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奥敦世英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

奥敦 世英(おくとん せいえい)は、金朝末期からモンゴル帝国初期にかけて活躍した人物。女真人であり、完顔部などが属する「白号姓」とは異なる、「黒号姓」の奥屯部の出身[1][2]。旧金朝統治下の人間としては史秉直劉伯林らと並んで最も早くモンゴル帝国に投降したことで知られる。

概要

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奥敦世英は代々金朝に仕えてきた女真人の一族の出で、金朝の末期に淄州刺史に任じられていた。1213年癸酉)に山東地方にモンゴル軍が進出すると、淄州の民を率いて弟の奥敦保和とともにモンゴル軍に投降した。1214年甲戌)、モンゴルと金朝の間で和平が結ばれると、奥敦世英率いる一団はモンゴル軍に従って北方モンゴル高原方面に移住した[3]

武略に優れたことを評価された奥敦世英は金朝の中都(大興府)とモンゴル高原を結ぶ要衝の徳興府に万人隊長(万戸)として移住した。この頃、華北ではモンゴル軍主力が引き上げた隙をついて金将の苗道潤山西地方を回復すべく軍を進めており、奥敦世英はこれと戦って苗道潤軍を撃退した。戦後、奥敦世英が捕虜とした敵兵を殺そうとしたところ、その母が「汝は華族でありながら死を恐れてモンゴルに投降したというのに、この上彼らを殺すのにどうして心が痛まないのか」と責めたため、捕虜を殺すのはやめたという。奥敦世英の出身地の淄州ではモンゴル軍に徹底抗戦して戦死した人物も多数おり[4]、モンゴルに投降して命を長らえたことに奥敦世英の一族はうしろめたさを抱えていたのだとみられる[5]。その後、奥敦世英は数騎を従えて定襄を訪れたが、間もなく陣没した[6]

奥敦世英の死後はモンゴルへの投降時から行動をともにしていた弟の奥敦保和が跡を継ぎ、万戸から「昭勇大将軍・徳興府元帥」、更に「雄州総管」に進んだ。ついで元帥として真定・保定・順徳の諸道を領したが、56歳で引退した[7]

奥敦保和には奥敦希愷[8]・奥敦希元[9]・奥敦希魯・奥敦希尹[10]という4人の息子がおり、それぞれモンゴル帝国に仕えた。

脚注

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  1. ^ 『金史』巻55百官志1,「凡白号之姓、完顔……皆封金源郡。……黒号之姓、唐括旧書作同古……奥屯……皆封彭城郡」
  2. ^ 松浦1978,511/528/544頁
  3. ^ 史料上に奥敦世英が1214年に移住したことが明記されているわけではないが、同時期に華北で投呼した史秉直も同時期に北方に移住していること、また同時期の山東では女真人排斥運動が広まっていたことなどから、池内功は奥敦世英の移住時期は1214年であると論じている(池内1980,55-56頁)。
  4. ^ 例えば『金史』巻121斉鷹揚伝にはモンゴル軍によって淄州の城壁が破れた後も斉鷹揚らが市街戦を挑み、最後までモンゴル軍への投降を拒んで戦死したことが記されている(池内1980,54頁)。
  5. ^ 池内1980,54頁
  6. ^ 『元史』巻151列伝38奥敦世英伝,「奥敦世英、女真人也。其先世仕金、為淄州刺史。歳癸酉、太祖兵下山東、淄州民奉世英及弟保和迎降、皆授以万戸。世英倜儻有武略、由万戸遷徳興府尹、時金経略使苗道潤、率衆欲復山西。世英与戦、克之、将尽殺所俘、其母責之曰『汝華族也、畏死而降、此卒伍爾、駆之死戦、何忍殺之耶』。遂止。世英従数騎巡部定襄、卒於軍」
  7. ^ 『元史』巻151列伝38奥敦世英伝,「保和由万戸陞昭勇大将軍・徳興府元帥、錫虎符、改雄州総管。尋以元帥領真定・保定・順徳諸道勧農事、凡闢田二十餘万畝。改真定路勧農事、兼領諸署、賜居第・戎器・裘馬、給戸、食其租。年五十六、致仕。保和四子希愷・希元・希魯・希尹」
  8. ^ 『元史』巻151列伝38奥敦世英伝,「希愷襲勧農事、皇太后錫以錦服、曰『無墜汝世業』。郡県有水旱、必力請蠲租調、民頼之。南征時、置軍儲倉于汴・衛、歳輸河北諸路粟以実之、分冬月三限、失終限者死、吏徴斂舞法、民甚苦之。希愷知其弊、蠲煩苛而民不擾。尋以勧農使兼知冀州。希愷至、為束約、健訟之俗為変。蒙古軍取民田牧、久不帰、希愷悉奪帰之、軍無怨言。至元二年、遷順天治中。三月、改順徳。又踰月、陞知河中府、秩満帰調。時阿合馬専政、官以賄成、希愷不往見之、降武徳将軍、知景州、数月卒」
  9. ^ 『元史』巻151列伝38奥敦世英伝,「希元、彰徳漕運使。希魯、澧州路総管」
  10. ^ 『元史』巻151列伝38奥敦世英伝,「希尹、中統三年、李璮叛済南、世祖命丞相史天沢討之。希尹謁天沢、面陳利害、願撃賊自効。試其騎射、壮之、命充真定路行軍千戸。与賊戦、矢無虚発、賊敗走入城中、諸王哈必赤賞銀五十両。希尹請築外城囲之、深溝高塁、俟其糧絶、不戦而坐待其困、天沢従之。璮既就擒、至元十一年、枢密録其功、自右衛経歴、六遷至同知広東道宣慰司事、卒」

参考文献

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  • 井ノ崎隆興「蒙古朝治下における漢人世侯 : 河朔地区と山東地区の二つの型」『史林』37号、1954年
  • 愛宕松男『東洋史学論集 4巻』三一書房、1988年
  • 池内功「モンゴルの金国経略と漢人世候の成立-2-」『四国学院大学論集』46、1980年
  • 松浦茂「金代女真氏族の構成について」『東洋史研究』36、1978年
  • 『元史』巻151列伝38奥敦世英伝