賈文備
賈 文備(か ぶんび、? - 1304年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。字は仲武。主に南宋との戦いで活躍したことで知られる。
概要
[編集]賈文備の父の賈輔はもと金朝に仕えていたがモンゴルに降り、それ以後漢人世侯の張柔に仕えるようになった人物であった[1]。賈文備は賈輔が亡くなった後に千戸の地位を継承し、張柔の命を受けて三汊口に駐屯した。ある時、南宋軍は二十の雲梯を以て三汊口を攻略しようとしたが、賈文備は兵を率いて南宋軍を撃退し、この功績により憲宗モンケ・カアンより弓矢・銀盂を下賜された。1255年(乙卯)、再び命を受けて父の左副元帥の職を継承し、また順天路の支配を兼ねた。中統2年(1261年)、開元府路女真水達達等処宣撫使の地位に昇格となり、中統3年(1262年)には更に開元東京懿州等処宣慰使の地位に移った。中統4年(1263年)には万戸の地位を授かり、張柔配下の軍を一部継承して亳州に駐屯した。この時、南宋軍が淮甸方面に進出しようとしていたため、賈文備がこれを撃退している[2]。
至元2年(1265年)、昭勇大将軍・真定路総管・兼府尹の地位を授けられ、至元6年(1269年)には衛輝路総管とされた。至元7年(1270年)、西蜀成都統軍に任命されたが病を理由に現地には赴任せず、至元8年(1271年)からは宿州万戸、ついで河南等路統軍の地位を授けられて以後襄陽城の包囲戦に加わるようになった。至元9年(1272年)、蔡州に移って水陸の運送を兼ね、南宋兵が食糧を運搬しているのを察知するとこれを破って運搬船を奪うことに成功している。この功績により、後に入覲して弓矢・金鞍・錦衣・白金を下賜されている。至元11年(1274年)、再び万戸・漢軍都元帥の地位を授かり、劉整の軍を率いて亳州に駐屯した。南宋の夏貴が亳州には備えがないと思い込み侵攻してくると、賈文備はその油断をついて大いに南宋軍を破り、この功績により金鞍・金織・文段・白金を下賜されている[3]。
襄陽城の陥落後、バヤンを総司令とする南宋領侵攻が始まると、賈文備は左翼の諸軍を率いて従軍し、まず郢州を目指した。南宋側は二つの城を築き数千もの戦船を布陣させることでモンゴル軍の侵攻を阻もうとし、船の乏しい賈文備も苦戦を強いられた。しかし賈文備は淪河を経由して武磯堡を攻め、またアジュ率いる軍団が渡河に成功したことにより要衝の鄂州・漢陽が陥落した。この功績により賈文備は白金を下賜され、陥落したばかりの鄂州の守りを命じられた[4]。
至元12年(1275年)からは平章政事エリク・カヤの配下に入って湖南方面に侵攻し、潭州の戦いでは大砲で右手を負傷し、流れ矢を左肩に受けても戦い続ける奮戦を見せた。これによって南宋側の李芾が戦死し、残った転運判官の鍾蜚英らは投降を申し出た。至元13年(1276年)には昭武大将軍の地位を得て潭州を守り、至元14年(1277年)には衡・永・郴の叛乱軍を平定している。至元15年(1278年)、鎮国上将軍・湖南道宣慰使の地位を授かり、瓊・崖等の地域で逃亡中の衛王昺(祥興帝)を追走している。至元16年(1279年)、中央に召喚されて淮東宣慰使に任命され、慶元に赴任した。至元18年(1281年)に都元帥の地位を再び授けられ、至元20年(1283年)に江東宣慰使に改められ建寧の盗賊の黄華を討伐した。至元22年(1285年)、荊湖占城行中書省参知政事に任命され、至元23年(1286年)に湖広行省参知政事とされた。至元24年(1287年)に引退し、その17年後に病で亡くなった[5]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻165列伝52賈文備伝,「賈文備字仲武、祁州蒲陰人。父輔、仕金為祁州刺史。武仙憚輔膽略、密令所親図之。輔以衆帰太祖、詔隷張柔、以兵攻蠡州・慶都・安平・束鹿諸県、皆下之。柔開帥府於満城、命輔行元帥府事於祁州。従定山東、遷左副元帥。柔将兵在外、輔常居守、累功、改行軍千戸、賜金符、尋領順天河南等路軍民万戸、卒」
- ^ 『元史』巻165列伝52賈文備伝,「文備襲父千戸職、張柔命屯三汊口、備宋兵。宋以雲梯二十餘来攻、文備率兵鏖戦、却之、憲宗賜弓矢銀盂。歳乙卯、復令襲父左副元帥職、兼領順天路。中統二年、升開元府路女真水達達等処宣撫使、佩金虎符。三年、遷開元東京懿州等処宣慰使。四年、改授万戸、領張柔所部軍、屯亳州。宋兵時鈔掠淮甸、文備戦却之」
- ^ 『元史』巻165列伝52賈文備伝,「至元二年、加昭勇大将軍・真定路総管、兼府尹。六年、調衛輝路総管。七年、授西蜀成都統軍、以疾不赴。八年、授宿州万戸、尋改河南等路統軍、囲襄樊。九年、移蔡州、兼水陸漕運。宋兵時掠糧餉、文備敗之、併奪其船。詔罷統軍、文備入覲、賜弓矢・金鞍・錦衣・白金。十一年、復授万戸・漢軍都元帥、領劉整軍、駐亳州。宋将夏貴知亳無備、盛引兵来襲、文備出奇邀撃、大破之、帝賜金鞍・金織・文段・白金」
- ^ 『元史』巻165列伝52賈文備伝,「丞相伯顔伐宋、文備領左翼諸軍以従、抵郢州。宋築二城夾江、布戦艦数千艘于江中、陳兵両岸、軍不得進。文備泛舟、由淪河徑出大江、攻武磯堡。乃従阿朮先渡江、大軍継之、遂取鄂・漢、以功賜白金、加昭毅大将軍、守鄂州」
- ^ 『元史』巻165列伝52賈文備伝,「十二年、従平章政事阿里海牙趣湖南、至潭州城下。文備冒鋒鏑、砲傷右手、流矢中左臂、攻戦愈急、宋臣李芾死之、転運判官鍾蜚英等以城降。十三年、加昭武大将軍、守潭州。十四年、衡・永・郴等郡寇発、文備悉討平之。十五年、進鎮国上将軍・湖南道宣慰使、徇瓊崖等州及広東瀕海諸城、追宋衛王昺。十六年、召還、拝淮東宣慰使、加金吾上将軍、鎮慶元。十八年、復授都元帥。二十年、改江東宣慰使、討建寧盗黄華。二十二年、拝荊湖占城行中書省参知政事。二十三年、改湖広行省参知政事。二十四年、致仕。後十七年、以疾卒。延祐四年、贈江西等処行中書省左丞、追封武威郡公、諡荘武」
参考文献
[編集]- 井戸一公「元朝侍衛親軍の成立」『九州大学東洋史論集』第10巻、九州大学文学部東洋史研究会、1982年3月、26-58頁、CRID 1390853649694060032、doi:10.15017/24543、hdl:2324/24543、ISSN 0286-5939。
- 野沢佳美「張柔軍団の成立過程とその構成」『立正大学大学院年報』第3号、1986年。
- 『元史』巻165列伝52賈文備伝
- 『新元史』巻166列伝63賈文備伝