賈輔
賈 輔(か ほ、1192年 - 憲宗4年10月29日(1254年12月10日))は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。字は元徳。祁州蒲陰県の出身。
『元史』には立伝されていないが『陵川集』巻35左副元帥祁陽賈侯神道碑銘にその事蹟が記され、『新元史』には左副元帥祁陽賈侯神道碑銘を元にした列伝が記されている。
概要
[編集]賈輔の父は郷里の人望を集めていた人物、母は李氏とされるがともに早世し、賈輔は6歳の時に孤児となったため、母の兄弟の李佟の家で養われて育った[1][2]。1210年代前半ごろ、モンゴル軍の侵攻によって華北が荒廃すると、賈輔は郷兵1万を集めて義軍を編成し、金朝からもその実力を認められて蒲陰県尉(のち蒲陰県令)の地位を授けられた[1]。またその後、土豪の王知が賄賂を取って祁州の人民を苦しめていたため、人々は遂に王知を追放して賈輔を推載し、これによって更に宣武将軍・祁州刺史の地位を授けられた[1]。このころの華北は治安が極端に悪化していたが、賈輔は土地を守り耕作に務める一方で、四方から賢士を集めて法を定めたため、境内は安定し人々は安堵したという[1][3]。
1218年(戊寅)ごろ、真定を拠点とする武仙が賈輔の才を恐れてこれを害そうとしたため、賈輔は配下の州人とともに後ろ盾を求めてモンゴル帝国に降った[4]。当時、華北方面のモンゴル軍を指揮していたムカリは賈輔の投降を受け容れて、万戸の張柔の副官となるよう命じた[5]。なお、ムカリは1220年(庚辰)に張柔の根拠地である満城を訪れているが、あるいは賈輔の処遇を打ち合わせるための訪問ではないかとも考えられている[5]。ただし、賈輔は張柔の配下に入った後も満城には赴かず、引き続き祁州にとどまりこの地を治めていた[5]。この後、賈輔は張柔の配下として華北各地の平定に従事し、武強・寧晋・衡水・饒陽などの平定に功績を挙げている[6]。
その後、張柔が満城に都元帥府を開くと、賈輔は祁州に「南府」を開いて祁州以南を管轄したという[7][5]。これは、賈輔が直接張柔の配下に入ったわけではないことと、華北地域の情勢が不安定のため祁州方面の守りの要として軸を動かせなかったという理由に基づく施策と考えられる[5]。1227年(丁亥)、満城の地が手狭となってきたことを理由に張柔は拠点を保定に移したが、この時同時に「南北軍(張柔直属軍と南府管轄の軍)」を統合し、「両府諸城」を合わせて一つにしたという[7]。これによって「南府」は解体され賈輔も保定に移ったようで、この後、賈輔は張柔が外征する際には常に保定に残留して軍府の処理を代行するようになった[5]。賈輔の行政手腕によって保定一帯は栄え、「左副元帥祁陽賈侯神道碑銘」は「貨幣は川のように流れ、遂に一大都会となった(貨泉川流、遂為一大都会)」と評している[8]。
蔡州の戦いで名実ともに金朝が滅んだ後、張柔は王鶚といった著名な知識人の保護に努めていたことで知られるが、実際に保定に名士を集めその中から英才を抜擢する実務を担当したのは賈輔であったと伝えられている[9]。これによって四方から賢士が張柔の勢力圏に来帰するようになり、保定はより栄えた。モンゴル朝廷もこれを評価し、保定の地位を「府」に昇格させて「順天路総管府」を賜っている。このころ、耶律楚材も賈輔の行政手腕を讃える詩を送ったとされる[5][10]。
1234年(甲午)、金朝平定の論功行賞が行われると、賈輔は行軍千戸の地位を与えられた。これは、従来漢人世侯が自称してきた称号と違ってモンゴルが公認するもので、同じく張柔の部下であった喬惟忠も同時期に行軍千戸の地位を授けられた記録がある[11]。賈輔の名声はますます高まり、モンゴル治下で大号令や大更革があり諸侯が集まって協議する際には必ず首席に推されて場を取り仕切ったという[12]。
1254年(甲寅)、諸侯が集まる場がありモンケ・カアンは賈輔の臨席を求めたが、賈輔は既に病にかかり起き上がることができない病態であった。同年旧暦10月29日に賈輔は63歳にして亡くなり、これを聞いたモンケ・カアンは「朕がまさに用いようとした所で、賈輔は奪い去られてしまった」と嘆いたという。その後、1255年(乙卯)正月に賈輔は祁州の東に葬られた[13]。
子孫
[編集]賈輔の息子は6人いたと伝えられている。長男の賈文備が賈輔の爵位を継承し、『元史』にも立伝されるほど活躍している。一方、次男の賈文兼は祁州刺史・行軍千戸の地位を継承している。三男の賈文遠と四男の賈文進は早世したとされ、五男の賈文慶・六男の賈文亮は「左副元帥祁陽賈侯神道碑銘」編纂時にまだ幼く地位について記載がない[14]。
賈輔の娘は5人いたとされ、長女が行軍千戸の劉克剛に嫁ぎ、次女が参知政事の王椅に嫁いだとされる。その他の娘については記録がないが、みな名族に嫁いだとされる[15]。
なお、『遺山先生文集』巻29千戸喬公神道碑銘には同じく張柔に仕えた喬惟忠の長女が「千戸賈某」に嫁いだとの記録があり、喬惟忠と賈輔は同年代のため、この「千戸賈某」は賈輔の息子賈文備か賈文兼と考えられる[5]。
脚注
[編集]- ^ a b c d 野沢 1986, p. 11.
- ^ 『陵川集』巻35左副元帥祁陽賈侯神道碑銘,「侯諱輔、字元徳、中山之祁人。曾祖某、皇祖某、皇考某、皇妣李氏。侯生六歳而孤、養於舅氏佟之家。自知読書、卓犖山立、沈鷙善射、魁出輩行」
- ^ 『陵川集』巻35左副元帥祁陽賈侯神道碑銘,「貞祐初、将郷兵万、以功授祁之蒲陰尉、尋遷為令。土豪王知以賂領州、大為民害。州人逐之、推侯為守、聞諸行台。遂授宣武将軍・祁州刺史。時諸方州皆事屠併、争地殺人、不恤其民、且薦饑、更相啖噬。侯独保境教之耕戦、招来四方賢士、制事約法、故民得安堵。兵食足餘、而戦有功、遷鎮国上将軍、遥領濬州防禦使、仍知祁」
- ^ この事件が起こった年次は「左副元帥祁陽賈侯神道碑銘」に記されていないが、全く同じ経緯で王善が武仙から逃れてモンゴルに降ったのが1218年のことであり、賈輔もやはり1218-1219年ごろにモンゴルに降ったと推測される(野沢1986,11-12頁)
- ^ a b c d e f g h 野沢 1986, p. 12.
- ^ 『陵川集』巻35左副元帥祁陽賈侯神道碑銘,「恒山公武仙、時鎮真定、而挾智事詐、跳梁跋扈、憚侯膽略、密令所親取侯。侯挺身逸、州人従之。遂帰国朝、詔副万戸張公、領州如故。居無何、仙窮䠞、亦降。時金源既棄河朔、在所寇奪、首鼠反側。侯将本兵略地、所向克捷、取慶都、攻蠡吾、還掇安平、取深州、近右諸県鼓城・束鹿等望風降附。於是踰滹沱、取冀州、兵勢大振、武強・寧晋・衡水・饒陽皆下、遂逼真定、而仙復叛去、侯遂有真定東南諸郡」
- ^ a b 野沢 1986, p. 7.
- ^ 『陵川集』巻35左副元帥祁陽賈侯神道碑銘,「万戸張公開都元帥府于満城、侯行元帥事、于祁号南府。祁南皆隷焉。已而従定山東屡立戦功遷左副元帥。副張公開府于保州、築塁以合南北軍、両府諸城併為一道。張公将兵在外、侯常居守。故無巨細、一決于侯。乃鳩遺民、寛賦租、抜猾梗、剔姦蠧、資糧日富、士馬日盛、春施秋殺、恩威並著、黠守豪帥、帖沮懾服。於是有城数十、地方千餘里、節度之州二、刺史之州五、勝兵数万、而戸不啻十餘万。西尽常山之尾、繞出真定、左転蜚狐之口、東包河間、出九河、南入冀野、北尽涿・易、横絡上谷・盧龍之塞、而跨有燕・趙・恒嶽之鎮、有滹沱・淶・易之浸。有桑麻魚塩之利、棗粟五穀之饒、金鉄纎纊之産。河朔諸道、車轍馬足、皆出其間。四方之珍充羨、而貨泉川流、遂為一大都会」
- ^ 野沢 1986, p. 13.
- ^ 『陵川集』巻35左副元帥祁陽賈侯神道碑銘,「汴梁亡、朝省名士五十餘人、会于保下。侯皆厚為資給、尽礼延待、擢其英俊、而加任使、其耆徳則事之。由是四方賢士翕然来帰、冠佩藹然、有平原稷下之盛。故好賢之誉日隆、事之利病日益聞、政化修明、人有生頼、既富而教、駸駸乎治平之世。朝廷嘉之、璽書褒賛、賜以金符、升州為府、錫名曰順天。丞相耶律公致書称述政績之美、仍以詩詠歌焉」
- ^ 井戸 1982, p. 42-43.
- ^ 『陵川集』巻35左副元帥祁陽賈侯神道碑銘,「官制行、宣授行軍千戸、権順天河南等道軍民万戸。自是聞望益重、毎国家有大号令及大更革、諸侯大会同、必推侯為首、俾応受焉。侯思致周給、嫻於辞令、条析誾誾、聳動観聴、故所言無不允諾。至於籍戸之式、頒之諸道、子銭之蠧、一本息止。貸逋租、薄重賦、陰賜及天下、不可枚数。朝廷欲使自諸侯入為卿士、侯輒辞罷。燕京道最為攘劇、号称難治、且与順天境土相訝、大行台以詔旨命侯兼治之、侯力辞不従。遂聞諸朝、以所佩金符授其子文備、令襲爵為行軍千戸、復授侯金符、与之商処行台事、領順天等道如故」
- ^ 『陵川集』巻35左副元帥祁陽賈侯神道碑銘,「歳甲寅、諸侯会于朔庭。上必欲相侯、而侯得疾不起、内医中使問視相望。冬十月戊戌、薨于会、享年六十有三。上聞震悼曰『朕方用之、而奪去遽邪』。乃賻厩馬五俾輿帰以葬。乙卯春正月庚辰、葬于祁之東、原先塋夫人安氏・王氏祔焉」
- ^ 『陵川集』巻35左副元帥祁陽賈侯神道碑銘,「子男六人。文備、襲侯爵。文兼、襲祁州刺史・行軍千戸。文遠・文進、蚤卒。文慶・文亮尚幼」
- ^ 『陵川集』巻35左副元帥祁陽賈侯神道碑銘,「女五人。長適行軍千戸劉克剛。次適参知政事王椅。餘皆適名族」
参考文献
[編集]- 井戸一公「元朝侍衛親軍の成立」『九州大学東洋史論集』第10巻、九州大学文学部東洋史研究会、1982年3月、26-58頁、CRID 1390853649694060032、doi:10.15017/24543、hdl:2324/24543、ISSN 0286-5939。
- 野沢佳美「張柔軍団の成立過程とその構成」『立正大学大学院年報』第3号、1986年。
- 『元史』巻165列伝52賈文備伝
- 『新元史』巻166列伝63賈輔伝