若松虎雄
若松 虎雄(わかまつ とらお、1890年(明治23年)1月1日[1] - 1949年(昭和24年)9月24日[2][3])は、大正から昭和前期の外交官、実業家、政治家。衆議院議員。カトリック教徒[3]。
経歴
[編集]長崎県[2]南高来郡、のちの島原市[3]で、若松長次郎[注釈 1]の四男として生まれ[4]、1921年(大正10年)に分家した[4]。第五高等学校を経て[5]、1913年(大正2年)11月、文官高等試験行政科試験に合格[1][4][5]。1914年(大正3年)東京帝国大学法科大学経済学科を卒業した[1][2][3][4][5]。
大蔵省に入省し専売局書記に任官[1][2][5]。1917年(大正6年)久原鉱業に転じ、久原商事副支配人、同ロンドン支店長代理を歴任[1][2][3][4]。1921年(大正10年)外務省に転じ、ロンドン在勤で副商務官、在英国大使館商務書記官を務めた[1][2][3][4]。1926年(大正15年[注釈 2])帰国し外務省勤務となり同省大阪出張所長を兼務した[1]。その後、外務事務官、同書記官兼逓信書記官、外務省通商局第三課長、在シドニー総領事、在カルカッタ総領事、日印会商帝国政府代表などを歴任し[1][2][3][4][5]、1941年(昭和16年)に退官した[4][5]。以後、外務省嘱託、終戦連絡中央事務局嘱託、同長崎出張所長、長崎県連絡委員会副委員長を務めた[2]。
1947(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に長崎県第1区から日本自由党公認で出馬して初当選[3][6]。1949(昭和24年)1月の第24回総選挙で民主自由党公認で出馬して再選され[3][7]、衆議院議員に連続2期在任した[2]。この間、日本自由党渉外副部長、衆議院外務委員、同海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査委員、長崎貿易社長などを務め[2][3]、長崎国際文化都市建設法の成立に尽力した[3]。議員在任中の1949年9月に長崎市で死去した[3][8]。
栄典
[編集]- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[9]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h 『長崎県人事興信録 1935版』129頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』720頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『衆議院追悼演説集』25-26頁。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第14版 下』ワ17頁。
- ^ a b c d e f 『日本官僚制総合事典1868-2000』第2版、207頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第23回』559頁。
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』365頁。
- ^ 『官報』第6816号、昭和24年10月1日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。