周献臣
周 献臣(しゅう けんしん、大定29年(1189年)- 中統3年7月5日(1262年7月22日))は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。字は夢郷。忻州定襄県の出身。祖父は周慶嗣。父は周丕顕。兄は周鼎臣。弟は周進臣。
概要
[編集]周献臣の長兄の周鼎臣が早世したことにより家督を継いだ人物であった[1]。モンゴル軍の金朝侵攻が始まり華北一帯の治安が悪化すると郷里の者を率いて南山に逃れ、貞祐4年(1216年)にウルウト部の郡王ケフテイが率いるモンゴル軍が太原に至ると、周献臣はこれに降った。ケフテイは周献臣の投降を喜び、定襄令の地位を授けたという[2]。
その後、周献臣はケフテイの軍に従って南下し、太原一帯の平定に従事した。遼州・沁州・晋州・絳州・河中府・解州一帯は情勢を見て次々と降ったという。周献臣がケフテイに降って10年近く経った頃、ケフテイの名声が高まるとともに周献臣の貢献も広く知られるようになっていた[3]。そこで、周献臣は改めて「九原府左副元帥・権四州都元帥(「四州」は崞州・代州・堅州・台州を指すとみられる[4])」の地位を授けられ、九原府(太原路)事を統括するようになったという[5][6]。なお、同時期に太原出身の郝和尚バアトルが「九原府主帥」に任じられており両者は以後ケフテイの下でよく似た経歴を辿ることになる[5]。
その後、周献臣はケフテイの軍団に従って山東方面の平定に尽力した。1225年(乙酉)には一度モンゴルに降った武仙が史天倪を殺害して叛旗を翻すという事件が起き、1227年(丁亥)には忻州が包囲を受けたため、ケフテイによって周献臣が忻州に派遣された。忻州を包囲していたのは武仙に仕える将軍の姫節で、激戦の末に周献臣はこれを破り斬首300級余りを数える勝利を得た。この勝利によって解放された忻州の人々は周献臣のことを「勇敢にして謀略があり、謀略がありながら果断でもある(侯可謂勇而有謀、謀而有断也)」と評したという。その後、武仙は董祐という将軍を孟州に派遣し、その軍勢の一部が忻州に至った。これを撃退すべく出陣した周献臣は当初こそ優勢だったものの、敵軍に董祐が援軍を率いて至ると劣勢になり、周献臣に流れ矢が頬に当たるほどであった。しかし周献臣は傷を負うことでかえって奮起し、石甸で敵軍を大いに破ったため、董祐の兵の多くが捕虜となり、以後武仙からの攻撃を受けることはなくなったという[7]。
1230年(庚寅)秋、第二次金朝遠征が始まると皇帝オゴデイは自ら軍勢を率いて南下し、周献臣は天勝寨・三崚寨などの寨を守るよう命じられた[8]。その後、洛陽の攻略と蔡州の戦いにも加わり、後には四川方面の経略に振り分けられたが、多くの戦いで河東北路行省の郝和尚バアトルと行動を共にしていたという[9]。
1240年(庚子)、周献臣の功績はオゴデイに伝えられ、オゴデイはこれを嘉して征行千戸の地位を授け、太原路の兵の指揮を委ねられた[10]。その後、1262年(壬戌)7月5日に自宅で74歳にして亡くなり、定襄南5里の西原で父と同じ墓に葬られた[11]。
脚注
[編集]- ^ 『山右石刻叢編』巻27周献臣碑,「我大元有投千戸侯者、諱献臣、字夢郷。宋金以来世居忻州定襄県。曾大父万業農以孝弟称。大父慶嗣、字栄甫、六経教授郷里。父丕顕、字著明、質直尚義。嘗援獲鹿冤民既奴而良者凡二千人、人心自謂曰吾子必有高大門問者。母王氏、生三子。長曰鼎臣、字器之、為学臨政出処大節遺山。元丈撰陽曲令、墓表已悉之矣」
- ^ 『山右石刻叢編』巻27周献臣碑,「季曰進臣、字大郷、定襄丞。仲即侯也。侯性穎悟、素習科挙、復事武学。金貞祐初、中受兵、閲再祀。雁門破、游騎駸駸、而南定襄、膺其衝要。侯慨然聚里人戚、属堡南山之隅。明年春、大兵至、侯知河東不可保必矣。曰此天也、天可違乎。与其徇匹夫之節、曷若全万人之命。乃率衆迎謁郡王于軍門。王悦、時承制拝授定襄令。其未附之民、在堡障者、侯根性論俾復田里逐」
- ^ 周献臣とよく似た経歴を辿る郝和尚バアトルは1228年(戊子)に九原府主帥の地位を授けられており、周献臣がオゴデイに謁見し「九原府左副元帥・権四州都元帥」の地位を授けられたのも同年のことであったと推測されている(高橋2021,235-236頁)
- ^ 『元史』巻6世祖本紀3には「崞州・代州・堅州・台州の4州を忻州に隷せしめた([至元三年秋七月]己未、以崞・代・堅・台四州隷忻州」)」との記述があり、この「四州」とは崞州・代州・堅州・台州を指すと考えられる(高橋2021,235頁)
- ^ a b 高橋2021,235頁
- ^ 『山右石刻叢編』巻27周献臣碑,「遂従王、南略太原・遼・沁・晋・絳・河・解、嚮風内附。未幾、安集霊夏。前後服労、口将十穏。雖王之威声素振、□向無前、其斬将摩旗招携伐貳、而侯与有力焉。勲陞九原府左副元帥・権四州都元帥、行九原府事。草味始分、凡百廃置。遂乃創官府、立城市関、土田勧耕、稼頓使斯民口還旧観」
- ^ 『山右石刻叢編』巻27周献臣碑,「復従王東征趙魏、既平斉魯旋定。丁亥春正月、恒山武仙囲忻州、王遣侯分兵赴援、遇恒山驍将姫節使于州之南原。而姫兵甚熾、□謂戯下曰、先人有奪人之心。況彼衆我寡、不可緩也。遂陥陣而入、士卒継之、所至無不辟易姫帥敗衄、斬首三百餘級、忻囲既釈。人皆曰『侯可謂勇而有謀、謀而有断也』。復暮月武仙遣董祐、襲孟州、遂侵我南鄙。侯帥師禦之、董援兵復至、□角馳逐互有勝負、侯為流矢中頬、戦気愈、作大敗敵於孟之石甸。俘獲数百人、董僅以身口。自是、武党膽落不復為寇」
- ^ 高橋2021,236頁
- ^ 『山右石刻叢編』巻27周献臣碑,「庚寅秋、車駕南征。令侯守天勝・三崚等寨以禦口口。法錫以銀符。継而取洛陽、平蔡州、鎮関内、伐西蜀。侯曁行省郝公咸預其列」
- ^ 『山右石刻叢編』巻27周献臣碑,「庚子、行省条侯始終之績以間。上嘉之、宣授征行千戸、佩以金符。太原路卒伍為隷焉」
- ^ 『山右石刻叢編』巻27周献臣碑,「壬戌七月五日、以寿終於所居之正寝、享年七十有四。越日葬于定襄南五里之西原父先塋也」