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続大奥(秘)物語

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
続大奥㊙物語
監督 中島貞夫
脚本 国弘威雄
中島丈博
出演者 小川知子
緑魔子
桜町弘子
悠木千帆
木暮実千代
西村晃
東山千栄子
音楽 池野成
撮影 赤塚滋
編集 神田忠男
製作会社 東映京都撮影所
配給 東映
公開 日本の旗 1967年11月1日
上映時間 95分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
前作 大奥(秘)物語
次作 尼寺(秘)物語
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続大奥㊙物語[1](ぞくおおおくまるひものがたり)は、1967年日本映画。主演・小川知子、監督・中島貞夫東映京都撮影所製作、東映配給。

同年7月30日公開の『大奥㊙物語』大ヒットを受けての第2弾[2][3][4]。第1作の主演・佐久間良子クランクイン直前に降板したため、前作『大奥㊙物語』のレズビアン腰元で名を上げた小川知子が急遽主役に抜擢された[5][6]。小川の初主演映画である[7]

概要

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女の城江戸城大奥を舞台に、将軍の愛情と色欲を巡る女たちのエゴイズムと哀歌を描く[2]。前作はオムニバス形式だったが本作はひとつの話に絞っている[8]。設定は江戸幕府第10代将軍徳川家治、第11代将軍・徳川家斉の時代[3][8]

タイトル表記は、"続"と"大奥"の間に中点のある『続・大奥㊙物語』と、ない『続大奥㊙物語』の2種類があり、封切時の映画誌や週刊誌などの映画紹介記事でも混在していた[9][10][11]。現在でも東映ビデオから発売されているDVDでは『続・大奥マル秘物語』、映連文化庁日本映画情報システムのデータベースでは『続大奥マル秘物語』とまちまちとなっている[2][12]

キャスト

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スタッフ

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製作

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企画

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岡田茂東映京都撮影所所長が、任侠路線との二大路線を構想し[13][14][15]、大胆な"エロティシズム=性愛路線"を打ち出し[13][16][17]、企画された"大奥もの"[18]大奥㊙物語』に続く「㊙シリーズ」第二弾[19][20][21][22][23]

脚本

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脚本を国弘威雄に頼んだら国弘が中島丈博を京都に連れて来た[24]。国弘と中島で、東映太秦寮にカンヅメ仕事で脚本を書いた[25]。メインは中島[24]。中島にとって国弘は橋本忍に師事するよう取り計らってくれた恩人という[25]

キャスティング

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本作の撮影は映画公開の1967年11月1日の直前、1967年9月下旬にクランクイン[26][27]、10月にかけての約一ヶ月を予定していた[7][26]。しかし第一作の主役・佐久間良子が『大奥㊙物語』というエロを連想させるタイトルや[28]、東映がどぎついエロを売り物にしたプロモーションを展開させたことが最初の約束と違うなどと反撥[8][27][29]。佐久間には女性映画のシリーズを持たせると伝えられていたため[30]、出演を拒否した[27][31][32]中島貞夫監督が『旅路』ロケ先の北海道まで出向いて佐久間を説得したが不調に終わり[27]、佐久間が製作を熱望した船山馨原作の『石狩平野』の製作を条件に説得したがこれもダメで東映の狼狽も激しく[27]大川博東映社長と佐久間の話し合いが持たれ、社長企画だった『喜劇・団体列車』への出演を条件に本作出演をOKしたとも報じられたが[27]、「エロ文芸路線はお断り。『喜劇・団体列車』の撮影ともカチ合うので..」などと社長企画を盾に使う佐久間の交渉術もなかなかのもので[27]、頑として出演を拒否した[7][10][8][33]。佐久間はこの年、東映と強気の闘争を繰り広げた[34]。クランクインも迫り、脚本も再検討して佐久間の代わりに準主役で緑魔子の起用を決定[27]。主役候補には、藤純子新珠三千代池内淳子岡田茉莉子久保菜穂子に打診したが[8][33][35]、徹底したお色気で売るというコンセプトが打ち出されていたこともあり[35]、スケジュール調整などを理由に軒並み断られ[8][33][35]、前作で岸田今日子とのレズシーンが評判を呼んだ小川知子を主役に抜擢した[8][33]

タナボタ式で主役を掴んだ小川は、監督の中島に前作で惚れられたといわれる[33][8][36]。小川は15歳で東映に入社し[37]、当時東映入社二年目で映画出演11本目のまだ18歳であった[10][29][33]俊藤浩滋の娘・藤純子でさえ50本近い映画出演でまだ主役がなく、異例の出世であった[10][33]。小川は「『大奥㊙物語』はイヤらしいなんて全然思わなかったわ」[29]代役でもかまわない。こんないい役なのに、どうして佐久間さんがおやりにならないのか分からない」[8][29]「私のような新人が抜擢されるなんて..やりがいがあります」[38]「このラッキー・チャンスを絶対にものにして見せるわ」などと意欲を見せた[10][29]三田佳子が1967年3月14日付けで東映を正式に退社したため[39][40]、東映は佐久間良子に続く主演女優として小川に大きな期待をかけた[32][40]

前作の山田五十鈴のポジションに当たる大物女優には東山千栄子を中島監督が希望した[41]。中島は学生時代に東山と面識があり、中島自ら俳優座に頼みにいったら(東山は高齢で)俳優座からは「とてもよそへ(京都)なんか行きませんよ」と言われたが、中島が「秋は松茸が美味いですよ」と言ったら東山はあっさり出演をOKした[41]

クランクイン直後から体調不良を訴えていたおしの役の瑳峨三智子がやる気がなく、助監督に「いつまで待たすつもりなの!私をいったい何だと思ってるんですか!」などと食ってかかり[7][8]過労と見た中島監督が4日間の休暇を与えたが、東京に帰ったきりナシのつぶてで、瑳峨の所属する太平洋テレビを通じて居場所をつきとめると瑳峨は「お医者さまが、自律神経失調症だから、もう3日間休めというのよ。撮影の待ち時間が長いから、体を壊したんじゃないかしら」と言ったため[35][7]、東映はカンカンに怒り、残り撮影スケジュールが20日を切り[41]、これ以上瑳峨のわがままを認めたら公開に間に合わないと判断し[41]、1967年10月4日、瑳峨を降ろし桜町弘子を代役に起用した[8][23][24][42]。桜町はおふで役で撮影中だったが大役へのスライド[7][35]。代わりのおふで役はしばらくスクリーンを離れていた万里昌代が抜擢された[8]。前日の10月3日に小川が西村晃に犯されるシーンの撮影で左肩を脱臼したのに続くご難であった[7][11]。桜町は東映の最古参のお姫様女優だったが[43]、ヤクザ映画全盛の東映で出番がなく、長年住み慣れた京都を引き払い東京に引っ越していた[43]。桜町は「こんな大役が突然回ってきたのは初めての経験。同じ作品で純情な役柄から出世欲の権化のような女に急転換するのですから、気持ちの整理がつかなくて。瑳峨さんのおつらい気持ちも分かります」と同情した[7]。瑳峨の撮影分の取り直しと既に瑳峨の名前を載せたポスターを一部製作しており300万円の損害が出た[7][24]。三田佳子の退社で東映の女優たちに大きなチャンスが生まれ[44]、『旅路』で初めて大役に抜擢された宮園純子も前作以上に大きな役で抜擢されたと報道されたが出演しなかった[44]

撮影

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江戸城のシーンは冒頭のみで、以降は尼寺幽閉された中﨟たちの悲劇を描く密室劇[36]。江戸城の豪華なセットを必要としないこの手法は、後の日活ロマンポルノの大奥モノに影響を与えたとされる[36]。小川知子、緑魔子、桜町弘子、宮城千賀子は男勝りの酒豪で知られ[33]うわばみシーンでは実際の酒で実演されたという[33]。小川は三島雅夫西村晃相手のベッドシーンは冴えないのに万里昌代相手のレズシーンでは水を得た魚のようにピチピチした演技を見せ、前作でもベテラン・岸田今日子をリードしたといわれ、本当のレズじゃないのかと評判を呼んだ[45]

影響

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本作の興行成績は振るわなかったが[4][46]、小川の艶技はクロウト筋から評価が高く[6][47]、岡田茂は本作の後も「㊙シリーズ」第三弾として尼寺を舞台とした『尼寺㊙物語』を企画[46][48][49][50]。本作に続いて小川知子主演を予定し、『尼寺㊙物語』以降も正月映画を含む計三本に小川をキャスティングして、1968年に小川を「㊙シリーズ」で売りまくろうとしていた[32][40][47][51]。小川も精一杯の艶技をしたつもりだったが[36]、岡田から「裸が足らん!」と怒鳴られたともいわれ[36]、小川がへそを曲げ「歌手に専念する」と宣言し『尼寺㊙物語』出演を拒否した[38][47][51]。小川はもともとビクターの歌手であったが[47]、女優として東映と専属契約を交わし、女優としての将来を嘱望されていた[40][47][51]。しかし小川は「歌手として再出発する決意を固めたので映画に出ている暇はない。おかげ様で映画で名前が売れたけど、もともと映画の仕事は好きじゃない。特に東映では若い女性の作品が少なく"㊙シリーズ"とか"ヤクザシリーズ"とか、いつか演技の行き詰まりが来るような気がする。ヘンな映画に出されるより、歌の方がずっと楽しい。1967年3月で東映との契約は切れています」などと主張[40][51][52]。密かにバーブ佐竹芸能事務所バーブ・プロと契約し[38][40][53]、1967年7月には東芝音工と専属契約を交わしていた[38][40][53]。小川のように短期間でスターになった女優は東映では初めてで[40]、東映とバーブ・プロで話し合いが進められたが[40]、東映は態度を硬化し、小川を映画界からボイコットさせると脅したともいわれ[40]、第二の山本富士子になるのではと噂されたが[40]、小川は著書で「青春路線をやるという約束で東映にスカウトされたのに、結局、青春ものは1本もやらずに、いやらしい題名の映画をやらせようとした」と、単身東映本社に乗り込み東映と契約を解消したと書いている[54][55]。再び歌手に転身し、翌1968年2月に発売したシングルが「ゆうべの秘密」。東映とのトラブルでマスメディアを賑わせ、知名度が一般にゆき渡った上での大ヒットで東映は歯ぎしりして悔しんだ[52]。このトラブルは映画産業そのものの力が弱くなり、また女優がはっきり物をいえるだけ進歩したなどと評された[56]

小川が『尼寺㊙物語』の出演を拒否したため、岡田が藤純子を主役に抜擢[57]、藤は出演50本目[58]55本目にして初主演であった[48][59]。これも不入りに終わったが[4][46][60]、次の主演作が藤の当たり役『緋牡丹博徒』となる[36][61]

『続大奥㊙物語』『尼寺㊙物語』の興行的敗因を岡田は裸が少ないからと分析し[46][60][62]ピンク女優を大量投入して[22][63]、東映最大のドル箱路線網走番外地シリーズ」に飽きていた石井輝男に撮らせたのが『徳川女系図』で[36][46][64][65][66]、これが以降、異常性愛路線として展開された[67][68][69]

脚注

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  1. ^ ”。“秘” を丸で囲った “マル秘”、数値文字参照:[㊙]
  2. ^ a b c 続大奥マル秘物語”. 日本映画製作者連盟. 2019年8月7日閲覧。
  3. ^ a b 大奥マル秘物語 東映ビデオ
  4. ^ a b c 『私と東映』 x 中島貞夫監督 (第3回 / 全5回)
  5. ^ 「10月のムービー・コーナー スタジオミニ・ニュース」『月刊明星』1967年11月号、集英社、233頁。 
  6. ^ a b 日本映画が存在する 2000, pp. 28–29.
  7. ^ a b c d e f g h i 「ポスト 日本映画 『"大奥㊙"…をおろされた嵯峨三智子 桜町弘子を代役に起用』」『週刊明星』1967年10月22日号、集英社、92頁。 
  8. ^ a b c d e f g h i j k l 「トピック・コーナー 『最後の期待/小川知子』」『映画情報』1967年12月号、国際情報社、63-64頁。 
  9. ^ 「日本映画紹介 『続大奥㊙物語』」『キネマ旬報』1967年10月上旬号、キネマ旬報社、86頁。 「グラビア 『続・大奥㊙物語』」『キネマ旬報』1967年11月上旬号、キネマ旬報社、26頁。 「内外映画封切興信録 『続・大奥秘物語』」『映画時報』1967年12月号、映画時報社、39頁。 
  10. ^ a b c d e 「新映画ピックアップ 東映/封切映画紹介」『近代映画』1967年12月号、近代映画社、26、190頁。 
  11. ^ a b 「試写室 『続・大奥㊙物語』 東映」『週刊明星』1967年11月12日号、集英社、60-61頁。 
  12. ^ 続大奥(秘)物語 - 文化庁日本映画情報システム
  13. ^ a b 悔いなきわが映画人生 2001, pp. 153–156.
  14. ^ 任侠映画伝 1999, pp. 227.
  15. ^ 増田愛子 (2001年5月31日). “(ニッポン人脈記)時代劇で候:9 男も女も魅せられて”. 朝日新聞夕刊 (朝日新聞社): pp. 2 
  16. ^ 日本の映画人 2007, pp. 122.
  17. ^ 「追悼特集 プロデューサー、岡田茂 不良性感度と欲望の帝王学 岡田茂論 文・高崎俊夫」『東映キネマ旬報 2011年夏号 vol.17』2011年8月1日、東映ビデオ、5頁。 「欲望する映画 カツドウ屋、岡田茂の時代 これが映画だ、カツドウだ! 岡田茂が放った七本のシャシン 文・野村正昭」『キネマ旬報』2011年7月上旬号、44–45頁。 「『大奥』誕生㊙物語 文・春日太一」『時代劇マガジン』2007年7月号 No.16、辰巳出版、84-85頁、ISBN 9784777804061 
  18. ^ 殺陣 1993, p. 278.
  19. ^ あかんやつら 2013, pp. 261–263.
  20. ^ 東映の軌跡 2016, pp. 166–172.
  21. ^ 私の東映30年 1991, pp. 150–152.
  22. ^ a b ピンク映画史 2014, pp. 156–159.
  23. ^ a b 吉田伊知郎/モルモット吉田Twitter2019年4月
  24. ^ a b c d 遊撃の美学 2015, pp. 163–179.
  25. ^ a b 中島丈博「作家の修行時代 中島丈博 祭りの時代は終わらない 第四十五回『クニさんの想い出』」『シナリオ』2005年6月号、日本シナリオ作家協会、78–80頁。 
  26. ^ a b 「グラビア 『続・大奥㊙物語』 /女性映画の夏 佐久間良子」『キネマ旬報』1967年11月上旬号、キネマ旬報社、26-27頁。 
  27. ^ a b c d e f g h 「ルック 芸能 『続大奥㊙物語』をけった佐久間」『週刊現代』1967年9月28日号、講談社、30頁。 
  28. ^ “(私の履歴書)佐久間良子(14) 出演取りやめ、歯車狂う東映の路線とのズレ広がる”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 40. (2012年2月15日) 東映カレンダー on Twitter: "2012年2月15日の日本経済新聞
  29. ^ a b c d e 「映画・ガイド タナボタ式のラッキーな主役 小川知子が『続大奥㊙物語』で佐久間の代役に」『週刊平凡』1967年10月5日号、平凡出版、53頁。 
  30. ^ 「女性映画の復活を願って岩下志麻の『暖流』若尾文子の『刺青』など」『映画情報』1967年12月号、国際情報社、59頁。 
  31. ^ 「特集 邦画五社の御健斗全調査 東映 二代目襲名㊙物語 文・竹中労」『映画評論』1968年1月号、57–62頁。 
  32. ^ a b c 「スクリーン・ステージ 『TVにオンブする新人売出しウバザクラと借りものは返上』」『週刊サンケイ』1967年11月13日号、産業経済新聞社、114頁。 
  33. ^ a b c d e f g h i  「ポスト 日本映画 『お酒なら負けないわ!小川知子が"大奥"で酒宴』」『週刊明星』1967年10月15日号、集英社、92頁。 
  34. ^ 「強気の女優・佐久間良子の"春闘"ぶり」『週刊大衆』1968年4月11日号、双葉社、84–85頁。 
  35. ^ a b c d e 「ルック げいのう やっぱり嵯峨美智子は社会人失格 『続大奥㊙物語』をおろされた事情」『週刊現代』1967年10月26日号、講談社、28頁。 
  36. ^ a b c d e f g 映画秘宝 2007, pp. 83.
  37. ^ 「青春の区切りとして『されどわれらが日々別れの詩』 小川知子」『近代映画』1971年5月号、近代映画社、59頁。 
  38. ^ a b c d 「また逃げた主演スター」『アサヒ芸能』1968年1月28日号、徳間書店、88頁。 
  39. ^ “三田佳子、東映を離れる フリーとして映画を中心の活躍を希望”. 週刊映画プレス (全国映画館新聞社): p. 6. (1967年3月18日) 
  40. ^ a b c d e f g h i j k 「特集 女優の座をけった二人の女 小川知子 中村晃子」『週刊平凡』1968年1月25日号、平凡出版、96-97頁。 
  41. ^ a b c d 遊撃の美学 2015, pp. 163–171.
  42. ^ 「タウン 『"社会の落第生"嵯峨美智子の敗訴』」『週刊新潮』1968年11月2日号、新潮社、17頁。 
  43. ^ a b 「ポスト 日本映画 『安藤昇の"恋人"になった桜町弘子"』」『週刊明星』1967年2月26日号、集英社、84頁。 
  44. ^ a b 「スクリーン・ステージ 『佐久間の後を襲うか!宮園純子』」『週刊サンケイ』1967年10月2日号、産業経済新聞社、114頁。 
  45. ^ 「ゴシップロータリーレズビアン趣味の小川知子」『週刊平凡』1967年10月5日号、平凡出版、111頁。 
  46. ^ a b c d e あかんやつら 2013, pp. 263–266.
  47. ^ a b c d e 「ルック 芸能 東映にヒジ鉄をくらわせた小川知子」『週刊現代』1967年11月16日号、講談社、33頁。 
  48. ^ a b 遊撃の美学 2015, pp. 180–186.
  49. ^ Hotwax8 2007, pp. 40–44.
  50. ^ 「3月の映画コーナー 『尼寺㊙物語』〈東映〉」『月刊明星』1968年4月号、集英社、218頁。 「これが男の映画だ!! 中島貞夫の世界 中島貞夫ロングインタビュー 文・鈴木義昭」『映画秘宝』2009年9月号、洋泉社、60頁。 
  51. ^ a b c d 「スクリーン・ステージ 『小川知子、歌手に色気映画はイヤよ』」『週刊サンケイ』1968年1月1日号、産業経済新聞社、117頁。 
  52. ^ a b 「ウワサの真相の間 有馬稲子民藝入り 初舞台の評判」『週刊大衆』1968年3月7日号、双葉社、82頁。 
  53. ^ a b “ウラ話うら話 タレントとマネージャーの関係 金と愛情がからむ”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 15. (1969年10月29日) 
  54. ^ 美しく燃えて 1992, pp. 54、65-70.
  55. ^ “小川知子歌手活動を再開 波乱万丈35年の芸能生活 『愛ふたたびリリース』”. 産経新聞夕刊 (産業経済新聞社): p. エンタ2. (1995年10月12日) 
  56. ^ 「物議をかもす各社の"エログロ路線" 女優に見切りをつけた小川知子、中村晃子の大胆な発言」『週刊大衆』1968年2月15日号、双葉社、85頁。 
  57. ^ 富司純子、岡田氏は「ゴッドファーザー」(Internet Archive)
  58. ^ 「50本目で初主演の藤純子」『週刊平凡』1968年2月1日号、平凡出版、93頁。 
  59. ^ “封切映画興行記録”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 8. (1968年3月2日) 
  60. ^ a b ピンキー・バイオレンス浪漫 1999, pp. 36–37.
  61. ^ 名言巡礼 私は今日から男になっとよ…映画「緋牡丹博徒」(Internet Archive)
  62. ^ 風雲映画城 1992, pp. 144–145.
  63. ^ 「邦画五社のGW作戦と国民映画」『映画芸術』1968年5月号 No.248、編集プロダクション映芸、42–43頁。 
  64. ^ ピンキー・バイオレンス浪漫 199, pp. 233.
  65. ^ 福永聖二 (2015年8月26日). “〔カルチャー〕 アクションとカルト 二つの顔…石井輝男”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). オリジナルの2015年8月20日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/m5Q5M 2019年8月7日閲覧。 
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参考文献

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関連項目

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外部リンク

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