている。

  • 益州版:趙雲が長板坂で阿斗を救出して包囲を突破したとき、張郃と曹洪から薬指に深い傷を負った。傷痕はかなり目立ち、醜く感じたので、趙雲は職人に傷を隠すための金の輪(蓋指)を作らせた。
  • 荊州版:荊州版は2種類あり、共通点として「趙雲の死後、彼の生前着飾った姿の像が作られ、その指には金の輪をはめていた。人々はそれを真似て身に着け、その習慣が今日、指輪として民間に広まった」[102]とされている。 相違点は、像の由来が『戴戒指的来歴』では「後主・劉禅は趙雲が命を救ってくれたことに感謝し、趙子龍の像を作った」と書かれている点と、『荊州人戴戒指的来歴』では「荊州の関帝廟にある趙雲の像」[103]に基づいており、「指輪は荊州の人々のお気に入りの装飾品になった」。
  • 正定版:「(趙雲が長坂坡で徐庶に助けられ窮地を脱したが、その時、張郃・曹洪から指に傷を負ったので指輪で傷を隠した。)その後、劉備の軍隊が四川に入城すると、益州の人々は趙雲が手に輝く指輪をしているのを見て、彼らも指輪をつけるようになった。今日、指輪をつける習慣が四川省の成都と綿陽の人々の間で今も伝承されている」[104]

最期にまつわる話[編集]

四川省大邑県と河北省正定県ほか、複数の伝承がある(趙雲の妻が関連する死については孫軟児#趙雲の死と刺繍針を参照)。湖北省咸寧地方にある『趙雲得意笑死』[105]という話は、これらとは違った内容になっている。以下はその内容。

『三国志演義』には、趙雲は老衰で死んだと書いてある。私たちは、年配の人たちから「趙雲は笑い死にした」という違う話を聞いたことがある。 「周公瑾は怒って死んだが、趙子龍は笑って死んだ」という古い話。

趙雲の72歳の誕生日を祝いに来た親戚や友人らは、老将軍に乾杯してその生涯の功績を称える歌を詠んだ。「20歳、先帝(劉備)に従い、命懸けで戦い続けた。30歳、当陽の地にて単騎で後主(劉禅)を救って名を揚げた。40歳、長江を渡りて後主を連れ戻した。50歳、南蛮征伐に向かい、軍の柱となった。60歳、祁山に出でて曹軍の五将軍を斬った。70歳、あなたは元気そのもので、優れた馬と槍を持ち、将軍は全身が肝っ玉、百戦百勝、世の無双!」これを聞いた趙雲は手を振って言った。「いやいや、今日の常山の趙子龍があるのは、我が君と、皆様の支えがあったからこそです!」

宴会が終わり、招待客がみな帰ったあと、趙雲は突然筋肉と骨が腫れているのを感じた。「長い間戦場にいなかったから、違和感があるのだろうか?」そこで風呂に入ろうと思い、一人部屋に閉じこもって服を脱ぎ、裸になった。この身体は何百回の戦いを経ても、一度も怪我をしたことがなく、傷一つない。皆が詠った言葉を思い出す。 「将軍は全身が肝っ玉、百戦百勝、世の無双!」

「はははははは…」思わず大声で笑うと、息が切れた。こうして彼は名誉の死を遂げた。

墓にまつわる話[編集]

故事・四字熟語[編集]

  • 一身是胆(いっしんしたん):強い勇気があり、何事にも恐れないことのたとえ。体全体に胆力が満ち溢れているという意味から。劉備が趙雲の勇ましさを称えたという故事から[106]
  • 満身是胆(まんしんしたん):一身是胆の類義語[107]

関連人物[編集]

古跡・施設・文化[編集]

中国・河北省正定県[編集]

河北省正定県・趙雲故里「趙雲廟」
河北省正定県・趙雲故里「趙雲廟」
趙雲廟
詳細は趙雲廟中国語版を参照
故郷・正定県にある趙雲を祀った廟。1997年、県級重点文物保護単位に指定。
  • 廟門:左右に趙雲の像が設置されている。
  • 四義殿:趙雲の像と劉備・関羽・張飛が並ぶ。
  • 五虎殿:五虎将の像が並ぶ。
  • 君臣殿:趙雲・劉備・諸葛亮・関羽・張飛の像が並ぶ。
  • 順平侯殿(正殿):趙雲像の左右に趙統・趙広が祀られている。
  • そのほか、清代の『漢順平侯趙雲故里』碑、大邑趙雲墓と長坂坡の土、
    壁画や「趙子龍飲馬槽」の展示など。
河北省正定県「子龍広場」
河北省正定県「子龍広場」
子龍広場
河北省正定県の庁舎前にある広場。巨大な趙雲像がある。
台座の背面に趙雲を賛辞する言葉が刻まれている。
常山公園
「常山東路」にある公園。趙雲の騎馬像が設置されている。
子龍桟橋
一角に趙雲が故郷の人々と別れを告げる場面の彫像が設置されている。
その他
正定城中国語版、常山陵園など、街の至る所に趙雲像が設置されている。
「常山戦鼓」パフォーマンス
「常山戦鼓」パフォーマンス
常山戦鼓
詳細は常山戦鼓中国語版を参照
戦国時代に始まり、明時代に隆盛。正定の人々に広く流通した。
正定県は歴史的に「常山」(趙雲の故郷)と呼ばれていたため、「常山戦鼓」と呼ばれる。
現在はパフォーマンスで使用される。
伝承では趙雲が出陣する際、常山の戦太鼓を戦場で叩くことで士気を高め、
兵たちを鼓舞し、常に敵を打ち破り、勝利を収めたので「常山戦鼓」と呼ばれたという。
2008年、国の無形文化遺産に登録。

邢台市[編集]

承徳市[編集]

  • 中国馬鎮:承徳市豊寧満族自治県にある馬文化をテーマにした観光リゾートパーク。アトラクションや乗馬を楽しめる。「戦神 趙子龍」では、長坂坡の戦いを再現した馬上パフォーマンスを観覧することができる[108]。ゲート入口上部に趙雲の騎馬像がある。

邯鄲市[編集]

  • 前・後趙雲堡村:邯鄲市辛安鎮鎮中国語版にある趙雲の名が由来の村。創建年代不明。趙雲が軍を率いてこの村に駐屯したと伝えられている。

当陽市[編集]

  • 長坂坡公園:長坂坡古戦場に整備された、趙雲を顕彰する「長坂坡公園」があり、趙雲を称えた『長阪雄風』の石碑や『演義』の名場面を再現した壁画や像が展示されている。「長坂路」のロータリーには阿斗を抱え、槍を構えた趙雲の大きな騎馬像がある。近くには「子龍路」「子龍村」[109]などの趙雲にちなんだ地名や村名がある。
  • 太子橋:「子龍畈」と呼ばれる丘の近くに、糜夫人が阿斗を抱えて避難したという「太子橋」や、糜夫人が身投げした「娘娘井」(井戸)と、『演義』にまつわる遺跡がある。

湖南省南陽市[編集]

重慶市奉節県[編集]

「白帝城」
重慶市奉節県「白帝城」
白帝城
詳細は白帝城を参照
重慶市奉節県長江三峡に位置。夷陵の戦い後、劉備が没した場所。
劉備、諸葛亮、趙雲らの塑像が展示されている。

四川省大邑県[編集]

  • 大邑趙雲墓:詳細は大邑趙雲墓を参照
  • 静恵山公園中国語版:山上に「子龍祠」があり、羌族を監視するために趙雲が築いたという「望羌台」の他、石碑や像がある。そのほか「子龍路」「白馬溝」など、趙雲にまつわる地名が複数存在する。
  • 和平街:旧称「子龍塘街」。趙雲の居宅があったと伝わる場所。詳細は子龍池(洗馬池)を参照

綿陽市[編集]

台南・佳里子龍廟「永昌宮」
綿陽市「五虎上将」
富楽山公園
綿陽市「富楽山公園」に設置されている五虎大将軍(五虎上将)の像。
関羽・張飛・趙雲・馬超・黄忠の像が並ぶ。

台湾・台南市佳里区[編集]

台南・佳里子龍廟「永昌宮」
台南・佳里子龍廟「永昌宮」
佳里子龍廟・永昌宮
詳細は佳里子龍廟中国語版を参照
趙雲(趙聖輔天帝君)を主神として祀った廟。
台湾にはこの子龍廟の他に、趙雲廟が主に島の西側に複数存在する。

趙雲を主題とした作品[編集]

映画
テレビドラマ
小説
朗読CD
  • 三国志 Three Kingdoms 公式朗読CDシリーズ “夷陵に燃ゆ” / 趙雲篇(2012年、主演:KENN
漫画
ゲーム
  • Three Kingdoms Zhao Yun(2024年、中国、ZUIJIANGYUE Game、ETime Studio、Merlion Games)
    ※2024年6月時点では日本語未対応。

その他関連作品[編集]

映画
テレビドラマ
アニメ
ゲーム
漫画

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 尺は時代によって長さが違うため、書籍によっては184cm~192cmと違いが見受けられる。
  2. ^ a b 「主騎」を「護衛隊長」と訳している書籍があるが、『新唐書』巻135哥舒翰伝に見られる「使王思禮主騎(騎兵の主),李承光主步(歩兵の主)」や、『資治通鑑』第六十巻の「為備主騎兵」などのように、「騎兵隊長」と訳すのが正しい。
  3. ^ a b 『華陽国志』によると、翊軍将軍への昇進は劉備の漢中王即位後であり「關羽為前將軍,張飛為右將軍,馬超為左將軍,皆假節鉞。又以黄忠為後將軍,趙雲翊軍將軍。」と四将と並んで昇進したと記録されている。
  4. ^ 宮川尚志は「この意見は、新たに興った蜀漢のまさに進むべき国策を明確に認識したもの」と評し、「魏の領土となった華北を久しく放置すれば、民心はいつとはなしに漢の故土であったことを忘れ、魏政権を正しいものとみなしてしまうであろう。民心なおひそかに漢を思う間にこそ、堂々と実力に訴え、名分に正し漢の正統の権利を主張すべきである」と述べている[18]
  5. ^ a b 『華陽国志』では“封丞相亮武郷侯。(中略)中護軍趙雲〔為征南將軍,封永昌亭侯。〕(中略)中部督襄陽向寵,及魏延、吳懿皆封都亭侯。”とあり、建興元年以前に中護軍になっている。
  6. ^ 『三国志』蜀書五 諸葛亮伝、および『華陽国志』によると、趙雲たちの軍は疑軍(少数の兵を多数に見せかけること)であった[20][21]と記録されている。 また、『漢晋春秋』には「祁山、箕谷では蜀軍の方が曹軍より多かったが撃破できなかった」とも記述がある[22]
  7. ^ 胡三省は、『晋書』職官志を根拠にすると鎮軍将軍は四征将軍・四鎮将軍の上位であるため、鎮東将軍から鎮軍将軍へとなるとむしろ昇格になることを指摘し、「思うに、蜀漢の制度では鎮東将軍は方面の鎮圧を専らにするものだから、鎮軍将軍は雑号将軍だった。それゆえ降格となるのだろう」と述べている[23]。しかし蜀の鎮軍将軍は四征将軍や四鎮将軍同様に上位職の鎮軍大将軍の位が置いてあり、雑号将軍であるとは考えづらい。盧弼は「『宋書』百官志では、鎮軍将軍は四鎮将軍と比較すると、四鎮将軍に次ぐ。『晋書』のいう鎮軍将軍は鎮軍大将軍のことであるから、四征将軍・四鎮将軍よりも上位なのだ」と述べている[24]
  8. ^ 成都から臨城に至るまでには魏の領域が含まれるため、実際には実現不可能である。
  9. ^ 劉巴とは同姓同名の別人。
  10. ^ これは趙雲に限らず、蜀の人物が書かれた『蜀書』は『魏書』が全30巻なのに対して全15巻しかなく、武官は記述量が全体的に少なめである。
  11. ^ ただし趙雲以外にも多くの臣下が諫めた[74]とあり、そのうちの一人である秦宓は諫言により一時投獄された[75]
  12. ^ この時、他に増祀された従祀名臣は、倉頡仲虺中国語版畢公高周呂侯仲山甫中国語版尹吉甫劉章魏相丙吉耿弇馬援狄仁傑宋璟姚崇李泌中国語版陸贄中国語版裴度呂蒙正李沆中国語版寇準王曾范仲淹富弼韓琦文彦博、司馬光、李綱趙鼎文天祥、呼嚕、博果密、托克托常遇春李文忠楊士奇楊榮于謙李賢劉大夏[83]
  13. ^ a b 嘉靖版『三国志通俗演義』では、趙雲が逃げようとしない麋夫人を怒鳴ったことをきっかけに麋夫人が井戸に身を投げたことについて、趙雲は不忠者であるという註がつけられている[94]。これに対し、王長友は『嘉靖本』の割注が『毛宗崗本』では省かれていることに触れ、またその割注について、思想が陳腐で融通のきかない文人によるものだと推測している[95]
  14. ^ 李光地によれば、趙雲が幼い後主(劉禅)を拾ったことが、夏侯嬰が幼い恵帝を拾ったことに対応している[85]
  15. ^ 諸刃の「剣」は春秋時代に多用された武器で、漢の時代になると、片刃の「刀」が普及したことで剣の使用は少なくなっていった。しかしそれによって剣の神秘性が増し、尊重されるようになったという[93]。この青釭剣は、劉禅を救う趙雲の英雄性を高めるためのアイテムとして、羅貫中が用いたと考えられる。
  16. ^ 登場時は少年だったので、北伐のこの時点で七十歳だと計算が合わない。少年=十九歳だとしても六十歳前になる。羅貫中の計算ミスか、あるいはこのような『演義』内でのやや唐突な時間経過の描写は、山本健吉が「物語作者が読者をあざむいていたことをこういうときほど痛感することはない。(中略)物語の時間は、極度に圧縮された時間である」と述べているように[96]、時代の移行を示す物語的表現手法とみられる。

出典[編集]

  1. ^ 井波律子 訳『正史三国志5 蜀書』ちくま学芸文庫、1993年、185頁。 
  2. ^ 渡邉義浩. "趙雲". 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2024年1月4日閲覧
  3. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "雲別傳曰:雲身長八尺,姿顏雄偉,為本郡所舉,將義從吏兵詣公孫瓚。”
  4. ^ a b c 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "時袁紹稱冀州牧,瓚深憂州人之從紹也,善雲來附,嘲雲曰:「聞貴州人皆原袁氏,君何獨回心,迷而能反乎?」雲答曰:「天下訩訩,未知孰是,民有倒縣之厄,鄙州論議,從仁政所在,不為忽袁公私明將軍也。」遂與瓚征討。”
  5. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "時先主亦依託瓚,每接納雲,雲得深自結託。”
  6. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "雲以兄喪,辭瓚暫歸,先主知其不反,捉手而別,雲辭曰:「終不背德也。」”
  7. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "先主就袁紹,雲見於鄴。先主與雲同床眠臥,密遣雲合募得數百人,皆稱劉左將軍部曲,紹不能知。遂隨先主至荊州。”
  8. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "先是,與夏侯惇戰於博望,生獲夏侯蘭。蘭是雲鄉里人,少小相知,雲白先主活之,薦蘭明於法律,以為軍正。雲不用自近,其慎慮類如此。”
  9. ^ 『三國志』卷36趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "雲別傳曰:初,先主之敗,有人言雲已北去者,先主以手戟擿之曰:「子龍不棄我走也。」頃之,雲至。”
  10. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "從平江南,以為偏將軍,領桂陽太守,代趙範。範寡嫂曰樊氏,有國色,範欲以配雲。雲辭曰:「相與同姓,卿兄猶我兄。」固辭不許。時有人勸雲納之,雲曰:「範迫降耳,心未可測;天下女不少。」遂不取。範果逃走,雲無纖介。”
  11. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "先主入益州,雲領留營司馬。此時先主孫夫人以權妹驕豪,多將吳吏兵,縱橫不法。先主以雲嚴重,必能整齊,特任掌內事。”
  12. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "權聞備西徵,大遣舟船迎妹,而夫人内欲将後主還呉,雲與張飛勒兵截江,乃得後主還。”
  13. ^ 『三國志』卷34「先主穆皇后」『漢晉春秋』 "云:先主入益州,吳遣迎孫夫人。夫人欲將太子歸吳,諸葛亮使趙雲勒兵斷江留太子,乃得止。”
  14. ^ a b 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "雲別傳曰:益州既定,時議欲以成都中屋舍及城外園地桑田分賜諸將。雲駮之曰:「霍去病以匈奴未滅,無用家為,令國賊非但匈奴,未可求安也。須天下都定,各反桑梓,歸耕本土,乃其宜耳。益州人民,初罹兵革,田宅皆可歸還,今安居複業,然後可役調,得其歡心。」先主即從之。”
  15. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "夏侯淵敗,曹公爭漢中地,運米北山下,數千萬囊。黃忠以為可取,雲兵隨忠取米。忠過期不還,雲將數十騎輕行出圍,迎視忠等。值曹公揚兵大出,雲為公前鋒所擊,方戰,其大眾至,勢偪,遂前突其陳,且鬥且卻。公軍散,已復合,雲陷敵,還趣圍。將張著被創,雲復馳馬還營迎著。”
  16. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "公軍追至圍,此時沔陽長張翼在雲圍內,翼欲閉門拒守,而雲入營,更大開門,偃旗息鼓。公軍疑雲有伏兵,引去。雲雷鼓震天,惟以戎弩於後射公軍,公軍驚駭,自相蹂踐,墮漢水中死者甚多。”
  17. ^ a b 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "先主明旦自来至雲営囲視昨戦處,曰:「子龍一身都是膽也。」作楽飲宴至暝,軍中號雲為虎威将軍。”
  18. ^ 宮川 1988, p. 125.
  19. ^ a b 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "孫權襲荊州,先主大怒,欲討權。雲諫曰:「國賊是曹操,非孫權也,且先滅魏,則吳自服。操身雖斃,子丕篡盜,當因眾心,早圖關中,居河、渭上流以討凶逆,關東義士必裹糧策馬以迎王師。不應置魏,先與吳戰;兵勢一交,不得卒解。」先主不聽,遂東征,留雲督江州。先主失利於秭歸,雲進兵至永安,吳軍已退。”
  20. ^ 『三国志』蜀書五 諸葛亮伝, “六年春,揚聲由斜谷道取郿,使趙雲、鄧芝為疑軍,據箕谷,魏大將軍曹真挙衆拒之。”
  21. ^ ウィキソース出典  (中国語) 華陽國志/卷七, ウィキソースより閲覧。  「劉後主志 二」 “六年春,丞相亮揚聲由斜谷道取郿,使鎮東将軍趙雲,中監軍鄧芝據箕谷為疑軍,魏大將軍曹真挙衆當之。”
  22. ^ 『漢晋春秋』”或勸亮更增兵者,亮曰:「大軍在祁山,箕穀,皆多於賊,而不能破賊為賊所破者,則此病不在兵少也,在一人耳。」”
  23. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『資治通鑑』巻71太和二年胡注, ウィキソースより閲覧, "據《晉書‧職官志》:鎭軍將軍在四征、四鎭將軍之上。今趙雲自鎭東將軍貶鎭軍將軍,蓋蜀漢之制,以鎭東爲專鎭方面,而以鎭軍爲散號,故爲貶也。" 
  24. ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "《宋書· 百官志》鎭軍將軍比四鎭,在四鎭之次。《晉志》 之鎭軍將軍為鎭軍大將軍,故在四征、四鎭之上也。"
  25. ^ ウィキソース出典  (中国語) 華陽國志/卷七, ウィキソースより閲覧。  「劉後主志 二」“而雲、芝亦不利。亮抜将西県千餘家還漢中,戮謖及沐盛以謝眾,奪襲兵,貶雲秩。”
  26. ^ 『水經注』卷二十七「沔水」. 中国哲学書電子化計画. 2024年7月10日閲覧,“諸葛亮《與兄瑾書》雲:前趙子龍退軍,燒壞赤崖以北閣道,緣穀百餘里,其閣梁一頭入山腹,其一頭立柱于水中。今水大而急,不得安柱,此其窮極,不可強也。又雲:頃大水暴出,赤崖以南橋閣悉壞,時趙子龍與鄧伯苗,一戍赤崖屯田,一戍赤崖口,但得緣崖與伯苗相聞而已。”
  27. ^ 『三國志/卷36』「趙雲伝(裴松之注・雲別伝)」 “亮曰:「街亭軍退,兵將不復相錄,箕穀軍退,兵將初不相失,何故?」芝答曰:「雲身自斷後,軍資什物,略無所棄,兵將無緣相失。」”
  28. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "雲有軍資余絹,亮使分賜将士,雲曰:「軍事無利,何為有賜?其物請悉入赤岸府庫,須十月為冬賜。」亮大善之。”
  29. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "雲別傳載後主詔曰:「雲昔從先帝,功積既著。朕以幼沖,涉塗艱難,賴恃忠順,濟於危險。夫諡所以敘元勳也,外議雲宜諡。」”
  30. ^ 『三國志』卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝) "大將軍姜維等議,以為雲昔従先帝,労績既著,経営天下,遵奉法度,功效可書。當陽之役,義貫金石,忠以衛上,君念其賞,禮以厚下,臣忘其死。死者有知,足以不朽;生者感恩,足以殞身。謹按諡法,柔賢慈惠曰順,執事有班曰平,克定禍亂曰平,應諡雲曰順平侯。”
  31. ^ ウィキソース出典  (中国語) 後出師表, ウィキソースより閲覧。  “自臣到漢中,中間朞年耳,然喪趙雲、陽羣、馬玉、閻芝、丁立、白壽、劉郃、鄧銅等及曲長屯將七十餘人,…”
  32. ^ 『邛州直隷州志』三「徳耀奉文検葬置有碑記」. 中国哲学書電子化計画. “不蜀漢順平侯鎮東将軍趙子竜墓在県東一里関(尺川一仕醜前●不路)聰道塁誤雲祠豊碑” ●=口口+田+一+口+日に釣り針
  33. ^ 『大邑縣志』二「仙人洞県北聖許」. 中国哲学書電子化計画. “漠順平侯趙雲墓在県東美里許銀屏出下有古碑豎大道前刻漢将簟趙子竜墓墓前赫祠騎醴”
  34. ^ 『四川通志』巻25. 中国哲学書電子化計画. "靜惠山 在[大邑]縣北一里,一名東山,上有平雲亭,相傳蜀、漢趙雲所築。"
  35. ^ 曹学佺『蜀中名勝記/巻十三』(PDF)茹古書局、1910年https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko17/bunko17_w0216/bunko17_w0216_0005/bunko17_w0216_0005.pdf 古典籍総合データベース. 2024年7月8日閲覧、「靜惠山,一名東山。山下土城,相傳是蜀漢將軍趙雲築。蓋雲嘗防羌於此,有雲墓及廟存。」
  36. ^ ウィキソース出典  (中国語) 关于公布成都市文物保护单位保护范围的通知, ウィキソースより閲覧。  “40、趙子龍祠墓,位于大邑県銀屏郷錦屏村,是三国蜀将趙雲的墓和祠宇。清代康熙四年(1665年)大邑知県李德耀重建。其保護範囲是現有古建築占地面積併四周各至30米処為界。”
  37. ^ 佳里子龍廟永昌宮”. Facebook. 2024年4月1日閲覧。
  38. ^ 「南陽縣・陵墓」『大明一統志』「趙雲墓〈在南陽縣南三十里●蜀漢偏將軍趙雲〉」●=草冠に死+大(葬の異体字)
  39. ^ 「伝説故事・南陽趙雲墓」沈伯俊、譚良嘯編『三國演義大辞典』中華書局、2007年、pp. 636-637。
  40. ^ 『省政府公布173項第三批省級非物質文化遺産名録』河北日報、2009年6月17日。 
  41. ^ 郝志強 著「臨城趙雲故里考(二)」、侯風春 編『関於趙雲故里』大衆文藝出版社、2009年、99頁。 
  42. ^ 「麒麟崗與趙雲故里碑」、王信忠「臨城澄底-趙雲故里探析」、侯風春 編『関於趙雲故里』大衆文藝出版社、2009年、79,109頁。
  43. ^ 「長坡趙雲之墓」、侯風春 編『関於趙雲故里』大衆文藝出版社、2009年、p. 220。
  44. ^ 『三國志』卷40 魏延伝 "以部曲隨先主入蜀,數有戰功,遷牙門將軍。"
  45. ^ 『三國志』卷36 関羽伝 "曹公禽羽以歸,拜為偏將軍,禮之甚厚。"
  46. ^ 『三國志』卷41 霍峻伝(付・霍弋伝)"遷監軍、翊軍將軍,領建寧太守,還統南郡事。"
  47. ^ 『季漢輔臣贊』李孫德(李福)”建興元年,徙巴西太守,為江州督、楊威將軍,入為尚書僕射,封平陽亭侯。”
  48. ^ 『三國志』卷44 費禕伝 "建興八年,轉為中護軍,後又為司馬。"
  49. ^ 『三國志』卷40 李厳伝 "行前監軍征南將軍臣劉巴、(中略)行護軍征南將軍當陽亭侯臣姜維"
  50. ^ 『三國志』卷32 先主伝 "曹公表先主為鎮東將軍,封宜城亭侯,是歲建安元年也。"
  51. ^ 『三國志』卷32 先主伝 "長史鎮軍將軍臣許靖" 『三國志』卷39 董允伝(付・陳祗伝) "呂乂卒,祗又以侍中守尚書令,加鎮軍將軍,大將軍姜維雖班在祗上,常率眾在外,希親朝政。"
  52. ^ 『三國演義』 第六十五回 "趙雲爲鎮遠將軍”
  53. ^ 『三國演義』 第七十三回 "封關羽、張飛、趙雲、馬超、黃忠為五虎大將軍”
  54. ^ 『三國演義』 第八十回 "先主視之,乃虎威將軍趙雲也。”
  55. ^ 『三國演義』 第九十七回 "正飲酒間,忽報鎮南將軍趙雲長子趙統、次子趙廣,來見丞相。”
  56. ^ 『三國演義』 第九十七回 "即下詔追贈大將軍,諡順平侯,敕葬於成都錦屏山之東”
  57. ^ 楊子龍「浅談魏晋南北朝時期雑伝之別伝」『四川教育学院学報』第3号、2009年、57-58頁。 p. 58。
  58. ^ 朱静「魏晋別伝繁興原因探析」『塩城師範学院学報(文社会科学版)』第2号、2006年、62-66頁。 p. 65。
  59. ^ 田延峰「漢魏六朝時期人物別伝綜論」『宝鶏匯理学院学報(哲学社会科学版)』第2号、1995年、76-80, 20。 pp. 77-78, 80。
  60. ^ 趙華「略論別伝与史伝之異同」『黒河学刊』第6号、2003年、85-86頁。 p. 58。
  61. ^ 朱 2006, pp. 62–64.
  62. ^ 王煥然「試論漢末的名土別伝」『沈陽師範大学学報(社会科学版)』第2号、2004年、70-74頁。 p. 74。
  63. ^ 裴媛媛「魏晋別伝体例考論」『編輯之友』第11号、2012年、106-108頁。 p. 107。
  64. ^ 『三国志』巻14孫資伝注引『孫資別伝』
  65. ^ 田 1995, p. 80; 楊 2009, p. 58.
  66. ^ 漢書』巻65東方朔伝顔師古注, "謂如《東方朔別傳》及俗用五行時日之書,皆非實事也。"
  67. ^ 矢野 1967, pp. 30–31.
  68. ^ 田 1995, pp. 77, 80.
  69. ^ 渡邉 2020, pp. 242–243.
  70. ^ 渡邉 2020, p. 243.
  71. ^ 矢野主税「別伝の研究」『社會科學論叢』第16号、1967年、17-45頁。 p. 31.
  72. ^ 矢野 1967, p. 45.
  73. ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "本傳先主為平原相時,[]雲已隨從主騎,《別傳》謂 '就袁紹,雲見於鄴' 則在建安五年後,此違反不可信也。";"諸葛賞罰之肅,雲猶貶號,其下安得濫賜?又足以明其不然。別傳類皆子孫溢美之言,故承祚不取。"
  74. ^ 『三國志/卷38』 法正伝 “先主旣即尊號,將東征孫權以復關羽之耻,羣臣多諫,一不從。”
  75. ^ 『三國志/卷38』 秦宓伝 “先主既稱尊號,將東征吳,宓陳天時必無其利,坐下獄幽閉,然後貸出。”
  76. ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "雲之駁分賜,議甚忠正,然經國之務,有諸葛公在,必得其當,未應反待武臣駮議,殆家傳掠美耳。其諫伐吳,則又諸葛公所不能得之,其主追思孝直,恐散號列將非所及也。《別傳》大抵依仿諸葛子瑜書及孫權稱尊號諸葛公不明絕其僭之義為之。"
  77. ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "雲之美德皆見《別傳》 ,而本傳略不及之,何哉?"
  78. ^ 『後漢書』 孝明八王傳. "豹立八年薨,子暠嗣。三十二年,遭黃巾賊,棄國走,建安十一年國除。"
  79. ^ ウィキソース出典  (中国語) 英雄記, ウィキソースより閲覧。 『英雄記』韓馥伝. "時冀州民人殷盛,兵糧優足。"
  80. ^ 『三國志』巻6 袁紹伝(付・沮授、田豊伝) "紹將南師,沮授、田豐諫曰:「師出歷年,百姓疲弊,倉庾無積,賦役方殷,此國之深憂也。宜先遣使獻捷天子,務農逸民;若不得通,乃表曹氏隔我王路,然後進屯黎陽,漸營河南,益作舟船,繕治器械,分遣精騎,鈔其邊鄙,令彼不得安,我取其逸。三年之中,事可坐定也。」"
  81. ^ 『漢晋春秋』 "紹攻操於官渡。張郃說紹曰:「公雖連勝,然勿與曹公戰也。密遣輕騎抄絕其南側,兵自敗矣。」紹不從之。"
  82. ^ 黄巾イレギュラーズ 編『出身地でわかる三国志の法則』光栄、1995年、33-44頁。 
  83. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『清史稿』巻84礼志三, ウィキソースより閲覧, "[康熙]六十一年,[聖祖]諭:「帝王崇祀,代止一二君,或廟饗其臣子而不及其君父,是偏也。凡為天下主,除亡國暨無道被弒,悉當廟祀。有明國事,壞自萬曆、泰昌、天啟三朝,神宗、光宗、憙宗不應崇祀,咎不在愍帝也。」於是廷臣議正殿增祀[...]凡百四十三位。其從祀功臣,增黃帝臣倉頡,商仲虺,周畢公高、呂侯、仲山甫、尹吉甫,漢劉章、魏相、丙吉、耿弇、馬援、趙雲,唐狄仁傑、宋璟、姚崇、李泌、陸贄、裴度,宋呂蒙正、李沆、寇準、王曾、范仲淹、富弼、韓琦、文彥博、司馬光、李綱、趙鼎、文天祥,金呼嚕,元博果密、托克托,明常遇春、李文忠、楊士奇、楊榮、于謙、李賢、劉大夏,凡四十人。是歲,世宗御極,依議行,增置神主,為文鑱之石。" 
  84. ^ 小林瑞恵「「不忠」の汚名を着せられた趙雲」『三國志研究』第9号、2014年、123-135頁。 p. 133。
  85. ^ 『三国志集解』巻36評, "灌[]摧項羽於垓下,滕[]脫孝惠於彭城,比之定軍、當陽之事。"
  86. ^ ウィキソース出典 季漢輔臣贊 〈贊趙子龍、陳叔至〉 (中国語), 季漢輔臣贊, ウィキソースより閲覧。  - 征南厚重,征西忠克。統時選士,猛將之烈。
  87. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『榕村語録』巻22, ウィキソースより閲覧, "趙雲、張嶷不獨有將略,其見事明決,持重老成,實古重臣之選。" 
  88. ^ 蕭氏續後漢書』巻九. 中国哲学書電子化計画. 2024年7月10日閲覧, “雲雖虎臣,其所建明,通達國體,如還田宅,以繫民心,留軍資以須冬賜,赦吳而專事魏,有諸葛亮念所不到者,若其不納趙範之兄嫂,以遠同姓之嫌,律己之嚴如此,方時諸將,其最優乎?”
  89. ^ 『江湖長翁文集』十四. 中国哲学書電子化計画. 2024年7月10日閲覧, “趙子龍退魏兵玄徳謂,一身是胆署,皆可為法矣,彼皆大不得已,所謂出死入生転敗為功者。”
  90. ^ 『左氏法測要』十一. 中国哲学書電子化計画. 2024年7月10日閲覧, “張遼、趙雲出入敵塁,使敵披靡,以英風猛気自足慑敵,敵不敢害也,然非大将之道。”
  91. ^ ウィキソース出典  (中国語) 大唐平百濟國碑銘, ウィキソースより閲覧。  “趙雲一身之膽,勇冠三軍;關羽萬人之敵,聲雄百代。”
  92. ^ 『三國演義』第7回. "生得身長八尺,濃眉大眼,闊面重頤,威風凜凜"
  93. ^ 渡邉 2020, p. 246.
  94. ^ 嘉靖元年(1522年)序刊『三国志通俗演義』二十四巻「盖因嚇喝主母、以致喪命、亦是不忠也。」
  95. ^ 王長友「嘉靖本《三国志通俗演義》小字注是作者手筆嗎?-兼及《三国志通俗演義》的版本和成書時間」『湖北大学学報(哲学社会科学報)』第2号、1983年、48-53,58。 p. 49-50。
  96. ^ 山本健吉 著「『三国演義』の文学」、大阪市立大学文学部中国文学研究室 編『中国の八大小説 : 中国近世小説の世界』平凡社、1965年、86-95,91-92頁。 
  97. ^ 上野隆三「『三国演義』における趙雲像」(PDF)『中國文學報』第38号、1987年、86-114頁。 p. 98.
  98. ^ 上野 1987, pp. 102–104.
  99. ^ 武田 2018, p. 47.
  100. ^ 杜斌講述、鄒萍秀捜集整理「趙子龍的洗馬池」『中国民間文学集成四川巻: 成都市西城区巻』成都市西城区民間文学集成編委員、1989年、p. 121-122。
  101. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『古今刀剣録』, ウィキソースより閲覧。 「蜀主劉備,以章武元年,歲次辛丑,采金牛山鐵,鑄八劍,各長三尺六寸。一備自服,一與太子禪,一與梁王理,一與魯王永,一與諸葛亮,一與關羽,一與張飛,一與趙雲。並是亮書,皆作風角。處所有令,稱元造刀五萬口,皆連環及刃,口列七十二鍊,柄中通之,兼有二字。」
  102. ^ 馮本林 著「戴戒指的来歴」、熊永 編『荊州三国伝説』中国文聯出版社、2000年、137頁。 
  103. ^ 「荊州人戴戒指的来歴」沈伯俊、譚良嘯編『三国演義大辞典』中華書局、1989年、p. 634。
  104. ^ 蘇平修、王京端 編『中国民間文学集成・正定県故事巻』 第一巻、石家荘市正定県三套集成編委員会、1988年(原著1968年)、127-129頁。 
  105. ^ 湖北省咸寧地区郡衆芸術館 編『三国故事傳説集(趙雲是怎麼死的)』湖北省咸寧地区郡衆芸術館、1983年、143-144頁。 
  106. ^ 一身是胆”. 四字熟語辞典. 2024年6月7日閲覧。
  107. ^ 満身是胆”. 四字熟語辞典. 2024年6月7日閲覧。
  108. ^ 中国马镇旅游度假区”. www.chinahorsetown.com. 2024年7月13日閲覧。
  109. ^ 子龙村_村名片_湖北省宜昌市当阳市玉泉街道子龙村”. tye3.com. 2024年7月9日閲覧。

参考文献・関連書籍[編集]

正史[編集]

演義[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]